大阪判決について
原告ら訴訟代理人 鈴 木 経 夫
第1 はじめに
1 この7月6日,大阪地裁で言い渡された判決(以下裁判長の名を冠して「大鷹判決」という)について,その内容は,孤児の被害の実情を理解せず,日中関係の歴史の洞察に欠け,さらにその理論構成も到底受け入れかねるものなので,実質審理がはじまる前に,原告らから見て,どの点が問題であるのか,一言申し上げたい。
2 大鷹判決は,まず,残留孤児の発生,中国での生活,帰国についての経緯,自立支援について国側の対応等について総合的な認定をしている(この認定自体に問題があることは後述するが,細かい点は準備書面に譲る)。それを前提として,孤児となってから原告らが受けた精神的苦痛を,人格的な利益の侵害として,被告の主張自体失当の判断を採らず,不法行為上の保護の対象となると判断している。
3 次いで,早期帰国を実現させる義務について,国の国策による入殖,国防政策の遂行という先行行為により孤児が生じたのであるから,帰国を希望する孤児について,できるだけ早期に帰国させる責務を負ったと認めたものの,国に義務違反があったとは認めららないと判断した。さらに,自立支援義務についても,条理上の作為義務発生の根拠に関する主張を,① 前記国策の遂行の結果,② 早期帰国実現義務違反等の一連の行為と,二面から把握し,早期帰国実現義務違反等が認められない以上,原告らの帰国後蒙っている「不利益」は,敗戦前後の混乱の中で孤児となったことに起因するから,それは戦争損害,戦争犠牲に属し,その補償は国の裁量的判断に委ねられているとして,その法的義務を否定した。なお,その裁量の範囲の逸脱もないと付言している。
第2 この訴訟の核心である原告らの蒙った被害について
1 原告らは,幼くして旧満州で父母と離別した。しかも,それは,単なる離別ではなく,父母が目の前で殺されたり,あるいはそうでなくとも為すすべもなく目の前で餓死,病死していったという例も多いのである。親の姿が少しの間見えなくなっても不安にさいなまれる幼い子どもが,親と,しかも前記のような形で,異国において別れるという衝撃がどんなものか,どれだけ心の傷となって残るのものか,大鷹判決は理解していないように思われる。しかも,子どもらは親と別れた後も,見知らぬ中国人の家庭に預けられ,一命は取り留めたものの,生きるための苦闘が続くのである。
2 孤児達は,関東軍が,軍事力で市民を抑圧し,時には残虐行為を重ねてきた,その社会にひとりぽっちで放り出されたのである。その報いを一身に受けることになるのは当然である。死は免れても,ようやく見つかったすみかで,今度は酷使され,日本人であるという,原告らにはどうしようもない理由で,「小日本鬼子」とののしられ,虐められてきた。学校に通えた者は一部であるが,その学校でも,日本の侵略,残虐行為が歴史的事実として取り上げられるなか,孤児に対する虐めがひどいものであったことも容易に推測できよう。しかもそれには歯止めのかかる条件はない。現在の日本のいじめと対比するまでもなく,それが子どもに深く,消しがたい心の傷を負わせてきたことは,明らかと言えよう。それは,ほとんどの孤児に,現在もトラウマとなって残っているのである
3 孤児達は,社会人として職場にはいっても,依然日本人ということで, 仕事内容,給料,昇進等で差別をされた。しかも,その差別や虐めは,孤児自身だけでなく,配偶者,子どもら,場合によると,養父母にまで及んだ。日本人というだけで,スパイよばわりされ,僻地にいわゆる「下放」されたり,文化大革命がはじまると,つるし上げ,投獄されたり,また,スパイの看板を首から下げて行進させられたというような原告もいる。中国社会の中で,日本人という改める余地のないハンデイを背負いながら,それでも孤児達は懸命に生きてきたのである。なかには,その実力を認めさせ,友人もでき,それなりの地位を得た者もいないわけではない。それにしても,その努力,反面の頑張りはどれだけ大変であったろうか。孤児達には,敗戦時からの心の傷をいやすいとまはなかったのである。
4 多くの孤児が一日も早い帰国を望んでいたが,帰国した全員が,祖国日本では,少なくとも差別からは解放されると思っていた。一日も早く自立しようと,条件は悪くとも,職に就き,中国でしたように懸命に頑張った。ところが今度は,「中国人」としての差別が待ち受けていた。言葉もできず,職場での友人も,近隣とのつき合いもできず,日本人として,日本の社会にとけ込むことはできていない。孤児達の多くが,親族との絆もなく,日本の習俗になじめず,中国で得た資格・経験を生かすこともできず,就職しても職場で差別され,低い給料に甘んぜざるをえなかった。40才,50才になってからの帰国では,どのように努力しても限界があった。日本社会への不適応は,先の心の傷(PTSD)をうずかせる結果となった。年金制度から見ると,孤児のように短期の被保険期間では,得られる年金の額は僅かであり,老後の自立は不可能で,その結果,次々と生活保護受給者に転落しているのである。
5 孤児達の心に,「なぜこのような祖国のない一生なのか,差別の中での生 涯なのか」,との思いが浮かぶのも当然であり,幼いときからの心の傷は,いやされることなく,むしろ増幅されてつきまとっているのである。この一生涯を通した孤児の損害を,全人格的な心の痛手を,「不利益」,「不便」という言葉で表現し,それを前提に被侵害利益を構成し,さらには権利侵害がなかったとする大鷹判決の判断は,孤児達の現実とはあまりにかけ離れているのである。
不法行為法上の違法性の判断は,被侵害利益と侵害行為の態様の相関関係 にあるといわれるが,被侵害利益の把握の薄さが,結論を左右したと考えざるを得ない。
ある孤児の2世が,日本語に翻訳された自分の母親の陳述書を見て,この内容では,私たち家族の苦労の10分の1しか表現されていない,と述べたことがある。中国語から日本語への翻訳の問題も関連している。しかし,大鷹判決は,その陳述書や供述で表現された孤児の苦しみに共感し得ないまま作成されたのではないかと考えざるを得ない。
その他,関東軍が開拓団等を見捨てて,つまりソ連軍の蹂躙にまかせることにして,ときには開拓団の退路である橋まで落として南に撤退したことや,それ以前から関東軍は南方,本土と転進していたが,終始「静謐作戦」をとり,開拓団はじめ邦人に情報を与えず,そればかりか新しい開拓団の送り込みを続けてきたこと,さらには敗戦直後,大本営は満州の日本人を現地に残留させる作戦であったこと等,大鷹判決は,被害を拡大させた国の政策について触れるところがない。
第3 早期帰国実現義務違反について
1 国交回復前について
大鷹判決は,日中の国交回復までは,孤児の存在,帰国の希望,さらには出入国の手続の整備にも,中国の協力が必要であるところ,その状況が整っていないから,被告にとって,結果回避の可能性が欠如している,と判示した。しかし,中華人民共和国成立後,国交回復以前も,残留邦人の帰国を巡って,民間レベルでは,昭和28年から集団引揚げが実現していた。さらに,昭和30年代のジュネーブ交渉で進展が見られず,その原因は岸内閣の敵視政策にあると中国側から指摘された後でも,昭和32年8月には,有田八郎氏(留守家族団体全国協議会会長)が,中国に於いて周恩来総理及び中国紅十字会会長と会談し,資料に基づいて個別的な申請があれば,調査はやぶさかではないとの回答を得ており(大鷹判決も認定),その他基本的に中国側には,孤児を帰国させることを妨げようとの姿勢は見られず,むしろ何とか早期に帰国させようとの態度が一貫して見られるのである。現に国交回復前でも,個別に帰国している孤児もかなりいる。存在の判明した孤児について,直接国が対応するのでなくとも,その親族や,日赤等の団体を通して,帰国等の働きかけをすることは,また当該孤児の周辺にいる「身元未判明」の孤児らの情報を収集するなどは,充分に可能であった。さらに個別ではあっても,帰国に関する情報を流し,意思決定を容易にさせるとか,あるいは遠くない将来と予測されていた国交回復後の集団帰国に備えることは当然すべきであった。
また,未帰還者に対する特別措置法により,敗戦時幼かった孤児はほとんど死亡しているとの想定の下に,消息不明の孤児について,強引に死亡認定し,ときには親族に脅迫まがいに迫り,戸籍上死亡させてしまった。しかも,法の趣旨に反して,その後は当該孤児についての調査は一切していない。それらの点についても,大阪の弁護団は詳細に具体例を挙げて主張したが,判決では一顧だにされていない。
そもそも孤児は,ごく幼ない時期に混乱のなかで養親に預けられた者が多く,生死の確認や,身元の判明が困難であろうことは,国として当然予測していたし,死亡等の認定についても慎重に吟味し,調査を継続すべきであった。帰国が遅れ,身元の判明は不能であったが,この時期にさらに調査が綿密になされていれば,恐らくもっと多くの孤児の出自は判明したであろう。前記死亡宣告された孤児の中には,現在身元未判明とされる孤児が相当数含まれているものと考えられる。繰り返すが,いずれにしても,死亡認定された者について,その後国が調査をした形跡はない。
なお,以上述べた点,その他国交回復前であっても,被告国として,残留孤児の帰国を巡って,どのような措置が可能であったか,未帰還者に対する特別措置法の運用がいかに恣意的であったか,原告個人個人について,別に準備書面をもって,具体的に主張し,立証したい。
2 国交回復後について
(1)ところで,国交回復後,当初北京大使館に,さらに厚生省等に孤児からの「身元調査」等を依頼する多数の手紙が寄せられた。そのことは被告国も当然承知していた。また,厚生省も国交回復後早々に現地調査まで企画した形跡がある。それらの手紙は肉親探し,一日も早い帰国の希望等を述べたものであった。それらは孤児の帰国,肉親探しには貴重な資料であったと思われるが,被告国の側が,当初これに真面目に対応した形跡はない(この点も原告個人について具体的に主張したい)。孤児からの手紙に対し,その希望を汲み,迅速に対応していただけでも,孤児の帰国はもっと早まった筈である。これまでの調査で,孤児には未判明のそれが多くなるであろうと分かっていたから,当然その帰国の方法を早い時期に検討し,実現すべきであった。
また,国は早い段階で孤児の分布を掴み,農村に多く残っていることも予測していた。過疎地の孤児達に,どうしたら帰国についての情報が伝えられるか,充分に検討すべきであった。孤児の早期帰国には,早い段階での総合的な施策が必要不可欠であった。孤児達は大使館からも,あるいは厚生省からも相手にされず,藁にもすがる思いで,「日中友好手をつなぐ会」など,ボランテイア団体にその希望を寄せている。これらの点も,大阪弁護団は詳細に,証拠も挙げて主張したが,大鷹判決ではまったく無視されている。
(2)次に 大鷹判決は,昭和50年8月から,あたかも厚生省が進んで報道による公開調査を実施したように認定している。当時の新聞記事等から明らかなとおり,朝日新聞の連載「生き別れた者の記録」,さらには「日中友好手をつなぐ会」など民間のボランテイア団体が独自に孤児の肉親を探し出したりしていたし,その他各界からの強い要望に押されて,しぶしぶ腰を上げたものである。訪日調査も以前からの計画ではなく,山本慈昭氏らの要望に負けて,他の予算を流用して実現したのである。その後の重要な施策も,同様に関係者からの強い要望があって,すこしずつ実現されてきたものが多い。いずれにしても帰国への希望がありながら,さらに厚生省もそれを知っていたか,知り得たのに,孤児達の帰国への総合的な施策を策定しなかったため,孤児達の現実の帰国は,はるかに遅れることになった。なおこの点も個々の孤児について,帰国の遅れた状況,厚生省が,当該孤児の帰国について,通常の配慮をすれば容易に帰国できたことを主張したい。また,身元保証人,身元引受人等の制度が,現実には孤児の帰国を著しく妨げた点についても,個々のケースに照らして主張・立証したい。
(3)なお,大鷹判決は,最判平成3年4月26日(民集45巻4号653頁)を援用しているが,そこで対象とされた被侵害利益は,「相当期間内に応答されることにより焦燥,不安の気持を抱かされない利益」であり,人間の生存そのものに関係する孤児の保全されるべき利益とは異質であって,同一に論ずべきではない。
第4 自立支援義務について
そもそも,帰国実現について権利侵害はないとの判断は到底容認できないが,先行行為に起因する作為義務については,当該先行行為の違法性の存否には関わりはないはずである。早く帰国させるための手段,政策はいくらでも考えられたが,結果として,帰国は大幅に遅延している。その点判決も,現実に帰国実現が遅れたことは認定していと解される。そうであれば,いきなり孤児の発生,戦争の結果と現在の孤児の状況を短絡的に結びつけた,戦争責任論は到底容認できない。実際にも親族を失い,孤児となり,敗戦直後の悲惨な状況を体験した者も,早期に帰国した場合は,原告には含まれていない。戦争責任論と原告ら残留孤児の損害とを結びつけることは,基本的に無理があるというべきである。
次に太鷹判決は,被告の主張に則って,国の支援策を羅列している。しかし,実現過程やその結果については,問題のある施策が多く,たとえば通訳の援助については,まず孤児はほとんどの者が,その制度を知らず,まして利用したことはない。これらの点についても,既にある程度主張がなされ,立証もしたが,さらに主張・立証したい。
第5 むすび
大鷹判決は,短期間の審理で,しかも原告側には全く予期できない2人の裁判官の転勤という状況下に作成された。異例ともいうべき短期の審理であり,その分大阪の弁護団は,最終準備書面,最終の期日に提出した書証等で,審理の不十分さを補ったつもりであった。しかし,そこで主張・立証したことは,大鷹判決には,いずれにしても,まず取り上げられていないのである。短期の審理,2人の裁判官の転勤という事態は,事実認定についても,事実の評価についても,さらには法的判断においても,重大な影響を及ぼし,その問題点が如実に判決に現れていると評価せざるを得ないのである。
また,判決が言い渡された後,多くの新聞は,この判決を取り上げた。一紙の例外もなく,残留孤児の被害は特別のものであり,現状のままにしてはいけないと論じている。これらも証拠として提出する予定であるが,孤児発生の原因と生涯にわたる孤児の被害を理解した上で,世論はその損害を戦争被害とは異質のものと考えていることが明らかである。