最近の日記

ハンセン病を知ろう。Q&A

■質疑応答■
Q:講演の時に自分の名前を公表した、このときに困ったことは?
A:弟の家族には病気を知らせていなかったので、迷惑がかからないかと心配だった。数年は気付かなかったが、知れてからは親戚一同から無視をされた。予防法廃止直後に、親戚からの反応を意識しながらも本を出版。また、同年にテレビ番組「徹子の部屋」に出演したことで、兄弟から「親戚中の恥だ、青酸カリを飲んで死んでくれ」とまで言われた。

Q:今まで戦ってこられて、ご自分を支えてきたものは何ですか?
A:肉体的には惨めなため、率先して運動をする人がなかなかいなかった。しかし、予防法廃止運動で、誰かが立たねばならない!と思って頑張れた。4年前には参議院選挙にも出馬、兄からまた以前のように非難された。しかし、自分を追い込んだことで、元気になった。これまでの大きな壁を乗り越えるうちに、以下のような気持ちが強くなってきた。
1、ハンセン病の事実を多くの人に知らせたい。
2、家族との関係を修復したい。
→家族は被害者でもあるが患者にとって「最大の加害者」になってしまうことがある。政府も医学界も宗教界も間違っていることを、自分の家族を含めて患者の家族に知って欲しい。
3、学生時代の友人達との友情を復活させたい。
 →学生時代の友情がとても助けになった。嘘をついて東京を去ったが最終的に受け入れてくれた。

 最後に、森元さんからのメッセージ:
世界には、1年間に45万人のハンセン病が見つかっている。特にインドでは多い。世界にハンセン病の現実をもっと多くの人に知ってもらいたい。その気持ちをNGO設立という形で実現させています。IDEA(アイディア)ジャパン:http://www.idea-jp.org/ 

ハンセン病を知ろう。

日時:10月8日(土) 
場所:ピースボートセンター東京
司会:鈴木敦士さん(ハンセン病ソロクト更生園・台湾楽生院補償請求弁護団弁護士)
証言者:森元美代治さん(ハンセン病回復者)

【日本国内における患者への対応】
●ハンセン病は、らい菌という細菌から感染する感染症。らい菌の感染力・発病力はとても弱く、新発患者は先進国では殆どみられない。最近日本で発見される新発患者は、東南アジアなどから出稼ぎのために来た人達が多い。自国で感染し、その後日本に来て発病していると思われる。
●日本では、患者の救済というよりも、欧米の先進国では殆ど見られなくなったハンセン病患者が、日本にまだ存在していることを「恥」だとし、隔離を始めた。「ハンセン病は治らない」という固定観念から、『病気を根絶するために、病人を根絶する』という終生隔離という政策を日本はとった。1930年ころから、自宅で療養しているような人まで含めてすべての患者を隔離するという「絶対隔離」を行った。にもかかわらず、十分な療養施設を作らなかったために、過剰収容となり、医療や衣食住が提供できなくなっていき、患者として収容されたのにも関わらず、患者の介護を患者同士にさせるなど療養所の運営に必要な作業一切を患者の労働によりまかなう体制となった。
●『病気を根絶するために、病人を根絶する』という政策のため、患者には子孫を作らせなかった。男性は断種、女性は中絶。
●何よりも、終生隔離されるということは、将来の夢がもてない。単に住所の制限、職業の制限ということを超えて、人生のさまざまな可能性を奪い、将来に対する発展性を奪うものだった。
*通常は特定の病気の人を世の中から排除するというのは、差別として許されないと思うが、法律でハンセン病の隔離を定めたということは、「ハンセン病患者を探して、療養所に入れることは良いことだ」と差別にお墨付きを与えたに等しい。隔離政策がハンセン病に対する差別を社会に蔓延させたといえ、他の差別問題とは違った面がある。

【韓国・台湾での状況】
 韓国、台湾は、日本の植民地だったため、同じような政策がとられた。本来なら治療を受ける対象である患者を、労働力としてとして強制的に働かせ、また生活風俗も日本式を押しつけた。

●植民地政策時
・韓国:患者同士で介護をさせるなど療養所の運営を患者作業に頼り、療養所で必要な物資の生産をさせただけでなく、レンガ作りのように、他に売却して収益を上げるなどの経済活動もさせた。
・台湾:当時療養所にいて生きている方に台湾ではあまり出会えていないので、被害の全体像がつかめているのかどうかわからない。療養所内での患者労働などもあった。朝鮮半島よりも早く日本の植民地になり、早く日本の支配体制が確立したためとおもわれるが、感染者が多い地区の一斉検診や全島縦断する形での大規模な強制収容が何度も行われ、共生収容が徹底的に行われたという印象がある。
■韓国のソロクト・台湾の楽生院の裁判■
 2001年熊本地裁において日本の原告が国に勝利をし、国は患者に謝罪をした。そして、原告以外の被害者にも補償金を支給するための法律(ハンセン病補償法)をつくり、国は隔離の期間によってランクづけられた補償金を支払うことにした。このことを受けて、韓国や台湾の被害者も申請したが、厚生労働省は、ソロクトや楽生院が、補償法の定める国立ハンセン病療養所にあたらないという理由で棄却した。
●今後の裁判:10月25日 判決
      
■森元さんの証言
・森元さんは、奄美大島出身。
幼い時、村には100軒ほどの家があり、そのうち約10軒しかお風呂がなく、殆どの子どもは、靴を履いてはいなかった。森元さんも多くの子ども同様に、裸足で過ごし、小学校5年生の時に足に違和感を感じはじめた。しかし、ハンセン病だとは中学3年生の時までわからなかった。原因として、ハンセン病は療養所の中でしか医療が受けられないため、施設以外の医者では判別をするのが難しかった。そして、施設以外では治療法がわからず、苦労して、島の祈祷師にまで頼ったこともあった。
ハンセン病は、「外にいると治療方法が分からなくて困り、施設に入ると外に出れなくなるため困る」という問題があった。

【施設の中の教育】
 すでに、プロミンという薬が米国から入ってきていて非常に効果があるとわかっていた。実際症状が改善した人が増えたため、強制収容に反対する運動が盛り上がったが、日本政府は1953年に強制収容を続けることを盛り込んだ「らい予防法」を制定した。
 強制収容に反対する患者運動は、法律の制定を許してしまったが、施設の中に高校を作ることと、ハンセン病を研究する研究所を設置することを勝ち取った。このころは、正式な学校が療養所になく、患者の中にいた学のあるものが先生となって、小学校・中学校の勉強を教えていた。その後徐々に療養所の中に、小学校・中学校が整備されていった。
 長島愛生園に作られた高校は、施設外から十数名の教師が通ってきていた。森元さんが通っていた当時は、教師は徹底的な消毒と白衣や帽子の着用が義務づけられていた。ひどい先生は、患者の生徒が使用するものには一切手を付けず、チョークはピンセットで持ち、黒板消しは生徒に使わせる教師もいた。
 高校を出てから療養所にもどってしばらく生活していたが、そのことはまだ療養所内の運営を患者の労働に頼っており、森元さんは高校に行ってきたのだからということで、療養所内の学校の先生を頼まれて、英語の先生をしていた。

【海外からの日本のハンセン病政策の評価】
 プロミンが使用されるようになった以降も、日本では「らい予防法」のもと公然と患者の強制隔離を行っていたことに非難があがった。1960年代には、韓国や台湾でも強制隔離を定めた法律は廃止されていった。そのため、ローマで行われた国際らい会議では、日本は非難された。療養所内には、症状は治まっている患者も多数いて、社会復帰の機運が高まっていた。しかし、療養所当局は正面から社会復帰を認めようとしなかった。菌が体からなくなった後、2〜3年経過すれば、軽快退所できるという基準が作られたものの運用はまちまちだった。

原爆症の話を聞こう。

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日時:9月23日(祝・金) 16時〜18時  場所:ピースボートセンター東京
連続学習会 第3弾 原爆症認定裁判について
司会  松村真澄さん(ピースボート)
ゲスト 田部知江子さん(弁護士)/大森克剛さん(原爆症認定訴訟東京原告団副団長)

---ビデオ「あれから60年 癒えない傷痕」---
(東京の映像専門学校の学生が卒業作品として制作したドキュメンタリービデオ:約60分)

<第一部:ビデオの内容>
被爆とは?被爆手帳とは?
広島・長崎の一定地域に原爆投下時にいた人で、被爆手帳がとれるのは以下の人たち:
@ 広島・長崎市内および周辺地域で被爆した人(直接被爆者)
A 2週間以内に爆心地から2キロ以内のところに入った人(入市者)
B 市内および周辺地域で救援などに当たった人
C @〜Bに該当する人の体内にいた胎児
しかし、2人の証人が必要など要件は厳しく、いまとなっては証人が見つけられず手帳を取れない人が少なくない。しかも、28万人の被爆手帳を持つ被爆者のうち、1パーセントの人しか原爆症認定されていない。それは硬直した認定制度に原因がある。
被爆した地点が爆心地から2キロを越えている人、あるいは72時間後以降に2キロ以内のところに入った人などを切り捨てている。
被爆態様としては:
初期放射線、
残留放射線、
放射性降下物
内部被爆
によるものなどが考えられる。しかし、国の基準は、初期放射線による被爆しか原爆症と認めていないことから、被爆の実情を見てないという問題がある。
現在でも原爆の影響で亡くなる人がいるが、国は原爆症とは認めていない。放射線起因の障害であることの立証を被爆者に負わせているからである。医学的に原因が解明できていないものがなお多いことから、原爆投下に至るまで戦争を遂行した政府の責任を考えれば、立証責任を転換して国が関係ないことを立証すべきである。

集団訴訟って?
認定申請から1年も待たされるうえ、小西訴訟、松谷訴訟 など認定訴訟で国は負けているのに、認定基準はむしろ厳しくなっているという矛盾がある。平均年齢で70歳を越えた被爆者は長く待つことができない。さらに、被爆の実情を見ない厚生労働省に対する怒りもあり、集団訴訟を起こすことになった。

被爆者と支援者の想い:
被爆者には、家族が瓦礫に敷かれているところを自分だけ逃げてきてしまったというような、「生き残ってしまった」という思いを強くもっていて、このような気持ちを他の人には味あわせたくないと考えている人が多い。被爆者の大変な経験をいろいろな形で訴えてきたことが、核戦争を防いできた。この訴訟も、放射能の影響を明らかにすること、核兵器の被害を明らかにすることで、核兵器をなくすことにつながると考えている。被爆者のお友達をもってほしい。人生の話を聞いて伝える側になってほしい。

ビデオの中の証言から
○ 竹内さんの証言 
原爆投下の際に見た光景を絵と文章にしている。軍曹として広島原爆投下地区に直後に入り救援活動をしていた。患者を収容して驚いたのは、手をみんな前にぶらさげていて服もぼろぼろで、よれよれになって歩いていることだった。ブロック塀に敷かれて動けなくなっていた女性がいたが、一人で行動しているときだったので助けられなかったことをいまでも悔やんでいる。
前立腺ガンを煩っているが、それは市内で救援作業を行っているのが原因だと考えて原爆症申請したが却下された。そもそも原爆投下に至ったのは、戦争終結を遅らせた国の責任である。一人で闘ってもだめなので、集団訴訟をすることにした。

○ 齊籐さんの証言 
電車が通じるようになってから、家の焼け跡を子供と見に行った。焼けこげた肉片が積み上がっていて蠅がたかっていた。焼け跡の家で壺に埋めておいたコメが無事だったのでそれを食べたのだが、そのことや子どもを一緒に連れていったりしたことをいまでは後悔している。現在、大腸ガンで苦しんでいる。家族のことを考えると躊躇したが、いま立ち上がらないと被爆者も高齢だし、これが最後の機会だと思い訴訟に参加した。原爆の悲惨さを知ってもらうために、語り部をしている。

○ 福地さんの証言 
警戒警報が鳴ったが、その後に解除され、空襲警報も出ていない状況のなかで、ものすごい光をみた。その後、必至で家族と逃げた。赤十字病院につくところまで、誰も人を見なかった。市役所の地下室からそこで働いていた女学生が出てきた。外見は何ともないが口から血を吐いていた。家族と共にその女学生も抱えて一緒に逃げた。集めた資料を展示するため資料館を造ってみたが、あとを継いでくれる人がいるか心配。被爆者が少なくなったことを感じている。

○ 米田さんの証言 
自分の娘が4年間つきあっている男性の家族に紹介された。娘は、先方の家族から、「母親が原爆にあったそうだが、元気なのか後遺症はないのか」と根ほり葉ほり聞かれ帰ってきた。娘はその男性と結婚しても幸せになれないと考えて別れたということがあった。

<第二部:インタビュー> 
原爆症認定訴訟原告:大森克剛さん
弁護士:田部知江子さん

【大森さんへ】
○ 大森さんはヒロシマで学徒動員されていたということですが?
昭和20年3月の閣議決定で、中学2年生320万人が、向こう1年間軍需工場で働くということが決定され、私も動員されました。私自身は、高射機関銃の弾をつくっていました。

○ 投下翌日に広島に入られたわけですが、そのときの様子はどうだったのでしょう?
ちょうど週末に江田島の祖母のもとにいて、6日は電力不足で工場が休みでした。7日の出勤に備えて寮に行こうとしましたが、途中でピカっという光とドカンという音がしました。電車が折り返し運転になり、広島には行けなかったので戻ってきました。
7日に出勤しようとして広島に行きました。近づくにつれて紺碧の空が真っ黒で、日食のように太陽が黄色く光っていて、腐ったサンマを焼いたようなというか何ともいえない異臭がしました。みんな川に逃れて満ち潮でおぼれていました。川に入って、死体を上げるとさらに下から死体が上がってくるという状況でした。
 工場もめちゃくちゃに壊れていたので、安否情報を集めようと動き回りました。目玉が飛び出ている人、防火水槽に首を突っ込んで息絶えている人、耳が肩までたれている人などおり、ただならぬ状況でした。余熱が残っていて、熱くてとにかく喉が渇きました。焼け跡で壊れた水道からちょろちょろと出ている茶色や黄色になっていた水(熱せられてお湯になっていた)を飲んだりしました。すると、飲んで1時間もするとひどい吐き気を催したので、歩けなくなり、級友と別れて、江田島に帰えることになりました。

○ 広島が爆弾で大変なことになっていることはわかっていたということですが、実際近くに行くとただならぬ状況になっているのに、出勤するのをやめようと思わなかったのはなぜでしょう?
県立広島工業高校は、規律がとても厳しい学校でした。銃の形をした木の棒を持って軍事訓練をさせられていました。「討ちてしやまん」という雰囲気で、無断欠勤なんかありえないという雰囲気でした。

○ 急性症状の様子はどんなものだったのでしょう?
いままでに体験したことのない、妙な微熱が続いて頭ががんがんして、血便がジェット噴射のようになる下痢が続きました。とにかく頭ががんがんする。歯茎が血でにじむということも続きました。歯茎の血は40才のときに歯を抜くまで続きました。いまでは、原子爆弾の怖さというのが知られていますが、当時は通常の爆弾で壊滅したと考えられていたので、急性症状だとは気がつきませんでした。

○ そんな状況では日常生活も困難だったと思うのですが?
徹底された軍隊教育を受けていて、そんなことにへこたれてはいけないと考えて、それを乗り越えなければいけないと思いながら毎日をすごしていました。

○ 結婚してから子どもを作るのに悩まれたことはありますか?
「向こう70年はヒロシマに草は生えない。原爆にあった人は子孫に至るまで被害が及ぶ」といわれていました。白血病などがひろがっていたので、子どもにもし原爆の影響がでたらと怖かったのも事実です。実際には、その後、子どもを作ることになりましたが、妻にも言えず、子どもを作れないかも知れないと悩んでいました。女房には申し訳ないという想いでいっぱいです。

○ ガンを煩ったとき被爆との関係についてどう思われましたか?
「家族でガンを患われた方はいますか」と病院で聞かれましたが、そういうことは全くありませんでした。ただ、原爆の影響なのか、その時点でも疑いが若干ありました。90パーセントはそういう想いで、どうしても納得させられない気持ちが残りました。

○ 初めて家族に被爆者であることを話されたときはどうでしたか?
集団訴訟に立ち上がろうと決断して、診断書をとったので、そのときに被爆者だということを家族に知らせました。それまでは言えませんでした。妻は、子どもをどうして産めないんだということを不思議に思っていたでしょうし、妻も辛かったと思います。それに、子どもがちょっと血を出しただけでも「大丈夫か?」と、子どもの異常を敏感に感じることにも少しおかしいと思っていたようですが、まさか被爆者だから子どものことを気にしていたとは思っていなかったようです。私のほうでも、それまでは言えませんでした。ただ、言えない苦しみというのは、単なる嘘をつくのと違ってとても辛いものです。

○ 家族にも相談せずに提訴を決意したということですが、それはなぜでしょう?
提訴を決意したのは、松谷訴訟があって、最高裁でも厚生労働省が負けて、東訴訟の最中のときでした。東京で9000人の被爆者がいるのに、この人たちは原爆症の認定を受けていない。こんなことを一人一人やっていたらみんな死んでしまう。だから、みんなで一緒にやろうと募ったのです。
でも、なかなか乗ってきてくれないので、いま訴えなければもう後がない。集団提訴すれば、マスコミにも報道される。世界に平和をアピールするチャンスだと訴えて、10人くらいで訴訟を始めました。やっと原告は30人になりましたが、訴訟を起こしてからもう7人が亡くなっています。

○ 政府に対してもっとも訴えたいことはなんでしょう?
原爆というのは被爆者だけでなく、被爆者の家族も大変な目に遭います。私の場合、人工肛門の突起物にストーマという危惧をかぶせるのですが、患部の形は変わるのでそれにあわせてストーマの取り付け口を調整する作業があって、これがとても大変で妻に苦労をかけました。傷口などを見るのがあまり得意でない妻ですが、夏の暑い日に、人工肛門の取り外しをしているとき、私のお腹にぽたぽたと垂れるものがありました。あれは妻の汗だったのか涙だったのか... 妻に苦労かけたこと、本当に申し訳ないと思っています。そうした被爆者や家族の苦しみとか辛さを、政府にはわかってほしいと思います。

○ 裁判の進行などについて夫婦で話されていますか?
これが全然、夫婦では話したことがありません。10月3日に証言するけど一緒に来るかと聞いても、妻は「私行かない」というのです。

【田部さんへ】
○ この裁判の目的や意義はなんでしょう?
個別訴訟で厚生労働省が負け続けているのに、認定基準は厳しくなっています。こうした行政の姿勢に対して、被爆者の方たちは我慢ならないと考えています。また、米国の核戦略に巻き込まれているから、認定基準を厳しくしているのではないかとも思われます。こういったことを問題にして、最終的には被爆者の方たちの救済だけではなく、核兵器廃絶にもつながるように訴えていっています。

○ 田部さんが原爆訴訟にかかわろうと思ったきっかけはなんですか?
私はコスタリカが好きで、これまで3回行ったことがあります。また、ハンセン病訴訟にもかかわってきました。直接的には、コスタリカとハンセン病のそれぞれの活動にかかわっている先輩弁護士に誘われたのがきっかけになります。メディアに出ている語り部の方などを見ると、被害を克服しているかのように見えたりもします。しかし、この訴訟にかかわって原告の方からお話を聞くと、「当時のことを思い出せない」、「被爆時の話をするのは初めてだ」という人ばかりでした。PTSDに苦しみ、人生をあきらめてきた人もいらっしゃいます。時代が違えば、自分がそういう経験をすることになる可能性もあるんだと思いました。自分が同じ目に会いたくないから、弁護士として自分にできることをしたいといまは考えています。

○ 厚生労働省は、どういう対応をしているのでしょう?
最近、集団訴訟が始まってから初めての協議の場が設定されました。被爆の実態を避けて通ろうとしているという印象をもっています。いま原告側では、厚生省のいう専門家は、被爆の状況も把握しないままで審査基準をたてようとしているので、そのことを問題にして追及しているところです。

○ 厚生労働省は、なぜ被爆者に冷たいのでしょう? どう思われますか?
厚生労働省や政府は、積極的に原爆症であることを認めることが、政府の戦争責任を認めることにつながることを恐れて、躊躇しているのだと思います。


Q: 被爆者であることを公にすることについて、子どもに対する周囲の反応などは気にかけなかったのでしょうか?
A: みんなそれが怖くて、原告になれないのです。「被爆者だと言わないで」という人もいます。でも原爆の話ができるのは被爆者しかいない。立ち上がらないと日本は再び戦争をやるかもしれません。だから立ち上がるしかないと思っています。申し訳ないが、子どもには我慢してもらうように拝むしかないと思いました。
  占領後、米軍は、広島、長崎に入ってはいけないと禁止命令を出しました。そのうえで、9月30日には、原爆で苦しんだり死んでいる人はいまでは皆無だと宣伝しました。日本政府も同調して、原爆投下というのは人間をモルモットにした実験なのに、アメリカには賠償を求めない約束をしてしまいました。こうしたことは許せません。

Q: どうして国は認定基準を厳しくするのでしょう? たとえば、他の訴訟のように立法不作為を追求するとか、国会議員への働きかけをするとかはできないのでしょうか?
A: まさにそのために集団訴訟を始めました。集団訴訟をすれば、政府は、裁判になっているのは個別の事案にすぎないとか、一般的な基準はいまのままで構わないといった言い逃れができなくなります。国会議員に対する働きかけは、被爆者の全国組織である被団協がずっと行ってきていて、個々の議員とのつながりはあります。しかし、そうしたつながりもまだ十分には機能していません。これからも、国会ローラー作戦を予定していますし、多くの議員に被爆者の訴えや想いを届けるという取り組みをしようと考えています。

Q: 国会議員はなぜ関心が低いのでしょう?
A: こうした地味な取り組みは票につながらないからではないでしょうか。自分の出身地の陳情団などには興味があるが、そうじゃない要請の話はまともに聞いてくれない国会議員の人もいました。ある議員は、その場で厚生労働省の課長に電話して、「陳情にきているから何とかしろ」と言った人もいます。でも、それはちゃんと考えてくれてのことではなくて、ただのパフォーマンスでしかない。むしろ哀れに感じてしまいました。

Q: 法律をつくるためには世論の盛りあがりも必要だと思いますが、どんな働きかけをしているのでしょう?
A: 学習会をたくさん設けて、多くの人にこの問題を知ってもらいたいです。裁判官が勝訴判決を出しても大丈夫だということを理解させられるような、そうした取り組みの盛りあがりを作っていく必要があると考えています。

Q: 田部さんにとってこの訴訟の意味は?
A: 核兵器廃絶を訴訟でも訴えていて、憲法9条を実現できる一つの場所・機会だと考えています。それに、被爆者の方々と出会えたことを、とても幸せに思っています。

大森さんから若い人へのメッセージ:
被爆者と友達になって下さい!

■みんなで裁判所での大森さんの本人尋問を傍聴しに行こう!■
日時:10月3日(月)13:30-16:30
場所:東京地方・高等裁判所 606号法廷
   地下鉄 霞ヶ関駅A1出口を出て、目の前(入り口で手荷物検査を受けます。)
 *傍聴希望者が多い時には抽選になりますので、予めご了承ください。



 

今も眠る、棄てられた毒ガス Q&A

Q&A:

Q: 731部隊とは?
A: 黒龍江省で、生きた中国人で人体実験を行っていた。化学兵器/細菌兵器を使用したりして、その影響を調査していた軍部。当時から国際法上違反であったのに、戦後の東京裁判でも裁かれていないのは、その調査結果が連合軍にとって有効なものであったため、アメリカがその調査結果を持っていった。それと引き換えに裁かないことを約束した。

Q: 日本人の被害者にはどのような補償をしているのか?
A: ほとんど何の補償もしていない。日本国内の遺棄状況の調査も今までに2回だけ。

Q: 化学兵器/細菌兵器は実際に戦争で使われたのか?
A: お金をかけて調査・開発したので、大量に使用していた。ペスト菌なども開発していた。広島や小倉で開発されていた。だから原爆投下のターゲットとされたのではないか、と言われている。

Q: 広島で開発されたのに、なぜ日本中に散らばっているの?
A: 終戦直前、沖縄戦で敗北していた日本軍は、次は本土で陸上戦になるだろうと予想し、日本各地に毒ガスを配備した。しかし、本土での陸上戦にはならなかったため、結果的に未使用となった。それを戦後、証拠隠滅のために海洋投棄や遺棄をした。

Q: 化学兵器の処理は?
A: 処理方法は確立している。1997年化学兵器禁止条約締結(化学兵器を全部処理することを約束)に基づき、処理をし始めているが、すべて処理するにはまだまだ時間がかかる。
一方で、被害の治療方法は確立していない。しかし、日本政府が本気で取り組めば不可能ではないはず。

Q:  「にがい涙の大地から」の取材をするにあたって、何か障害はあった?
A: 特にない。責任は当時の軍部の指令層にあったと現地の人も思っている。だから、日本の市民が真実を知りたい!という気持ちで行けば素直に受け入れてくれる、と感じた。

Q: この問題に、どのように協力できるの?
A: 小さなことを少しでも実行してみよう。
@お金に余裕があるなら、支援金を振り込もう!
 郵便振替口座 00110-6-760615 チチハル被害者人道支援基金
A裁判を見に行く。
「認めているのに何もしていない」日本政府の罪を糾弾しよう!
と き:9月14日(水)午後1時30分より3時まで
ところ:東京高等裁判所 1階 第101号大法廷

◆◆◆◆◆
!?裁判のホント・ウソ?!豆知識
世論、特に若い人が関心を持って見守っている、という姿勢を見せて裁判官にプレッシャーを与えられる!
世論が味方についていれば、裁判官も勇気をもった決断が出来る!
弁護士も、「絶対に意味がある!」とお墨付き。
「サイバン」と聞くと難しそうだけど、結局関わっているのは人間!
◆◆◆◆◆

B時間もお金もないけれど、裁判官に手紙を書く。(50円、10分で出来る。)
C旧「満州」にいた親戚や知人がいる場合は情報を提供してもらう。
特に現地の中国の人はこの情報を必要としている。旧日本軍が調査もしていない、ということもあり生き残った日本軍の証言がたより。

Q: どんな風に東アジアの人と付き合っていく?
A: まずは友達を作る。そしてまずは東アジアの国々を知る。それから、過去の事実として過去を知り、それを語っていく。そうすることで東アジアの未来に貢献できるはず。
China-Japan Networkでもスタディーツアーもやっているので、是非参加して!

参考図書:
「悪夢の遺産」学陽書房 尾崎祈美子(TVディレクター)著

今も眠る、棄てられた毒ガス

日時:9月7日(水) 場所:ピースボートセンター東京
ゲスト:海南友子さん(ドキュメンタリー映画監督)

DVD鑑賞 ---「にがい涙の大地から」ダイジェスト版---

実は、2年前までこの件についてあまり知らなかった。2年前に勉強を兼ねて中国をいろいろ回ってみた。その時にリュウ・ミンと出会った。最初は「性格の暗い人」というイメージを受けた。が、話していくうちに彼女の父親が日本軍が残した砲弾の被害で亡くなったことを知った。しかも、1995年という最近のこと。自分よりも若い人が最近になって被害を受けているということで衝撃を受け、興味をもった。それから調査をして、これまでに60人くらいの被害者に会った。

ではなぜ砲弾や毒ガスが遺棄されているのか?
1929年から日本軍は毒ガスを作り始めた。日本の大久野島で作り、台湾、中国、ベトナムで使用した。これは国際条約に違反していた。
そのため、敗戦直前に証拠を隠蔽するために、毒ガス/化学兵器だけを土に埋めるようにとの命令が軍部の上部から下った。そして急遽毒ガス/化学兵器を遺棄して軍隊は帰還した。

それがなぜ最近見つかるの?
戦後、農地としてしか使われていなかった土地が、最近の中国の経済発展のゆえに、大きな建物の建設が始まった。そこで、最近になってこのような建設現場で毒ガスが埋められているくらいまで土地が掘り起こされ、被害が出てきている。その度に中国ではメディアで報道され、関心が高い。(日本との違いは明らか。)

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!比べてみよう!
現在の日本と北朝鮮の関係と同じなのではないか?
拉致問題をめぐって日本では北朝鮮バッシングが続いている。一方、朝鮮では報道されない。北朝鮮は自分の国に都合の悪いことは報道しない国家体制であるが、日本はそのような報道をしてもよいのにも関わらず、一方的なバッシング報道が起きている。そうなると、むしろ日本の今の状況の方が怖いのでは?
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日本政府は、毒ガスの遺棄場所について、60年間一回も聞き取り調査をしていない。
70万発も埋まっていることを認めているにも関わらず、その場所について、そして状況について調査していない。(中国政府は180−200万発と予想している。)

日本にも同じように危険がある。日本軍が遺棄して終戦を迎えた。昔の日本が中国に及ぼしたこと、というよりも今日本でも「そこにある危機」である。

海南さんの姿勢:
自分の国が実際に国際法に違反した毒ガス/化学兵器を作っていて、それが今でも被害を生じている。存在するかしないかわからないイラクの大量破壊兵器のために、大量の資金をかけて自衛隊をイラクに派兵するよりも、この毒ガス事件に対して資金をかけたらどうか?戦後の平和な時代にまだ被害者が出続けるという点で、地雷と類似した状況。この問題に取り組むことで、将来の日本と中国の関係改善に繋がるのではないかと信じて取り組んでいる。