No.5の記事

ハンセン病を知ろう。

日時:10月8日(土) 
場所:ピースボートセンター東京
司会:鈴木敦士さん(ハンセン病ソロクト更生園・台湾楽生院補償請求弁護団弁護士)
証言者:森元美代治さん(ハンセン病回復者)

【日本国内における患者への対応】
●ハンセン病は、らい菌という細菌から感染する感染症。らい菌の感染力・発病力はとても弱く、新発患者は先進国では殆どみられない。最近日本で発見される新発患者は、東南アジアなどから出稼ぎのために来た人達が多い。自国で感染し、その後日本に来て発病していると思われる。
●日本では、患者の救済というよりも、欧米の先進国では殆ど見られなくなったハンセン病患者が、日本にまだ存在していることを「恥」だとし、隔離を始めた。「ハンセン病は治らない」という固定観念から、『病気を根絶するために、病人を根絶する』という終生隔離という政策を日本はとった。1930年ころから、自宅で療養しているような人まで含めてすべての患者を隔離するという「絶対隔離」を行った。にもかかわらず、十分な療養施設を作らなかったために、過剰収容となり、医療や衣食住が提供できなくなっていき、患者として収容されたのにも関わらず、患者の介護を患者同士にさせるなど療養所の運営に必要な作業一切を患者の労働によりまかなう体制となった。
●『病気を根絶するために、病人を根絶する』という政策のため、患者には子孫を作らせなかった。男性は断種、女性は中絶。
●何よりも、終生隔離されるということは、将来の夢がもてない。単に住所の制限、職業の制限ということを超えて、人生のさまざまな可能性を奪い、将来に対する発展性を奪うものだった。
*通常は特定の病気の人を世の中から排除するというのは、差別として許されないと思うが、法律でハンセン病の隔離を定めたということは、「ハンセン病患者を探して、療養所に入れることは良いことだ」と差別にお墨付きを与えたに等しい。隔離政策がハンセン病に対する差別を社会に蔓延させたといえ、他の差別問題とは違った面がある。

【韓国・台湾での状況】
 韓国、台湾は、日本の植民地だったため、同じような政策がとられた。本来なら治療を受ける対象である患者を、労働力としてとして強制的に働かせ、また生活風俗も日本式を押しつけた。

●植民地政策時
・韓国:患者同士で介護をさせるなど療養所の運営を患者作業に頼り、療養所で必要な物資の生産をさせただけでなく、レンガ作りのように、他に売却して収益を上げるなどの経済活動もさせた。
・台湾:当時療養所にいて生きている方に台湾ではあまり出会えていないので、被害の全体像がつかめているのかどうかわからない。療養所内での患者労働などもあった。朝鮮半島よりも早く日本の植民地になり、早く日本の支配体制が確立したためとおもわれるが、感染者が多い地区の一斉検診や全島縦断する形での大規模な強制収容が何度も行われ、共生収容が徹底的に行われたという印象がある。
■韓国のソロクト・台湾の楽生院の裁判■
 2001年熊本地裁において日本の原告が国に勝利をし、国は患者に謝罪をした。そして、原告以外の被害者にも補償金を支給するための法律(ハンセン病補償法)をつくり、国は隔離の期間によってランクづけられた補償金を支払うことにした。このことを受けて、韓国や台湾の被害者も申請したが、厚生労働省は、ソロクトや楽生院が、補償法の定める国立ハンセン病療養所にあたらないという理由で棄却した。
●今後の裁判:10月25日 判決
      
■森元さんの証言
・森元さんは、奄美大島出身。
幼い時、村には100軒ほどの家があり、そのうち約10軒しかお風呂がなく、殆どの子どもは、靴を履いてはいなかった。森元さんも多くの子ども同様に、裸足で過ごし、小学校5年生の時に足に違和感を感じはじめた。しかし、ハンセン病だとは中学3年生の時までわからなかった。原因として、ハンセン病は療養所の中でしか医療が受けられないため、施設以外の医者では判別をするのが難しかった。そして、施設以外では治療法がわからず、苦労して、島の祈祷師にまで頼ったこともあった。
ハンセン病は、「外にいると治療方法が分からなくて困り、施設に入ると外に出れなくなるため困る」という問題があった。

【施設の中の教育】
 すでに、プロミンという薬が米国から入ってきていて非常に効果があるとわかっていた。実際症状が改善した人が増えたため、強制収容に反対する運動が盛り上がったが、日本政府は1953年に強制収容を続けることを盛り込んだ「らい予防法」を制定した。
 強制収容に反対する患者運動は、法律の制定を許してしまったが、施設の中に高校を作ることと、ハンセン病を研究する研究所を設置することを勝ち取った。このころは、正式な学校が療養所になく、患者の中にいた学のあるものが先生となって、小学校・中学校の勉強を教えていた。その後徐々に療養所の中に、小学校・中学校が整備されていった。
 長島愛生園に作られた高校は、施設外から十数名の教師が通ってきていた。森元さんが通っていた当時は、教師は徹底的な消毒と白衣や帽子の着用が義務づけられていた。ひどい先生は、患者の生徒が使用するものには一切手を付けず、チョークはピンセットで持ち、黒板消しは生徒に使わせる教師もいた。
 高校を出てから療養所にもどってしばらく生活していたが、そのことはまだ療養所内の運営を患者の労働に頼っており、森元さんは高校に行ってきたのだからということで、療養所内の学校の先生を頼まれて、英語の先生をしていた。

【海外からの日本のハンセン病政策の評価】
 プロミンが使用されるようになった以降も、日本では「らい予防法」のもと公然と患者の強制隔離を行っていたことに非難があがった。1960年代には、韓国や台湾でも強制隔離を定めた法律は廃止されていった。そのため、ローマで行われた国際らい会議では、日本は非難された。療養所内には、症状は治まっている患者も多数いて、社会復帰の機運が高まっていた。しかし、療養所当局は正面から社会復帰を認めようとしなかった。菌が体からなくなった後、2〜3年経過すれば、軽快退所できるという基準が作られたものの運用はまちまちだった。