更 新 弁 論 要 旨
(原告らの人生と被害について)
弁 護 士 米 倉 洋 子
ここでは,40名の原告について,現在までの立証を踏まえ,彼らがこれまでどのような人生を送り,国の行為によっていかなる被害を被ってきたかを具体的に述べる。
1 肉親との離別
1945年8月のソ連侵攻及び日本敗戦時,0歳から12歳の子どもだった原告らは,まさに命がけの逃避行の中で親と離別した。
ソ連軍の空撃により下半身を吹き飛ばされた母に末期の水を飲ませた8歳のT.R(原告番号16番),集団自決で母を失い,死臭の漂う母の遺体に抱きついて幾晩も泣きながら寝たという4歳のU.T(原告番号8番),自分をおぶって逃げてくれた父親が暴徒化した中国人に目の前で撲殺された4歳のT.B(原告番号9番),飢えと寒さと病気で日本人が毎日死んでいく収容所で,ある朝目覚めると父母が共に亡くなっていた10歳のK.Y(原告番号25番),母の「2,3日たったら必ず迎えに来る」と言った言葉を信じて,中国人養父母の家のベランダで毎日母を待ったという4歳のW.T(原告番号11番)など,多くの原告は,親との凄絶な,悲しい離別体験を現在でも鮮明に記憶している。
2 中国での生活
原告らは,中国人養父母にかろうじて命を救われ,養父母の手で育てられた。我が子同様に慈しんで育てられた原告も多く,上級学校に進学した原告もいる。しかし,例えばY.Z(原告番号36番)は,4歳の時から毎日,空が明るくなる頃から真っ暗になるまで馬の放牧をして働いた。このように幼い頃から厳しい重労働に従事した原告も少なくない。小学校にも通えなかった原告も半数以上いる。養父母の暴力や虐待に耐え抜いたという原告もいる。敗戦時日本に帰国できていれば,決して味わうことのなかった辛い経験である。
またほとんど全ての原告は,子どもの頃,近所の同年代の子らや小学校の同級生等から,「小日本(シャオリーベン)小日本(シャオリーベン)鬼子(クイズ)鬼子(クイズ)」と呼ばれて虐められた。長じては,1966年に始まった文化大革命の中で,「日本のスパイ」と決め付けられ,迫害を受けた原告も多い。まだ日本による侵略の記憶が生々しく残っていた時代に,子どもあるいは青年だった原告らは,侵略戦争に対する中国の人々の怒りや憎しみを一身に受けながら,中国社会で生きることを余儀なくされたのである。
以上のような,孤児あるいは日本人としての辛い経験は,原告らの心に,祖国への熱い思いを育んだ。しかし,被告国は,原告らがそのような心情で中国で懸命に生きていることに全く思いを致さず,1959年以降,原告らを戦時死亡宣告で「死亡処理」することに汲々とし,原告らの調査やその帰還に向けた努力を完全に放棄していた。
3 国交回復後も遅れた帰国
(1) 1972年10月,日中の国交が回復した時,原告らはすでに27歳から39歳になっていた。原告らは,国交回復のニュースに,いよいよ肉親と会えるのではないか,日本に帰れるのではないかと胸を躍らせた。原告らのほとんどは,この時期に日本政府が帰国を呼びかけてくれていたら,すぐにでも帰国したであろうと陳述している。しかし,孤児の帰国について当時何らの政策を持たなかった被告国が,帰国を呼びかけることなどあろうはずもなかった。
(2) 多くの原告が,国交回復の直後から数年の間に,日本大使館や厚生省に手紙を書いて肉親探しや帰国の希望を伝えた。しかし,ほとんどの原告はそれから長い期間待たされることになった。例えばT.S(原告番号22番)は,1972年から何回も日本大使館に手紙を書いたが,大使館の返事は「肉親探しの政策をとっていないので気長に待っていて下さい」というものであり,訪日調査に参加できたのは1983年になってからであった。なお,国交回復直後の時期に限らず,大使館や厚生省に手紙を出したにもかかわらず,何年も全く返信をもらえなかったために帰国が遅れた原告も数多くいる。
(3) 事実論で述べたとおり,被告国は1985年まで,身元の判明しない孤児には一切帰国援助の手を差し延べなかった。このような状況下で,1985,6年頃までの未判明孤児の帰国は,ひとえにボランティアの献身的な努力に支えられていた。
例えば,N.H(原告番号18番)は,国交回復を知った1976年頃から,日本大使館に対して強い帰国希望を述べた手紙を書き続けたが,訪日調査に参加できたのは1985年であり,身元は判明しなかった。その頃知り合ったボランティアが,1日も早く家族全員で帰国できるようにと,本人に代わって就籍手続をとり,国から帰国旅費が出ない成人の子らも一緒に,しかも経済的負担を最小限に抑えて帰国するために船を手配し,自ら身元保証人になり,帰国後の住居も用意して,Nを迎えたのであった。
このように,帰国を熱望しながら,被告国が身元未判明孤児を帰国させる政策を持たなかったため帰国が遅れた原告は多い。また,1985年以降も,訪日調査や永住帰国を何年も待たされて帰国が遅れた原告もまた多いのである。
(4) 自らの記憶を手掛かりに,あるいは訪日調査によって,ついに身元の判明した孤児は,喜びも束の間,親族が帰国に同意してくれないために帰国できないという深刻な事態に悩まされた。40名の原告のうち身元判明孤児は22名だが,そのうち親族の反対により帰国が遅れた者は13名にも上る。
例えば,I.T(原告番号7番)は,非常に強い帰国希望を持ち続けてきた原告であるが,1977年から大使館に手紙を書き始め,1986年ようやく訪日調査に参加でき,そこで兄弟と再会することができた。しかし,兄弟が帰国に賛成してくれないため,自ら身元保証人になってくれる人を探さなければならなかった。1989年には,国が判明孤児に対して「特別身元引受人」をあっせんする制度ができたにもかかわらず,Iは国から「知人に頼みなさい」と言われ,苦労して身元保証人を探し続け,1994年になってようやく,この40名の原告の1人になっているU.Tに身元保証人になってもらい,帰国を果たした。最初に大使館に手紙を書いてから,実に17年後の帰国であった。
ここで断っておくが,帰国に反対した親族を責めるのは全く筋違いである。長い年月の間に,親族には親族の様々な事情が生じた。つまり,親族の努力には限界があり,そこに国の施策の必要性があるのだ。
(5) 以上のほか,被告国が中国にいる孤児たちに帰国に関する情報を周知させなかったため,訪日調査の存在や永住帰国の可能性があることを全く知らず長期間過ごしていた原告も多い。また,被告国が成人した子には帰国旅費を援助しないため,家族が分断されることに悩んで帰国が遅れた原告もいる。このように,被告国の政策の不備による様々の事情によって,原告らの帰国は遅れたのである。
(6) このようにして,原告ら40名は,1975年から2000年までの間に,36歳から61歳という年齢で,それぞれがやっとの思いで帰国してきた。肉親と離別した時から帰国までの期間,つまり中国に取り残された期間は,原告らを平均すると約42年間もの長さになる。
5 帰国後の自立支援政策の乏しさ
(1) 中国社会で長年にわたって苦労を重ねた原告らは,日本社会で自立する希望を持ち,夢にまで見た祖国に帰ってきたが,被告国の自立支援政策のあまりの貧困さ,冷淡さは,原告らの希望を打ち砕いた。
(2) 日本語の習得はいうまでもなく日本社会での生活に不可欠である。しかし,現在,ほとんどの原告は日本語を身につけていない。
被告国は1984年「中国帰国孤児定着促進センター」を開所し帰国後4か月間の日本語教育を行ってきたが,センターで習得できた日本語は,「オハヨウといった会話ができる程度のもの」(Y.H 原告番号6番),「こんにちはと言われてもこんばんはと聞き違えるぐらいな日本語」(K.Y 原告番号23番),「ひらがなは半分くらい,カタカナは4分の1くらいしか覚えられなかった」(M.S 原告番号40番)というものであった。僅か4か月間の日本語教育では,日本で生きていくための語学力など到底身につかないのは当然である。
なお,1984年以前に帰国したり自費で帰国した15名の原告は,センターの利用すらできなかった。また1988年には「中国帰国者自立支援センター」で8か月の日本語教育が受けられるようにもなったが,開所の遅れや通所の困難さから,ここに短期間でも通えた原告は僅か8名に過ぎない上,8か月全部通ったA.K(原告番号20番)も「帰国して15年たった今でもテレビで話されている日本語は天気予報の『晴』『雨』程度しか理解できない」と述べている。
(3) 被告国は,このように片言の日本語すらおぼつかない原告らに対し,一般の日本人と同様の求職活動を強いた。そのため原告らの多くは,中国での職歴を活かすこともできず,低賃金の厳しい労働に就くことを余儀なくされた。
中国で体育大学の校長だったT.B(原告番号9番)は,1988年47歳で帰国し,職安に何度も通ったが,その度に日本語ができないからと断られ,ボランティアの紹介でようやく酒屋の出荷作業員の職を得た。Tは,初任給16万円という水準の給料の中から,国費帰国できなかった長男長女らの家族6人分の旅費を2年で作り,日本に呼び寄せた。そのため仕事優先になり,日本語の勉強はできなかった。
先進的医療を担う病院の看護婦だったS.K(原告番号26番)は,1989年47歳で帰国したが,クリーニング屋や食品工場等の勤務をへて,62歳の現在,職安で紹介された食堂の清掃員として月8〜9万円の収入を得,これと夫の厚生年金約4万円で生活している。関節炎を患っており,歩くのも辛く,仕事がきついと述べている。清掃業の厳しい仕事を続けて体を壊した原告は多い。
また,自立の意欲を強く持ちながら,就労支援がなかったため一度も職に就けず,生活保護での生活を余儀なくされている原告も多い。医師だったS.K(原告番号38番)は,鍼灸師の資格を取得するため専門学校に通い始めたところ,福祉課の職員から「専門学校に通うなら生活保護を打ち切る」と言われ,やむなく退学して仕事を探したが結局就職できず,生活保護を受けている。
(4) 就職した原告は,例外なく,職場での虐めや差別を経験している。
Y.Z(原告番号35番)は,道路工事現場で,台車を裏返しに置けという指示が理解できず,台車を他の場所に移動させたところ,班長にいきなり顔を殴られ,足を蹴られるという暴力を受けた。K.Y(原告番号25番)は,病院清掃の仕事に就いたが,日本語が話せないため同僚達から煙たがられて差別を受け,一番汚いところ,例えば血だらけの解剖室の掃除を1人で担当させられたりして,本当に辛かったと述べている。何か気にいらないことがあるといつも「中国に帰れ」と怒鳴られたK.E(原告番号26番),名前でなく「おい中国」と呼ばれていたY.T(原告番号24番)など,日本人の同僚の心ない言動に傷ついた原告は多い。これは日本語教育の不十分さだけでなく,被告国が中国残留孤児に関する啓発活動を怠ったところにも原因がある。
賃金差別も深刻である。H.T(原告番号39番)は,国に「特別身元引受人」として登録していた会社社長の下で勤務したが,1994年,山奥の工事現場で早朝から終日勤務して日給5500円の低賃金であった。その後呼び寄せた長女らは,1日8時間勤務で月給7万円に過ぎず,会社に問いただしたところ,「中国の研修生の待遇だ」と回答されている。
(5) 現在,生活保護受給中の原告は40名中過半数を超える。
原告らはこぞって,その経済的困難ばかりでなく,その制約の多さと,犯罪者のように監視され,心ない言葉を浴びせられる屈辱を訴える。
Y.T(原告番号24番)は,脳梗塞を発症して半身不随になったため,職を辞して生活保護を受け通院治療していたところ,福祉事務所の職員の再三の訪問を受け,「仕事はまだ見つからないか。あんたくらいの体調なら働けるだろう。日本人はあんたくらいの年は働き盛りだ」などと言われた。
養父母との交流や墓参のため中国に行くと生活保護費が停止されることの辛さは,多数の原告が切実に述べるところである。H.Y(原告番号29番)は,重い病気で倒れた養母の見舞いに中国に行こうとしたところ,福祉課の職員から「保護費は海外旅行のためのものではない」と言われ,入院証明書を提出させられ,中国滞在中の保護費を停止された。帰国後も無断で家の中を調べられるという屈辱的な扱いを受けたため,東京都の福祉局に抗議に行ったところ,「国はこれほど面倒を見ているのに,なぜ文句ばかり言うのか。」と激しく叱責された。Hは,長く中国で生活した孤児にはどうしても中国に帰らなければならない事情がある,どうして国はそのことに配慮してくれないのかと,切々と訴えている。
(6) 今原告らは老年期にさしかかり,老後の生活不安は著しい。S.T(原告番号30番)は,「私は中国で18歳から働き始め,帰国してからも60歳まで働きました。しかし,結局生活保護を受けなければ生きていけない境遇に追いやられています。私がこのような境遇におかれたのは,私自身の責任なのでしょうか」と訴える。これは全ての原告に共通の叫びである。
6 まとめ
原告らは,日本人でありながら,被告国が原告らをすみやかに帰国させる政策を持たなかったため,短い者で30年間,長い者は55年間,平均約42年間も日本に帰国することができなかった。帰国後も,被告国が原告らを,その特殊な生活史に配慮した政策で遇さなかったため,厳しくみじめな生活を強いられてきた。
原告らは,敗戦から60年の今年,60歳から72歳という年齢になる。原告らは,まさに「普通の日本人として人間らしく生きる権利」を60年間という長きにわたり,侵害され続けてきたのである。
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