「残留孤児」の原点を訪ねてB(最終回) 鈴木賢士
流れる血は日本人、でも私は中国人
 
 密山市の幹部、「残留孤児」の張愛延さん
 
 協会杉並支部の「中国の旅」に同行して、最も印象的だったのが残留孤児・張愛延さんとの出会いでした。
 牡丹江から中ロ国境の街、虎林へ向かう途中、密山市の市幹部との会食の席で、張さんが東安駅(今の密山駅)爆破事件の生き残りと紹介されました。
 東安事件とは、1945年8月10日朝、虎林線東安駅で日本軍の砲弾や爆弾が突然爆発を起こし、ホームに止まっていた開拓団を乗せた避難列車が爆破・転覆、750人以上の死者、行方不明者を出した大惨事です。
 そのとき助け出された赤ん坊の1人が、中国人の養父母に拾われ、育てられた張さんです。
 「皆さんにお会いした瞬間、自分の家族に会った気分です。本当にうれしい」と、ノーネクタイのラフな格好であいさつしましたが、それは定年で、密山市委員会副書記などの要職を引退したからです。
 「私は幸運でした」と語る張さんは、字も読めない養父母に学校に行かせてもらい、遠く吉林省・長春市にある吉林大学まで出してもらったからです。
 密山に戻ってからは、市の教育課を振り出しに、放送局の編集、宣伝部の副部長、弁公室副主任、規律検査委の副書記を歴任して、市の政治協商会議主席も務めています。
 現地の事情に精通している通訳の劉正偉さんによると、「残留孤児でこれほどの主要ポストについた人はいなかった」という話です。
 張さんが、自分は日本人の子どもと知ったのは、15歳のとき。高校入学の書類に「日本人孤児」と書かれていたからです。「本当の両親のことは何もわからない」「87年と95年の訪日調査に参加してテレビにも出たが、誰も名乗りでなかった」。この時ばかりは少しさびしそうでした。
 「流れている血は日本人ですが、私は中国人」と言って胸を張る張さん。
 「密山はどんどん発展していきます。ぜひまた来てください。来るたびに違う顔を見せたいし、見せる自信があります」とあいさつしたときは、立派な幹部の顔に戻っていました。
 最後に日本の残留孤児訴訟について質問すると、よく知っていると答え、「中国に残った孤児にも平等の扱いを」と注文をつけました。
(日中友好新聞2004年11月25日号より転載)