「孤児」たちの今はA 鈴木賢士
半身不随で階段を…桂康恵さん
「5〜6歳のとき、私は障害があって排泄のコントロールができないので、養母が迷惑がり、お金で売られそうになりました。私を市場に連れて行き『売ります』という紙を背中にはられました。親切な人が間に入ってくれて、私は土下座して謝り、大きくなったら必ず親孝行するから売らないでくれ、とお願いしたんです」
04年10月、東京地裁で尋問に答えた桂康恵さんの証言は、居並ぶ傍聴者の涙を誘いました。
桂さんは幼い頃ハルビンで、注射の針が間違って神経を傷つけ、半身不随の体だったため、養母からじゃまもの扱いされたということです。
90年に帰国した当初、まず困ったのは日本語ができないことでした。
所沢センターでのわずか4カ月の日本語学習では、簡単なあいさつができるようになっただけ。「誰とも交流できない」孤立した生活で、近所の人から「外国人」といわれたこともありました。
とくに困ったのは病院通いで、医者に病状を説明できないことです。本人もそうですが、夫が言葉がわからず、友達もいないため心身ともに疲れ切って、高血圧・心臓病などの病気にかかったからです。
桂さんが住むのはエレベーターのない、千葉の古い県営住宅の4階です。自分自身、重いカメラ機材をかついで階段を昇りながら、行政は障害を持つ中国帰国者に対して、なんと非情な扱いをするものかと、憤りを感じました。
いろいろありながらも、桂さんは持ち前の明るさと負けん気で、乗り越えようとしています。週1回の日本語教室に欠かさず通い、その熱心さにボランティアの先生が「せめて半人前にしてあげたい」と話すほどです。
数年前から近所の人と、中華料理と日本料理を教え合う関係も生まれています。
年老いた病身の養母を日本に迎えて、桂さんがつきっきりで看病し、最後を看取って、約束を果たすことができました。
法廷で桂さんは、「国は短期間の日本語指導と生活保護だけでなく、戦争で親と離ればなれになり、やっとの思いで帰国した私たちが、日本になじめるように環境を整え、社会の理解を促してほしい。それができるのが国ではないでしょうか」と証言しました。
(日中友好新聞2005年7月15日号より転載)