2005年9月

弁護士登録の感慨

 2004年12月6日限り裁判官を定年退職した。さて、これから弁護士として再出発だと頭の中では考えながら、どうもエンジンがかからない。同期の友人が、定年まで裁判所にいると、弁護士として再出発する気力がなくなるおそれがあるからと言って60歳で退官したが、なるほどと思った。しかし、自分は身の程知らずに尊敬する先輩の大方が定年まで頑張られたので、それに見習おうとした。
 12月7日の誕生日は、無職で迎えたが、特別の感慨は湧かなかった。現役引退という弛緩した気分にもならなかった。さっそく弁護士登録に必要な書類の準備にかかったが、これが大変だ。在任中に裁判所の事務局にお願いしておけば良かったのに、そこまで気がまわらなかった。総務課に相談に行くと、それは親切に援助してくれた。司法修習終了証明書と最高裁作成の履歴書(判事補履歴記載のもの)は、直ぐ手配してくれた。
 申請書類が整ったのは、2005年1月10日過ぎで1月14日付けで「弁護士名簿登録請求書」を提出した。そして、埼玉弁護士会の2月8日の常議員会に出頭を求められ、人物評価をされた上、宣誓書を読まされた。弁護士法1条の使命を忠実に果たすことを誓った。自分の歳を忘れる一瞬だった。
 日弁連の承認は、2月17日の常議員会であったと薄々聞いた。その後、バッジを受け取った。桐の小箱に入った菊の紋章で真ん中の筒状花部分に天秤が描かれており、登録番号は「32415」であった。1から5までの数字が全部入っているが、なかなか覚えにくい順序である。このバッジは日弁連から貸与を受けているものだという。金メッキでよく光っている。闇夜を照らそうというのだろうか。
 初仕事は、中国残留婦人国家賠償訴訟の準備であり、2月27日に行われた弁護団の原告候補者からの事情聴取に参加した。この残留婦人たちは終戦時13歳以上ということから、日本語に不自由はなく、意思の疎通に支障はなかった。いずれも過酷な境遇のなかで生き延び、結婚して子供を産み、苦労を重ねた上、子どもと夫を連れて帰国した婦人が多い。国家の勝手さと非常さ、人間の強さ、特に母性の偉大さを感じた。国家の存在理由も考えさせられた。
 次は、3月14日に弁護士会のホームページを見たという若い男性から、結婚前に一時的に交際した女性との間にできた子どもの養育費の支払額について相談があった。相談料のみで、調停申立書などの原案を作ってやり、結局、調停で解決した。審判になったら、法律扶助で付いてやろうと思って準備をしておいたが、その必要もなかった。
 こうした飛び込みの事件は、その後半年になるが、1件もない。やはり、自分は事件を呼ばない男だからではないかと思ったりもしている。
 弁護士として動く場合、必ずその資格を示す必要がある。名刺、バッジ、登録番号を出したり書いたりすることが多い。被疑者や被告人との面会の際は、バッジの小箱の上に張られた番号をいちいち見ては書いている。「32415」は覚えずらい。1から5という数字が揃っているため、かえって記憶に残らない。最初の「3」は出てくるが、後はさっぱり出てこない。
 こんなところが、弁護士登録をしてみた感慨である。なんと平凡で貧しいものであろうか。裁判官生活の中で、感受性が減退してしまったのだろうか。感受性を豊かにして、弁護士の使命をささやかに果たしたいと思っている。
(平成17年8月30日記)