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2005年01月01日(土)
昨日の雪の今朝の輝き   

 理不尽に逼(せ)めくる白き堆積と昨夜(きぞ)思いしが今朝の輝き(江原玲)

暮れの30日付朝日「折々のうた」に紹介された一首。作者を知らないが、今日の思いにぴったり。
自分の気持ちが力の不足でうまく表せない。そんなもどかしさを感じているときに他人がズバリと自分の言いたいことを表現していることがある。この歌は、まさしくそんな印象。

終日暗い大晦日の降雪。重苦しい気分を一層滅入らせるものだった。それがどうだ。一夜明けて、思いがけなくも晴れわたった元旦。白く積もった雪が陽光をまぶしく照り返している。時代の重苦しさも、ある日輝きに変わりうる。そのような希望を述べた一首と読みたい。

時代閉塞の認識の中で、しかも病床にあって、啄木も正月には希望を詠んでいる。
 
 戸の面には羽子突く音す。
 笑ふ声す。
 去年の正月にかへれるごとし。

 年明けてゆるめる心!
 うっとりと
 来し方をすべて忘れしごとし。

 何となく、
 今年はよいことあるごとし。
 元日の朝、晴れて風なし。
 
 腹の底より欠伸もよほし
 ながながと欠伸してみぬ
 今年の元日。

万葉の編者大伴家持も、4516首の最後を次の自分の歌で締めくくっている。

 新しき年の初の初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)

恰好つけて挫折したり、絶望したり、また絶望したフリなどすることなく、今年も希望を失わずにできるだけのことをやっていこう。


2005年01月02日(日)
経済成長は必要だろうか  

正月である。柄にもなく視座を高くしてものを考えてみよう、などと思う。

35年前の今ごろ、私は二弁(第二東京弁護士会)で実務修習をしていた。修習委員会の誰が言い出したか、修習生に経済学の講義を聴かせようということになった。30人くらいの修習生が、当時高名な慶應大学経済学部教授の講話を拝聴した。しかし、その経済学者の話は、修習生たちの胸に響くものをまったくもたなかった。

話の中身は経済成長に終始した。GNP一辺倒だった。これまで、日本の経済が如何に偉大なGNP成長をなし遂げてきたか。その条件は何であったか。その条件はこれからどうなるか。結論として、今ややGNP成長に翳りが見えているが、日本の経済はこれを克服して高度の成長を続けることになるだろう、というご託宣。

完全に場は白けていた。あんなことは珍しい。多感な若者たちにとって、興味はGNPという数値にはない。誰の目にも、高度経済成長の歪みが明らかとなりつつあった時代。多くの修習生の関心は、経済成長の裏側に生じた公害問題にあった。消費者問題、労働問題も噴出していた。生の人間に向き合わず、社会の矛盾を見ようともせず、経済成長の数値だけを語る学者…。経済学無力の印象だけが大きかった。その経済学者の名は、私と同郷の人で加藤寛という人。

毎日の元日号が、ガルブレイスのインタビュー記事を載せている。言うことは、さすがである。示唆に富む。
「世界の話題は中国に移り、日本はその陰にはいるだろう。GNPを基準にしたら、もはや日本の成功はあり得ない。戦後の努力は報われたのだから、これからは世界から敬服されることに力を注ぐべきだ」「考え方を変えるときだと思う。…いま、私たちは新たな段階を迎えている。どれだけ生産を上げられるかではなく、私たちが何をするかが重要になる時代の到来だ。教育、芸術、生き方…。そんな人間存在の基本となることの遂行だ」「経済学者は後ろに退き、教育者や芸術家や地域社会の幸福に資する人たちが前面に出て来なければならない。そんな時代になったのだ」

実は、35年前から経済学者の時代ではなかったのだ。一人ひとりの幸福に還元されない経済発展を語るなどは、まったく無意味ではないか。もっと本質的にものを考えたい。これ以上の経済的な豊かさが果たして必要なのだろうか。苛烈な市場原理で、人を経済競争に追い込むことにどれほどの意味があるのだろうか。パイは、既に十分な大きさになっているのではないだろうか。分け前の足らざるを愁うる時代ではない。等しからざることだけが、ますます憂いの対象となっているのではないか。

市場原理を徹底して、勝ち組・負け組を色分けすることにどれだけの意味があるのか。脆弱で不安定な社会を作り出すだけではないか。その社会にタガをはめようと実力行使すれば、矛盾は循環的に深まるばかりとなる。国際的にも同様である。国際的な搾取・収奪、富の不公正な偏在がある限り、国際平和は望みがたい。この不公正を維持しようとする強者の論理が、弱者の側の抵抗を生み、非対称的紛争の原因となる。

かつては東西の対抗軸で時代が説明された。今は、南北の対抗軸に変わっているのだと思う。国際的にも、国内的にも。


2005年01月03日(月)
各地の「事務所報」年賀版    

正月にはさすがにのんびりする。酒をたしまぬ身なれば、ミカンなどほおばりながら、元日号の各紙を読み、年賀状に目を通す。

実は、この15年間、健康診断を受けていないのと軌を一にして、賀状・暑中見舞いの類も一切出していない。「虚礼廃止」などという主張あってのことではなく、単に無精を決めこんでいるだけ。それでも、人様からいただいた賀状は正月の楽しみとして丁寧に読む。勝手なものだ。

ハガキの年賀状だけでなく、各地の民主事務所から事務所報の新年号が年賀郵便となって届く。その数は30通を超す。これに目を通すのも正月の楽しみ。いずれもカラー印刷で、工夫を凝らした力作ぞろい。

法律事務所はまず事業体である。経営的に採算とれなければ成りたち得ない。しかし、民主事務所は単なる事業体ではなく、民主的な理念に基づく運動体でもある。事務所報は、法律事務所と依頼者を結ぶコミュニケイション手段であるが、経営体としての側面だけでなく、運動体としての側面が色濃く出ている。

今年の運動課題が各法律事務所の事務所報から見えてくる。例外なく取りあげられているテーマが「改憲阻止」。関連してイラク派兵、戦後60年、安保、沖縄、そして、教育基本法改悪、「日の丸・君が代」強制、社会保障…。いくつもの事務所が、その事務所の依頼者を中心とした「9条の会」立ち上げを試みている。

さらに、法律事務所が抱えている事件を反映して消費者問題に割くスペースが大きい。まずは多重債務問題。改正破産法の解説。振り込め詐欺・外国為替証拠金取引などの悪徳商法被害、銀行の預金払い戻し免責問題等々。そして、税金問題、下請代金請などの業者の権利に関する問題。また、各事務所が取り組んでいる労働問題、刑事弾圧事件の報告は生々しい。

司法改革問題についてのトーンが低調である。どの事務所報も、弁護士報酬の敗訴者負担問題で廃案を勝ち取った成果を報告し、運動参加の御礼を述べている。が、これは、積極的改悪を何とか阻止し得たという分野。それ以上に司法改革の積極的評価を強調する論調はない。むしろ、司法制度改革には戸惑いが見える。「ここまで現実が動いたのだから、これに対応せざるを得ない」というのが、一般的なとらえ方か。

法律事務所は、具体的な事件において社会の矛盾に接する。日本の各地に根付いている民主的法律事務所はすばらしい仕事をしていると改めて思う。自分は、賀状を作らず、事務所報も出さないけれど、志を同じくする仲間の活躍を見るのが、正月のおおきな楽しみなのだ。


2005年01月04日(火)
首相、改憲と靖国に言及  

午前10時からの、小泉首相の年頭記者会見をラジオで聴いた。
冒頭の発言では、内外の災害に触れ、景気の厳しさと郵政民営化に触れたあと、イラク派兵と北朝鮮問題に言及して、それでおしまい。威勢の良さは、まつたくなかった。郵政民営化を除いて、積極的な姿勢をまったく感じられない。

いかにも、予め内容が決められていた風の記者団からの質問が、郵政民営化、北朝鮮問題、憲法改正、そして対中政策。質問した記者が重ねて切り込むという場面はない。緊迫感のないこと夥しい。

郵政民営化だけは、進めたいという気持ちが伝わる。しかし、いったい誰がそんな政策に関心をもっているのだろうか。民営化には、メリット・デメリットの両面がある。資本の論理を貫けば、過疎地帯の住民にとっての不利益は目に見えている。倒産の心配ない安心の預金先・保険者もなくなる。いつものことながら、デメリットに配慮した説明は聞けなかった。「民間でできることは民間に」という大原則を前提に、挙証責任を回避する論法に終始した。

北朝鮮問題では、右派の威勢良さが際だつ情勢下では、バランス感覚に富んだ印象だった。
北朝鮮側の一見強硬な発言に関して、「過去の発言、実際の行動、そういう事情もよく承知している。本音はどこにあるのか」と決め付けない姿勢を示した。その上で、未練あろうものを、任期中の国交正常化に必ずしもこだわらない考えを示した。

さて、関心は、憲法「改正」問題である。
これも、勇ましい話にはならなかった。自民党が今秋の結党50周年に改正草案を出す方針ということを改めて説明。ただ、「一党でできることではない。与党だけでもできるものではない」「今年、来年は十分に民主党も含めて協議、調整が必要」「今年、来年中にできるとは考えていない」との趣旨を述べた。

当然のことながら、だから改憲を断念したというのではない。急いてことをし損じてはならない。急ぐことではない。失敗は取り返しのつかないことになるのだから、慎重に着実にことを運ばなければならない。というサインなのだ。

最後に、対中国外交に言及して、靖国神社参拝については、「粘り強く中国側の理解を得られるようにしたい」としたうえ、今年の参拝については、「適切に私自身が判断していきたい」と述べた。けっして、靖国参拝はしないとは言わない。「時期を選んで今年もやらなきゃ」という感じ。戦後60年、結局は戦争の加害責任を感じてはいないのだ。批判を強めなければならない。


2005年01月05日(水)
小泉・岡田の伊勢参拝  

あっという間に正月は過ぎて、またせわしない日常が始まった。仕事初めは、先物取引被害回復の訴状作り。なかなか、はかばかしくは進まない。

ところで、日本の首相は仕事初めに伊勢神宮参拝をする。明らかな政教分離違反行為である。年々歳々、年頭に憲法理念への敵意と挑戦を確認するわけだ。

今年も小泉首相は昨日わざわざ伊勢まで出かけた。「二拝二拍手一拝の神道形式で参拝し、内閣総理大臣小泉純一郎と記帳した」と報じられている。これで、小泉首相としては4回目の正月参拝である。島村農水相、小池環境相、村田国家公安委員長、村上規制改革相、棚橋科学技術相の5閣僚が同行したという。

この人たちの精神構造はどうなっているのだろう。伊勢神宮が、国家神道の本宗として、神権天皇制を支えた主柱だったことを知らぬはずはない。伊勢神宮は12万と言われた神宮・神社の中で最高の社格を有した。靖国神社は軍国主義のシンボルとして別格の存在であった。このことを知悉しての伊勢・靖国参拝なのだ。現行憲法が、旧憲法の最も根元的な非民主的装置として批判し警戒した国家神道。その国家神道を象徴する2神社を、何のためらいもなく公的資格において参拝して見せようというのだ。

驚いたことに、この日は小泉首相だけでなく民主党の岡田代表までが、伊勢神宮を参拝している。なんということだ。憲法無視の姿勢において、両者は兄たりがたく弟たりがたし。「政権を獲得したら、自分も新年には伊勢神宮を参拝するぞ」というアピールなのだ。いったい誰に対するアピールなのだろうか。いささかでも民主主義とは何かを考える人にではなく、日の丸や君が代、国家神道や天皇制をありがたがる勢力に対して。「俺はこのとおりの根っからの保守派だ。安心していただきたい」というシグナルを送っているのだ。

与党も、野党第一党も、党首は憲法尊重姿勢のカケラも持ち合わせていない。こいつは春から頭が痛い。


2005年01月06日(木)
共産党ビラ配布弾圧・勾留越年  

正月くらいは家庭でのんびり、とは誰しもが望むこと。
にもかかわらず、共産党のビラを配布したことで逮捕された葛飾の活動家(57歳)は、この正月を亀有署内の留置場で過ごした。本人もさることながら、家族の無念が思いやられる。

逮捕し送検した警察が不当。これを釈放することなく勾留請求した検察が不当。検察の言いなりに勾留を決定した裁判官はさらに不当。不当はこれにとどまらない。10日間の勾留中に年を越して、1月4日再度10日間の勾留延長が認められ、これに対する準抗告も棄却されたという。刑事司法は、どうなってしまったのか。

この事件、もしかしたら起訴になるかも知れない。警察・検察の立川テント村事件無罪判決に対する巻き返しであり再挑戦なのだ。仮に、不起訴になったとしても、都議選を前に、野党勢力に対する強い牽制効果は十分である。警察・検察が特定政派に対して露骨な干渉を行っていると見て間違いなかろう。

かつて私は東京地方裁判所刑事15部で修習した。そこで裁判官の懐の広さに感心したものだ。その部の総括裁判官は寺尾正さん。彼は、アメリカ連邦最高裁判事の言を引いて、「思想・信条・表現の自由とは、時の権力や社会の主流派が憎む内容のもの」でなくてはならない」。と言い、実際にそのような判決を書いた。もちろん、当時からすべての裁判官がリベラルであったわけではないが、今の裁判官に、あの気骨は期待できないものなのか。

権力が危険と思わない思想に自由を保障する意味はない。戦前、天皇制に迎合する輩には権力の怖さは無縁のものであった。権力に鋭く対立する「危険思想」こそが、その自由を保障されなければならない。オウムでも、過激派でも、リプロダクツライトでも、同性婚姻でも…。ましてや議会に議席を有する政党が、その思想故に弾圧されるようなことがあってはならない。

今回の不当逮捕は、共産党の「都議会報告」「葛飾区議団だより」をマンションで配布していたことを住居侵入としたもの。お上にたてつく輩は許さない、という意思表明に聞こえてならない。もっともっと、お上にたてつこうではないか。そうでなくては、息苦しい世の中になってしまう。


2005年01月07日(金)
イラクの選挙の実態  

6日バグダッドで、米軍の装甲兵員輸送車1台が爆破され米兵7人が死亡した。4日にも、道路脇に仕掛けられた爆弾で米兵計5人が死亡している。ニュースの扱いも小さい。既に米軍の発表でも米兵の死者は1300を超えている。負傷者数はその10倍と見てよかろう。14万の派兵兵員に対して損耗率は10%に近い。これでアメリカは戦勝国と言えるのだろうか。

数については定かではないが多数の戦線離脱者があると報じられている。米軍はこれも補充しければならない。じわじわと、国民からの不安や不満の高まりが、効いてくることになるだろう。

アメリカは、パンドラの箱を開けたはいいが、ふたの閉め方を知らない。いつまでイラク占領を続けなければならないのだろうか。今月末の暫定議会の選挙を、逃げ出すチャンスにできるだろうか。とても無理なようだ。

リバーベントのブログ、「バクダッド・バーニング」。12月18日のあと途絶えていたが1月2日に最新記事を掲載した。本日その訳も掲出された。暫定議会の「選挙」は、到底選挙に値するものではないようだ。

『選挙は1月29日に行われる予定だ。…イラクの人々は、これが民主主義への第一歩だなどと感じることがまるでできないでいる。西側のメディアはさかんにそう言ってるけれど。多くの人は、これはだめな芝居の終幕にすぎないと思っている。これはわたしたちに手渡す「民主主義の小包」をリボンで結ぶということだ。選挙によって「正統」というラベルを貼られた占領政府を押しつけられるということだ。

今から20年後、イラクの歴史の教科書になんて書かれるか、想像できる?
「2005年1月29日、アメリカ合衆国率いる占領軍の集団的監視の下でイラクにおける最初の民主選挙が行われた。戦車隊の見守るなかで、熱しやすく、いいかげんなイラク人たちの群れはぞろぞろと投票箱に進みより、アメリカに承認された候補者たちの中から一人を選んだ…」
こんなの、だめだわ。

いくつか問題がある。まず、実際面では、わたしたちが候補者を知らないということ。リストのトップに名前のあがっている人物はわかるけれど、いったい誰が立候補するかがわからない。これはほんとに困る。かれらは立候補者が暗殺されることを恐れてリストを公表しようとしないのだ。

もうひとつの問題は、投票用紙が売買されていることだ。わたしたちは、さまざまな地域で配給食料を配る人たちから投票用紙を受け取る。家族全員がこの人(たち)のところに登録されていて、それぞれの年齢も把握されている。ところが、選挙に行こうとしない人たちがとても、とても、とてもたくさんいる。そういう人たちのなかには、400ドルもの値段で投票用紙を売る人がいる。街の噂では、イランからきた人たちが投票用紙を買っているそうだ。かれらは投票用紙を買って IDを偽造し(最近では偽造はめちゃくちゃかんたんだ)、SCIRI かダーワの候補者に投票するという。スンニ派の人たちは、選挙する気がないのに投票用紙を受け取っている。投票用紙の売買を防ぐためだ。

さらにべつの問題がある。それは、すべての投票用紙で、投票者の性別の項目が実際の性別とは関係なく「男性」となっていることだ。私のことを正気じゃないといってくれてもいいけれど、これには少々混乱する。なぜこんなことになったの? これはたんなる間違い? なんのために投票用紙に性別の欄があるの? で、それがどうしたというの? さまざまな意見が飛び交っている。宗教的な傾向の強い家庭では女性が投票することを好まないので、家長が身内の女性の IDと投票用紙を受け取って代わりに投票することができるようにしたのだという意見。それから、この「間違い」は、偽造IDを使って女性の代わりに投票することが簡単にできるようにするためのものだという意見』

いやはや。これでできあがった政府の「正当性」や如何。武力による内政干渉が、どれほど一国をめちゃくちゃにするか、その修復がどんなにも困難か、そのことをアメリカは骨の髄まで身に沁みて学ぶがよい。くれぐれも、イランでも、シリアでも北朝鮮でも、同じ愚を繰り返さないことだ。


2005年01月08日(土)
「教育ファシズム」を食い止めよう   

年が明けて初めての「日の丸・君が代、強制予防訴訟」弁護団会議。都立校の現場からの報告に耳を傾ける。よいことはない。

ある教員が全国紙に投書したところ、直ちに教委から校長に通報がなされた。慌てた校長が教員を呼び出して叱責したという。言論の自由に対する強権的な介入が日常化しているのだ。その場では校長・教委の不当を跳ね返しても、これが人事評価の材料になる。昇級にも異動にも差別が付きまとうことになるという。

各校にアドバイザーという名のスパイが配置されつつある。教委直属として、監視の対象は校長の動静をも含むものとされる。その延長上に「校長支援センター構想」があるという。教育現場を権力的な監視対象とする構想である。都立校の周辺には、重苦しい雰囲気が充満している。

これが、人間の無限の可能性を開花すべき教育現場の実態。人類の叡智の到達点としての自由や人権を学ぶべき場に市民的自由は逼塞している。人間の解放を目指す教育現場が監視と猜疑の場となっている。教育が権力のしもべとなる兆しである。

「日の丸・君が代 NO! 通信」という定期刊行物がある。日本キリスト教会館が編集部の連絡先となっている。月刊で、04年12月31日付が既に62号。その編集後記の冒頭に、「東京に『教育ファシズム』の嵐が吹き荒れた2004年がようやく幕を下ろす。…埼玉へ、神奈川へと『教育ファシズム』は飛び火している」とある。

「世界」昨年4月号の特集タイトルが「日の丸・君が代 戒厳令」だった。編集者の感性がそう言わしめる状況なのだ。さらに、「教育ファシズム」とは言い得て妙。けっして誇張でない実態がある。

しかし、「戒厳令」も「ファシズム」も、まだ字義のとおりの事態が完成したわけではない。抵抗することなく、成り行きに任せていたのでは文字どおりのファシズムが完成してしまう。まだ、今なら間に合う。

いま、声を上げなければならない。沈黙はファシズムの完成に手を貸すこと。多くの人が、それぞれ可能な範囲で、ファシズムの進行に抵抗しなければならない。

事態は、けっして悲観面ばかりではない。「日の丸・君が代 NO! 通信」も、「しかしながら、それに対する反撃の闘いも、近年まれに見る盛りあがりようである」と続けている。現場で、組合で、世論喚起で、そして法廷で、教育ファシズムの進行を阻止しよう。


2005年01月09日(日)
公明党 国民投票法成立を容認

城を攻めるには順序がある。まずは外堀を埋めることから始まる、そして内堀をうめて、しかる後に大手、搦め手を落とすことになる。本丸攻めは、ずつと先のこと。

9条改憲が本丸であり、立憲主義や人権規定は、大手門・搦め手門であろう。国民投票法は、本格的な外堀崩しにあたる。いよいよ、外堀での攻防が始まる。

本日のNHK報道番組で、公明党の神崎代表は、「憲法改正の手続きを定める国民投票法案を通常国会で成立させることについて『異論はない。5月ころに衆参両院の憲法調査会が(最終報告書で)一定の方向性を出す。報告を受けて法案を国会に提出するタイミングでいい』と述べ、同法の成立を容認する考えを示した」(日経ネット)。

もとより公明党は護憲の理念をもった政党ではない。しかし、党勢拡大のための風見には敏感な党である。その支持者は、客観的には被支配層であり、保守政権の最大の被害者でもある。当然のことながら、創価学会員のなかには、真面目に平和や民主主義を考える人たちも少なくない。その政党が、世論の風向きを見ながら、改憲の外堀に手を貸すことを明言したのである。その意味は小さくない。

連立与党の公明がこの姿勢。事態は甘くない。5月の憲法調査会報告とともに、一挙に「改憲の風」が吹き付けてきそうだ。だが、問題はしかく単純ではない。どの方から、どのような風が吹くか、実は定かでない。風見鶏は、風次第でどのようにも向きを変えるのが本性である。

どのような国民投票法案となるか、まだ予断を許さない。
投票権を有するものを20歳以上とするか、世界の趨勢に合わせて18歳以上とするか。
改正対象となる諸条項を一括して賛否を投票するのか、各条項ごとに個別的に賛否を問うことにするのか。
国民投票運動に関する自由の確保をどう規定するか。
国会の発議から投票までの期間をどう設定するか。
有効の条件として最低投票率に関する規定を置くか。
「過半数」の母数をどう定めるか。
国民投票無効訴訟の定めをどうするか。……。

決めなければならない論点は、極めて多い。護憲勢力の起こす風の強さ次第で、法案の中身は変わる。法案の成立を阻止することも…。


2005年01月10日(月)
学校に自由の風を! 日比谷公会堂大集会 

学校に自由の風を! の運動体が主催する、「変えよう! 強制の教育」の大集会。2000用意したプログラムが、ほぼなくなったという盛況。日比谷公会堂の一階はぎっしり人で埋まり、2階席もほぼ満席。私は、2階席の最後尾、最上段で舞台を見下ろした。これなら、都議選で3悪人らを落とせそうにも思うのだが…。

今日は右翼がやって来るという事前の触れこみで、弁護団から6名が警備を担当した。幸い右翼の来訪はなかったが、これ見よがしにカメラをぶら下げた私服警官が10人以上。トラブルはこちらの方と。平穏な集会を妨害する犯罪行為あった場合にだけ、警察の出番となる。右翼が来ないのだから、本来警察の出番はない。しかし、集会の参加者を盗み撮りするのが彼らの仕事。それをやめさせるのが私たちの仕事となる。

警察の監視の下では、市民が集会に参加しにくくなる。彼らの狙いはそこにあるのだろうが、少なくとも撮影はさせない。肖像権の侵害になるからだ。犯罪が行われていない場面での警察の写真撮影は原則違法である。

最高裁大法廷判例(1969.12.24、京都府学連事件)は次のとおり。
原則「警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない」
例外「現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるとき」

集会のプログラムはいつものことながらセンスがよい。一人に長時間しゃべらせることをしない。多くの人が、それぞれの現場から、それぞれの個性にあふれた訴えをする。報告は、良くできた朗読劇やコント仕立て。そしてメインは、高橋哲哉さんの20分の「今こそ教育に自由を」という講演。以下は私流の理解。

平和・平等というこれまでの公理的な価値が貶められようとしている。自由もである。教育は本質的に自由を伴う。学校は自由な場所でなくてはならない。その自由が危殆に瀕している。

スクールの語源は、ギリシャ語で「暇」を意味するスコーレーに由来する。自分の頭でものを考えるということは、本質的に何ものにも束縛されない自由な市民の特権であった。この市民が、古代の民主制を支えた。その人たちが集うところがスクールの起源である。

教育は、国家の束縛からも、産業社会の制約からも、自由でなくてはならない。個人が、自らの感性で自然や社会を相対化して見つめる余裕がなければならない。新自由主義のいう競争的「自由」は、実は欺瞞的な反自由でしかない。

教育の自由を圧殺した戦前の教育体制への反省から、教育基本法10条は行政の教育への不当な支配を禁止した。ところが、今、その教育基本法が改悪の寸前ある。自・公の連立与党改悪案では、「教育『行政』は不当な支配に服することなく…」と改めるという。これは、市民の行政批判を封じることではないか。

自分の子どもをフランスの小学校に通わしたことがある。入学式も、卒業式もない。みんなを集めて国歌を歌わせるという発想がそもそもない。日本は、中央集権国家体制を形成する過程で、がんじがらめの儀式を重視した。憲法が変わっても、儀式重視は生き残り、今再び戦前どおりに復活しようとしている。

いま、その局面で苦難を強いられながらも頑張っている、あるいは迷っている、教師・保護者の皆さんに、内村鑑三の言葉を借りて連帯のメッセージを送りたい。1891年彼が不敬事件として攻撃を受け、失意の中で米国の友人に宛てた書簡の一節。かれは、次のように自分を励ましている。
「僕は信ずる。政治的自由と信教の自由とは、かかる試練なくしては購われざることを。…いざ、われらをして、たたかいに行かしめんことを」

今日の集会での「法と民主主義」の売れ行きは35冊。その内の一冊が高橋さんお買いあげ。高橋さんはよい人だ。進呈しようかと一瞬弱気になったが、ちゃんと1000円支払ってくれた。こういう人とは、今後とも仲良くしたい。


2005年01月11日(火)
業務と運動とのバランス  

完全に日常生活が戻ってきた。歯医者に行って、裁判所に出かけて、依頼者と会って、ファクスを受けて、電話をして、起案して、夜は「法と民主主義」の編集会議。そして、「日記」を書いている。弁護士としての業務と、法律家運動の両輪がともに回り始めた。

当然のことながら、業務が始まるとあれこれ仕事が増えてくる。組織活動の会議に出ても、やるべき作業がいくつも増える。こちらは忘れていた仕事も、仕事の方では忘れていないことを思い知らされる。

弁護士としての日常業務と運動とのバランスが難しい。常々、弁護士としての業務あってこその運動だと強く思っている。弁護士は、依頼者を通じ事件を通じて社会の矛盾に接している。受任事件が社会の鼓動を知る聴診器なのだ。ここが運動の原点。弁護士という業務から切り離された専業活動家にはなりたくない。しかし、弁護士業務だけを行う弁護士にもなりたくはない。自分が有している理念は、個別の業務だけをやっていればよしとしてくれない。問題は、両者の時間配分と経済問題である。多くの活動家弁護士が、それぞれの考えや環境で、それぞれに折り合いをつけている。

「法と民主主義」編集会議はいつもなかなかに充実はしているのだが、やはりもっと多くの若く意欲ある参加者がほしい。若手の弁護士は例外なく業務に忙しい。しかし、業務だけではもの足りないのではないか。ほどよいバランスをとって、法律家運動にも参加していただきたいと願っている。

法律家運動だけではない。民主運動全体が、若手の参加をこいねがっている。


2005年01月12日(水)
葛飾ビラ弾圧 起訴  

葛飾の共産党ビラ配布弾圧は本格的な大事件に発展した。逮捕されていた被疑者の男性(57歳)は、昨日勾留満期前に東京地裁に起訴された。罪名は住居侵入である。起訴検事は崎坂誠司。立川テント村事件も、板橋高校事件も同一人物。

政党のビラの配布のために、マンションの廊下に立ち入ったことが犯罪とされ、逮捕・勾留されて、起訴に至ったのだ。事件の本質は、ビラの配布という表現行為への弾圧である。しかも、政党ビラの配布、政治的な表現行為への強権的封殺。

赤旗によれば、彼が配布したものは「区議会で三十人学級実現の申し入れや論戦をした内容を報告するビラや、区政への要望を聞くアンケートなど」であったという。これを、各戸の郵便受けに入れる行為が、どうして逮捕し起訴しなければならないほどの犯罪行為というのか。常識では理解しがたい。

商業宣伝のビラ・チラシやダイレクトメールの類は、郵便受けに無制限に飛び込んでくる。しかし、これで逮捕者が出たとか、起訴されたという話は聞かない。どこの政党もビラの配布はやっている。しかし、自民や公明のビラが弾圧されたという話は聞かない。特定政党がねらい打ちされるのだ。

経済活動よりも、政治的言論の自由が尊重されなければならないことは、憲法学上の常識である。警察・検察の扱いは、それを完全に逆転させている。

オウムの前哨戦のあと、本格的な微罪弾圧が始まった。反戦落書き事件・立川テント村事件事・目黒社会保険庁事件・都立板橋高校卒業式事件と続いて、ここまで飛び火した。形式的に構成要件該当と言えば、日常あたりまえに行われている相当範囲の行為が犯罪とされてしまう。それが、捜査機関のさじ加減ひとつで逮捕されたりされなかったり、起訴されたりされなかったりでは困るのだ。

都議選を控えた正月に、権力がもっとも憎む特定政党の選挙の出足を止めておこうという、露骨な動機が見て取れる。こういうことを許しておいてはならない。


2005年01月13日(木)
NHKの内部告発者を守れ  

小泉後継と噂される自民党議員の一人に安倍晋三がいる。若いに似合わず、先祖返りの感のある右派。現行憲法の感覚にはなじまず、旧憲法の匂いがする。もう一人の同類・中川昭一ともども、NHKの「慰安婦」番組に圧力をかけていたことが露見した。表現の自由に対する露骨な侵害行為である。こんな人物には国会議員を辞めてもらわねばならない。

12日付朝日の朝刊でこの報道に接するまでは、NHKを国営放送局だと思っていた。これは大きな間違い。NHKは、自民党右派の放送局であった。国民から視聴料をとりながら、自民党右派・右翼が許容する放送しかできないのだ。私は、東大文学部社会学科の出身(中退)。私の同級生40人のうち、確か9人がNHKに就職した。おそらくは、私の同期クラスが責任者の立場にあるのだろう。かつての友らよ、しっかりしてくれ。

それにしても、内部告発の貴重さを改めて噛みしめる。勇気ある告発者がいなければ、すべては闇に葬られていた。だまされていることを知らずに視聴料を支払い続ける人も多かったに違いない。こんなことをする人物とは知らずに、安倍晋三に次の選挙でも投票する山口の有権者もいたであろう。これだけ重い内部告発を敢えてした内部告発者を孤立させてはならない。たいへんな圧力を覚悟で、これを公表した人に敬意を表するとともに、厚い世論の支持でこの人を守らなければならないと思う。

今日、その人が名乗り出て記者会見を行ったことに驚きもし改めて尊敬の念を深くした。その人の名は長井暁さん(42)。教育番組センターのチーフ・プロデューサーだという。問題の番組は、旧日本軍慰安婦問題の責任者を裁く市民団体開催の民衆法廷を取り上げたもの。01年1月30日に放送され、長井さんは同番組の担当デスクだった。

長井さんによると、番組の作成においては、「戦争を裁くことの難しさ」や歴史的な位置づけ、客観性を強調して現場を取りまとめてきたという。事前に右翼団体などから「放送中止」の要請はあったが、放送2日前の夜には通常の編集作業を終え、番組はほぼ完成していた。

ところが、01年1月下旬、中川昭一らが、当時のNHKの国会担当の担当局長らを呼び、番組の放送中止を求めた。担当局長は放送前日の午後、NHK放送総局長を伴って再度、中川や安倍晋三を訪ね説明。放送総局長は「番組内容を変更するので、放送させてほしい」と述べた、という。

こうして、政治家の圧力を背景に、現場の意向を無視して、番組は大幅に変更された。元慰安婦の証言はカットされ、民衆法廷の起訴状も、ヒロヒト有罪の判決も報道されなかった。むしろ、民衆法廷批判の有識者コメントに時間が割かれた。

また、長井さんは「海老沢会長はすべて了承していた。信頼すべき上司によると、担当局長が逐一、海老沢会長に報告していた。会長あてに作成された報告書も存在している」と説明した。その上で、「制作現場への政治介入を許した海老沢会長や役員、幹部の責任は重大です」と訴えてもいる(以上事実関係は、朝日本日夕刊から引用)。

中川・安倍らは、「偏った内容だから、公正な番組にするように意見を言ったまで」という。そのこと自体が大きな問題であることをまるで認識していない。

本日の夕方、8時45分からのNHKニュースを見た。ニュースとして、「一部で言われているような外部からの介入で番組の内容が改編されたという事実はない。NHKは不偏不党」と言っていた。こんな原稿を読ませられるアナウンサーが、かわいそうでもあり、愚かしくもあった。

こんなNHKに視聴料を払うなど馬鹿馬鹿しくっていたしかねる。視聴料は、自民党右翼支持者だけから徴収するのがスジではないか。NHKは完全に国民をなめているのだ。安倍・中川よりは、国民の方が数段力があることを見せつけなくてはならない。


2005年01月14日(金)
NHKの権力迎合体質こそが問題だ  

NHKが、朝日の「番組改変」報道に対して、抗議と謝罪を要求する文書を交付した。当然のこととして朝日は、報道に間違いないとしてこれを拒絶している。

両者の言い分は食い違っている。今後、透明性を確保した場で事実関係が厳格に検証されなければならない。しかし、この申し入れ文を一読しての感想だが、どう見てもNHKの主張は分が悪い。問題は水掛け論ではない。意を決した重い内部告発が存在するのだ。申入書はこれについてのなんの言及もしていない。また、細かい問題はともなく、番組放送の直前にNHKの幹部が安倍晋三と面会したことは自認している。事実無根というわけではない。そして当の安倍が、その面会の際にこの番組が話題となったことを認めているのだ。明らかに、煙の元となった火はあったのである。

しかも、放送直前に番組が現場の意向を無視して変更されたことも間違いと読み取れる。問題は、これが異例のことなのか、通例のことなのか。中川・安倍からの指示によるものか、NHK自身が自主的に行ったのか、ということに尽きる。が、実はそのことはさしたる問題ではない。

このような「変更」が、「通常のこととして」「NHK自身の手によって自主的に」行われていたとすれば、外部からの権力的介入による「番組改変」とどこに選ぶところがあろうか。安倍や中川らの意向に添った番組を、「検閲」なしに自主的に作成するNHKにいかなる「不偏不党」性があるというのだろうか。

自ら「自主的に」権力に擦り寄る者に対しては、権力的な介入は意識されない。自ら、事前にその意に迎合してことを運ぶのだから、権力的介入の必要さえなくなる。NHKの朝日に対する申入書は、まさしくこのようなNHKの体質を自ら暴露している。本質的問題点は、「改変」後の番組の内容であり、これを「不偏不党」というNHKの感覚なのだ。


2005年01月15日(土)
NHKのコンプライアンス

コンプライアンスが「はやり」である。どこの企業もコンプライアンス推進を謳っている。あの武富士さえ。そして、NHKも昨年9月にコンプライアンス推進室を立ち上げたという。

コンプライアンスとは、「法令遵守」と訳される。各企業が違法行為あるいは不当行為を行わないように監視する機能やシステムをいう。社内の違法不当な行為を、芽のうちに把握するための、社員の通報を受けるシステムも含む。私は、かつて国民生活審議会の「コンプライアンス部会」に籍を置いたことがある。が、本当に適切なコンプライアンスがなされている例を知らない。

NHKへの政治家介入による番組改変問題を内部告発した長井暁さんも、まずは組織内の手続きに従って、「コンプライアンス推進室」に申立をしている。権力的な介入があって番組の内容が改変されたという上司の違法行為を申告したことになる。これが、昨年12月9日のこと。しかし、「推進室」が動いた気配はなく、これを無力として長井さんは告発会見に踏み切った。

この「コンプライアンス推進室」の構成が問題である。弁護士が外部委員として通報の受け皿になっているそうだ。果たして、その弁護士の人選は適切であっただろうか。NHK本体から独立して、公正に長井さんの申立を調査し正確な事実認定と是正措置をとりうると期待できるものであったろうか。

当該の番組改変問題は訴訟になっている。原告は番組が取材した民衆法廷の主催者、NHKは被告の一人である。その訴訟事件のNHK側代理人弁護士は7人。主任を含むそのうちの3人がコンプライアンス推進室の窓口を兼ねているのだという。これでは、長井さんが絶望したのも無理はない。

放送法は、その目的に「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」(1条2号)を掲げる。また、「放送番組は、‥何人からも干渉され、又は規律されることがない」(3条)と定める。民主主義の大原則である。これが侵されたという重大な申告があって、「コンプライアンス推進室」は無力だった。

コンプライアンスを「流行り」だの「飾り」だのに貶めてはならない。この教訓から、実効性あるシステムを考えることもさることながら、社外への内部告発保護の制度を作らねばならない。


2005年01月16日(日)
外国人力士大活躍  

大相撲初場所も中日。私が場所前に注目した力士は、外国人力士で朝青龍・白鵬・黒海・琴欧州、日本人力士で魁皇・若の里・稀勢の里。極めて常識的。

朝青龍が強い。憎たらしいほどだ。稽古不足だ、体調管理が悪い、と言われながらのここまでのぶっちぎり。横綱の品位だの、貫禄だの無関係。誰も文句のつけようがない。これまでにないタイプ。スーパー・ヒールのヒーロー誕生ではないか。

白鵬が遺憾なく大器ぶりを発揮している。モンゴルを倒す者はモンゴル、のようだ。将来の横綱・琴欧州が着実な進歩。贔屓の黒海がいまひとつぱっとしない。腕力だけで勝ってきたがさすがに壁にぶつかっている。相撲を覚えれば壁をこえられる。がんばれグルジア。露鵬・旭天鵬・朝赤龍・旭鷲山もよくがんばっている。安馬も実に見ていて面白い相撲を取る。韓国の春日王にも注目。外国人力士が完全に主役だし、土俵を面白くしている。

これに対して、日本人力士がさびしい。魁皇は、綱取りどころか勝ち越しができるだろうか。大関候補・若の里は3勝5敗。次代を背負わなければならない新鋭稀勢の里も勝ち越しは難しい。栃東が意外の健闘だったが今日は白鵬に後れをとった。

いずれ、上位のすべての地位を外国人力士が占めるようになる。幕下以下の有望力士を見ると

幕下
12 武蔵龍 モンゴル 3勝1敗
14 光龍  モンゴル 3勝1敗
27 鶴竜  モンゴル 3勝1敗
43 猛虎浪 モンゴル 3勝1敗
45 大鷹浪 モンゴル 3勝1敗

三段目
5 仲の国 中国 4勝0敗
6 把瑠都 ばると エストニア 3勝1敗
15 大勇地 モンゴル  3勝1敗
16 保志桜 モンゴル 4勝0敗
24 阿夢露 あむうる ロシア 3勝1敗
28 隆の山 チェコ   3勝1敗
29 北春日 モンゴル 3勝1敗
42 風斧山 かざふざん カザフスタン 3勝1敗
46 孝東    ブラジル  3勝1敗

相撲はメンタルなスポーツ。さほどの実力差あるとは思えぬのだが、外国人力士の強さの一因は気迫にある。その気迫は、ハングリー精神から生まれているのだろう。みな、たいしたものだ。「外国人力士は一部屋一人」などという姑息な人数制限をやめて来る者は拒まぬとすべきだろう。プロスポーツこそ、公正な自由競争原理のはたらくべき世界ではないか。そのとき、日本人力士はどれだけ残れるだろうか。

既に、相撲は国技ではない。「天覧相撲」などやったところで、勝ち名乗りはすべて外国人力士だけになる。千秋楽の「君が代」も極めて不自然。
日本人リーグでも作って、内輪で「国技」を続けるなどというのなら、話は別だが‥。


2005年01月17日(月)
モンゴルのストリートチルドレン  

モンゴル人の知り合いがいる。朝青龍のような、反知性人ではない。もっと穏やかで知的な人。昨年、ウチに転がり込んできたウランバートルの画家・ツルブラムの友人で、アマラさんという。アマラは愛称、本名を教えてはもらったがあまり長くてとても憶えきれない。東大医学部大学院の院生で、膵臓研究の専門家だという。ほぼ完璧な日本語を話す。日本人よりも正しい日本語かも知れない。

彼は、世界で2番目にできた社会主義モンゴルの崩壊を経験している。「どうですか。社会主義の昔と、市場経済の今と、どちらがよいと思いますか」と聞いてみた。エリートであれば平等主義には反感を持っているだろう、との先入観があった。しかし答はやや意外だった。「昔の方がよかったと思います。私だけでなく、そう思っている人が多い。昔は、みんなのんびりしていた。ゆったりと暮らしていけた。今はそうではない。みんな、あくせくして金のことばかり。人間関係もぎすぎすしている。それに、昔はなかった生活の不安がのしかかっている」
ならば、どうして社会主義が崩壊したのか、といぶかしい。

本日の日経夕刊に、盛田隆二という作家がエッセイを書いている。そのなかに、次の記述があった。
「路上生活を余儀なくされている子どもたちはユニセフの推定によれば世界中で3000万人を超えているが、1990年以前のモンゴルにはたった一人のストリート・チルドレンも存在しなかったという」「なぜ、1990年が分水嶺なのか。答はソ連の崩壊だ。‥モンゴルもこのあおりを受けて市場経済に急転換する」 その転換がうまく行かず、いまモンゴルでは「全国で4万人というストリート・チルドレンが生み出されたのだった」

仮に社会主義経済が経済成長には分が悪くとも、かつてモンゴルの人々は、貧富の差なくストリートチルドレンを生み出すこともなく、和やかに穏やかに暮らしていたのだ。これに過ぎる経済目標・政治目標があるだろうか。市場経済つて、本当にいいもの? 貧富の差あることを前提とし、競争でむち打つ社会って本当はおかしいんじゃない。


2005年01月18日(火)
小泉石原靖国参拝違憲訴訟が問うもの  

本日は、小泉石原靖国参拝違憲訴訟(東京)の結審の日。232ページに及ぶ浩瀚な最終準備書面を8人の弁護士で分担して要旨を陳述した。私の担当は、「終わりに」と題した終章の部分。やや舌足らずだが、要約書面の原稿は以下のとおり。

1 以上に述べたとおり、本件は憲法と司法のあり方を根底から問う訴訟です。
  本件請求に直接の根拠となる憲法上の原則は政教分離ですが、政教分離は憲法上の諸制度の一アイテムとして孤立した存在ではありません。それは旧憲法の神権天皇制の土台を否定する大原則で、国民主権・基本的人権・恒久平和主義のいずれとも緊密に結びついた理念であり制度です。したがって、その正確な理解のためには、日本国憲法総体の理念を把握することが必要なのです。就中、大日本憲法下での悲惨な体験の徹底した反省と批判が解釈に活かされなければならなりません。
2 また、つとに指摘されているとおり、日本国憲法の恒久平和主義は、大日本帝国が侵略した周辺諸国民に対する対外公約としての性格を有しています。
侵略戦争の加害国としての、被害諸国民に対する不戦の誓いの誠実な履践こそが憲法の命じるところであり、日本が平和と安全を保持していく保障でもあります。
  被告小泉、被告石原らの本件靖国神社参拝は、この国際公約に挑戦する行為にほかなりません。本件訴訟における在韓原告は、国際公約としての憲法のあり方を直接に問いただしています。貴裁判所はこの痛切な叫びに耳を傾けていただきたい。
3 また、本件訴訟は立憲主義の実効性を問う訴訟でもあります。
  為政者の恣意的な行為によって、人権や平和という根源的な価値が没却されることのないよう、憲法は制定されました。厳格な憲法遵守義務を負う被告らが、乱暴に憲法を踏みにじったとき、これを是正する法的措置が存在しなければならなりません。仮に、その手段を欠くとすれば、立憲主義は画餅に帰することになり、明らかな法の欠缺を露呈することになります。
  これほどあからさまな被告らの違憲行為が、しかも挑戦的に反復されている違憲違法な行為が放置されてはならないことは、立憲主義の観点から当然と言うべきであります。
  大原則である立憲主義が、実は何の実効性も有しない脆弱なものであることを露呈するなどということがあってはなりません。この点を問うものが、立法不作為の違憲違法確認です。
4 本件においては、小泉・石原らの為政者の行為が憲法遵守義務に照らしてその責任を問われているばかりでなく、司法もその本来の役割を果たせるかが問われています。貴裁判所も、憲法が予定した裁判所と乖離がないかというテストを受けています。
  立憲主義を実効あらしめ、権力機構や為政者の違憲行為を是正させることは、司法の姿勢如何にかかっています。
  貴裁判所の判決は、その内容次第で被告らの執拗な違憲行為反復の歯止めになりうるものでもあり、場合によっては被告らの憲法無視の姿勢を放置し増長させる結果ともなり得ます。
上述のとおり、原告は、本件において憲法理念を根底から問いただす主張と挙証を行いました。貴裁判所は、誠実にこれに応えていただくよう切望して、最終準備書面の陳述といたします。

判決は、4月26日(火)午後2時。小泉参拝国賠事件としては、大阪(2件)・松山・福岡・千葉・沖縄に続く最後の地裁判決となる。


2005年01月19日(水)
経団連の改憲論  

昨日、日本経団連が「わが国の基本問題を考える〜これからの日本を展望して」と標題する政策提言を発表した。安保・外交・憲法・統治システム・教育・少子化・科学技術政策・財政・エネルギー・環境・食料問題まで、言いたい放題あけすけに財界の本音を語っている。A4で24ページ。下記のURLでご一読を。
http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2005/002/index.html

まず頭に来るのは、企業献金で政治を買収しようという意図を隠さないこと。
『投票同様、政治寄付は、国民にとっての重要な政治参加の手段である。また、企業も法に則り、「良き企業市民」としての社会的責任の一端を果たす観点から、応分の支援をすべきである。‥本来政党は、その思想・信条に賛同するものによって支えられるべきであり、民間の自発的な政治寄付の意義を再認識し、これを促進していく必要がある。‥今後、政治寄付を通じた個人や企業の政治参加をより拡大するためには、公正・透明な形で、政治寄付を行いやすい環境を整備する必要がある』
参政権の主体は自然人である。企業に政治参加の権利などあるものか。企業献金こそ政治腐敗の根源ではないか。すべての企業献金・団体献金の禁止こそ、天の声である。この時期、「良き企業市民としての政治寄付の意義を再認識」などとは、よくも恥ずかしげなく言ったもの。片腹痛い。

とりわけ、見逃せないのが、かなりの紙幅を割いている憲法問題。9条改憲をあからさまに公言している。財界は市民の敵だ。今の財界は危険だ。改めてそう思う。

「提言」は、「古くなった憲法」論に立って、『現行憲法が制定された1946年当時と比べ、国内の経済社会やわが国を取り巻く国際安全保障環境は大きな変化を遂げた。21世紀に生きるこれからの日本を創造するため、憲法の歴史的価値を棚卸しし、引き継ぐべきもの、新しく創造するもの、変えるもの、捨てるべきものを整理し、新たな国の針路に関して国民的な議論を行った上で、合意を形成すべきである』という。

その上で、自衛隊について、『過去の「存在する自衛隊」から、侵略からの防衛、テロなどの新たな脅威への対処、災害派遣に加え、国際的な平和協力へも拡大し、国民の安心・安全の確保と国際貢献のために幅広く「機能する自衛隊」へと大きな変革を遂げつつある。これらの活動は、自立する国家として当然の機能』という。
だから、『憲法上、まず、自衛権を行使するための組織として自衛隊の保持を明確にし、自衛隊がわが国の主権、平和、独立を守る任務・役割を果たすとともに、国際社会と協調して国際平和に寄与する活動に貢献・協力できる旨を明示すべきである。さらに、自衛隊の海外派遣の活動内容・範囲について、基本方針を明確にし、場当たり的な特別措置法ではなく、一般法を早急に整備すべきである』と、自民党のタカ派顔負けである。

さらに、集団的自衛権に言及して、『現在、わが国では、主権国家として当然に保有する集団的自衛権は「保有するが行使できない」という解釈に基づき、自衛隊による国際的な活動が制約されている。しかし、集団的自衛権が行使できないということは、わが国として同盟国への支援活動が否定されていることになり、国際社会から信頼・尊敬される国家の実現に向けた足枷となっている』

オブラートを取り除けば、「世界を市場に儲けるためには軍事力の背景なくては心細い。自衛隊を合憲の存在と憲法上明確にした上、海外に展開できるように法整備をしておいてくれよ。それに、アメリカと一緒に戦争できなきゃ困るじゃないか。9条改正で集団的自衛権行使を合憲としておかなくっちゃ」というもの。

何たって、スポンサーのご威光である。自民党だけでなく、民主党の右半分にも影響ありそう。


2005年01月20日(木)
実感「憲法が危うい」  

ここ数年、自分でも何が本業かよく分からない。本日、午前中は通常の弁護士業務。昼は医療弁護団幹事会と事例報告会での報告担当。午後は「日の丸・君が代」弁護団会議。そして夜は日民協憲法委員会。これが典型的な私の日常。

午後の弁護団会議は、板橋高校卒業式の威力業務妨害刑事事件対策が中心。被告とされた元教員は、卒業式開始前4分間の言論を犯罪に仕立てられている。犯罪とされた行為は、衆人環視の中での平穏な週刊誌コピー配布と短時間の肉声による発言に過ぎない。通常なら、到底刑事事件になるような行為ではない。「日の丸・君が代」強制の一環として、お上にたてつく言動は許さないとする不当起訴。この事件は、都教委主導の起訴であり、法廷でも対決する相手は都教委と土屋敬之都議である。さて、どのようにこの起訴の不当性を明らかにし、無罪を勝ち取るか。

夜の日民協憲法委員会では、残念ながら芳しからぬ話題が尽きない。安保防衛懇・防衛計画大綱・中期防・自民党改憲素案・経済団体の改憲案・教育基本法改正原案報道‥。そして、見過ごせない問題としてNHK番組改変問題と葛飾政党ビラ配布弾圧について話し合われた。

北野弘久教授が、「NHK番組改変はたいへん大きな問題だ。60年前に繰り返してはならぬと誓った、あの大本営発表のNHKに戻ってしまいかねない。報道の自由を守る観点からの声明を発表すべき」と発言。朝日と長井氏に対するバッシングを許さず、内部告発者を孤立させない観点からの声明を提案することとした。

さらに、立川テント村事件弁護団の内田雅敏さん、葛飾ビラ弾圧事件弁護団の西田穣さんも参加しての、不当起訴諸事件についての情報と意見交換。板橋高校事件、国公法弾圧堀越事件も含めた4事件での交流の必要を確認。「法と民主主義」企画で取りあげるべきとの提案がなされた。

憲法が危ういとは、憲法という法典が改正の危機にあるというだけではない。国民の人権や民主主義が危ういということなのだ。お上に不都合な行為は容赦なく弾圧される。そんな世にしてはならない。今が、その踏ん張りどころなのだ。

来月の憲法委員会は、2月25日。杉原泰雄先生にお出まし願う。憲法学習会の工夫、とりわけ学習会の継続、学習会を護憲運動を担う力にする工夫について、モデル学習会の実演と意見交換をする。


2005年01月21日(金)
倒錯のブッシュ就任演説  

「世界各地で、憤りや圧政がくすぶっている限り、暴力は集結し破壊的な力に増幅する。強固に守られた国境を超え、致命的な脅威となる。憎しみと怒りの支配を打ち破り、圧制者のうぬぼれを暴き、優れて忍耐強い人々の希望に報いるのは、歴史のどんなときも人間の自由という力だけだ」

そのとおりだ。イラクでアメリカの先制攻撃で街を焼かれ、殺され、違法な占領に苦しめられている市民の言であれば‥。イスラエルの野蛮な攻撃に苛まれているパレスチナの人々の気持ちとしてなら‥。しかし、これは世界最大の暴力を現実に行使するアメリカに対する怒りの言葉ではない。当の暴力国家・アメリカ大統領の演説の一節なのだ。

ブッシュが2期目の就任演説。一面驚くべき無内容だが、ロジックは驚くべき独善だ。世界最大の軍事国家がかくも判断能力に欠けた指導者をもったことは全世界の不幸と言わねばならない。イラクをどうするということに一言も触れていない。内政でも、何も語っていないに等しい。おそるべき無内容。そして、自らの暴力行使になんの自省もない驚くべき独善ぶり。

国際社会の叡智は、かような独善を嫌ってきた。ブッシュのアメリカは世界の嫌われ者となった。国内の支持率も、せいぜいが50%。これで、戦争を遂行できるところが恐ろしい。

イラクの暫定国民議会選挙の投票日まであと10日。立候補者さえ明らかにされていない茶番の選挙だが、それすら形だけの実施も危ぶまれている。乱暴にパンドラの箱を開けることはブッシュにでもできる。精妙にこの蓋を閉めることは、愚かな指導者には到底不可能なのだ。


2005年01月22日(土)
これだけある「日の丸・君が代」処分事件  

本日は第6回「日の丸・君が代」処分事件弁護団連絡会議。午前10時半から午後4時半まで、密度の濃い報告と意見交換。このような会合が必要なこと、それが充実していることは、逆行した時代の反映であり、思わしくない現場の力関係の反映でもあって嘆かわしい。とはいうものの、不当な弾圧に抵抗運動あればこその訴訟事件の数々。精一杯の抵抗を精一杯ささえなくてはならない。

議論の中身を報告する余裕はない。各事件の内容だけをご紹介しよう。いずれも、学校現場での「日の丸・君が代」強制事件である。
☆北九州ココロ裁判
 国歌斉唱時の不起立(職務命令違反)を理由とする
 厳重注意〜減給3か月の処分取消と慰謝料請求
 96年11月 福岡地裁提訴 
 04年7月21日に西原博史教授証言で証拠調べ終了
 05年1月25日結審、今春判決の予定
☆ピアノ伴奏拒否事件(日野市立南平小学校)
 99年4月6日入学式における国歌斉唱時のピアノ伴奏を拒否したとして
 戒告処分 人事委員会審査→棄却裁決→東京地裁提訴→03・12・3棄却判決
   →東京高裁04年7月7日控訴棄却判決→最高裁上告中(三小係属)
 04年11月末上告理由書提出済み 鑑定意見書等提出済み
☆国立二小戒告事件
 00年3月24日卒業式におけるリボン着用+校長に対する「抗議」
 戒告(信用失墜行為・職務専念義務違反)
 審査請求→棄却裁決→東京地方裁判所へ提訴 一審係属中 立証計画段階
☆ピースリボン訴訟(国立二小)
 00年3月24日卒業式におけるリボン着用を理由とする
 文書訓告(職務専念義務違反) 04年2月提訴(国賠訴訟)
 現在東京地裁民事第35部係属
☆国立二小・強制異動事件
 校長への意見を言ったことを理由とする不当異動
 審査請求→棄却裁決→東京地裁提訴→04年12月28日却下・棄却判決
 05年1月11日控訴
☆東豊中高校事件
☆豊中養護学校事件
 いずれも、卒業式中における発言を理由とする処分。
 大阪府人事委員会で並行して口頭公開審理中。
☆北教組・倶知安中学事件
 01年3月卒業式における「国歌」演奏中断行為に対する戒告処分
 道人事委員会に審査請求、公開審理の証人調べ進行中
 学者証人5名の採用、他に学者証人2名の意見書
☆ハートブラウス事件(大泉養護学校)
 02年4月 入学式におけるハートブラウス着用を理由とする
 戒告(上着着用の職務命令違反)人事委棄却裁決→東京地裁提訴
☆東京・「日の丸・君が代」強制予防訴訟
 国歌斉唱義務・ピアノ伴奏義務不存在確認、処分の予防的不作為請求
 04年1月30日第1次提訴228名 現在原告360名。
 東京地方裁判所民事36部に係属。総括準備書面提出済み。立証計画中。
☆東京・処分取消(人事委員会審査請)事件
 国歌斉唱時不起立・ピアノ伴奏拒否による戒告・減給(1か月)
  03年度周年行事・卒業式、04年度入学式 13グループに分割審理
☆東京・「日の丸・君が代」解雇訴訟
 国歌斉唱時不起立を理由とする嘱託採用取消・嘱託雇い止め 
 手続き進行 04年6月17日 提訴 民事19部係属
☆東京・再発防止研修受講義務不存在確認請求訴訟
 04年7月本案提訴と執行停止
☆板橋高校卒業式刑事弾圧事件 04年12月3日起訴

盛りだくさん。これが、今春全国に拡大しないことを願う。それも、われわれの踏ん張り次第。


2005年01月23日(日)
NHKスペシャルの9条論議

昨日の「日の丸・君が代」弁護団連絡会議の席上でも、NHK番組改変問題がひとしきりの話題となった。普段は穏やかな方が、「腹に据えかねる。視聴料はもう払わない」「きちんと理由を言わねばならないと思ってNNHKに電話をかけたが、なかなか通じない。おそらく同じ思いの人が多かったのだろう」と手厳しい。「NHKはジャーナリズムのなんたるかについてまったく分かっていない。新聞社が事前に国会議員に記事を見せて説明しているようなものだ」「自民党議員がNHKのスポンサー気取りでいることがおかしい」と話は尽きない。北朝鮮にはいざ知らず、NHKには経済制裁がよく効く薬になるだろう。

そのNHKが、「Nスペ」で憲法9条をとりあげ、2日連続の大型企画を放映するという。監視の意気込みで、昨日・今日とも付き合ってしまった。細かい注文を言えばきりはないが、公平性ではまずは合格点と言ってよかろう。内部告発に踏み切った長井暁さんのような良心的な方が、まだまだNHKにもいるのだろう。いや、NHKだけではなくあらゆる現場で社会を支えて頑張っているのだと思う。

昨日の第1回が「私たちは9条とどう向きあうのか」。自衛隊の歴史を振り返り、「どうして自衛隊ができたか」「どうして自衛隊が大きくなったか」「どうして海外へ派遣されるようになったか」「どうして紛争地にまで出て行くようになったか」と、9条なし崩しの歴史を整理した。安保闘争を大きく取りあげ、大江健三郎さんに語らせてもいた。

本日の第2回が「徹底討論 どうする憲法9条」。ひいき目ではなく、護憲派の議論が優勢だった。改憲派は明らかに劣勢。NHK番組での議論がこんな具合では改憲は難しかろう。
自民党の与謝野馨という人はあまり嫌いな人柄ではない。この人、知性が邪魔して改憲論を押し通すというスタンスをとれない。言い訳がましく、「平和が大切。戦争放棄の9条1項は守る。しかし、戦力不保持の2項は分かりにくい。誰もが分かる条文に改正した方がよい‥」というトーン。「君死にたまふことなかれ」の反戦歌人の孫が改憲論者なのだ。これに対して、共産党の小池晃さんが、「9条1項だけでは歯止めにならない。2項が極めて重要で2項をなくせば戦争への歯止めがなくなる。これあればこそ、イラクでも自衛隊は戦闘行為に参加できない」「9条2項あればこそ日本は平和戦略にイニシャチブをとれる」。社民党の土井たか子さんも「9条2項は交戦権を否定している。極めて明確ではないか」「これからの世界の共通目標であり、日本の誇りではないか」と。

加藤周一さんがしゃべるのを初めて聴いた。「日本は戦後の平和戦略に失敗した。ドイツの対フランス・ポーランドとの関係に比較して、日本の対中国・朝鮮との関係を見よ。東北アジアの平和なくして日本の平和はない。9条を変えることで、東北アジア諸国と日本との関係はどうなるか。平和のためには9条堅持しかあり得ない」。アジアの視点からの9条擁護論には説得力がある。対して、拓大の森本氏。今さらに、「9条押しつけ論」を蒸し返しているのに驚いた。現在アメリカが改憲を押しつけている現実には触れない。それに抗して国民がこれまで憲法を護ってきたことにも。およそ説得力を欠く。

心配なのは民主党。出席の仙谷由人氏は私の同期の弁護士なのだが、何を言っているのかよく分からず、発言は冴えない。しかし、自民党と相通じるところが多々あるらしいところだけがよく分かって気にかかる。党内はこのような意見ばかりではあるまい。

多くの市民の建設的な意見に励まされる。護憲派に不穏な情勢だが、改憲派にもけっして容易な事態ではないのだ。


2005年01月24日(月)
執行部会報告  

日民協の執行部会。議題は盛りだくさん。

本日、「法民賞」の選考委員候補を決めた。2月4日の理事会で正式に決定される。法民賞は、年間の「法と民主主義」掲載の論文や紹介された運動から、最優秀の一編を選んでの表彰。総会で表彰し、受賞者には記念講演をしていただく。ささやかながら賞金も出る。その選考委員は、選考要綱に則って5名。公法学者・私法学者・弁護士・税理士、それに理事長という顔ぶれ。第1回の選考が楽しみである。

今週の金曜日が水島朝穂教授による新防衛計画大綱をめぐる学習会(1月28日午後6時プラザF・4階)。その次の学習会企画について、「ブッシュ政権2期目の基本政策」についての提案。講師として、霍見芳浩(ニューヨーク市立大学)教授の名が上がる。申し込んで見ようということに。

もうすぐ「法と民主主義」が400号を迎える。この記念号をどう編集するか。まだ、よい知恵は出て来ない。が、改憲策動の中で迎える400号である。護憲の意気高らかな特集とすべきではないか、との意見が有力。各院の憲法調査会最終報告書や各党改憲案の徹底批判という特集が有力。

改憲阻止に向けて、「法と民主主義」の特集を充実させよう。国民投票法の特集を。ホームページに憲法コーナーを作って、新たな改憲策動に直ちに反撃しよう。憲法問題の講師活動を充実させよう‥。などの提案がしきり。

財政問題の討議では、年末カンパの報告。カンパをしていただいた方の一覧表に何度も目を通す。あの人も、この事務所も‥。まことにありがたい。そして、期待に応えなければと思う。


2005年01月25日(火)
NHK番組改変事件の問題点  

NHK番組改変事件について、至るところで話題となっている。問題点は多岐にわたる。

まず、何よりも右派政治家の公共放送への圧力と介入の存在である。安倍晋三らが認めている事実だけで事態は重大である。否定している部分については、透明性が確保された舞台で徹底した究明が必要である。まず国会の論戦、そして法廷での尋問に期待したい。

次いで、NHKが右からの圧力に極めて弱い体質をさらけ出したこと。大本営発表の時代と基本的には変わっていない。これが有事の際には、政府のスピーカーとなる。

さらに、政権与党とNHKとの癒着が日常化していたことが明らかにされた。このようにして、国民に対するマインドコントロールが進行しているのだ。

別の角度からの問題もある。
事態が明るみに出たのは、番組改変の現場にいたプロデューサーの勇気ある内部告発のおかげである。NHKの体質や右派政治家の跳梁を国民に知らせてくれた内部告発者を、世論の力で守りきらねばならない。公益通報者保護法がザル法であることは明瞭である。この法に頼っていたのでは無力。世論の力が頼みの綱。市民社会の成熟度が試されている。

そして、コンプライアンスのあり方が問われている。形だけではなく、本当に機能するコンプライアンスのあり方が。内部告発受理に関与した弁護士も鋭くその職業倫理が問われている。なんの役にも立たなかったことを恥じなくてはならない。

改変対象となった番組は、「戦時性暴力」であった。慰安婦問題は皇軍の恥部である。右派の政治家にとっては、慰安婦も南京虐殺も架空の事件なのだ。歴史を改竄してはならない。被害者・加害者の証言を葬り去ることは許されることではない。

イラクでの人質事件を典型に、問題すり替えのバッシングを警戒しなければならない時代の憂鬱がある。問題を署名記事として報道した朝日の社会部記者に攻撃の虞がある。絶対にこれを許してはならない。週刊新潮の個人攻撃記事を一読して、そのおぞましさに気分が悪くなった。

内部告発者と、勇気あるジャーナリストを守ろう。メールが飛びかっている。今日は、電話もかかってきた。大弁護団を作ろう。アピールを出そう。集会を開けないか。NHKに不払い運動を起こそう。受信料支払い義務不存在確認訴訟の提訴はどうだ。などなど‥。とにかく集まろう、できることから手をつけようという提案もしきり。

本日、海老沢勝二会長が辞任。NHKは、受信料支払い拒否・保留件数が、年度末には45万件から50万件になるとの見通しを明らかにした。


2005年01月26日(水)
弁護士会の選挙が始まった  

弁護士会は選挙の季節である。私の所属する東京弁護士会でも、会長・副会長(6名)の執行部と議事機関である常議員(80名)の選挙が始まった。たくさんの選挙ハガキが舞い込む。1月24日(月)公示で、2月4日(金)が投票日。投票依頼の電話もしきりである。これで、旧交を温めることも。

弁護士会の場合、政党にあたる候補者擁立母体を派閥と呼称している。東京弁護士会では、親和・法友の二大派閥があり、これに挟まれて期成会がある。期成会は、派閥選挙の弊害除去の旗を掲げて、派閥克服のために立ちあがった新世代の派閥。私は、そこに所属している。

かつての弁護士会の選挙は、買収と供応がすさまじかったと聞く。今は、全くない‥と思う。少なくも、まったく見えない。政策よりは人間関係で選挙が行われているのが現実だが、汚い選挙ではない。

現在の弁護士会の選挙公報を見る限り、弁護士会は健全である。人権の擁護、市民のための司法、平和憲法擁護、弁護士自治の堅持を‥、とスローガンが並ぶ。「弁護士が儲かる制度を作ろう」「余計なことはせず会費を下げよう」などという候補者は当選できないのだ。

ただ、現実はシビアである。司法改革をどう評価するか。とりわけ、司法支援センターの設立と運営にどのようなスタンスを取るべきか。意見は割れている。かつての、保守対革新の構図とは様変わりである。

司法改革の評価や対応では、大きな溝がある。一方は、他方を権力の補完勢力に惰していると批判する。他方は、その批判者を、傍観者で無責任と反論する。「無原則的妥協派」と「原理主義的硬直派」というレッテルの貼り合いは、いま至るところで聞かれる運動内部の争い。司法の分野でも、これを解きほぐすのは困難だ。しばらくは、こんがらかったままの渦中にあって右往左往するしかない。


2005年01月27日(木)
イラクの選挙まであと3日  

ブッシュは、日本時間で本日未明に2期目就任後初の記者会見を開いた。席上、「多くのイラク国民が暫定国民議会選挙に参加を望んでいる」と述べて予定通りの選挙実施に自信を示した、と報じられている。「大統領は、イラクで武装勢力が選挙妨害を狙ってテロなどを繰り返していることについて『テロリストに前向きの目的はない』と非難。暗殺などの脅迫にかかわらず、多くの国民が投票に向かうとの楽観的な見通しを示した」(朝日)。

もちろん、ブッシュの言を真に受けるバカはいない。どうせあとから、「愚かな部下の情報をそのまま伝えただけだもん。オレに分かるわけないだろう」と開き直るのがオチ。では、実状どうなのか。現地の状況について信頼できる報道があまりにも少ない。

選挙状況を示唆する情報二つ。
「イラク移行国民議会の選挙で、在外イラク人有権者の登録作業を実施した国際移住機構(IOM、本部ジュネーブ)は26日、14カ国で計28万303人が登録したと発表した。当初は100万〜120万人の在外有権者を見込んでいたが、予想の約4分の1にとどまった」「近隣諸国では、シリアやヨルダンが予想の約10分の1にとどまった一方、イランでの登録者数は予想の約4分の3に達した」(毎日)。安全な場所での投票にも、イラク国民の熱は高くない。在イラン者の登録率が高いのは、選挙に勝ちそうなシーア派だけが熱心という表れか。

たびたび引用する「バグダッド・バーニング」(1月22日)
「きょうびは何でもありなのだ。多くの地域では人々は、もし選挙に行かなかったら、スンニであれシーアであれ、毎月の配給食料の量を減らすと脅かされている。イラク国民は、90年代の初めからずっとこうして配給を受け続けてきていて、多くの家庭にとっては、主要な生存の糧なのだ。いったい、選びたい人もいないのに強制的に投票させる民主主義って、何?」「アラウィとその一派は、数日前、パンフレットを配った。‥占領下イラクに安全と繁栄を最優先で約束しますという、『アラウィに1票を』のたぐいのパンフレット‥。まったくの役立たずだわと思ったが、そうでもなかった。‥インコのかごの下敷きにちょうどぴったり」
http://www.geocities.jp/riverbendblog/

安全な場所にいる人には関心の低い選挙。危険な場所にいる人には、投票が強制されている選挙。要するに、米軍の開戦と占領を合理化するための、白けた選挙なのだ。それでも、イラク再生への第一歩と評価できるだろうか。


2005年01月28日(金)
軍事的合理性ではなく、平和的合理性を  

午前
先物取引被害事件(地裁民事35部)と、医療過誤事件(高裁第23民事部)の間を縫って、NHK番組改変問題で何かできないかと考えている弁護士の集まりに出席。ここで、「報道・表現の危機を考える弁護士の会」が発足。弁護士アピールを出して記者会見(2月4日)し、集会を開く(2月21日)こととした。集会は、この問題の本質を考え、長井暁さんと朝日の記者を励ます内容とする。問題意識はほぼ共通。若い弁護士が頑張っている。イラク人質事件のときに似た雰囲気となっている。集会の後、具体的にどのような運動を起こすかは未定。アイデアとしては、NHKに対する受信料支払い義務不存在確認訴訟、あるいは既払い受信料返還訴訟を呼びかけてはどうか。弁護士会への人権救済申し立てはどうか。各弁護士会に声明を出させる運動ができないか‥。

午後
板橋高校卒業式不当起訴事件の公判前整理手続き。今次の司法改革で、一部の重罪事件について裁判員制度が導入されることを口実に、全事件についての刑事訴訟手続きが改変された。審理は迅速にやれ、そのために公判前の整理手続きを充実せよ。公判前に、弁護側も立証計画を出せ。後出しの証拠は原則として認めない。これが失権効という恐ろしいもの。しかし、考えていただきたい。警視庁・板橋署が総力をあげて10か月も捜査して有罪の証拠を収集したというのだ。これを、徒手空拳の弁護士が吟味し、さらに弾劾する証拠を集めることがどれだけの苦労かを。
幸い、裁判長は強権的な印象の人ではなかった。しかし、「公判は毎週ということではいかがですか」「では、月2回のペースでは‥」。裁判の迅速は、一面の価値である。しかし、迅速の故に被告人の防御権や弁護権がおろそかにされるようなことは、断じてあってはならない。
その後司独の会合。

夕方
水島朝穂教授の学習会。「新防衛計画大綱と自衛隊」というテーマ。「体調を崩していますので、普段の元気がない‥」とおっしゃりながらの、2時間半にも及ぶ熱弁に圧倒された。
語られたのは、新防衛計画の哲学、そして時代への危機意識。「今年は、戦後としては還暦の年だが、『戦前』からは古稀となる。70年前の1935年が重要な年で、今はたいへんよく似ている。もしかしたら、今はそのときよりもっと悪いかも知れない。突出した軍事を批判し縮軍と立憲主義を説いた斎藤隆夫が、今議会にいるだろうか。むしろ、政治家が軍事をあおっている」

「憲法9条は、軍事的合理性を否定し、平和的合理性に立脚するもの」「これまでの専守防衛路線は、自衛隊を有するとしても必ずしも軍事的合理性に徹したものではない。76年三木内閣時代に策定された当時の防衛計画大綱は『基盤的防衛力構想』を採用した。これは、北方からソ連が2〜3個師団の規模で侵略した場合を想定した防衛力を構想するものでそれ以上の防衛力は持たないとの歯止めを内包していた。これに対抗するものが『所要防衛力構想』で、相手の武装次第で際限なく武力を増強しなければならないとする」「今次の『新防衛計画大綱』は、『多機能弾力的防衛力』を謳っているが、これは『所要防衛力構想』への歴史的逆行であり、専守防衛からの最終的離脱である」「しかも、軍事的合理性すら危うい。軍の専横を押さえるものは民主主義的な政治であり、立憲主義である。二つながらそれが危うい」

「今や、戦争のために軍があるのではない。軍と軍需産業のために戦争がある。戦争には敵が必要だ。テロという正体不明のものを敵とする戦争こそ、軍と軍需産業にこのうえない存在。それがアメリカの姿であり、日本が寄り添っているものの正体だ」

このような「哲学」で、新防衛計画大綱・中期防を読み直してみよう。そして、安保防衛懇報告も日本経団連の提言も。そして、これを克服する道筋を考えなければならない。
講演後、水島教授や親しい仲間と遅い夕食をご一緒して帰宅。20日の月が中天にさしかかるころだった。


2005年01月29日(土)
わが歌ごゑの高ければ  

サムライという絶滅危惧種がある。市井に棲むが、その希少性のゆえに滅多に現認されることはない。己の信念を枉げず、けっして右顧左眄しない。発言は明晰、行動に臆するところがなく、出処進退が明確である。周囲に微光と香気を放つ。

本日幸運にも、弁護団会議の席上、そのサムライに邂逅した。元、都立高の校長。戦前に府立中学で教育を受け、戦後都立高で教員・校長を務めた人。校長職を辞して、既に相当の歳月を経ている。サムライの亜種、古武士の風格。

「校長の務めは、教員に心おきなく存分の仕事をしてもらうこと。普段は寝ていてもよい。いざというとき、教師を守って責任を取るのが校長というもの」「つまらんことに汲々として、メッセンジャーボーイの役目を果たすのが校長ではない」「私は、校長に不退転の決意さえあれば、今日のような不幸な事態にはなっていなかったと思う」「自分の意見は変わることはない。どこに出ても、誰に対しても同じことを申し上げる」

そのかみ、府立中に入学した際に、時の校長から「本日から諸君を紳士として遇する」と言われたそうだ。「教育の成果は50年後。私は中学一年当時の教師も、時間割も思い起こすことができる」「教育とは、どこの学校に何人進学させたかで計られるものではない」「学力の詰め込みはスケールの小さな人間を作るだけだ」「あの学校で、あの先生から、このことを教えられた、と熱く語れるものが一つでもあればよい」とおっしゃる。教師になるように運命づけられた方なのだ。

「私が都立高校の教師だったときには、与謝野鉄幹の『人を恋うる歌』が書ければ30点。三高寮歌『逍遙の歌』が書ければ30点をやった。だから、試験の時には生徒が皆この歌を口ずさんでいた」 これは、絶滅種の生態。

「『人を恋うる歌』は16番まであるが、その11番が好きだった。で、生徒には1番から3番と11番とを答案用紙に書かせた」
サムライに愛された、幸運の11番の歌詞は次のとおり。

わが歌ごゑの高ければ
酒に狂ふと 人の云へ
われに過ぎたる希望(のぞみ)をば
君ならで はた誰か知る

サムライは机を叩いて音頭を取り、この一節を高唱された。その歌詞よくは耳に聞き取れなかったが、感動胸に残り、私は今日一日幸せだった。


2005年01月30日(日)
小泉靖国参拝訴訟那覇地裁判決    

28日那覇地裁で小泉靖国参拝違憲・沖縄訴訟の判決が言い渡された。訴訟指揮の経過から期待された判決だったが、残念なことに請求棄却となった。

例によって産経が、昨日(29日)の社説(産経は「主張」という)で極めて不正確な解説をしている。開き直って右翼的見解を述べるのは、我が憲法が多元的価値観を認めるものである以上咎め立てする筋合いはない。しかし、仮にも「社説」。解説は正確にしてもらいたい。

産経社説は、「那覇地裁は政教分離規定を緩やかに解釈し、『首相の靖国参拝によって、原告らが不利益な取り扱いを受けたわけではないから、信教の自由は侵されていない』とした。厳格分離主義を否定した昭和五十二年の津地鎮祭訴訟最高裁判決を踏襲した妥当な判断である」という。

この文章で、産経はいくつもの誤りを犯している。
まず、「那覇地裁は政教分離規定を緩やかに解釈し(た)」というのが間違い。間違いというよりは、デマに近い。判決は政教分離規定を厳格にも緩やかにも解釈してはいない。判断を避けたのだ。原告や弁護団そして心あるマスコミが批判したのは、裁判所がこの点の判断を敢えて避けて、いわば逃げた姿勢に対してなのだ。それを、『緩やかに解釈した』とは恐れ入る。産経の購読者は、自分で考えることをせず、この社説のとおりに思いこむのだろう。思えば産経も罪が深い。

「政教分離規定を厳格に解するか、緩やかに解するか」という問題と、「原告らの信教の自由が侵されているか否か」の問題とは、次元を異にする。産経は、ことさらに両者を混同して、「原告らの信教の自由が侵されていないという結論だったのだから、裁判所は政教分離規定を緩やかに解釈したことになる」と珍説を披露したのだ。法解釈の素養に欠けることから来る間違いでなければ、デマゴギーにほかならない。

那覇地裁判決の論旨を確認しておこう。
国家賠償請求には、原告の個人的な権利ないし法的保護に値する利益の侵害が必要である。それがあると言えるか‥。
政教分離規定は信教の自由を直接保障するものではなく、参拝は信教の自由を侵害するとは言えない。だから、小泉靖国参拝が政教分離であったとしても、それだけでは原告の権利侵害があったと言えない。
原告らが主張する宗教的人格権も、平和的生存権も、抽象概念であって法が具体的に保護する権利、利益とは認められない。その他、原告らの法的保護に値する利益の侵害があったとは言えない。
だから、原告に国家賠償の請求権は認められない。
これだけである。

乗り越えられなかった論点が明らかである。問題は、公式参拝が政教分離に違反していないというのではなく、「国家賠償請求という形では憲法判断に踏み込む裁判にはなりません」と、憲法判断の土俵に上がることなく逃げられたのである。「唯一地上戦に巻き込まれた沖縄の地の、戦争犠牲者遺族の起こした訴訟でなお法的保護に値する利益の侵害があったと言えないのか」というのが、原告の怒りなのである。しかし、被告は「不戦勝」さえしていない。そもそも、憲法判断の取り組みが成立しなかったのだから。

1977年の津地鎮祭訴訟最高裁判決、1994年の愛媛玉串料訴訟最高裁判決、ともに国家賠償請求訴訟ではない。住民訴訟であって、訴訟要件充足になんの困難もなく、憲法判断を避けられない訴訟形式であった。国家賠償請求では、憲法判断に到達するまでが困難なのである。しかし、そのことはいささかも公式参拝の合憲性を物語るものではない。

産経の間違いの続き。
「もともと宗教的人格権などは靖国訴訟の原告側が言い出したもの」ではない。判例では、山口護国神社合祀拒否訴訟が宗教的人格権をクローズアップさせた。

「福岡地裁だけが首相の靖国参拝を違憲とする判断を示したが、それは主文(原告の損害賠償請求棄却)と無関係な傍論の中での判断であり、何の拘束力もない」。産経社説子の「無拘束力説」は誰かからの借り物であろう。何を意味しているか、厳密には自分でも良く分かっていない。地裁判決の理由に他の裁判所に対する「拘束力」などそもそもないのだ。しかし、現実の訴訟事件における裁判所の判断の前例としての価値は消しようがない。もとより各裁判所は独立している。他の裁判所の判断を「拘束する力」はもたない。しかし、前例としては永久に残るものであって、別の裁判所がこれを尊重すべきか否かはその内容の説得力如何にかかっている。

「ほとんどの裁判官は、五十二年の最高裁判決に即した判断を行っている」。これもウソ。1977年津地鎮祭最高裁判決は初めて目的効果基準に拠って政教分離規定の適用について判断し、津市の体育館起工の地鎮祭式を合憲とした(但し、全員一致ではなく、10対5)。今回の一連の小泉靖国参拝訴訟では、福岡地裁を除く諸判決はみな政教分離の判断を回避している。目的効果基準を使っての合違憲判断などしていない。

「中曽根康弘元首相の靖国参拝が問われた一連の靖国訴訟についても、同じことがいえる。福岡高裁や大阪高裁などがねじれ判決を出し、傍論で違憲論を展開したが、主文では原告の請求を棄却している。だが、多くの教科書では、これら一部の違憲論がことさら大きく扱われ、首相の靖国参拝が問題であるかのような記述になっている。教科書には、司法判断の正しい流れを書くべきだ」
社説子の無念の情が滲み出ている。が、言っていることが論理的におかしい。一連の訴訟において、公式参拝を合憲と判断をした判決は一つもない。傍論であれ、裁判所は強く違憲を示唆している。私が関与した岩手靖国違憲訴訟控訴審判決では、明快に天皇・首相の靖国公式参拝を違憲と断じている。これは「傍論」ではない。憲法判断を逃げた判決は措くとして、憲法判断に踏み込んだ判決、その近くまで到達した判決は、例外なく公式参拝違憲を示唆している。これこそ司法判断の流れについての正確な理解である。「首相の靖国参拝が問題である」のは当然なのだ。教科書には、正確にそう書くべきである。 


2005年01月31日(月)
イラクの選挙強行は成功したか    

イラク暫定国民議会選挙の投票が終わった。開票は数日後とされているが、結果は目に見えている。米英軍の攻撃による破壊から、イラクが復興をなし遂げ、この地に平和と安定が戻って来ることが誰しもの願いである。果たして、そのようなプロセスの第一歩としての選挙であっただろうか。

選挙は何よりも米軍の占領を合理化する目的で行われた。傀儡政権に正当性を与え、その政府の依頼によって占領を継続するというシナリオである。そのことと、イラクの平和・安定とは両立しない。

30万人の警備態勢で、少なくとも37人の死者を出した選挙。「投票はイスラム教徒の義務」というファトワ(宗教見解)によって高投票率を確保したシーア派と、これまで抑圧されていたクルド人には、政治的イニシャチブ挽回のチャンスであったろう。しかし、それだけでは国民的な亀裂を深めるだけではないか。この時期の無理な選挙の強行は長い目で見て成功とは思えない。

先日の水島教授学習会で、ドイツ誌シュピーゲルの記事が紹介された。アメリカによるイラク軍事占領の意図の解説記事である。「これまで中東に満足な軍事基地をもてなかったアメリカは、今イラクに大規模な恒久基地を3カ所建造中。アラウイ傀儡政権を選挙で勝たせて、これと地位協定を結ぶ。そして中東全域の押さえとしての恒久基地を確保する」「イラクに先制攻撃をしたアメリカは、新たに6カ国を明示して次の戦争を想定している」「その中でもっともあり得る『次の標的』はイランであろう」「イスラエル空軍F16の全機が増槽(飛行距離を伸ばすための外部燃料タンク)を付設できるよう改良を終えた。イラク基地に陣取る米軍とともに、イランの原発を攻撃できる態勢つくりである」

今回の選挙によるアラウイ傀儡政権の正当性作りは、このようなシナリオの一部である可能性を払拭できない。それは中東全体の平和と安全に逆行するものとなりうる。まずは混乱の元凶であるアメリカが手を引くこと。そこからすべてが始まらなければならない。


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