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家裁からの通信

(井上博道)
第0015回 (2004/05/11)
仙台で非行問題の親子会をつくる話5(理屈編)

精神分析的手法が調査官にとって問題だったのは,その手法が事件を分析するのにきわめて便利なものであったということです。

精神分析は長い歴史と理論的思考をつみかさねて発展してきたものです。しかし,その目的は,(わたしはそう思うのですが)治療と切り離されるものではないと思います。
 もちろんフロイトは精神分析を文化や文学の分析枠組みとして使っているようですから,一時は流行った「○○の精神分析」も別に悪いことではないと思います。

 しかし,調査官は現実の問題をかかえている人を対象とする職域であり,評論家ではありません。ここが重要なことです。

 もし,治療を切り離し解釈のみを分離した場合,調査報告書は精緻な分析が行われていながら,実際には足が出ない状況に陥るのではないでしょうか。精神分析に重点がおかれていた時代は,カウンセリング時代というよりは,「分析時代」「解釈時代」といってもよいかもしれません。調査官は外で出ることが少なくなり,裁判所の狭い面接室と執務室を往復し,かつ面接時間の何倍もの調査票作成時間が費やされるようになったのもこの頃です。

 これは内向きですよね。
当事者は解釈の客体にすぎず,結果として裁判官に見せるための「調査報告書」がより高度で精緻になっていくことは,実務家としての調査官が裁判官のみに目を向けた「閉じられた世界」を調査官にもたらす結果となったように思います。

「報告書が,専門的で難しすぎる」「全部同じに見える」等々の批判が裁判官から寄せられるようになったのはむりもないことかもしれません。
「報告書を誰でもわかるように書こう」といった言葉が研修所でも述べられるのはこのことがあったからかもしれません。

 わたしはカウンセリング時代は歴史の必然であったと思いますが,この頃の足が止まった調査官像は,今日の調査官の専門性に関する議論を停滞させた最大の原因だったと思います。
 結果として一部の裁判官や管理職などから調査官の専門性の軽視や「法律を勉強しよう」「法律を知らなければ調査官ではない」と言った言葉が聞かれるようになったのも,調査官が現実の事件を動かせず,現実の人間の問題を解決するような活動もできず,かつ社会のニーズに対応できない現実を反映したものと思います。

もちろん調査官は法律家ではなく,書記官でもなく,法律を専門的に学んだわけではないので,プチ書記官にはなれません。「法律を学ぼう」は分析主義や解釈主義へのアンチテーゼとしての意味しかもたなかったと思います。

誤解がないように言えば,ケースワーカー時代にいおいてもワーカーにとって法律は武器であることは言うまでもありません。
 これは裁判所でいう法律というよりは,ワーカーの目的である援助活動を実際に実現していくための方法としての法律の実際的な知識(制度を利用するために必要な法的知識)というのは重要なスキルであるといえます。

しかし,「解釈」「分析」へのアンチテーゼとしての「法律への傾斜」そのものには何の意味もなかったのではないかと思うのです。

1990年の半ば頃から厳しい批判にさらされた我が国の司法制度の中に,市民参加の裁判所であったはずの家庭裁判所も入っている。ここに,戦後の家庭裁判所の変遷が生み出した帰結があったと思います。

それでは,どのようにすればよいのか。
司法制度改革の中で,再度我が国の家庭裁判所が「ケースワーク」の意味を考える時代がやってきていると言えるのではないかと思います。

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