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米軍による「敵基地攻撃」ならいいのか 「伊達判決」の現代的意味

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のミサイル実験に関連した額賀防衛庁長官をはじめとする「敵基地攻撃論」は、中国、韓国が反発し、自民党内からも山崎拓元幹事長が「明らかな憲法違反」と述べるなど、とりあえず「火」が消えた。
 しかし、新聞各紙は、「読売」が「脅威を直視した論議が必要だ」と題して「『権利はあるが能力は未整備』のままでいいのか。安全保障環境の変化に対応した議論を深めるべきだ」と論じ、議論を肯定しただけでなく、「朝日」が「日本が攻められた時は、自衛隊がもっぱら本土防衛の役割に徹し、敵基地などをたたくのは米軍に委ねる。これが安全保障の基本」とするなど、むしろ米軍との役割分担論が広がり、問題は深まっている。

 鳩山一郎首相当時の1956年、政府は「他に手段がないと認められる限り、誘導弾などの基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能である」と答弁、政府はこの解釈を続けてきた。今回の発言は、この解釈に乗って、自衛隊の態勢強化論として出ているため、反発されたわけだが、このメディアの論理に乗って、米軍との役割が分担された場合を考えると、恐ろしくなるのではないだろうか。
 つまり「いままさにミサイルが発射されようとしているとき」に、米軍が日本の基地から、そのミサイル基地を叩くことをどう考えるか、ということである。これは憲法違反でもなく、安保条約上、当然のことか、あるいは仕方がないことなのかどうか。
 
 1959年の砂川訴訟で、東京地裁の伊達秋雄裁判長は、「日本国憲法第9条及び前文の平和主義は自衛のための戦力保持も禁止している。在日アメリカ軍は指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず戦力にあたり、また日米安全保障条約(旧安保条約)の極東条項『極東における平和と安全の維持に寄与するため』は違憲である」と判決した。
 しかし、1959年の最高裁判決は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国軍隊は戦力にあたらない」として、「在日米軍も日本国憲法に縛られている」と考える「伊達判決」を覆した。

 メディアが言わなければならないのは、「安保日米分担論」に立って、「敵基地攻撃論」を批判することではない。「戦争を始めてはいけない」ということである。米軍がやっても、日本の基地が使われる限り、日米による敵基地攻撃=日本の戦争開始である。
 「伊達判決」は、この意味でも、重要なポイントをついている。
 「敵の基地を叩く」というのは、相手側がどんなに準備をしていたとしても、「戦争を始める」ということだ。そしてそれは、在日米軍であっても、日本としては認めてはならない。「自衛隊の準備」の話ではない。