「孤児」たちの今はB 鈴木賢士
日本人として人間らしく生きたい…松田利男さん
大阪府堺市の府営住宅に住む松田利男さんの部屋に上がると、まず目につくのが軍服姿の父の写真です。
その隣に小泉首相からの慰労状があり、「引揚者としての御苦労に対し衷心より敬意を表し慰労します」と、立派な言葉が並んでいました。しかし、なんとも空々しい感じが否めません。
それというのも、受取人の松田さんは、国に対して謝罪と賠償を要求する裁判を起こした、大阪訴訟の原告団長だからです。
小泉首相に「衷心より敬意を表し慰労」する気持ちがあって暖かい施策を行っていたなら、残留孤児たちから訴えられ、国が被告席に座らされることなどなかったはずです。
松田さんは北海道生まれ。1941年、5歳のときに一家10人で東安省に入植。45年8月、ソ連参戦のうわさを聞き、開拓団の逃避行が始まります。
ハルビンへ向かう山道で、栄養失調になった妻の乳が出なくなり、乳飲み子の末弟が餓死。ハルビンの収容所では、祖父母、父、長姉、母の順に亡くなり、続けざま6人が犠牲になったのです。
先に帰国していた兄を頼って、76年に北海道に帰った松田さんは、まず言葉の壁にぶつかります。当時は政府による日本語教育の支援はなく、釧路では日本語を教えてくれる人はいません。
粗大ごみで出ていたテレビを拾ってきて発音から練習し、毎日夜中までかかって、独学で日本語を学びました。
しかし、職場では、差別的な罵声を浴びます。「ばかやろー、こんなこともわからないのか」とどなられ、「人間扱いされなかった」ことにショックを受けました。
「旧満州で家族6人が亡くなりましたが、裁判でその補償を要求しているわけではないんです。一般の戦争被害ではなくて、終戦になってからの被害を問題にしているんです」
「私たち残留孤児は、何十年もの間中国に放置されてきました。日本の言葉、文化、習慣を身につけて育つことができなかった私たちは、帰国後、口には言い表せない、つらい思いをしてきました。その責任は誰にあるのか、日本政府ではないですか」
7月6日の大阪地裁の判決は、ことごとく原告の主張を退けました。
翌日の厚生労働省前の抗議集会で、松田さんは「勝利するまでたたかう」という決意を表明しました。
「日本の地で、日本人として、人間らしく生きたい」という孤児の願いは、いつになったら実現できるのでしょうか。
(日中友好新聞2005年7月25日号より転載)