意 見 陳 述 書
 
清  水   宏  夫
 
 
 私は、原告番号2番の清水宏夫です。原告団を代表する3名のうちの一人です。原告団を代表して意見を述べます。
 
 
 私は、1937年に満州で生まれ、日本に帰国したのは1979年のことです。しかし、日本国籍を認められたのは1984年になってからです。それまで外国人登録をしていました。住居は横浜市内にあり、妻と二人で住んでいます。中華街の中国貿易公司というところで週4日程度のアルバイトをしています。
 
 両親は1932年頃、満州に渡り、間島省において和菓子屋をしていました。母は1943年、5番目の子供を産むときに亡くなりました。
 父は、私たちを残して招集(しょうしゅう)されて戦場(せんじょう)に行きました。私たち子供3人は父の親戚に引き取られました。
 当時私たち子供はそれぞれ姉の芳美が11歳、私が7歳、妹の三千代が4歳でした。母は既に亡くなり父が一人で私たちを育てていたのです。この生活状況(せいかつじょうきょう)において、父親が政府の命令に従って戦争に行ってしまったのです。
 父は戦争で負傷し、敗戦後の1945年8月25日、延吉県東寧第一陸軍病院で戦病死(せんびょうし)したそうです。
 
 敗戦後、私達は親戚の人達と一緒に延吉の日本人収容所に入りました。しかし、収容所にいた多くの日本人は,飢(う)えと発疹(はっしん)チフス等でばたばたと死にました。孤児になった子供たちはみな慈善院(じぜんいん)というところに収容されました。布団も体もシラミだらけで、まぶたの上も耳の後もシラミに噛(か)まれるのが目に見えるほどでした。その収容所では一日二食のコウリャンのご飯(はん)だけで、全然腹一杯(はらいっぱい)になりませんでした。お腹(なか)が空いて鍋に残ったおこげをわれ先に奪(うば)いあって食べたことや、ソ連兵が食べ残して捨てたビスケットのカスも、指に唾(つば)をつけてそれをくっ付けるようにとって食べたことなど、一幕一幕(ひとまくひとまく)をはっきりと覚えています。
 私は当時、栄養失調で、立ち上がれないくらい弱っておりました。そのため、私を最初に引き取った農夫はある日私を近所の山の中に連れて行って、鎌を私の首に当てました。その時私は大声で泣いたため殺されずに助かりました。その後別の農家に連れて行かれました。
 養父が私を養子にしたのは労働力にするためでした。コウリャンのご飯を作るのに時間がかかります。私は朝3時に起きて3時間かけて一人で家族の食事の支度(したく)をやりました。それから一人で豚の世話の仕事に行かされました。私は一人で朝8時頃に豚20頭を連れて家を出て、夕方家に帰るという生活(せいかつ)を続(つづ)けました。
 
 ある日、お金を持って使いに行き、市場に着いたらお金をなくしたことに気づきました。引き返しながら探しましたが、結局見つかりませんでした。養父は、手ぶらで帰った私を見ると訳も聞かずに怒り出し、私はひどく殴られました。殴られながら逃げ出したとき、怖さのあまり大便を漏らしました。極寒(ごっかん)の中、身震(みぶる)いしながら生(う)みの親が側にいない悲しさに泣きました。
 
 私は日本人であることを一日も忘れたことはありません。だから、1972年に中国と日本の国交が回復してから一日も早く帰国したい気持ちが押さえられなくなりました。しかし私はどうすれば帰国できるのかわからず、いたずらに年月が過ぎました。
 1976年、私は思い切って中国の日本大使館に中国語の手紙を出しました。日本大使館からの返事には、「手元の資料によると、あなたの親戚の住所は長野県にあります。直接連絡を取ってください。」と書いてありました。そこで、長野の親戚に手紙を出しました。しかし、半年間、何の返答もありませんでした。今(いま)(おも)えば、国はどうして親戚に連絡をとってくれなかったのでしょうか。私は、私の手紙が親戚に着(つ)いたのかどうかも心配(しんぱい)だったのですが、国は、言葉(ことば)も通(つう)じない親戚と勝手(かって)にやりとりしなさいという態度だったのです。
 1977年になってようやく、親戚から手紙が来ましたが、帰国に反対の意見でした。やっと親族を見つけたのに、帰国はできず、私は本当に悔しい思いがしました。そこで私は、帰国していた孤児を通して母方の親族を捜し出し、1979年になってようやく祖国への帰国を果たすことができました。
 私は日本人であり、日本の戸籍もあるのに、日本に帰国するためにどうしてこんなに苦労をしなければならないのでしょう。政府は親族任(まか)せでなにもしようとしません。そればかりか、帰国に際して親族の身元保証人を要求して、帰国を妨害していたのです。しかも、私の戸籍が抹消されていなかったのに、私は1984年まで毎年1年間の在留許可(ざいりゅうきょか)をもらって外国人登録をしていました。更新の時には長野県から毎年戸籍謄本(こせきとうほん)を取り寄せていました。その当時私は無知(むち)だったのでこんな変(へん)なことを続けていたのです。
 私は、今(いま)ははっきりと認識(にんしき)しています。国は、私達(わたくしたち)を探したり、帰国のために活動(かつどう)したり、私たちを日本人として祖国に迎え入れるつもりはなかったのです。
 私たちは、当初、父母(ふぼ)の郷里(ふるさと)でもある長野県飯田市に定住しようと考えていました。しかし妻はもちろん私も日本語がわからず、また日本語を勉強する学校や施設もないので、遠い親戚で中国残留孤児であった友人を頼(たよ)って、1979年9月、一家で横浜に出てきました。
 私達は横浜市瀬谷区の民間アパートを借りました。私は妻と共に1年間東京の銀座にあった「紅卍会(こうまんじかい)」という日本語学校に通(かよ)勉強をしました。5人家族で約18万円の生活保護を受けていました。
 職業訓練校では日本語の習得(しゅうとく)に大変苦労しました。職業訓練校では日本語を教えるわけではありません。私は辞書を持ち歩き、授業中(じゅぎょうちゅう)は辞書を見ながら一生懸命授業についていこうとしました。電車の中では看板を見て、そこに書いてある言葉を辞書で引いて覚えました。一日の日本語の勉強時間は6時間くらいだったと思います。そんな辛(つら)い勉強を一年間繰り返し、日本語がすこしずつ分かるようになってきました。
 しかし、肺結核にかかってしまい、何年も働くことができず、とてもつらい思いをしました。私が就職できたのは、1986年のことでした。
  
 私の就職先は職業安定所の紹介で、自動車部品の加工をしている会社でした。しかし、実際は同じ工場内の下請の会社で働かされ、しかも仕事は機械加工のはずでしたが、塗装や組立や溶接の仕事をやらされました。また私の年令がすでに45歳を過ぎていたので、正社員にはなれず、そのため同じような仕事をしましたが、給料は正社員の80パーセントでした。
 
 私は、今年の9月で68歳になります。もしこの裁判がなければ、数(かぞ)え切れないほどの辛酸(しんさん)な出来事は死ぬまで心の奥にしまうことになったでしょう。
 この集団訴訟をつうじて、私たち残留孤児の多大(ただい)な不幸が、国の責任であることを明らかにしたいと思います。私たちは、中国大陸で肉親と離別(りべつ)し、日本人でありながら中国人として生きなければならなかったのです。私たちは、日本人でありながらこの法廷(ほうてい)でも中国語を使い、通訳をとおして裁判を理解するほかないのです。
 
 多くの残留孤児たちは、中国でさんざん苦労し、年をとってやっとの思いで帰ってきた祖国で、まともな日本語教育を受けられないまま、日本社会に投げ出されました。日本語ができないために仕事も見つけられず、年をとるごとに生活に困(こま)り、7割近い孤児が生活保護で暮らしています。中国で一生懸命働いてきたのに全く評価されず、年金はわずかです。老後の生活はどうなるか不安ばかりです。
 4年前、わたしたちは、老後の生活保障などを求めて10万人分の署名を集め、国会請願(せいがん)までしましたが、国会で審議(しんぎ)もされないまま不採択(ふさいたく)になりました。私たちは、中国で育ち、中国の文化を学び、中国語を話してきました。このような私たちから見て、日本の国は私たちに対してなんと冷たい国なのだろうかと、絶望感にかられました。あれほど恋いこがれた国が、生活に困ったら生活保護を受けることで十分であるという態度で私たちを突き放しているのです。私たちは、日本に帰ってから何か悪いことをしたのでしょうか。何か日本の国にとって不都合(ふつごう)なことをしたのでしょうか。
 私たちは、帰国後日本人として生きていく決意を固め、そのために必死に勉強し、必死に働いてきました。しかし、高齢で帰国した私たちにとって日本語をマスターすることは容易(ようい)ではありません。言葉ができないことによって仕事にも就(つ)けません。国は、ただ、自立しなさいと繰り返すばかりです。
 私たちは、日本人でありながら、日本人として迎え入れられないのでしょうか。事情の知らない人が私たちを中国人と思うように、中国人として生き続けなければならないのでしょうか。
 私たちは、危機感を感じて、集会を開きました。その集会で誰かが、「もう裁判しかない」と叫びました。その声を聞いて私たちみんなの気持は、残(のこ)された最後(さいご)の手段(しゅだん)として、裁判に訴(うった)えることに傾(かたむ)いてきたのです。
 
 私たちは、2002年9月23日、蒲田で、原告団の創立総会を開きました。私たちは、日本人であることを自覚し、かつ私たちが日本人であることを全国民に知ってもらうための一歩を踏み出したのです。
 それに先立ち、私は原告団の役員に就(つ)くことを要請され、大変悩みました。役員になる能力と体力が心配だったからです。それでも、みんなのために役員になりました。役員になるとみんなの心をひとつにまとめることに苦労しています。また、仕事を欠勤しなければならないこともあり、生活にも影響してきました。それでも役員を続けているのは、この裁判が私たちにとって大変(たいへん)重要(じゅうよう)な裁判だからです。 
 裁判官の皆さん、2002年12月20日、私たち637名がこの裁判所に訴訟を提起し、現在、原告合計1000名を超(こ)え、全国では2000名を超えようとしています。この数は、日本に在住する残留孤児の8割に達する割合(わりあい)です。みんな裁判に望(のぞ)みを託(たく)しているのです。
 戦争のため、幼くして中国に取り残され、長い間帰ってこられなかった私たちの不幸は孤児本人の責任ではありません。日本語ができないこともわたしたちの責任ではありません。わたしは41歳で帰国できたことと、幼いころ日本語を話していたことから、少しは日本語を話すことができますが、孤児のほとんどは、日本語をまともに話すことができません。
 それでも私たちは、不自由な日本語を使って、毎週必死で署名活動を続けています。署名に応じてくれた人の数は70万人を超えています。
 ただ、私たちは疲れ切っています。この裁判を始めてから2年以上経過していますが、互いに励まし合うことにも限界があります。色々な活動を続けるにも交通費を工面したり、さまざまな費用がかかります。
 
 どうか、孤児たちがせめて祖国(そこく)での老後(ろうご)を「普通の日本人として、人間らしく」生きることができるようにしてください。私たちの切実なこの思いをどうか受け止めてください。私たちは心の底からお願い申し上げます。
 
 時間の制限がありますので、以上のことを強くお願いして私の意見陳述を終わります。
 
 
以 上