法と民主主義2003年4月号(目次と記事)


法と民主主義4月号表紙
★特集★「草の根」治安立法(?)=「生活安全条例」を斬る!
■特集にあたって……清水雅彦
■「生活安全条例」が守るもの―戦争に出て行く国の治安体制……田中隆
■民衆の警察化―過去と現在……大日方純夫
■安全・安心まちづくりと地域中間集団……高村学人
■生活安全条例と市民の主体的参加……石埼学
■防犯カメラによる住民監視……櫻井光政
■Nシステムに見られる住民監視……浜島望
■「安全/セキュリティ」という視座……石川裕一郎
■協働・住民自治と監視社会……村山史世
世田谷区条例■警察・自治体・住民の「協働」による「異端者」排除の危険性……清水雅彦
千代田区条例■自主・協力・連帯による住民監視社会へ……島田修一
八王子市条例■運動の成果と反省―今後の危険な動き……吉田栄士
■「コミュニティ」を基礎にした防災対策としての先駆性……木下智史
■事業者・府民に対する警察権限の拡大……岩田研二郎

 
時評●平和憲法とイラク戦争

北海道大学名誉教授 深瀬忠一

 二〇〇一年九月一一日の対米テロの惨禍の直後ブッシュ大統領は叫んだ。「これはテロではない。アメリカ・自由・民主主義に対する戦争だ」。そして、アフガン、イラク戦争を始めた。「テロに対する戦争」、「悪の枢軸・イラクのサダム・フセイン政権転覆の戦争」である。二一世紀は、新しい戦争と軍拡の世紀になるのであろうか。
 平和憲法は、日本国民の近代・現代・核戦争の過誤と惨禍を反省し、二〇世紀の徹底した国際的平和原則(特に不戦条約の「戦争非合法化」、国連憲章の戦争違法化原則)を摂取し、戦争と戦争手段の放棄を確定した。その戦争には、大量殺戮破壊兵器戦争と同時に通常・小型兵器によるテロ・ゲリラ戦争を含んでいた。「オウム真理教」の無差別テロ事件は、重大な刑事犯罪として警察力による逮捕と裁判的重罰により解決し、「戦争」に訴えることを許さず―国内・国際警察と立法と裁判の強化で対処する基本原則を示す。
 日本国民は、この平和憲法を五〇年以上にわたり維持し、成長させた。東西冷戦の最中に北海道での二つの重要裁判がある。「恵庭事件」では、陸上自衛隊の実弾射撃演習を妨害した乳牛酪農民の平和な生活の権利を守る国民の下からの平和的結束力が、自衛隊法の重罰規定の適用を拒否する「無罪判決」をかち取り、確定させた。「長沼事件」では、航空自衛隊の地対空ミサイル基地設置に対し平和な農民の権利を守る弁論(六四六名の弁護団)・理論(百数十名の憲法学者)・無数の裁判支援の市民の世論が結集して、「自衛隊違憲判決」(一九七三年)を勝ち取り、最高裁は一切の憲法判断を避け、「憲法の番人」の判例上自衛隊の合憲性を明示的に承認した判決は皆無である。日本国民自身が弁論・理論・世論の三論一体の平和的抵抗力を結集出来たからこそ、自らの「平和的生存権」を守り、「有事法制」を阻止出来たのである。さらに、違憲の「軍事力」を、合憲の「総合的平和保障力」に改編して行く「憲法政策論」の全国的学際研究が進み、平和憲法施行五〇年を経てその成果を出版し『恒久世界平和のために―日本国憲法からの提言』(一九九八年)と題して全国民・全世界の国民に(要約英訳付きで)発信した。
 二〇〇三年三月、小泉首相が「イラク攻撃戦争」に対し「支援する」と言明し、日本国民の大多数の「戦争反対」の声にも、世界の「米国一国行為主義」の危険性に対する反発にも、背を向けた。根本的欠陥がある。平和憲法に一言も触れず―日米軍事同盟のみ重視したことである。平和憲法は、日本国民が「核・地球時代」の平和国民として、(1)アジア・世界において戦争をするのでなく、戦争を廃棄する(国連を尊重し、敵対国の公正な査察により戦争を回避し、平和的に紛争を解決する。さらに国連を超える)世界平和システムを創造し、(2)核(大量殺戮破壊)兵器廃絶(NPTの徹底、国連軍縮研究センターは中央アジア五カ国「非核地帯条約」案の合意に達した。北東アジアにも出来ないはずは無い)、通常・小型兵器縮小撤廃、(3)「全世界の国民が恐怖と欠乏から免かれ平和のうちに生存する権利を尊重する正義」に基づく世界秩序の建設と云う、「核時代の平和を先取りした立憲民主平和主義」憲法を最高の基本法としていることを忘れてはならぬ。現「政府」は、「戦争の出来る普通の国」になる「有事法制」と、米軍を世界中で支援する「集団的自衛権」承認の解釈変更による「実質的改憲」を、さらに「軍事強国」となる「明文改憲」を考えていることを、国民は鋭く見抜かねばならぬ。日本国民は、世界各国に向かって「国際紛争を武力によって解決しない」「改憲」を呼びかける「布憲」論をとるべきだ。そして、「全世界の国民の平和的生存権尊重の正義」に基づいて、人類と地球が絶滅することのないようにする「人類益」に寄与することを「ポスト経済大国のビジョン」として二一世紀を進むべきであろう。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

「学」やみ難し−再びの日−

弁護士:中田直人先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 中田直人先生は、二〇〇一年三月関東学院大学を七〇才で定年退職した。一九五七年二六才で弁護士登録をし三二年間の弁護士生活、その後茨城大学の裁判法刑事訴訟法の教授になる。七年間茨城大学で教え、その後関東学院大学に移りそこで五年。先生は都合一二年間の大学教員生活が人生で一番楽しかったと言う。
 四年前に「あなたもうおいとまよ。眠くなったお休みなさい」と先生を置いてさっさと行ってしまった恋女房美重子さんは「毎月きちんと給料が入ってくるのが本当にうれしい」と。弁護士として戦後の松川事件を始め多くの弾圧事件に関わり、裁判闘争に死力を尽くしてきた弁護士がなぜこう言うのだろうか。
 中田先生は一九三一年石川県の生まれ、両親とも教師。兄と姉二人、妹の五人、楽天的な次男坊である。幼いころ両親は大阪の感化院に勤めていた。教官が家族とともに非行少年と一つ屋根の下に住むという施設である。直ちゃんはもとスリのお兄ちゃんに財布の抜き方を教わったこともある。数年間して一家は堺市へ移る。直ちゃんは小六の時、子供のいなかった母方の叔母さんのところに養子に行く。兄弟五人ころころと仲良く育った。五人が両手を肩に掛け一列縦隊でにこにこ顔の写真がある。誰が取ったのか当時としては斬新な写真である。こんな家族の中で養子なんていやじゃなかったと聞くと「一人だったら可愛がってもらえるし」五人もいればそうかもしれない。直ちゃんはなかなか合理主義者である。
 金沢第一中学に入学。翌年軍隊に憧れ直ちゃん陸軍幼年学校に行く。お兄ちゃんは陸軍士官学校だった。一四歳の時には死を覚悟していた。ところが終戦、可愛い目の兵隊さんは旧制中学三年に復学する。その後旧制第四高等学校に入学。高校時代は恋愛と食料不足の中今でいう生協運動に専心、そのかたわら学生運動までやっていた。高校二年で知り合った美重子さんと一途に九年も付き合って弁護士になった年にやっと結婚する。
 一九五〇年直人君は旧制東大を受験するが失敗。半年間新制高校の英語教師をやりその後新制金沢大学の法文学部に編入する。ちょと不思議な経歴である。なぜか一年後に勉強しないのにまんまと司法試験に合格。その後に本格的に勉強したいと思うようになり、五三年に金沢大学を卒業、研究者を目指して東大の大学院修士課程に進むのである。専攻は刑事法、当時気鋭の研究者だった団藤重光先生の門下となった。中田青年は良く勉強した。修士論文は「確信犯に関する研究」である。レファレンスもコピーもない時代、中田青年はドイツの雑誌を求め瀧川総長宛の紹介状手に京都大学の図書館に行ったこともある。その雑誌の論文を全部タイプライターで写し取って来た。一九六五年メーデー事件の弁論(各自ぺら数百枚)を準備しているとき「わたし一人せっせと裁判記録のメモを作っていた。予定の期日に間に合うのかと、皆ずいぶん心配してくれた。じぶんでも心細かったし、あせりもした。それでもメモ作りはやめなかった。だが書き上がったのは皆とほぼ同時である」
 後年茨城大学に転進する際、団藤先生はたった二年の遠き日の門下生に対して具体的な勉強ぶりをあげ「きわめて優秀な論文でありました……当時多数の修士論文を審査しましたが、中田氏のこの論文は出色のものでした」と推薦文に記すのである。言われてみたいね。
 博士課程に進学するが、実務も知ってより研究を深めようと司法修習生になる。団藤先生からは研究者になることを勧められた。実務修習中に「本を読むこと以上にいきいきとした社会の問題をみ、できればそういう仕事を続けながら、それを研究に生かすことができれば」と思うようになる。これが運の尽き。一九五七年中田青年は東京合同事務所で怒濤の弁護士生活に飲み込まれることになる。
 「メモ魔」で「ワタリ事務局屋」と自称する中田先生。「こうした事務局の仕事を、私はいつも誇りとしていた。その場その場で精一杯の努力もした。記憶力は悪くても、多くの情報を迅速に収集し、一時にこれを処理し必要な決断をする能力は持っていると自負して判断を誤ったときは、潔く泥をかぶるという気持ちがつねにはたらいていた」「私は事務局の仕事を縁の下の力持ちなどと考えたことは、さらさらない。多くの人びとの知恵と力を一つに集め、その団体・組織がめざした方向に、人とものを動かすのは、“軍師”の器にしてよくなしうるところではないか」と先生は記す。「個性的な人が多い弁護団や団体でよくやれましたね」と聞くと「事件のこと情勢、そしてその組織のことを誰よりも一番よく知っていることが大事です」とこともなげに言う。それだけではない。中田先生に言われたらいやといえない力を貸そうと思う。その信頼を勝ち得なければ誰れもついて行かない。知と情が誠実な車の両輪なのである。
 中田先生が大学の教員になるのは偶然からである。ある学会の酒の席で臨時増員教授ポストの話になり友人らが「だったら直ちゃんがいけばいい」と勧めたからである。実務をこなしながら先生は研究者の目を持ち続け、機会があれば論文も書いていた。その資質と中田先生の心の奥底にある止みがたい学問に対する思いと実務の中で培われた目を友人らが見逃すはずがない。
 実務の経験を存分に生かし先生は研究し論文を書き学生を指導した。「弁護士になってはたらいてみると、裁判所を動かす『技術』などどいうものが現実にあるだろうか、裁判所を動かすものはもっと別のところにあるのではないかと考えざるを得なくなった」
 「人をみることのできる法律家をどのようにして作るか」中田先生は最終講義で学生に問う。今進められている法科大学院教育と司法試験の「改革」は「最悪の選択」。「本来司法試験は、日本国憲法と一般社会常識の試験だけでよいと私は思っている。それで大量の人材をとり、法律家として育てていく課程で、適材でない人物はふるい分けできるシステムが良いのである」本当に必要な実務の技量は、法律家になってからの経験の中で作られる」「それは本来、型にはまった教育の埒外のものである」
 直ちゃんは再び法律実務家に戻った。「癌なんだけど何ともないな」と不死身。

中田直人
1957年弁護士登録(東京)。89年登録取消、茨城大学人文学部教授、96年関学院大学法学部教授。97年弁護士再登録(茨城県)


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