法と民主主義2002年12月号(目次と記事)

法と民主主義12月号表紙
★特集★目前にせまる究極の大増税―憲法25条の空洞化
■特集にあたって……奥津年弘
■経済財政諮問会議の税制観と社会権の空洞化ー学問を尊重すべきだ……北野弘久
■政府税調「基本方針」にみる大増税の全容ー所得税・法人税・資産税……菅 隆徳
■政府税調「基本方針」にみる大増税の全容ー消費税・事業税……新国 信
■財政破綻の現状と国民本位の再建への道……関本秀治
■税務行政の問題点とたたかい……浦野広明
■情報公開条例と情報公開法を武器に−税の使途と税務行政を監視しよう……稲葉恭治

 
時評●共同の拡大こそ“光”がある−司法改革第二段階の攻防をめぐって

弁護士 坂本 修

 激動の二一世紀の最初の一年がまもなく暮れようとしている。この一年は、憲法の根幹を崩す二つの巨大濁流、有事法制策動と暴走リストラ「合理化」が私たちを襲った年である。“濁流”はさらに幾筋もあって合流して渦巻いている。
 財界、政府らが求めている司法改革にもこうした“濁流”の重要な一部をなす側面がある。だが、国民はけっして“濁流”に無抵抗に押し流されているのではない。かつてない“濁流”にはかつてない新たな要求運動でせめぎあい貴重な成果をあげている。有事法制制定阻止はその“証”である。
 司法改革第二段階の攻防
 司法改革のように、改革自体は国民の要求であり、一面改良を伴う「改革」があるという複雑な課題に対しても、@拒否すべきこと、A埋めるべき空白、B賛成し、さらに実効あるものにする課題を明らかにして、共同を拡げてたたかうという新しい運動を私たちは展開している。
 立法過程にある司法改革の第二段階での“せめぎ合い”をどうたたかうかを、労働者の権利の擁護の問題を一つの“材料”にして、私見を述べたい。(注)
 労働者の権利を奪う「改革」
 司法改革推進本部の労働裁判検討会では、労働参審制の採用は、見おくられ、実行ある改革は予定されていない。埋めるべき「空白」はそのままである。さらに、重要なのは新仲裁法をつくり、国際商事取引だけではなく、国内取引、つまり「弱者」である消費者の契約も、労働者の労働契約もすべて仲裁の対象とするという提案がされていることである。労働者は労働力を売らなければ生きられない。だから、就業規則に仲裁条項が書かれていても、拒否はできない。もし、労働契約に無条件に適用される仲裁制度になったら、労働者は訴権を失うことになる。これに加えて、よく知られている弁護士費用敗訴者負担の導入がある。これまた労働者の提訴を困難にする。これではいったい司法改革は、なんのためなのか? 少なくとも五三〇〇万労働者とその家族にとっては裁判による権利救済の扉は閉ざされ、一方、“ルール破りの資本主義”の主役、大企業はかってない「自由」を謳歌することになることは確かである。
 それだけではない。その上、実体法からの権利剥奪が急浮上している。違法な解雇であっても、労働者だけではなく、企業の側も金銭補償を申し出ることが出来るという労基法「改正」(『朝日』一二月三日)がそれである。「改正」で当該労働者の「首」が金でチャラにされるでだけではない。たたかう労働者の首切りが乱発され、全労働者のたたかう力が奪われることになるのは目に見えている。
 単純に「一事が万事」とは言わない。しかし、財界・政府の一連の「改革」、そして彼らが「その最後のかなめ」と位置づけた司法改革の危険な正体は、労働裁判「改革」の実態という“証拠”に照らせば、鮮明である。この事態は放置できない。私たちは緊急に“せめぎ合い”をつよめなければならない。
 勝利のための共同を
 だから、現状を“せめぎ合い”と見るだけでは足りない。“せめぎ合い”の危険な進行状況をリアルにつかむことが必要である。しかも、そのことを鋭く批判するだけでは、おそらく勝利はつかめない。許すべからざるものを阻止し、私たちの要求――司法改革ならば国民のための司法改革の要求――をどう実現するかを具体的に追求し、そのことに成功しなければならない。
 では「今、なにをなすべきか」なのか?
 @可能な共同をつくり、ひろげること、そして、共同の行動のなかから、A要求の一致点をひろげること、さらに、そうしたB行動を通じて真実を検証して情勢の本質にせまっていくことが大事だと私はつよく思う。
 ――国民のための司法改革の前進に心を合わせ、共同を拡げることに、不屈で、かつ柔軟でありたい。すでに、敗訴者負担制度反対、新仲裁制度の無限定導入反対などについては、日弁連、消費者団体、労働組合などの要求は大筋で一致し、共同の運動が拡がり、一定の成果が上っている。誠実に、ねばりづよい共同のたたかいには確かな“光”があり、力があることを私たちはすでに証明しているのである。

(注)司法改革の第2段階でのたたかいについてのよりくわしい私見については、『月間全労連』(10月号)小論、及び自由法曹団10月総会提出小論を参照されたい。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

憧れの白い飯 軍属少年整備士 石塚 昇

司法書士:石塚 昇先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 石塚先生は七六才、昨年四月脳梗塞で倒れた。リハビリに便利なように長く住み慣れた埼玉県栗橋町から東京の墨田区菊川に住居を移した。東京法務局墨田出張所の裏、墨田司法書士会のビルは古い五階建てのビルである。今でこそ地下鉄都営新宿線が開通してずいぶん便利になったが少し前までは陸の孤島、えらく交通の便が悪いところであった。階段を上って二階の廊下を進むと両側の各事務所の入り口ドアーのガラスに司法書士の名前が縦に大きく書かれている。古めかしいドアーが続く二階中程に石塚先生の事務所があった。先生の名前と一緒に司法書士服部末子と書かれている。栗橋町の町会議員や連合会の常任理事など政治運動や団体の仕事で東奔西走の先生を事務所で支えた服部先生は二五年先生と一緒、事務所の「娘」のような人である。
 始めは体の具合が悪いからと断り続けた先生を強引に口説いてのインタビュー。先生は約束の時間より前に、住まいにしている五階から事務所におりて来て私を待っていてくれた。杖をついて歩くのは
なかなか大変らしく外出は車いすのようだった。聞き苦しいかとさかんに心配する先生。選挙演説をぶちまくっていたころとは違うだろうが心配無用。先生の方は大変そうだがこちらはよく分かります。生い立ちなど聞いていると突然先生の奥様美代子さんが乱入。早口でエネルギッシュな美代子さんは私達のインタビューを心配して事務所に様子を見にこられたらしい。不思議の国のアリスのしろウサギのように何やら言うと疾風のように立ち去ってしまった。いろいろな「運動」で毎日スケジュールが一杯らしい。石塚先生はニコニコしたまま黙って見ている。服部先生は「いつものことよ」と向かい側の席で泰然自若、黙々と書面を作っている。
 石塚先生は一九二六年、新潟県刈羽郡山中村の小作貧農の家に生まれた。兄弟四人の長男である。水呑み百姓だった一家は「厳しい小作料を払うため父親は毎冬出稼ぎに行き、残された母は私たち四人兄弟を食わせるために、髪振り乱して働いていた。それでも私たちは白米の飯はお盆と正月一椀づつしかありつけず、芋・大根などに米粒が疎らな雑食が主食だった」「立川の航空隊に行けば、白い飯が一日三度も、腹一パイ食えるぞ」の担任の誘いに一四才の昇少年、もう天にも昇る気持ち。高等小学校を終えるとすぐに立川陸軍航空廠に志願する。立川陸軍航空・技能養成所二期生である。非戦闘要員ではあるが軍隊と同じ激しい教練で昇君は「死をも恐れぬ軍国少年に成長する」。
 一九四三年昇少年は志願して綻び始めていた南方戦線に。タイ・ビルマの小さな飛行場を整備工兵として転戦する。灼熱の地で英印連合軍の機関砲弾の掃射が容赦なく浴びせられる。少年達は「掃射する機関砲弾で腸をえぐり出され、遠い故郷の母に泣いて助けを乞いながら」絶命する。「一日三度もの白米」の対価は無惨な死だった。
 一九四五年八月一五日終戦。翌日の一六日に隊にそのことが伝えられる。あの泰緬鉄道で有名なタイとビルマの国境近くである。童話「ビルマの竪琴」はこのときのビルマ側の物語である。敗戦を聞き帝国陸軍は混乱した。自決するもの、徹底抗戦を主張するもの、そして昇少年達は六人乗りの飛行機で敵陣に突っ込んで行こうとした。ところが機のエンジンは掛からなかったのである。ガソリンは貴重品、タイ人に抜き盗られていた。無駄な死から救われた皇国少年は、まだ帝国陸軍の歴史的な誤りに気づくこともなくただ虚脱感の中にいた。
 武装解除後イギリス軍の捕虜になる。ジュネーブ協定はあったとはいえ捕虜生活は過酷で労役も厳しかった。マラリアに罹患しているものも多く日本に帰れなかったものもいた。なんとインド軍からこっそり食料の差し入れがされたこともある。アジアの同胞として宗主国イギリスと闘った日本人に連帯の気持ちがあったのかもしれない。翌年の七月昇青年は故郷に帰る。一九才。死んだものと思っていた家族は昇青年の復員にびっくりした。家族は全員無事であった。
 真っ先に「一日三度白米」の恩師に会い行く。先生は開口一番「君ネ、民主主義というものはネ」と得意げに弁じたという。捕虜生活と戦後の民主主義の中で
昇青年は「極貧も、戦争も、生まれや運命のせいではない。社会の仕組み・国の制度にこそ問題があったのではないか」「農民運動に生きよう」昇青年の戦後が始まる。
 「もっと学んでみたい」上京後検定試験を受け大学に。新聞記者志望だった昇青年、沖仲仕で生活費を稼ぎ学生運動に没頭。その後明治大学の大学院法律学研究科に進学する。修士論文は「物上請求権」だった。さてもう仕事をしなければいけない。何か資格をと考え司法書士試験を受ける。資格を取ったところで仕事が出来るわけではない。昇青年は縁あって菊川で名板貸しのような形で司法書士を開業。そこで実務を学び本格的に仕事を始める。
 ところが一九六四年先生は乞われて妻の実家栗橋の町議選に共産党から出ることとなる。政治運動は筋金入り。妻の兄が自民党から出馬し、骨肉の争いといわれた。三期を勤め、県議選に出るが壁は厚く落選。
 司法書士界では、東京会の役員、連合会の常任理事として全国をかけめぐる。生活の糧とはならない仕事ばかりを続ける先生を駆り立てる思いは遠い日の灼熱の飛行場にある。
 「常に私の心をよぎるのは、若くたくましい少年のまま、再び祖国の土を踏めなかった戦友達の面影だった」半世紀を経ても世界の平和は未だに遠い。

石塚 昇
1926年 新潟にて出生
1945年 タイ・ビルマ国境で終戦イギリス軍の捕虜となる。
1964年 栗橋町議選に出馬、以後3期、町議会議員


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