プロフィール

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名前
尾山宏
生年月日
1930年12月29日生。東京で生まれた後、北九州小倉に移住
経歴
1953年東京大学法学部卒/1956年弁護士開業 1957年愛媛県の勤務評定反対闘争に派遣される。 1988年日本教職員組合常駐顧問弁護士に。 日教組分裂で顧問辞任。 読書大好きの弁護士です。

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日本の民主主義についてE New!

             読書日記E
 民主主義を考えるうえで、いまひとつ重要なのは市民社会の確立という問題である。

 「市民」「市民社会」という言葉は、多くの日本人が知っているが、そこに歴史的に含意されたことは殆んど知られていない。実は数年前に北海道教組と弁護団が一緒になって学テ裁判の総括本として『市民のための教育をー学テの経験に照らして』(日本評論社)を出版したことがある。
ところが私のごく周辺の民主的な人々でさえ、『市民のための教育』とはいかなる意味合いのものかを知らないようであった。無理もない。わが国には市民としての自覚が乏しく、市民社会の歴史ももたない。だから「市民」「市民社会」といっても、そこに特別の意味があるとは思いもよらないのである。民主主義について長年関心を抱いてきた私にしてからが、市民社会の意義を理解するようになったのは、ごく最近のことである。

 そのきっかけとなったのは、ロバート・D・パットナムの『哲学する民主主義』(NTT出版、2001年)を読んだことであった。この本の副題には「伝統と改革の市民的構造」とある。もともとの原題は、Making Democracy Work Civic Traditions in Modern Italy である。著者のパットナムは1941年にアメリカで生まれたハーバード大学の政治学の教授である。   
イタリアでは1970年代に中央集権を改め、新たに設けられた州に権限を委譲した。これを受けてパットナムは各州の民主主義度を綿密に調査し、その結果、北・中部の州は民主度が高いのに反し、南部ではそれが低いことに気付く。そこで彼は、その要因を探るためには歴史を遡って調べてみる必要を感じ、中世イタリアまで遡ってその要因を調査した。それらの調査結果をまとめたのが本書である。
彼は、イタリア北・中部における中世の「市民共同体」を発見する(第五章「市民共同体の起源を探る」)。ローマ以北におけるコムーネ、すなわち都市国家=自治都市国家の出現である。彼は、これを「市民共同体」と言う。「市民共同体」とは、「積極的で公共心に富む市民層、政治的平等、信頼と協力の社会的織物を特徴とする」ものである。別言すれば「市民性」の発達ということである。

 以下、長くなるが、同書から引用してみよう。
 コムーネは、「垂直的な階統的秩序に依存するところが少なく、水平的な協力に活路を見出すもの」、「起源的には自発的結合体から現れた」、「その種の結合体は、近隣諸集団が相互扶助をし合い、共同防衛と経済的協力を用意すべき私的な宣誓をしたときに形成された」、「コムーネは、形成当初から公秩序に関与してきた・・・コムーネが構成員と彼らの共通利害を守ることに第一義的な関心があり、旧い体制の公的諸制度とは有機的な関係がまったくなかった・・・二〇世紀までにコムーネは、フィレンツェ、ヴェネチア、ボローニャ、ジェノバ、ミラノ、そして北・中部イタリアの他の主要都市では残すところなく形成されるに至るが、歴史的には右に見た初期の社会契約に起源がある」、「一般住民が統治にまつわる諸問題に参加した水準は、どのような基準で判断しても驚くほど高いものであった」(150ページ)。
これを読んで私は驚いた。それまで「社会契約」は、国家の統治の正統性の根拠を説明し、それによって国家の権能のありかた、その存在理由、従ってその限界を説くための最高の政治的理念ないし説明のための道具概念とばかり思っていたのである。実際にスホッブすの『リヴァイアサン』、ロックの『統治論』あるいはルソーの『社会契約論』をそのように考えていた(ただしいずれもちゃんとは読んでいない)。まさか現実に存在するものとは想像だにしなかった。それが現実に存在したというのである。その発見は、私を驚かせもし、狂喜もさせた。これあるかな、という思いであった。

 その影響を受けて中世自由都市に関心をもつようになり、増田四郎『西欧市民意識の形成』(講談社学術文庫、1995年)、鯖田豊之『ヨーロッパ封建都市』(講談社学術文庫、1994年)を読んだ。さらに近年になってトクヴィルの『アメリカの民主政治』(講談社学術文庫、1987年)を読み、これらの文献を通じて近現代の民主主義がどのような歴史的起源をもち、どのように用意され、形成されたかを知ることができた。このことは民主主義とは何かを理解するうえで、きわめて重要なことなのである。

 それらを通じて私が到達した一つの結論は、崩壊したわが国の地域社会・コミュニティの再生と市民意識・市民社会の確立が、わが国の民主化にとって必要不可欠だということである。具体的に言えば、地域の人々が共通の目的を達成するために協同するということであった。たとえばゴミ処理の問題もあれば環境保護の問題もある。そうした共通の目的を達成するために地域の人々が結集して、その目的を達成するということなどである。
 私が考えている地域とは、市町村よりももっと小規模なものである。お互いに顔が見え、名前を覚えることのできる範囲である。そこから出発しないと、崩壊したコミュニティの再生といっても実現可能性がない。そこから出発して、地域の範囲を広げ、やがて国規模にまで至って国政の民主化が実現されると考える。国政の民主化は、地域に民主主義が存立するという基盤のうえでのみ実現されるのだと思う。

 よく「公」が政治や行政に独占されていると言われるが、地域の人々が行政や政治をリードしつつ創り上げるのが、民主的社会における「公」であろう。その「公」に市民が積極的に参加し発言してこそ、民主主義が育つのである。
その目的達成のためには行政の尽力が欠かせないことは言うまでもない。行政は、このような地域住民の組織とパートナーシップを築かなければならない。むしろ地域住民が行政をリードするくらいにならなければならない。

 こうした点で私が期待を寄せるのは、NGOでありNPOである。しかしわが国は、諸先進国に比べ、NGO、NPOの力がまだ弱い。最近でこそわが国でもNGOやNPOが数多く立ち上げられるようになったが、先進諸国のそれに比べれば、わが国のそれはきわめて不十分な状態にあると言わざるを得ない。組織した人の数でも資金力でも専門スタッフを揃えるという点でも、私たちは、まだまだ努力しなければなるまい。

 ある集会でこのことを述べたが、聞いている人々には何のことか理解されなかったようだ。なかには私の発言がその人々が当面している問題と何の関係があるのかと反発を感じた人もいた。私の説明不足は否めないが、この国に民主主義を根付かせ発展させるためには、私たちは時間的にも空間的にも視野を広げる必要があると思う。

日本の民主主義についてD

私事にわたって恐縮だが、何年か前にパリにいる娘からの手紙に、「アウシュヴィッツの後で文学が成り立つか」と言って頭を抱えているフランス人がいると書いてあった。娘もよほどショックだったようだ。私も少なからぬショックを受けた。というのも日本には、「南京大虐殺の後で文学が成り立つか」とか「731部隊の後で文学が成り立つか」という問いを発した人はいないからである。
その後、ヒョンなことから、この言葉の発信源を知ることができた。  
徳永恂編著『アドルノ 批判のプリズム』(平凡社、2002年)を読んでいて、偶然に知ったのである。発信源は、ベンヤミン、アドルノ、ハーバーマスと続くフランクフルト学派のアドルノ(1903―1969年)なのである。この三者ともに私の食指が動くのだが、恐らくハーバーマスを読むのが精一杯であろう。
他にも読みたい本が数多くあるからだ。ところでアドルノの言葉は、上記とかなり異なっていて、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」というものである。彼は、ナチスが政権をとるとアメリカに亡命し、戦後の1949年にドイツに帰っている。
彼の1949年のエッセイ「文化批判と社会」の末尾近くに現れる言葉だという(同書75―76ページ参照)。少しくこの言葉の背景を見ておくと、彼は、「アウシュヴィッツをドイツの特殊事情に由来するものとは見なさない。近代という時代、いやそれどころか西洋の文明史の全体の中に深く根を下ろす出来事と捉えている。だからこそ、それは、いつ何どき反復されるやもしれない危険なのだ」(77―78ページ)。
だからこそフランス人も、他人事とは考えられないのである。彼が「もくろんだものは・・・文明と野蛮との癒合を指摘すること。『詩を書くことは野蛮だ』とは『文化は野蛮だ』の言い換えである」(78―79ページ)。ドイツ文明―西洋文明―は、ついにアウシュヴィッツを阻止することができなかったのである。アドルノによれば文明の歴史、その「歴史の全体が、自己保存をめざす人間がその道具的理性という能力を駆使して自然支配を強化してゆくプロセスとして解釈されることになる。そのプロセスのまさに『最終段階』に出現したものこそ、ナチズムという全体主義体制であり、それを象徴するのが『アウシュヴィッツ』という地名に他ならない。
文化はアウシュヴィッツに対して無力であっただけではない。文化こそが、アウシュヴィッツを生み出したのである」(同書81ページ)。
そこで考えてみるに、われわれ日本人は、とことんまで物事を突き詰めて考えることが苦手である。苦手というより「できない」と言った方がいいだろう。確かに生きていくうえでは、過去を引きずらない方がいいに決まっている。生活力という点で言えば、その方がしぶとい生活力を生むとも言える。
しかしそれでは精神的に価値のあるものは、何も残らないのではないか。過去を現在と未来とに結びつけ、とことんまで考えぬいて精神的に価値あるものを積み重ねていかない限り、民主主義は生まれないのではないか。私は、そう思う。

 日本の民主主義についてC

 わが国の民主主義がいまなお成熟していない重要な要因の一つとして、歴史認識と戦争責任の問題がある。このことは平和主義にかかわることであるが、同時に民主主義に深く関わるものである。なぜなら自国の政府や自国民が犯した過ちを率直に認めて謝罪するというのは、民主主義的価値観に属するからである。自国の政府や自国民の過ちを率直に認めることから、初めてそれを是正する努力、別言すれば民主主義の復元力が生まれるのである。過ちを率直に認めなければ、復元力が生まれるわけがない。民主主義の復元力は、過ちを犯したとき、なるべく早くそれに気付き、過ちを過ちとして率直に認めることの国民的能力にかかっていると言える。
 たとえば何年か前に長野の冬季オリンピック大会の開催は、大金をばらまいての不正な誘致工作によるのではないかという疑惑を生じたことがある。同じ時期にソルトレイクシティについても同じ疑惑が生じた。長野の例を知ったソルトレイクシティは、長野の例を見習うのが、誘致への早道と考えたようである。しかしその疑惑に対してソルトレイクシティは、直ちに過ちを認めて謝罪した。これに対し長野では関係資料を全部焼却したので、詳細は分からないと弁明した。関係資料を全部焼却したと言えば、それ以上追及されることはないと考えたのであろう。しかし資料は決して膨大なものではなく、焼却する必要もないし、第一、焼却したというのは、いかにも不自然である。証拠を隠蔽したと疑われても仕方があるまい。田中知事が一回目の選挙のとき、その疑惑の解明を公約したが、ついに公約を果たすことはなかった。この両者の対応を見て、私は日本人として恥ずかしい思いをした。長野はなぜ疑惑に対する説明責任を果たそうとしないのか。ここにも民主主義的価値観が深くかかわっていることを知ることができる。
 さて本題にもどって歴史認識と戦争責任の負の遺産について述べよう。
 わが国にもかつては自国の過ちを率直に認めることが真の愛国心だという考え方があった。家永三郎先生も原告本人尋問で以下のように述べている(第二次家永教科書裁判第一審東京地裁での原告本人尋問)。
 「われわれは、そういう目隠しされた教育(戦前教育を指す)を受けてきたためにあの悲惨な『十五年戦争』を止めることができなかつたわけであります。
われわれは、日本のすぐれた伝統を正しく認識して、よりよき日本の発展のためにそれを積極的に役立てるとともに、日本のあやまち、これは率直に反省して、再びそれをくり返さないようにする、同時に、日本の矛盾は矛盾としてそれに目をそらさずに、これを大胆に見すえて、その矛盾を打開していくことこそ真に国民のとるべき道だと思います。この編集趣意書(家永先生が、教科書原稿を記述する上で作成し文部省に提出した編集趣意書)の三番目に、『日本人としての自覚を高めるとともに民族に対する豊かな愛情を育てる』と、これは学習指導要領の文句でありますが、これを私としては、私の正しいと思う立場で解釈いたしたわけであります。『その目標を達成するために古代から現代に至るまでの各時代において、日本人が社会的矛盾の解決、民衆の地位の向上、文化の創造に努力してきた事実を明らかにすることに特に力を用いた』とありますが、この社会的矛盾の解決、民衆の地位の向上ということは、戦前の歴史教育の盲点でありました。特に日本自体のあやまちに対する反省ということは、最も欠けていたところではないかと思います。」
 それに次いで家永先生は、幾人かの先覚者の言葉を次のように紹介している。
 「たとえば、植村正久というキリスト者は、明治二九年六月二六日の『福音新報』という個人雑誌にこういうことを書いております。『よく自国の罪科を感覚し、その逃避せる責任を記憶しその蹂躪せし人道を反省するは愛国心の至れるものに非ずや』と。これに対して、現在いたずらに悲憤慷慨して意地を張ろうとするものとか、あるいはいたずらに歴史に心酔するものばかりしかないが、こういうものは良心を痴鈍ならしむるの愛国心である。はなはだしきはさきほど述べたような『自国の罪科を率直に反省する愛国心をもって非難するに国賊の名をもってす』と。こういうような『良心を痴鈍ならしむる愛国心は亡国の心なり。これがために国を誤りしもの、古今その例少なからず』といっておられます。(中略)憲法学者佐々木惣一博士が「学問と社会」という昭和三三年に発行された『道草記』という随筆集の中に収めた論文の中で、こういっておられます。『我々個人についても自分自身を反省せぬ人は発達しない人です。社会についても社会自身が終始何か反省している客観的標準をもって、現にあるままの社会というものは欠陥があるということを明らかにすることによって、社会が進歩するのだということを理解する人でないと、学問に対して危険性を感ずるということになる』というふうにいっておられまして、個人についても社会についても、欠陥を反省することが一番大切であって、学問の使命は社会の欠陥を明らかにして、それを是正するにあるということを書いておられます。」
 家永先生は、さらに内村鑑三や柳田国男の同趣旨の言葉を挙げている(『家永三郎教育裁判証言集』一ツ橋書房、1972年、128―131ページ)。
このように日本が犯した過ちを率直に認め悔い改めることが真の愛国心だという思想がある。愛国心と一口に言っても、その人の思想や情念によって変わってくるのであって、政府・与党あるいは文部科学省や教育委員会が考える愛国心だけを愛国心とし、それを学校教育によって子どもたちに押し付けられては困る。
 そこでまず戦争責任について述べると、敗戦直後、当時の東久邇首相は、一億総懺悔を唱えた。敗戦の責任はすべての国民にあるというわけである。もちろんわが国におけるファシズムの台頭と侵略戦争の責任について、国民自身にも責任がある。悪いのは時の政府、政治家や軍部にあり、国民は、その被害者にすぎず一切責任がないかのように論ずることは誤りである。軍部や政府の暴走を止めることができなかった国民にも責任がある。それはそれとして自己点検がなされなければならない。しかしそれ以上に責任を問われるべきは軍部、政府、政治家と最高権力者であった天皇の責任である。天皇の戦争責任は、敗戦直後の一時期を除いて長い間タブーになっていたが、最近では国内外で明らかにされている。明治憲法では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」(4条)とされ、官制大権(10条)、陸海軍の統帥権(11条)、宣戦布告の権限(13条)などを有する文字通り日本国の最高権力者であった。昭和天皇は、柳条湖事件に端を発する現地の軍の独走・暴走を追認したのを初めとして侵略戦争に深くかかわっていた。敗戦後、連合国の間で天皇の戦争責任を追及する世論がきわめて高かったのも当然である。しかし天皇やその側近は、天皇の戦争責任追及をいかにしてかわすかに積極的に動き、連合国最高司令官マッカーサーも日本統治における天皇の利用価値を高く評価し、両者の間で「取り引き」が行なわれたことは、今日では広く知られるところとなっている。ジョン・ダワ〜の『敗北を抱きしめて』上、下巻(岩波書店、2001年)や先に紹介したハーバート・ビックスの『昭和天皇』上、下巻(講談社、2002年)にその間の事情が詳細に記されている。
 このように最高権力者が責任を負わなければ誰も責任を負わなくなる。いわば「無責任の体系」である。
 そして言うまでもなく、戦争責任と歴史認識とは不可分一体のものである。上記のように天皇の戦争責任の回避は、わが国の戦争責任と加害者であることの歴史認識を雲散霧消させてしまった。もっとも戦後、極東軍事裁判で日本の戦争責任が追及され、政府も神妙にしていた。サンフランシスコ講和条約11条は、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」と定めている。しかし戦後早くも東西冷戦が始まり、占領政策が転換されて以降、戦争責任論と加害者であることの歴史認識は急速に影をひそめた。それでも1982年に教科書検定で「侵略」を「進出」に書き直させたことなどが内外に知られ批判されたとき、時の政府は、宮沢喜一官房長官を通じて、誤りは「政府の責任において是正する」と言明した。このときにいわゆる「近隣諸国条項」が検定基準に挿入され、中国、韓国や東南アジア諸国への配慮を示した。そのためどの教科書にも南京大虐殺や慰安婦などの記述が載ることになった。84年1月5日には、当時の中曽根首相が首相として初めて靖国神社に新春参拝し、8月15日には首相以下全閣僚が公式参拝をしたが、中国側が懸念を表明すると、以後、中曽根首相は、参拝を取りやめた。国会では「日本の国益を考えて取りやめる」旨を表明している。それらの情況と現在の情況と比較すると、小泉首相が度重なる中国、韓国の抗議にもかかわらず、靖国参拝を頑なにつづけていることの異常性がよく分かる。
 一体この間にいかなる変化が国内に生じたのであろうか。中曽根氏と小泉氏の首相としての才覚の違いや中曽根氏のそばには自民党内では良識派の後藤田氏が控えていたが、小泉氏の周辺にはそれに相当する人物がいないという事情もあるであろう。しかし私は、わが国が全体として大きく変化したからだと考えている。すなわち80年代は、先に述べたようにわが国がJapan as number one と高く評価され、経済大国として自信に満ち、80年代後半に一気にバブルへと登りつめていく時代である。日本国民の多くが誇りをもち、したがって精神的余裕があった時代である。
 ところが前にも述べたように、90年代に入るとバブルがはじけ、日本経済は長期低迷状態に陥る。日本人がもっとも誇りにしていた経済が駄目になったのである。こういう自信喪失の時代には、盲目的にナショナリズムへと突っ走る傾向がある。自身喪失という心理を癒すためにである。仲間内だけでしか通用しない「論理」を弄(もてあそ)んでは自らを慰め、励ましているのである。そうなると精神的余裕がもてなくなる。何がなんでも日本の国と日本人はすぐれていると絶えず自分に言い聞かせないと精神の均衡・平安が保てないという強迫観念に取りつかれる。だから中国や韓国からどのように抗議されようと靖国参拝をつづける小泉首相が「毅然たる態度」をとっている頼もしい政治家だと、国民の目には映る。逆に中国・韓国の抗議を配慮して靖国参拝をやめるようでは、自分たちの誇りが損なわれたように感じる。アメリカには徹底した追随外交をとっているのに、中国や韓国に対して居丈高に振舞うことに矛盾を感ずるどころか逆に痛快に感じられ、自尊心を満たされる思いがするのである。
 しかしこうなると、アジアのなかの日本、世界のなかの日本というふうに、日本国や日本人を相対化して見ることができなくなる。相対化することができなければ、客観的に世界と日本を見ることができなくなる。いまのわが国における偏狭なナショナリズムや右翼的潮流は、このようにして生じたものと考えられる。
 アジア諸国では、日本は戦争責任についてsorry(気の毒) はあるがapology(謝罪)がないと言われている。
 確かにたとえば1995年の村山富市首相談話と1999年のラウ・ドイツ連邦大統領の「強制労働者に赦しを請う」という声明とを比較すると、そのことがよく分かる。以下に両者を挙げておこう。
 村山談話「・・・わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。・・・私は、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明いたします。」
 ラウ大統領声明「・・・私たちは皆、犯罪の犠牲者が金銭によって本当は補償されないことを知っています。私たちは皆、何百万の男女に加えられた苦痛が取り返しのつかないことであることを知っています。・・・私は多くの人々にとって、金銭などまったく重要でないことを知っています。彼らは自分の苦しみが苦しみとして認められ、自分たちに加えられた不正を不正としてみなされることを求めているのです。私はドイツの支配下で奴隷労働と強制労働を行なわなければならなかったすべての人に思いを馳(は)せ、ドイツ国民の名において赦しを請います。彼らの苦しみを私たちは忘れません。」(石田勇治東大教授訳)
05年にバンドン会議に出席した小泉首相は、村山談話を引いて謝罪の意を表したが、ドイツの大統領や首相のように、なぜ自分の言葉で謝罪の意を述べないのか。これでは謝罪者の顔が見えず誠意を感じさせない。しかもドイツは強制労働者に対して補償を行なっているが、わが国は村山談話を受けての補償は一切していない。
 サンフランシスコ講和条約後に補償の問題を生じたときにも、アメリカは、反共防波堤としての日本の経済力の復興を優先する立場から、アジア諸国に賠償金の額を低く抑えさせた。しかも日本の政府や財界は、その賠償さえも日本の東南アジア諸国への経済進出のための格好の道具として利用したのである。末広昭氏は、「賠償支払い形態は、現金ではなく当初は役務ついで資本財中心になされたから、賠償を通じた経済活動は「日本製品・企業の東南アジア再進出の露払い」の役割を果たし、ひいては日本の輸出拡大と重化学工業化の契機となった」と述べている(末広「経済進出への道」前掲中村他編『戦後改革とその遺産』所収221ページ)。日本化薬社長(当時)の原安三郎氏は、経団連の座談会「賠償問題と東南アジア諸国の動向」のなかで、次のように述べている。
 「ここで注意すべきは、賠償の支払いはその方法の如何によっては、単に賠償の支払いのみに終わらず、禍を転じて福となしうるのである。すなわち生産役務賠償による物資の提供が、東南アジア諸国に日本の産業の実態を知らせ、両国間に経済上不可分の友好関係をつくり、日本品の永久マーケットがその国に開けるのである。」(前掲書221―222ページ)
「賠償」は日本にとっては「禍」なのであり、戦争被害者に対する誠実な謝罪を表わすものとはそもそも考えられてはいないのである(もっとも日本の政府・財界が考えていた「東南アジア」には当初はインド、パキスタンなどの南アジア諸国―非賠償請求国―が含まれていた。現在言われている東南アジアを指すようになったのは、1960年代半ば以降のことである。前掲書224ページ)。
 吉田茂首相(当時)も「アメリカのダレス国務長官と会談した際、『賠償は一種の投資である。賠償の名において東南アジアの経済開発に協力できるならば共産主義浸透防止ともなり、一石二鳥の効果がある』と明言していた」(前掲書222ページ)。1953年に「東南アジア経済協力」に関する基本方針が閣議決定され、「賠償問題の早期解決を図る」ことが閣議決定された時にも、「東南アジア諸国の要求にまず応えるというよりは、経済提携を進めるための前提条件という意味合いが強かった」(前掲書231ページ)。
 その背景には、太平洋戦争で日本が負けた相手はアメリカであって、『大東亜戦争』そのももの理念は間違っていなかった、むしろ日本は東南アジア諸国の民族解放と独立に手を貸したのだという独善的解釈が広く存在していた」、「フィリピン、マラヤ、タイ、ベトナム、ビルマなどで独立前後に抗日運動が激しく展開された事実に思いを馳せるような発言は、少なくとも経団連などの座談会を見るかぎり皆無だった」(前掲書236ページ)。
 つまるところ「賠償」は、日本企業の金儲けのための道具にすぎないのである。
 だから東南アジア諸国民が誠実な謝罪がなされたと考えないのは、当然の成り行きである。
 しかも日本は、戦前はもとより戦後の今日まで、アジアの中での「兄貴分」(「盟主」)でなければ気がすまないという意識が強い。
 「反欧米感情の強いアジア諸国では『アジアの兄貴分』である日本がアメリカとの橋渡しをすべきだという発想が、当時の官界や財界の中には存在したのである」(前掲書236ページ)。岸首相は、歴代首相としては初めてアジア諸国を訪問した。「アジア(のち東南アジア)開発基金構想」をひっさげてである。しかし岸首相を迎えた「東南アジア諸国もマスコミの雰囲気も、日本政府が当初期待した歓迎や関心とはほど遠いものであった。『大東亜共栄圏の復活か』と現地新聞が批判的に報じたフィリピンやインドネシアはさておき、アメリカの反共戦略に深くコミットしていたタイでさえ、現地の新聞は岸首相の訪問中の行動や発言をほとんど報じていないからである。」「タイ語新聞である『サイアム・ニコン』紙・・・の論調は『岸の名前は、アメリカと中国というふたつの岸のどちらにもつけない日本を象徴している』「タイ・日本共同声明の内容は、日本の首相がバンコクに滞在していたというニュース以上のことを国民に伝えるものではない」といった冷淡なものであった(前掲書244ページ)。
もっとも佐藤首相時代の1966年4月の日本政府主催の「東南アジア開発閣僚会議」が転機となったと言われている。67年以降、日本企業の東南アジア向け投資が顕著に増大したのである。しかし日本側の基本姿勢は、「賠償交渉の決着とその支払いは、このプロセスを準備し補強するためのひとつの手段でしかなかった」点で変わりがなかった(前掲書248―250ページ)。
このように見てくると、小泉首相のアジア諸国に対する言動が彼自身の個人的特性ではないことが分かる。それは、古くからの自民党のメンタリティの底を流れる水脈なのである。
日本は、こういう態度でアジアに臨んでいたのである。これでは誠実な謝罪もその証としての補償も生まれないわけである。
この話を次にも続けたい。

日本の民主主義についてB

 しゃべり出すと、どうにも止まらない。以前なんかそういう歌詞の流行歌があったな。悪い癖だと承知しているが、これもDNAのなせる仕業だろう。
 さて前回、明治期の「近代化」が短期間のあいだに早急になされたことを述べたが、そのため「近代化」は、かなり歪んだものになった。当時の為政者は、西欧が中世以降に生み出した精神的価値を継承するよりも、欧米列強の帝国主義に多くを学んでしまった。なにしろ自由・平等・博愛を唱えている国々が先を競って植民地争奪戦に乗り出したのだから、瞬間風速しか感じ取れなかった明治政府にとっては、まことに不幸な西欧との出会いであったと言うほかはない。
 しかしそのことが後世に大きな禍をもたらしたことは、周知の通りである。
 夏目漱石は、小説『それから』の中で、主人公の代助にこう言わせている。
 「日本ほど借金を拵(こしら)えて、貧乏震(びんぼうぶる)いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。・・・日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以(もっ)て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行(おくゆき)を削って、一等国だけの間口(まぐち)を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌(ろく)な仕事は出来ない。悉(ことごと)く切り詰めた教育で、そうして目の廻るほどこき使われるから、揃(そろ)って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日(こんにち)の、ただ今の事より外に、何も考えてやしない。考えられないほどに疲労しているんだから仕方がない。」(岩波文庫91―92ページ)
 ここで言う借金は外債のことを指しているが、これを国債と読み替えれば驚くほど今の日本の情況と似ている。現在、精神を病んでいる人はきわめて多いし、とくに教師の場合に多い、しかも精神をわずらうのならまだしも自殺する者が毎年3万人を超えている。過労死や過労自殺まで起きている。精神の余裕も失われている。「自分の事、自分の今日の、ただ今の事より外に、何も考えてやしない」も、現在のわが国の世相と実によく似ている。
それはそれとして、明治期の「近代化」は、「奥行を削って」無理をして「一等国の間口」を張ったものであった。
 漱石はまた、有名な和歌山での「現代日本の開化」と題する講演で「西洋の開化は内発的」だが、「日本の開化は外発的」だと言っている(三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫26ページ)。日本の近代化は、西欧に迫られての、いわば外圧による「近代化」であり、上からの「近代化」であつたところに大きな問題があった。
 ところが同じようなことが、敗戦後の民主化にもあった。これが今日まで日本の民主主義が未成熟なままであることの根本の原因である。
 以下に具体的にみてみよう。
 1945年8月15日の敗戦は、日本国民に大きな衝撃を与えた。そうして憲法を初めとして法制は民主的なものになった。しかし日本の当時の為政者や多くの国民の意識が大変革をとげたかというと、そうではなかった。国民、とくに為政者の意識は、敗戦前のそれから殆んど変わらなかった。為政者は、あくまでも国体の護持に拘りつづけていた。ここにいう国体とは、「万世一系の天皇が統治する国」の意である。ポツダム宣言受諾が三週間も遅れたのも、そのためである。この三週間の遅れは、日本国民に対する犯罪的な遅れであった。この間に広島・長崎の原爆投下があったし、多くの都市が焼夷弾攻撃で丸焼けとなり、死んだ者、肉親と家と家財一切を失った者は、おびただしい数にのぼった。原爆の被害が、いまなおつづいていることは周知のとおり。またこの間にソ連が参戦し、多くの残留孤児を生み、朝鮮半島は南北に分断された。その負の遺産は、現在も残されている。核問題、拉致問題をみただけでもそのことは歴然としている(北を含めて朝鮮の人々に対する過去の清算も未解決のまま)。
 ここではまず新憲法について述べてみたい。当時の支配層は、ポツダム宣言は、国体護持を前提としたものであったと認識していた。だからGHQから憲法の改正を迫られた当時の政府は、明治憲法に本質的な修正を加えない案(とりわけそれまでの天皇制を護持する案)を策定し、GHQに提出している。これは余りにも時代錯誤的であり、当時の国際情勢を知らなさすぎる案であったから、当然のこととしてGHQは、それに対抗する案を日本政府に突きつけた。それをみて政府関係者は驚愕している。天皇とその側近も同じである。しかし国民は、この新憲法を歓迎している。旧態に固執する支配層は、だから押しつけられたと感じたが、国民の多くは押しつけとは考えていなかったのである。当時、天皇制廃止を内容とする憲法案が共産党などから出されていたが、それが実現されることはなかった。当時の国民意識からすれば、「象徴天皇制」すなわち天皇から主権を奪うことさえ想像を絶することだった。先覚的な知識人でさえ、そうであった。
 「南原繁総長の発意で当時の東京帝国大学のなかに設けられた「憲法研究委員会」(1946年2月24日発足)のことを伝えた我妻栄(当時、委員のひとり)は、(四六年。筆者注)三月六日に「内閣草案要綱」(松本私案に対してGHQが示したマッカーサー草案に基本的に従ったもの。筆者注)が発表されたときの「多くの委員の驚きと喜び」を語っている。ここまでの改正が企てられようとは、実のところ、多くの委員は夢にも思わなかった」というのである。なお、我妻は、「・・・しかもなお、これを『押しつけられた不本意なもの』と考えた者は一人もいなかった」とつけ加えている」。
 内閣法制局参事官として帝国議会での政府答弁案の準備にあたった佐藤功は、当時をふりかえって、「日本国憲法の原案―マッカーサー案―を初めて見たときの鮮烈な感動、声を上げて叫びたいほどの解放感」をこう語っている。「『国民主権』とか、『基本的人権』とか、『法の支配』とかいうことは、私はもちろん書物では知っていましたけれども・・・
そういう言葉が他ならぬ日本の憲法に書きこまれるようになろうということは、不覚にも、私は思ってもおりませんでした。それが、それらの文字がこの憲法にちりばめられているのを目にしたときに感じた強烈な印象、感動というものを私はいまでも忘れることはできないのであります」(以上、樋口陽一「立憲主義の日本的展開」、最初に挙げた中村政則外編『戦後民主主義』所収、226―7ページ)。
 これが敗戦直後の日本の実情だったのである。
 以上につづけて、樋口さんは、こう問いかけている。
 「帝国憲法下で光栄ある前進と受難を経験した立憲主義憲法学のなかから、なぜ、一九四五年八月以降のいわば千載一遇の機会に、新しい日本の基本法をみずからの手でデザインすることができなかったのか」(同書227ページ。この問いかけは、私自身が長い間問いかけてきた疑問でもある)。この問いに、樋口さんは、それにつづいて答えを提示しているのだが、私なりに記してみると以下のごとくである。
 すなわち1945年8月15日の終戦直後まで、日本人は、天皇を神とあがめ、鬼畜米英に対する戦いで天皇に命を捧げるようにマインド・コントロールされていたのが、一夜にして自由と民主主義の世界に投げ込まれたのである。だから敗戦後も「自由だ」「民主主義だ」と言われても、ごく一部の先覚者を除けば、国民の大多数は西も東も分からない状態だったと言ってよい(呆然自失とか虚脱状態とも言われている)。憲法による自由と民主主義の保障は、またしても上(絶対的権力であった占領軍)から与えられたものであった。それを担うべき主体が不在であったのである。国民は暗い戦前・戦中を思い解放感を味わったことは事実だが、自由と民主主義をこの国に根づかせ発展させるだけの国民的力量がなかった。
 それがもっとも端的に表れたのが国民の天皇観である。天皇が法制上(憲法上)神から人へ、主権者から象徴へと変化してみても、国民の情緒は天皇崇拝・天皇敬愛に変わりがなかった。戦後の天皇の全国各地への「巡幸は、廃棄された天皇神社の痕跡をいっさい除去し、日本国民を彼らの臣民意識から解放するのではなく。それとは逆に、かつての偶像崇拝を復活させつつあるとの懸念があった」(ハーバート・P・ビックス「「象徴君主制」への衣替え」中村外編・前掲208ページ)。ビックスは、天皇巡航のさいの国民の反応を次のように書いている。
 「彼らは、天皇が近づいてくるのを見ると万歳を叫び、感激のあまり涙するのであった。彼らの顔の筋肉は緊張し、五体は強い電流に打たれたかのように震えた。」
 それをビックスは「従来のままの臣民意識の表われ」と評し、「ヒロヒトと天皇制を救った大いなる取引(GHQと天皇及びその側近との間の天皇制温存についての取引を指す。筆者注)は、アジア太平洋戦争の侵略的本質についての理解を妨げただけでなく、日本における真に民主的で、より責任ある政治の発展をも妨げた」と結論づけている(前掲書209ページ、218ページ。ビックスは、これらのことを『昭和天皇』上、下巻、講談社刊のなかで詳細に跡づけている)。国民の意識は戦前との「けじめ」がつけらないままに推移したのである。歴史の連続と不連続ということが言われるが、ここにも法制の戦前からの断絶と国民意識の戦前との連続を見ることができる。
そして不幸なことに、戦後間もなくにして東西冷戦の時代を迎え、朝鮮半島ではそれが実際に火を吹いた。占領政策は転換され、「逆コース」の時代となった(東西冷戦とそれに基因する占領政策の転換は、早くも敗戦後2年半たらずで起きている。具体的には1948年1月のロイヤル米陸軍長官の「日本は極東における共産主義の防壁」という演説に始まる)。
それに加えて50年代、60年代になると、高度経済成長の時代を迎えた。人々は、日本経済が成長すれば、そして何よりも自分が勤めている会社の業績があがれば、当然のように自分の収入が増え、生活が向上するという確信をもつことができた。敗戦後のどん底から這いあがった人々にしてみれば、自分の収入と生活の向上に夢中になるのは、ある意味では当然の成り行きであったが、自由や民主主義は頭から抜け去ってしまった。
80年代にはJapan as number one と賞賛されるまでになった。こうなると日本人の悲しい性(さが)で有頂天になり、もはや世界から学ぶことは何もないと考えるようになった。私のごく周辺でも、こうしたことを平然と口にする人が多かった。明治の初年以来、欧米に追いつけ追い越せで汗水たらして不平も言わず不満も言わずに頑張りとおしてきた日本人は、やっとキャッチアップの時代は終わったと思ったのである。ここでも自由と民主主義は、人々の頭から抜け落ちていた。しかし表面的な「繁栄」は一気にバブルへと駆け上り90年代に入ってバブルが崩壊した。その後には失われた10年という長期低迷に陥る。低迷は、実際には10年を超えてつづいた。その間、国民は目標を見失い新しい確かな生き方を見出し得ないままに漂流した。
 こうして今日に至ったのである。
しかし私が以上に述べたことに対し、占領軍が民主化を先取りし、日本国民自らの手による下からの民主化を妨げたとか、冷戦前から占領軍は、食料メーデーに対して「批判的」態度をとったり、2・1ストを抑圧するなど、国民の民主化運動を抑えたという意見もあるだろう。そうした事実があったことは確かであるが、私は、前述したような当時の日本国民のおおかたの意識からみて、日本国民自身による民主化が実現できたとは思えない。もし日本国民自身に民主化への確かな構想と強い意思とエネルギーとがあったとしたら、敗戦後の展開は、もっと違ったものになったはずである。戦争は天皇の意思で始まり、終戦もまた天皇の裁断によってなされた。国民自らの手によって戦争を終結させることはできなかったのである。また冷戦後も全面講和運動、米軍基地や自衛隊に対する反対運動=平和・護憲の運動、多くの基地訴訟、日教組の勤評闘争と多くの勤評裁判、警察官等職務執行法(警職法)反対闘争、三井三池闘争、60年安保闘争、学テ闘争、多くの学テ裁判など注目すべき国民運動や労働者の闘争があったことを忘れるべきではない、という意見もあるだろう。それもその通りだが、しかしたとえば60安保闘争が今日の若者にどれほど影響をとどめているだろうか。若者の意識や行動から見る限り、この痕跡は微塵も残ってはいない。
これを要するにわが国では、民主的運動や平和運動の国民的経験とそれを支えた意識の歴史的な持続や蓄積あるいはその継承発展が存しないのである。
それ故先に述べたことが、同時代を生きてきた私の率直な実感なのである。
今改めて学校における日の丸・君が代の強制を受けて、私たちは、初めて自分たちの国
の自由も民主主義も不十分なままであったことに気づかされた、というのが実情ではなかろうか。
 以上のような戦後認識と現状認識から私の国民的課題の探求と明確化が始まるのである。それは次回以降に述べる。

日本の民主主義についてA

 さて前回、明治期の日本の「近代化」=西欧化について述べたが、いま一度そのことについて触れておきたい。
 明治政府が「近代化」を急いだのはー明治20年代にはほぼ「近代的」法制を確立したー一つには、幕末に泰平の夢から目をさましてみると、日本の目と鼻の先で欧米列強が植民地争奪戦を繰りひろげており、日本も植民地化されるのではないかと恐れていたことが挙げられよう。時代はまさに帝国主義真っ盛りの時期であった。年代史的にみても1840年から42年にかけて有名なアヘン戦争があり、清国は、わずかなイギリス軍に敗れている。当時の日本人は中国を大国だと信じていたから、この知らせは日本の知識人に大きな衝撃を与えた。つづいてイギリスは、ビルマ(現ミャンマー)、マレーシア、シンガポールへと植民地を拡大し、フランスはベトナム、カンボジア、ラオスを植民地化し、アメリカはスペインとの戦争に勝利しフィリピンをスペインから奪った。明治維新に前後する時期にこれらの事件が、相次いで起きているのである。
 いま一つには、幕府が幕末に欧米列強と結んだ不平等条約を改正するためであった。不平等条約を改正するには、欧米諸国に近代国家として認知してもらう必要があった。そこで明治政府は、徹底して西欧諸国の制度の導入―徹底した西欧の模倣―に走った。たとえば明治憲法が発布された後、1889(明治22年)年7月から約一年をかけて、伊藤の配下である金子堅太郎が、伊藤編集の『憲法義解』をたずさえて欧米諸国を訪れている。その目的は、「彼国議員内部の組織を始め議事規則、議員建物の管轄、院内の警察権、議事の速記」といった「憲法統治の実況」を調査することであったが、同時に重要な任務は、明治憲法に対する欧米諸国の評価を知るためであった。つまり近代国家の憲法として認知されるかどうかを調査するためである。「明治憲法お披露目の旅」とも言われている。金子の帰朝報告を聞いた伊藤は、次のように語ったという。
 「吾輩は君が出発してから帰って来る迄小田原の別荘にて、日夜どう云ふやうに欧米の政治家や憲法学者が批評するかと内心びくびくして居ったが、今君から詳しい報告を聞いて安心した」(以上、瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』189ページ、196ページ)。
 このように西欧文明が日本に奔流のように流れ込み、日本人はそれに圧倒され、根深い西欧コンプレックスが生まれた。そのコンプレックスから日本人が免れたのは、そう遠い昔のことではない(しかしそれに代わってアメリカへの政治的、軍事的な従属と経済政策・企業経営の在り方についてのアメリカ・モデルへの信仰が生まれている)。そのため逆にそれに対するリアクションが生まれた。和魂洋才の思考がそれである。西欧文明に対抗する和魂の典型が教育勅語である。科学技術や物質文明は、西欧を受け入れるとしても、日本人の魂は失わないというわけである。しかし外国文明に対する対抗意識は、これに始まったわけではない。和魂洋才の前には和魂漢才と言った。漢は、いうまでもなく中国である。少しく余談になるが、幕末までの長い間、日本は中国文明の影響下にあった。それへの対抗意識から本居宣長らの国学が興った。と、私は見当をつけて、以前から本居宣長に目をつけていた。子安宣邦さんの『本居宣長』(岩波現代文庫)を読んでみると、果たせるかな宣長が、中国文明に対して強烈な対抗意識をもっていたことが歴然としてくる。これは対中コンプレックスの裏返しにほかならない。歴史をみていると、どうも日本人は、日本に影響を与えた外国文明に対するコンプレックスと対抗意識をもちつづけてきたように思えてならない。それが日本人の意識の流れの通奏低音になっており、なにか事があると、それが表面化してきたように思えてならない。1990年代後半からの歴史修正主義(自由主義史観と呼ばれた)の台頭と横行もー日本を戦争のできる国にするという政治的背景があったことはもちろんだがーこのような日本人の通奏低音の表出と考えられる。なにしろ80年代にJapan as number one と賞賛されていた自慢の経済が長期低迷へと落ち込み、なんとか建て直しをしようと予算のばら撒きをした結果、財政も破綻情況になってしまったのだから。自殺者がここ数年3万人を超えるという有様である。こうした自身喪失が自画自賛の歴史修正主義を生む土壌となったと考えられる。
 もう少しおしゃべりを続けたい。1894(明治27)年、志賀重昂(しげたか)という人が『日本風景論』という本を書いている。そのなかで彼は、「霊峰富士」を初めとしてわが国の風景や四季の移ろいの美しさを礼賛しているが、随所で「烈々たる敵愾心を燃やして、諸外国と日本の風景を対決させている。いわく、イギリスの詩人はその秋を讃えるが、かの国に見事な紅葉があるか。日本にはあるぞ。・・・一つでも火山があるか。日本にはそれはもうあるぞ。・・・ことに支那は最悪だ」(浅羽通明『ナショナリズムー名著でたどる日本思想入門』99ページ)。この本が日清戦争の年にベストセラーになったそうである。ここまでくると、なんだか馬鹿馬鹿しくなるし、どうみても子どもじみている。戦前・戦中の日本の教科書や最近の「つくる会」の教科書をみる思いがする。この本の岩波文庫’(1995年新版)には、志賀の先輩である内村鑑三の当時の書評を掲載しているが、「内村は、ハワイの火山、ナイアガラの瀑布、マッターホルンの高峰、アラビアの大砂漠、エベレスト山(チョモランマ)などを、一つでも匹敵すべきものが日本にあるかといわんばかりに羅列して」志賀の論を揶揄している(同書100ページ)。私は、これを読んで思わず吹き出してしまった。これまた日本人の視野の狭さを、これでもかこれでもかと見せつけられる思いである。
 もちろん私は、現在の日本人の自身喪失を嘲っているわけではない。日本のすぐれたところは、日本人として認識し誇りに思うべきだと考えている。しかし臭いものには蓋式の歴史修正主義では困る。日本国、日本人あるいは日本文明のよいところ劣っているところを、もっと客観視することが必要だと言いたいのである。そのためには諸外国にも、それぞれにいいところがあること、日本のいいところも、そのなかの一つであると相対化して考えるべきである。今のように日本人の多くが精神の余裕を失っているようでは、それがむつかしいのである。
 大分長くなったので、ここらで一旦終えることにする。

日本の民主主義について

                                       
 前回に続けて陶潜その他の中国の詩人の詩について書きたいが、急を要する現実問題があるので、以下、4―5回をかけて、日本の民主主義かかわる本を紹介しながら、私の意見を述べてみたい。
 東京都立学校の日の丸・君が代強制反対訴訟(その内のいわゆる予防訴訟)の証人として大田堯先生に証言していただいたが、その冒頭に強制の元となった都教委の03年10月23日の通達(10・23通達という)を取り上げ、なぜこのような通達が平然と出され、それが教育現場でまかり通っているのかという質問を置いた。先生のお答えは、「わが国の民主主義が未成熟だから」というものであった(この証言記録と意見書等をまとめた本が年内に一ツ橋書房からブックレットの形で出版される)。戦後民主主義の「もろさ」という人もいる。私もまったく同感なのである。その未成熟な民主主義さえも今奪われようとしている。問題は、なぜ戦後民主主義の時代を迎えてすでに60年にもなるのに、この国の民主主義がこのような状態にあるのかという点にある。その答えは、先生の証言でも詳しく触れられているが、私なりに意見を述べておくと、以下のようである。
 まず以下で取り上げる主要な本を紹介しておくと、本多秋五『物語 戦後文学史』(上)(中)(下)岩波現代文庫と中村政則・天川晃・伊健次・五十嵐武士編『新装版 戦後日本』全6巻のうち第3巻『戦後思想と社会意識』、第4巻『戦後民主主義』、第6巻『戦後改革とその遺産』岩波書店である。前者はすでに読み終わったが、後者はいま読んでいるところである。この6巻本は、1995年、戦後50年の節目に出版されたものであるが、戦後60年の節目の今年、再販されたものである。この10年の間に日本はずいぶん変わった。その点を考慮に入れる必要があるが、今日でもなお有用な本であると言える。後は必要に応じて他の本や雑誌を引用する。
 日本の民主主義が未成熟であることは、国内外の多くの人が指摘している。
 たとえば小泉首相の登場の際の支持率が、90パーセント台であったか80パーセント台であったか忘れたが、フランスの新聞が「日本の民主主義はいまだ成熟していない。成熟した民主主義の国では、こういうことはあり得ない」と報じていることを、日本の新聞が紹介していた。日高六郎さんは、「前回帰国したときは「日の丸・君が代」問題で驚きました。九十数%が実施するなんて。これは完全に全体主義国家ですよ。(イラクなど)あったでしょ、投票率一○○%なんて国と同じでしょ」と述べている(「憲法座談会 改憲掲げる小泉自民党にどのように抵抗するか」(週刊金曜日05年11月4日号23ページ)と述べている。高橋哲哉さんは、「戦後民主主義はメッキにすぎず、いまそれが剥げて地金がでてきたのだ」という趣旨のことを書いている(「思想・良心の自由と教育―抵抗することの意味を考える」かもがわブックレット『私の不服従 東京都の「命令」に抗して』所収)。戦前の体験をもつ私は、戦前に比べれば思想や言論の自由が保障されるようになったことを実感しているが、現在のこの国の民主主義の危機的情況と国民一般の危機感の希薄さを目にするにつけて、それと似た考えをもたざるを得ない。最大の危機は、危険な情況にありながら危機感をもたないことである。有名なタイタニック号の悲劇も、沈没する寸前まで船長以下の船員も乗客も、沈没するとは夢にも思っていなかったことに基因している。私はこれまでもこの国の民主主義の危機を事あるごとに訴えてきたが、今後はもっとはっきり言う必要があると考えている。
 さて問題のなぜそうなのかということだが、歴史的には恐らく中世くらいまで遡る必要があるのであろうが、その話は別にするとして、少なくとも江戸時代までは遡って考えるべきであろう。若葉みどりさんは、『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』(集英社)という本の中で「他の文明や宗教を排除する鎖国体制」は「日本の悲劇であった」「日本は世界に背を向けて国を閉鎖し、個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦いとった西欧近代世界に致命的な遅れをとった」と書いている(同書531ページ)。私もそのように思う。国家がすることでその国民にとって最悪なことの一つは、外からの情報を遮断することである。そのことは、歴史上も現代も多くの事例があるではないか。外からの情報を遮断すると、国民は世界的規模でものを見、考えることができなくなる。外の世界を知らなくなる。「井の中の蛙大海を知らず」とは、よく言ったものである。現在でも日本人の視野の狭さは、しばしば問題にされている。この視野の狭さが重要な判断を誤らせる。小泉首相の外交政策も、その視野の狭さのゆえに対米一辺倒になり、中国や韓国との関係を最悪なものにしてしまっている。
 明治維新は「市民革命とはいえない」とよく言われ、結局は天皇を担ぎ出し、天皇制絶対主義国家を造ってしまったが、これも260年にわたる鎖国のなせる業だと考える。明治期のわが国の近代化はすなわち西欧化にほかならなかったが、当時の為政者は、西欧諸国の法制その他の文物について感心するくらいよく調べている。かなり前から中国人戦争被害者訴訟の関係で、国家無答責に関する文献をいろいろと調べてみたが、当時の為政者が、欧米諸国の法制を維新以来わずか20年前後の時期に、しかも数年間というきわめて短期間のうちにかくも詳しく調べていることに感心した。明治初年の遣欧米使節団や明治10年代の伊藤博文の憲法調査のための渡欧はその一端である(これらについては、たとえば田中彰『明治維新と西洋文明』岩波新書、瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』講談社を参照されたい)。
今日の私たちは、欧米諸国の事情について、彼ら以上にはるかに詳しい知識をもっているが、それは維新以来130数年をへているからであって、私たちが現在の欧米諸国の事情をこれほど詳しく調べているかと言えば、到底そうは言えない。
 ところでこのような長年にわたる鎖国政策のために、明治政府が選択し得た選択肢は、きわめて限られていたと考えられる。もちろん当時の為政者を、そのゆえに弁護しようとしているのではない。そのような考えは毛頭ない。私が言いたいのは、鎖国すなわち外からの情報の遮断がいかに大きな禍を国民に与えたかということである。最近の日本も、一種の鎖国状態にあるのではないかと言われることが多い(たとえば大江健三郎『鎖国してはならない』講談社参照)。閉鎖的で内向き志向にとらわれ、国外にもち出せば決して通用しない「論理」を身内だけで論じて得々とし、それに陶酔しているからである。
 明治期の為政者が欧米諸国のことをよく調べていると言っても、彼らが見聞したことは、所詮その時点でのいわば瞬間風速だけであり、西欧における中世自由都市の歴史から始まって19世紀半ばまでの西欧の精神的価値の創出と蓄積の歴史まで調べたわけではない。そのような歴史的パースペクティブを彼らに求めても無理な話である。短期間のうちにそこまで理解できるわけがない。しかしそのことが分からないと、西欧が生み出した精神的価値の意義―個人の尊厳、思想・良心・信教の自由、自分と他人の思想の違いを認め合い尊重し合う寛容の精神や市民的自治の精神の意義―を理解することはできないのである。私の民主主義論も、そこから始まる。
 今回は、いわば入口のところで終わってしまったが、次回以降にこの続きを書いてみたい。

漢詩について

 私は、60代も半ばになって、初めて漢詩のすばらしさに気づくようになった。若いころにも唐詩百選などを読んではいたが、それはもっぱら好奇心からであり、教養が少し広くなったという以上の印象はなかった。ところが丁度私が中国人戦争被害者損害賠償訴訟にかかわるころのことである。もっともこの両者に関係があったわけではない。偶然の一致なのである。漢詩の簡潔で雄勁な表現力や人と人の世についての奥深い洞察と自然への沈潜を理解できるようになったのである。漢詩の深みを理解するには、それ相応の年輪が必要だということか。人は、その年にならないと、理解できないことがあるとよく言われるが、私における漢詩もその類であろう。
漢詩人のなかで私がもっとも好きなのは、陶潜(わが国では陶淵明の名で有名である。427年没)、杜甫(712—770年)、李白(701—762年)である。その他にも好きな中国の詩人や詩はいくらでもあるが、もっとも敬愛しているものといえば、この三人である。わが国の漢詩人では夏目漱石ただ一人である。漱石については、また後に詳しく触れる。
話を本筋にもどして、右の三人のなかでもとりわけ私の心に響くのは陶潜であり、彼の詩のなかでも最も好きな詩は、晩年の「飲酒 二十首」のなかの「飲酒 その五」である。それは、こういう詩である。
      結盧在人境   盧(いおり)を結んで人境に在り
      而無車馬喧   而(しか)も車馬の喧(かしま)しき無し
      問君何能爾   君に問う何ぞ能(よ)く爾(しか)るやと
      心遠地自偏   心遠ければ地自ずから偏なり
      采菊東籬下   菊を東籬(とうり)の下に采(と)り
      悠然見南山   悠然として南山を見る
      山気日夕佳   山気日夕に佳(よ)く
      飛鳥相与環   飛鳥(ひちょう)相与(あいとも)に環(かえ)る
      此中有真意   此の中(うち)に真意有り
      欲弁已忘言   弁ぜんと欲して已(すで)に言を忘る
この古い時代の詩人の詩を、アメリカ人(William Acker)が英訳しているというから驚く(欧米人の東洋文化に対する関心の強さと造詣の深さには、このほかにもしばしば驚かされている。このことについては、また後で触れる。その点現在の日本人の方が東洋の文化に無関心だと言わざるを得ない)。この詩のなかの「真意」をどう解するかが学界でも問題になっているようであり、吉川幸次郎さんは、「此の平和な美しい風景の中にこそ、真意、すなわち宇宙の真実は把握される」と解している(『陶淵明伝』中公文庫78頁)。これに対し一海知義さんは、自由Freedom としている(同書84頁)。かのアメリカ人は、A hint of truth と訳している(同書85頁)。それぞれに工夫した解釈であり、私はそのいずれにも共鳴している。
いま一つ「帰園田居」と題する陶潜の晩年の詩を挙げたい。
      少無適俗韻   少(わか)きより俗に適する韻無く
      性本愛丘山   性本(もと)丘山を愛す
      誤落塵網中   誤って塵網(じんもう)の中に落ち
      一去十三年   一去十三年
      羈鳥恋旧林   羈鳥(きちょう)旧林(きゅうりん)を恋い
      池魚思故淵   池魚(ちぎょ)故淵を思う
      開荒南野際   荒(こう)を南野の際に開かんと
      守拙帰田園   拙を守って田園に帰る
            (中略)
      戸庭無塵雑   戸庭(こてい)塵雑(じんざつ)無く
      虚室有余閨@  虚室余阯Lり
      久在樊籠裏   久しく樊籠(はんろう)の裏(うち)に在(あり)しも
      復得返自然   復(ま)た自然に返るを得たり

これは現代語訳が必要であろう。
「若いころから俗世間と調子があわず、生まれつき山や丘といった自然が好きだった。
まちがって役人生活に入り、あっという間に十三年たってしまった。かごの鳥は古巣の林を恋しく思い、池の魚は淵をなつかしむ。
南の野原で荒地を開拓しようと、世渡りべたの分を守って故郷の田舎に帰った。
            (中略)
庭先にはちり一つなく、がらんとした部屋はゆったりと静か。
長い間鳥かごにとじこめられていたが、やっと本来の自分にかえることができた。」(石川忠久監修NHK取材グループ編NHK漢詩紀行(二)46―47頁より)
この詩を好むのは、私自身が他人や世間との関係をうまくつくれない性格だからである。若いころから都会より自然を愛した。私も「かごの鳥」ではないが「林を恋しく思う」たちである。とくに大都会は、私の神経には合わない。よくも東京のような大都会に50年以上も住んでいたものだと思うし、それ以上に他人や世間とうまくつきあうことが必要とされる弁護士生活を、よくも50年も続けてきたものだと我ながら感心(寒心か)している。
今回は、これで終わりにする。