「孤児」たちの今は@ 鈴木賢士
「父母の霊位」に手を合わせ…吉成財幸さん
まず写真を見ていただきたい。(注:写真集13頁の写真)
1987年に帰国した中国「残留孤児」の吉成財幸さんが、毎月1日と15日に供え物をあげて手をあわせる、吉成家の「仏壇」です。普通の仏壇と違うのがお分かりでしょうか。
タンスの上のガラスケースに入っているぶ厚い板に「父母の霊位」と書かれています。名前も戒名もなく、ただ「父母」とあるだけの位牌を見て、これこそ、身元未判明孤児の象徴と感じました。
日本政府が「孤児」たちの帰国をサボり続けたために、身元が分からないケースが多いのです。
写真展・出版のタイトルを『父母の国よ』としたのも、これを見たからです。
では吉成の名前は?両親から受け継いだ名前ではありません。幼い頃、養父母のもとで夜明けから日没まで馬の世話に追われ、夜は養父の暴力を逃れるため墓地で寝ていました。中国での「地獄のような生活」から逃れて、父母の国で幸せになりたいとの願いをこめて、自分でつけた名前が「吉成財幸」です。
せっかくいい名前をつけたのに、帰国後直面したのは、当局の冷たい、不吉な仕打ちでした。所沢の中国帰国者定着センターで、吉成さんは定着時に大阪を希望し、厚生省(当時)の役人からも身元引受人は大阪在住と聞いていました。
ところが、後に身元引受人は兵庫在住で、定着地は兵庫県内と一方的に押し付けられました。知らない兵庫は困ると抗議すると、宿舎から出るよう求められ、かわりに指定された家が小さなプレハブ小屋でした、
「わずか6畳の部屋に家族5人が住めというのです。その部屋は牢獄のように思えました。中国なら、囚人か犯罪者以外にそんな所に住みません」−吉成さんの証言です。
「中国ではひどいいじめや差別を受けました。それは『侵略者の子』だからしようがない、自分の国に帰ることさえできれば、と思って耐えてきました。
しかし、日本に帰ってきたら、まるで人間ではないような扱いを受け、祖国に絶望してしまいました。日本政府は私たち残留孤児に対して、口先ではご苦労様でしたというけれど、ほんとの心のこもった対応や支援をしてくれません」。
「この裁判は、命をかけてでも闘わなければならないのです」
(日中友好新聞2005年7月5日号より転載)