プロフィール

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名前
尾山宏
生年月日
1930年12月29日生。東京で生まれた後、北九州小倉に移住
経歴
1953年東京大学法学部卒/1956年弁護士開業 1957年愛媛県の勤務評定反対闘争に派遣される。 1988年日本教職員組合常駐顧問弁護士に。 日教組分裂で顧問辞任。 読書大好きの弁護士です。

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No.4の記事

日本の民主主義についてB

 しゃべり出すと、どうにも止まらない。以前なんかそういう歌詞の流行歌があったな。悪い癖だと承知しているが、これもDNAのなせる仕業だろう。
 さて前回、明治期の「近代化」が短期間のあいだに早急になされたことを述べたが、そのため「近代化」は、かなり歪んだものになった。当時の為政者は、西欧が中世以降に生み出した精神的価値を継承するよりも、欧米列強の帝国主義に多くを学んでしまった。なにしろ自由・平等・博愛を唱えている国々が先を競って植民地争奪戦に乗り出したのだから、瞬間風速しか感じ取れなかった明治政府にとっては、まことに不幸な西欧との出会いであったと言うほかはない。
 しかしそのことが後世に大きな禍をもたらしたことは、周知の通りである。
 夏目漱石は、小説『それから』の中で、主人公の代助にこう言わせている。
 「日本ほど借金を拵(こしら)えて、貧乏震(びんぼうぶる)いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。・・・日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以(もっ)て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行(おくゆき)を削って、一等国だけの間口(まぐち)を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌(ろく)な仕事は出来ない。悉(ことごと)く切り詰めた教育で、そうして目の廻るほどこき使われるから、揃(そろ)って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日(こんにち)の、ただ今の事より外に、何も考えてやしない。考えられないほどに疲労しているんだから仕方がない。」(岩波文庫91―92ページ)
 ここで言う借金は外債のことを指しているが、これを国債と読み替えれば驚くほど今の日本の情況と似ている。現在、精神を病んでいる人はきわめて多いし、とくに教師の場合に多い、しかも精神をわずらうのならまだしも自殺する者が毎年3万人を超えている。過労死や過労自殺まで起きている。精神の余裕も失われている。「自分の事、自分の今日の、ただ今の事より外に、何も考えてやしない」も、現在のわが国の世相と実によく似ている。
それはそれとして、明治期の「近代化」は、「奥行を削って」無理をして「一等国の間口」を張ったものであった。
 漱石はまた、有名な和歌山での「現代日本の開化」と題する講演で「西洋の開化は内発的」だが、「日本の開化は外発的」だと言っている(三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫26ページ)。日本の近代化は、西欧に迫られての、いわば外圧による「近代化」であり、上からの「近代化」であつたところに大きな問題があった。
 ところが同じようなことが、敗戦後の民主化にもあった。これが今日まで日本の民主主義が未成熟なままであることの根本の原因である。
 以下に具体的にみてみよう。
 1945年8月15日の敗戦は、日本国民に大きな衝撃を与えた。そうして憲法を初めとして法制は民主的なものになった。しかし日本の当時の為政者や多くの国民の意識が大変革をとげたかというと、そうではなかった。国民、とくに為政者の意識は、敗戦前のそれから殆んど変わらなかった。為政者は、あくまでも国体の護持に拘りつづけていた。ここにいう国体とは、「万世一系の天皇が統治する国」の意である。ポツダム宣言受諾が三週間も遅れたのも、そのためである。この三週間の遅れは、日本国民に対する犯罪的な遅れであった。この間に広島・長崎の原爆投下があったし、多くの都市が焼夷弾攻撃で丸焼けとなり、死んだ者、肉親と家と家財一切を失った者は、おびただしい数にのぼった。原爆の被害が、いまなおつづいていることは周知のとおり。またこの間にソ連が参戦し、多くの残留孤児を生み、朝鮮半島は南北に分断された。その負の遺産は、現在も残されている。核問題、拉致問題をみただけでもそのことは歴然としている(北を含めて朝鮮の人々に対する過去の清算も未解決のまま)。
 ここではまず新憲法について述べてみたい。当時の支配層は、ポツダム宣言は、国体護持を前提としたものであったと認識していた。だからGHQから憲法の改正を迫られた当時の政府は、明治憲法に本質的な修正を加えない案(とりわけそれまでの天皇制を護持する案)を策定し、GHQに提出している。これは余りにも時代錯誤的であり、当時の国際情勢を知らなさすぎる案であったから、当然のこととしてGHQは、それに対抗する案を日本政府に突きつけた。それをみて政府関係者は驚愕している。天皇とその側近も同じである。しかし国民は、この新憲法を歓迎している。旧態に固執する支配層は、だから押しつけられたと感じたが、国民の多くは押しつけとは考えていなかったのである。当時、天皇制廃止を内容とする憲法案が共産党などから出されていたが、それが実現されることはなかった。当時の国民意識からすれば、「象徴天皇制」すなわち天皇から主権を奪うことさえ想像を絶することだった。先覚的な知識人でさえ、そうであった。
 「南原繁総長の発意で当時の東京帝国大学のなかに設けられた「憲法研究委員会」(1946年2月24日発足)のことを伝えた我妻栄(当時、委員のひとり)は、(四六年。筆者注)三月六日に「内閣草案要綱」(松本私案に対してGHQが示したマッカーサー草案に基本的に従ったもの。筆者注)が発表されたときの「多くの委員の驚きと喜び」を語っている。ここまでの改正が企てられようとは、実のところ、多くの委員は夢にも思わなかった」というのである。なお、我妻は、「・・・しかもなお、これを『押しつけられた不本意なもの』と考えた者は一人もいなかった」とつけ加えている」。
 内閣法制局参事官として帝国議会での政府答弁案の準備にあたった佐藤功は、当時をふりかえって、「日本国憲法の原案―マッカーサー案―を初めて見たときの鮮烈な感動、声を上げて叫びたいほどの解放感」をこう語っている。「『国民主権』とか、『基本的人権』とか、『法の支配』とかいうことは、私はもちろん書物では知っていましたけれども・・・
そういう言葉が他ならぬ日本の憲法に書きこまれるようになろうということは、不覚にも、私は思ってもおりませんでした。それが、それらの文字がこの憲法にちりばめられているのを目にしたときに感じた強烈な印象、感動というものを私はいまでも忘れることはできないのであります」(以上、樋口陽一「立憲主義の日本的展開」、最初に挙げた中村政則外編『戦後民主主義』所収、226―7ページ)。
 これが敗戦直後の日本の実情だったのである。
 以上につづけて、樋口さんは、こう問いかけている。
 「帝国憲法下で光栄ある前進と受難を経験した立憲主義憲法学のなかから、なぜ、一九四五年八月以降のいわば千載一遇の機会に、新しい日本の基本法をみずからの手でデザインすることができなかったのか」(同書227ページ。この問いかけは、私自身が長い間問いかけてきた疑問でもある)。この問いに、樋口さんは、それにつづいて答えを提示しているのだが、私なりに記してみると以下のごとくである。
 すなわち1945年8月15日の終戦直後まで、日本人は、天皇を神とあがめ、鬼畜米英に対する戦いで天皇に命を捧げるようにマインド・コントロールされていたのが、一夜にして自由と民主主義の世界に投げ込まれたのである。だから敗戦後も「自由だ」「民主主義だ」と言われても、ごく一部の先覚者を除けば、国民の大多数は西も東も分からない状態だったと言ってよい(呆然自失とか虚脱状態とも言われている)。憲法による自由と民主主義の保障は、またしても上(絶対的権力であった占領軍)から与えられたものであった。それを担うべき主体が不在であったのである。国民は暗い戦前・戦中を思い解放感を味わったことは事実だが、自由と民主主義をこの国に根づかせ発展させるだけの国民的力量がなかった。
 それがもっとも端的に表れたのが国民の天皇観である。天皇が法制上(憲法上)神から人へ、主権者から象徴へと変化してみても、国民の情緒は天皇崇拝・天皇敬愛に変わりがなかった。戦後の天皇の全国各地への「巡幸は、廃棄された天皇神社の痕跡をいっさい除去し、日本国民を彼らの臣民意識から解放するのではなく。それとは逆に、かつての偶像崇拝を復活させつつあるとの懸念があった」(ハーバート・P・ビックス「「象徴君主制」への衣替え」中村外編・前掲208ページ)。ビックスは、天皇巡航のさいの国民の反応を次のように書いている。
 「彼らは、天皇が近づいてくるのを見ると万歳を叫び、感激のあまり涙するのであった。彼らの顔の筋肉は緊張し、五体は強い電流に打たれたかのように震えた。」
 それをビックスは「従来のままの臣民意識の表われ」と評し、「ヒロヒトと天皇制を救った大いなる取引(GHQと天皇及びその側近との間の天皇制温存についての取引を指す。筆者注)は、アジア太平洋戦争の侵略的本質についての理解を妨げただけでなく、日本における真に民主的で、より責任ある政治の発展をも妨げた」と結論づけている(前掲書209ページ、218ページ。ビックスは、これらのことを『昭和天皇』上、下巻、講談社刊のなかで詳細に跡づけている)。国民の意識は戦前との「けじめ」がつけらないままに推移したのである。歴史の連続と不連続ということが言われるが、ここにも法制の戦前からの断絶と国民意識の戦前との連続を見ることができる。
そして不幸なことに、戦後間もなくにして東西冷戦の時代を迎え、朝鮮半島ではそれが実際に火を吹いた。占領政策は転換され、「逆コース」の時代となった(東西冷戦とそれに基因する占領政策の転換は、早くも敗戦後2年半たらずで起きている。具体的には1948年1月のロイヤル米陸軍長官の「日本は極東における共産主義の防壁」という演説に始まる)。
それに加えて50年代、60年代になると、高度経済成長の時代を迎えた。人々は、日本経済が成長すれば、そして何よりも自分が勤めている会社の業績があがれば、当然のように自分の収入が増え、生活が向上するという確信をもつことができた。敗戦後のどん底から這いあがった人々にしてみれば、自分の収入と生活の向上に夢中になるのは、ある意味では当然の成り行きであったが、自由や民主主義は頭から抜け去ってしまった。
80年代にはJapan as number one と賞賛されるまでになった。こうなると日本人の悲しい性(さが)で有頂天になり、もはや世界から学ぶことは何もないと考えるようになった。私のごく周辺でも、こうしたことを平然と口にする人が多かった。明治の初年以来、欧米に追いつけ追い越せで汗水たらして不平も言わず不満も言わずに頑張りとおしてきた日本人は、やっとキャッチアップの時代は終わったと思ったのである。ここでも自由と民主主義は、人々の頭から抜け落ちていた。しかし表面的な「繁栄」は一気にバブルへと駆け上り90年代に入ってバブルが崩壊した。その後には失われた10年という長期低迷に陥る。低迷は、実際には10年を超えてつづいた。その間、国民は目標を見失い新しい確かな生き方を見出し得ないままに漂流した。
 こうして今日に至ったのである。
しかし私が以上に述べたことに対し、占領軍が民主化を先取りし、日本国民自らの手による下からの民主化を妨げたとか、冷戦前から占領軍は、食料メーデーに対して「批判的」態度をとったり、2・1ストを抑圧するなど、国民の民主化運動を抑えたという意見もあるだろう。そうした事実があったことは確かであるが、私は、前述したような当時の日本国民のおおかたの意識からみて、日本国民自身による民主化が実現できたとは思えない。もし日本国民自身に民主化への確かな構想と強い意思とエネルギーとがあったとしたら、敗戦後の展開は、もっと違ったものになったはずである。戦争は天皇の意思で始まり、終戦もまた天皇の裁断によってなされた。国民自らの手によって戦争を終結させることはできなかったのである。また冷戦後も全面講和運動、米軍基地や自衛隊に対する反対運動=平和・護憲の運動、多くの基地訴訟、日教組の勤評闘争と多くの勤評裁判、警察官等職務執行法(警職法)反対闘争、三井三池闘争、60年安保闘争、学テ闘争、多くの学テ裁判など注目すべき国民運動や労働者の闘争があったことを忘れるべきではない、という意見もあるだろう。それもその通りだが、しかしたとえば60安保闘争が今日の若者にどれほど影響をとどめているだろうか。若者の意識や行動から見る限り、この痕跡は微塵も残ってはいない。
これを要するにわが国では、民主的運動や平和運動の国民的経験とそれを支えた意識の歴史的な持続や蓄積あるいはその継承発展が存しないのである。
それ故先に述べたことが、同時代を生きてきた私の率直な実感なのである。
今改めて学校における日の丸・君が代の強制を受けて、私たちは、初めて自分たちの国
の自由も民主主義も不十分なままであったことに気づかされた、というのが実情ではなかろうか。
 以上のような戦後認識と現状認識から私の国民的課題の探求と明確化が始まるのである。それは次回以降に述べる。