法と民主主義2003年5月号【378号】(目次と記事)


法と民主主義5月号表紙
★特集★家永教科書訴訟が提起したもの・受け継ぐべきもの
■特集にあたって……加藤文也
■戦後国民運動としての家永教科書訴訟
 −家永教科書訴訟32年の闘いとは何であったか−……新井 章
■家永教科書裁判の今日的意義……尾山 宏
■教科書訴訟の教育法学へのインパクト……永井憲一
■家永教科書訴訟と教育・教科書運動
 −その成果を今にどう生かすか−……石山久男
■教科書裁判と教育運動……浅羽晴二
■教科書訴訟運動の継承ー家永教科書運動を引き継ぐ「教科書ネット21」……俵 義文
★コラム・私と家永教科書訴訟★

■民主的な教科書作りへの夢……徳武敏夫
■今に生きる、家永裁判運動……小林 和
■わが人生の教師ー教科書訴訟……浪本勝年
■影響が広く深かった訴訟……榎本信行
■家永三郎教授との32年間……森川金寿
■検定裁量論と大野判決……門井節夫
■侵略戦争の真実を語り伝えること……大森典子
■地域活動のエネルギー源であった……石崎暾子
■家永教科書訴訟は主権者の道標……伊藤文子

 
時評●イラク「戦争」から見えてきたもの

名古屋大学教授 森 英樹

 米軍の圧倒的軍事力によって、対イラク「戦争」は、軍事的には「決着」がついた。だが、なんとおびただしい問題を残したことか。その多くはすでに論壇等で議論されており、その法的な問題も、本誌前号に掲載されている松井芳郎教授による国会内講演や民科法律部会理事会声明(法律時報五月号掲載)をはじめ、随所でふれられているので、ここでは個人的に気になる点を拾いながら時評をつづってみたい。
 米英軍によるすさまじい殺戮・破壊行為を対イラク「戦争」と呼ぶことに、まず違和感がある。米軍によるアフガニスタン攻撃の時にも、「これは戦争ではなく一方的な殺戮である」との批判があった。「国家的テロ」と呼んだ例もある。「戦争」とは、双方にとって程度の差はあれ「戦勝」の可能性があるいわば相互行為であろう。だとするとこの非対称性は対イラク「戦争」にもあてはまる。しかもイラク側に「大量破壊兵器」を破棄させた上での「大量破壊兵器」による攻撃であった。俗に言う「汚い」やりくちである。これはもはや「戦争」ではなく、一方的で残忍な「侵略」にほかならない。
そうした避難を回避するためか繰り出された攻撃理由とて、当初の「悪の枢軸」=「テロリスト擁護」から「大量破壊兵器隠匿疑惑」を経て「国民解放・民主化」へと、あきれるほどに無節操な変転を重ねた。そのどれもが方便にすぎなかった。後に残ったのは、要するに米国に刃向かう政権に対しては、直接暴力によって米国にひれ伏すことを求める「帝国」の論理だけである。とすると、日本が将来、日米安保体制を脱却して米国に対等な自主外交を求めようとしたとき、この「帝国」は、その新生日本にも「先制攻撃」を仕掛けてくることを示して見せたことになる。ポツダム体制打破・憲法改正・安保破棄・独自核武装を求める真性ナショナリストにとっても、これは重大な教訓となった。
 「戦後」イラクの統治はORHA(U.S.Office of Reconstruction and Humanitarian Assistance)が取り仕切るという。「復興人道支援室」と称せられているが、正確には「U.S.(合州国)」という仕切元名が冠されていることに留意すべきである。自分で殺戮・破壊しておいてその「復興」を「人道」の名で仕切るというのもあきれるが、それはともあれ、ペンタゴン下のこの組織が戦事機関である以上、日本政府がそこに要員を提供することは、憲法が禁じた「交戦権」の行使にあたる。そのことをただした社民党党首に対し、小泉首相は「戦争は終わってもう交戦しないんだから」と笑みを浮かべて答弁した。情けないほどの無理解である。こうしたあきれるほどの無知の集積の上に「有事法制」が繰り出される低水準の「政治」に、法案そのものの怖さを増幅する別様の恐怖感を、感じる。
 米英による無法な侵略と占領に日本政府が寄り添うのは、「次は北朝鮮」という思惑があるからだとされている。
 マス・メディアは金正日政権の異様さと危険性を執拗なまでに喧伝してあおる。これが追い風となってか、イラク攻撃に対しては反対色の濃かった国民世論も、北朝鮮をからめて有事法制の可否を問われると、微妙な温度差を示してもいる。
 だが有事法制が成立したときには、対イラクで突進したブッシュ政権が、同様の矛先を北朝鮮に向けたとき、日本もまたれっきとした戦争当事国になるという地獄絵をリアルに想定すべきだろう。ことは「日本が武力攻撃を受けたとき」の話ではないのである。
 ブッシュ政権のとるunilateralismとは、「単独行動主義」と訳されているが、「独善的自国至上主義」と呼ぶのがふさわしいと高橋哲哉は言う。その手前勝手な「帝国」のふるまいに小判鮫的に連れ添う日本政府の底意には、やはり、米国とともに世界展開している多国籍企業の「安全」と石油資源の確保とが織り込まれていると見るべきだろう。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

ガンダーラのほほえみ−爆弾娘のその後

参議院議員:大脇雅子先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 大脇雅子先生を議院会館に訪ねた。資料に囲まれた部屋の雑誌棚には法と民主主義もある。黒字に小さな花柄がたくさんプリントされた薄手の柔らかな生地のパンツスーツ、そのあでやかな雰囲気は、先生のエキゾチックな顔立ちによく似合っている。先生を待つ間にめくっていたパンフレットに着物姿。黒地に水が流れるように白いオリーブの枝と鳩の絵模様が胸から帯の下を通り裾まわりまで斜めに描かれている。大胆な絵柄が外国の要人と並ぶ先生に際だった印象を与えている。派手というのとも違うモダンでしっかりとした大人の風情である。どこかに遠く西のアジアから吹いてきた風の匂いがしてくる。「もともとはやせていたの。子供を一人産むたびに太って」三人のお子さんは全員独立し、お孫さんが四人いる。お母さんの腕にだかれて法律相談を聞いていた長女は京都で弁護士。「弁護士が一番身近な仕事でしたから」と大脇美保さんは言う。美保さんは夫婦別姓を貫き、つれ合いと「ほんとに二人で平等に子育てをやっているのよ」しみじみと言う母雅子先生である。
 先生は五三才で離婚をした。一番下の息子さんが二〇才になったときである。修習生の時に大学の同級生と結婚、二回試験の時は美保さんを妊娠中、つわりで苦しみながらやっとの思いで研修所を卒業した。結婚後は夫の両親と同居、障子の張り替えも廊下のふき掃除も子育ても懸命にやり、夕飯は姑と一緒に台所に立った。だから今でも料理は早い。子供が小さい一時期、弁護士業務を辞めていたときもある。夫はすでに自宅で弁護士を開業していた。岐阜県で初の女性司法試験合格者、新聞に載った才媛でも大脇家にとっては息子の嫁。「うちの嫁がしゃべった」と言われる時代だった。先生は奮戦空しく「お宅の爆弾娘を引き取ってもらいたい」と言われ、二人の小さな子供を連れて岐阜の実家に返されるのである。先生の両親は「そんなところにいなくてもいい。帰って来なさい」と迎えてくれた。
 雅子先生は岐阜の生まれである。両親はともに教師。兄弟は四人。長女が雅子先生一九三四年生まれ。五才年下に弟、名古屋大学で予防医学の先生。その下に父親が復員後生まれた弟歯科医師と妹教師の二人。両親は全力を注いで子供を育てた。焼夷弾で家族を失った二人の従兄弟達を引き取って総勢六人、育て上げるのは容易なことではない。男も女も勉強してきちんとした職業を持てというのが教育方針だった。実は両親は雅子さんには医者になってもらいたいと思っていた。ところが雅子さんどうも医者には魅力を感じない。どちらかというと文学少女。高校のときは四か月も登校拒否をし、屋根裏部屋で本ばかり読んでいたこともある。母は何もいわずじっと雅子さんを見守っていた。そして大学進学の時が来る。なぜか両親に勧められるままに名古屋大学の法学部へ。法学部ならしっかりした職業が持てると思ったのだろう。名古屋大学法学部八〇名のうち女性はわずか四名。一時演劇に夢中になるが挫折、仲間の厳しい総括の中で大学に戻り、労働法の研究者をめざすことになる。ここに立ち続けてもうすぐ半世紀、大脇先生は女性労働問題をライフワークとした。
 さて実家に返された雅子先生すぐに離婚はしなかった。「離れに別居して暮らそう」と言う夫と小さい子供達の姿にほだされたのである。自宅での弁護士稼業と主婦業は「良くやれたと思う」精神的にも肉体的にもぎりぎりの日々であった。
 子育てはもちろん雅子先生の弁護士としての活動は働く人の側に立つだけでなくつねに弱い人虐げられている人とともにあった。研究活動も捨てなかった。その最初の現場は写真の仲間である。真ん中の理知的な女性が先生。二三才。司法試験に受かって大学の助手をしていたころである。まわりは名古屋市電市バスの労働者達である。毎週職場に出かけ学習会をしていた。一九五八年人権無視の身体検査、生理休暇闘争、職場は過酷であった。雅子先生は労働者ではない。が現実を直視しそこから学ぶ真の知識人になる一歩がここから始まった。
 二〇年後「子供を育て、病人や老人の看護を担いながら女達が働く時、職業生活と家庭生活の二つの生活を両立することはむずかしい。きれいごとで調和をとることはできない。しかし、自分の生き方として二つとも選びとったときは、必死でバランスをとって立つしかない。倒れるときもあり、無念の思いをのみこんで一方を選択するしかないときもある。いくつかの命綱に支えられながら」均等法時代を生きる働く女性たちへの応援歌として先生はこう記している。
 一九九二年、社文センターの推薦で社会党比例区から参議院議員に当選。伊達秋雄氏の口説文句は「あなた何も失うものはないでしょう」「僕だったら出るよ。ローザ・ルクセンブルグのように死にたいからね」だった。今は二期目後一年で一二年になる。大脇先生は現場で闘いながら立法の不備にいつも歯ぎしりしていた。立法に関わることで状況を少しでも変えることができるとがんばったのである。ローザ・ルクセンブルグにはならなかったが、遅れてきた議員の大脇先生は良識の府参議院議員の役割を存分に果たした。先生が押し込んだり、歯止めを掛けたりした立法は多い。「私が作った条項」も多い。立法は本来市民の発案によりなされるものなのに議員立法さえきわめて少ない。官僚主導の立法に席巻されている国会。政治状況はめまぐるしく大脇先生は望んだわけでもないのに社民党の数少ない議員となり国会の党務も多くなっている。
 大脇先生には「政治的野心は全く無い」後援会も作ろうとは思わない。清貧の議員である。弁護士と研究者に戻り現場の手触りを取り戻したい。大脇先生はこう思っている。「ここにいると現場から遠いの」先生の帰るところは戦い続けた弁護士の仕事である。そして「自分で作った法律を使いまくりたい」と。私たちはこの母の世代を乗り越えられるのだろうか。
 うちに爆弾を持つ聡明な娘は同世代の女性とともに子を育て家族を支え仕事も研究活動も手に余るほどこなした。五〇年の歳月は積み重なって遠いガンダーラの仏の面差しを先生の上に与えた。

大脇雅子
1958年名古屋大学法学部卒業。現在母校で、立法政策学を講義。
1962年弁護士登録(名古屋弁護士会)
1992年参議院議員当選。厚生・労働委員会、金融経済活性化特別委員会、憲法調査会所属。


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