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■特集にあたって
イラク侵攻に続いて、朝鮮半島での軍事衝突の危険が絵空事ではないリアリティをもって語られる事態となっている。
「朝鮮半島危機」の構造を明らかにして、朝鮮半島の危機を回避し、ひいては東北アジア全体の平和への展望を切り開くことが、極めて重要な課題となっている。
現在の危機の根源は何なのだろうか。私たちは、どうすれば揺るぎない平和を獲得することができるのだろうか。東北アジア各国の人々とこの課題を一緒に考えてみたい。たとえ、各国の政府が危険な道を歩もうとしても、市民の連帯によって危機を回避する展望が開けるのではないか。
そのような問題意識から、去る一〇月四日、法律家諸団体の共同企画として、「東北アジアの平和への展望―朝鮮半島に再び戦火を生じさせないためにアジアの法律家・市民は何をなすべきか」と標題する国際シンポジウムが開催された。
日本国際法律家協会、日本反核法律家協会、青年法律家協会弁護士学者合同部会、自由法曹団、日本民主法律家協会の法律家五団体は、この間国際的には「アメリカの違法なイラク侵攻反対」、国内的には「違憲の有事法制反対」を軸に平和問題での共同行動を積み重ねてきた。本シンポジウムは、その到達点としての成果である。
パネリストとしてお迎えしたのは、中国社会科学院日本研究所の金煕徳教授(日本外交専攻)、朝鮮大学校の高演義教授(国際関係論)、韓国民主社会のための弁護士会統一委員会委員長・沈載桓弁護士、そして関西学院大学法学部の豊下楢彦教授という錚々たる顔ぶれ。各国の市民的良識を代表する論者をそろえた観がある。司会は、日民協の澤藤が担当した。
シンポジウムは、「朝鮮半島の平和を危うくしている『危機の構造』をどう把握するか」そして「危機を克服して朝鮮半島の平和を作り出すための展望をどう切り開くか」を軸に展開した。
高演義教授が明快に危機の原因をアメリカ・ブッシュドクトリンにあるとし、北朝鮮の対応を防衛的でやむを得ないものとしたうえ、米朝不可侵条約締結と核放棄のスケジュール提案を合理的なものとする立場から米の対応を批判した。
沈載桓弁護士の発言はこれに近いものであった。韓国の対北世論は、二〇〇〇年六月の南北首脳会談以後確実に変わった。それまでは、南の支配者の都合にあわせたマスコミ操作に踊らされて、北に住んでいるのは人でないと思わされていた。しかし、「もはや、韓国民には北の脅威論は通用しない」とのこと。
金煕徳教授は、日本に警告する。アメリカがアフガンやイラクではたやすく戦争を仕掛けても、北朝鮮に対してはできないのは、韓・中・ロの三国の反対があるからだ。日本は親米に過ぎて、北東アジアの平和同盟から置きざりにされる恐れがある。また、拉致問題ばかりを声高に言う姿勢を、国際世論からは公正でないと指摘されている。
豊下教授は、北朝鮮への注文も厳しい。「核カード」だけに頼るべきではない。どうしてもっと「南北カード」を重視しないのか。もっと支援しやすい国際環境を作る配慮が必要とする。そのうえで、日本の過去の清算という問題は、極めて今日的な重要問題であることを強調された。
印象的なのは、北朝鮮が「改革開放方針」をとれるよう国際環境を整えるべきことが重要という点で意見が一致したことである。金教授・豊下教授が口をそろえて、「一九七〇年代には閉鎖的だった中国が、これだけ変わったではないか」と言い、沈弁護士も「韓国の民主化もごく最近のこと」と指摘する。北朝鮮が改革・開放の路線をとれば、中国・韓国に続いて、「民主化」が進展するだろう。内政干渉をするのではなく、外的な環境を整える努力によって民主化を期待する途が見えてきた。
もう一点、日本の危うさが浮き彫りになった。主体性をもった韓国民に比較して、マスコミに操作され、世界の良識ある世論からは取り残されそうな日本。
東北アジアの平和のための日本の役割、日本の法律家・市民に何が求められているか、深く考えさせられた、有意義な企画であった。
一一月の総選挙で、一般的には、二大政党時代の幕があき「古い」金権構造に根ざした自民党の「新しい」改革の主張が日本社会に受けいれられ、無党派層の大量票を獲得した民主党が前進したとされている。逆に、社民党は「存亡の危機」をむかえ、共産党は「深刻な苦境」に陥ったともされている。
支持政党をもたない無党派層が、逆に、財界も望む「二大政党の時代」を生み、日本資本主義の大発展期前後には躍進した革新政党が、日本資本主義沈没の時期に、逆に、低落するという矛盾の構造はどう理解すべきか?
巨視的にみて、非西欧アジア社会の「おくれ」が「すすみ」を支え、「すすみ」が、逆に、「おくれ」を生み出す矛盾の構造分析は、私の従来追求してきた研究であるが、今日の社会科学研究では深化されていないのではないか。
この矛盾構造に迷いこんだアメリカの非西欧世界、中東、朝鮮への二正面作戦戦略は、この超先進的大国を危機におとしいれた。
イラク戦泥沼化の数ヶ月前でさえ、アメリカの保守派は朝鮮との科学戦を予定し、日本型ネオ・コンは、核の大国中国と戦わばといった、超軍事科学大国への盲目的追随現象を示した。
現在、アメリカの超近代的な精密科学兵器によるイラクでの大勝利は、イラクの一箇連隊のジハードの「おくれ」にも及ばない泥沼化におち入ったのではないかとの疑問を、世界中に生み出している。「悪の枢軸」社会主義朝鮮の逆宣伝に狂奔した日本のジャーナリズムも、いま先見性のある論者は「転進」の出路をさがしあぐねている。逆に、暴走し、日本の滅亡を招くか?。
アメリカのクリントン上院議員さえ、ブッシュ政権は「尊大で世界を一方的にしか見ていない」と批判しているという(朝日、一一月八日)。私もアメリカ軍のイラクでの科学戦大勝利の時期に、憲法・法哲学の小林直樹教授の出版記念会のトップのスピーチで大勝利による、逆の、泥沼化の敗北を警告している。アメリカネオコンの勝馬にのった面もある日本の右よりの平和憲法改正論は、ネオコンの急速な退潮とともに、アジアの時代に、逆に、地獄への門を開く第一歩となろう。
今日、中国の成長七%以上に及ぶ経済大発展においても、中国崩壊論の主張する「おくれ」は、逆に、「すすみ」を支える側面もある。今日、アジア中国研究は、早慶だけをとっても、あいつぐ東アジア研究所の改名設立や、シンポの開催をみている。アジアから既に老大国視されている日本は、将来、新興超大国中国と共存する以外に途はないという。矛盾構造の深化研究という大学院的課題の前に、中国語ニュースのヒャリング能力さえないという、初歩的基礎技術の培養さえ急務なのである。中国の知的財産権侵害の救済方法や司法制度全般にも中国的特色がある。しかも、中国は市場経済化が急速に進む社会主義国家なのである。その先端理論の「社会主義初級段階論」などに至っては、日米ともにこれを理解できるものは十指に足りないであろう。私もその研究には進んで協力しているが困難な大問題である。
より、根本的に日本型資本主義の上部構造の分析はどうか。日本の革新勢力は絶望するに及ばない。アジアの時代における日本の矛盾構造の分析はまだなにもわかっていないのではないか。「分断・包摂・孤立・弾圧」というのは日本社会の定式ではないか。日本の無党派層・新時代のアジア平和主義による逆包摂の道はどうか。研究者や法曹は独自の主体的主張が奇異な異端として排除されることを恐れてはならない。右傾化による教育改革・司法改革における異端排除は間もなく滅亡に連なる。私は第二次世界大戦期における青春のレジスタンス以来、それを自明の理として知らされている。通商白書さえ、くり返し強調する大アジアの時代に、アジア・日本の未来に絶望することなどありえない。(総選挙の翌日)
池田先生は弁護士になって四〇年。この一〇年が一番充実した楽しい仕事が出来たという。弁護士になるまで病気をしたり風早八十二先生の事務所を手伝っていたりちょっと寄り道をして、一八期、七五才になる。ここ二〇年、先生は全然年を取らず髪も真っ黒。アジア集団安全保障共同体構想を語る時、コスタリカのことを語る時、ほとばしる思いが凛々と伝わってくる。独特のテンポののんびりとした口調にだまされてはいけない。人を食ったような語り口は昔のNHKの子ども番組「チロリン村とクルミの木」の渋柿じいさんみたいだ。素朴な土のにおいが濃厚にする。
私の事務所は東京四谷、池田先生とは同じご町内。時々ばったりとお会いする。これがただじゃすまない。コスタリカに行く前の日に会った時など「コスタリカはすごいよ。あんたも行きなさい。あんな小さな国が戦争放棄してるんだ。俺たちも学ばなくちゃ。」と遠足に行く前の子どもみたいである。うれしいな、うれしいな。アジア集団安全保障構想の話しの時は悲劇だった。遅れた昼食を取っているとそこに現れた池田先生「ふっふっ」と私のテーブルにくる。「朝鮮半島と日本と中国が共同体を作る。みんな非核宣言をする。俺は昔からこう言ってたんだ。あんたはどう思う。」私はご飯が食べたいの。どう思うって言われたってね。いい加減に聞いていると「あんたもう俺の話を聞きたくなくなったな」とギロリと威嚇する。これで嫌われたかなと思っていたら本人はすっかり忘れている。
池田眞規先生は一九二八年に韓国の大邱で生まれ釜山で育った。兄一人姉三人の末の次男坊である。父佐忠は天草出身の事業家で釜山の港湾建設事業を取り仕切っていた。豪放磊落な自由人で目端の利く面白い人物だった。メキシコから石油を輸入しようとしたり、蔚山(ウルサン)と山口県の油谷町に港を作り新航路開発事業を計画したり、何とも闊達である。山本五十六連合艦隊司令官とお友達で、真珠湾攻撃の前日、旗艦長門から山本が書いた書を送ってもらたりしている。
マキちゃんは小さいとき引っ込み思案の少年で、たまにしか会わない父親に恥ずかしくてあいさつもできなかった。中学四年終戦間近の三月、マキちゃんは明治大学付属の専門学校造船科に進むために最後の関釜連絡船に乗って上京。東京は大空襲で焼け野原だった。八月玉音放送を聞く。何のことだかわからなかった。教授が泣くのをみて負けたんだと思った。翌日丸の内の交通公社で釜山行きの切符を手に入れマキちゃんはさっさ学校をやめ釜山に帰ってしまう。仙崎から出る船に予科練の制服借りて復員兵になりすまして乗船、無事帰宅。「まさちゃんが帰ってきた」みんなびっくりした。
マキちゃん一七才。コルト六連発を尻ポケットに突込んで毎日デモをみたり、引揚日本人の世話会長だった父親の仕事を手伝ったりしていた。一一月父親がCIAにつかまる。アメリカ軍にワイロを渡して日本人を守ってくれと接待した容疑。二四時間以内の追放命令、身の回りのものをリックにつめてすぐに引き揚げ船に乗った。油谷町の広大な土地でマキちゃんは農業でもしようと思っていた。ところが「バカでも入れる学校がある」と従兄弟から勧められ「まさ、行ってこい」の父の一声でマキ青年は熊本語学専門学校に入学。そこでマキ青年は東洋哲学の俊英玉城康四郎先生に出会い、哲学を学ぶ。一年結核で休み四年かかって専門学校を卒業、また従兄弟に勧められ九州大学に進学することとなる。
五〇年マキ青年は九州大学法学部に入学する。入学したらあまりに授業がつまらなくてやめようかと思ったが、法律学科から政治学科に移り何とか留まった。そしてマキ青年は左翼の洗礼を受け学生運動に邁進する。ところが結核が再発、中野の組合病院で手術を受けることになる。大学は取れていた単位で五三年に卒業した。父親も死亡し経済的にも大変な療養生活だったが、マキ青年はどんなときにも落ち込まない。今もそうである。ものにこだわらない楽天性は父親譲りである。
病院を退院した時、風早事務所で事務員を募集しているから行ってみたらと進められる。行ってみると風早先生は九州大学の恩師具島兼三郎先生の師であった。人生の巡り合わせは不思議なもの。池田青年に「君は弁護士になってわしの手伝いをしろ」と風早先生の命。風早事務所で弁護修習、六六年から弁護士となる。風早事務所の大番頭として約一五年間、勤める。
弁護士になると、何も知らずにうっかりと「地獄の百里弁護団」に入り、事務局を押しつけられ、これを二〇年勤める。訴訟活動はもちろん大衆的裁判闘争の運動を引っ張る要でもあった。池田先生は「生きた憲法九条の平和の思想」を百里の農民の地をはう戦いのなかで血肉とする。土の匂いはここから生まれたのかも知れない。
百里裁判と平行して、日本被団協に押しかけて、「被爆者の望むことは、何でもやります」と誓うそそっかしさ。原爆を裁く国民法廷運動も楽しくやり、一九八九年には国際反核法律家協会のハーグでの創立総会に参加。日本での反核法律家運動にも関わるようになる。九一年に国際反核法律家協会(IALANA)の呼びかけで始まった「世界法廷運動」が日本では国民的な大運動となり、九六年国際司法裁判所のすばらしい「勧告的意見」に結実。九九年ハーグ市民社会会議に参加し、その平和アピールでは公正な世界秩序のための第一原則として「各国議会は、日本国憲法第九条のような、政府が戦争を禁止する決議を採択すべき」とまで言わしめたのである。
しかし国内では憲法九条は改悪の危機。二〇〇〇年池田先生らは軍隊を捨てた国コスタリカに出かけるのである。名カメラマン池田先生が撮った軍隊廃止を宣言した亡フィゲーレス大統領夫人のカレン女史の写真がある。とてもいい。先生とカレン女史との関係がそこに出ている。日本にお客様を呼ぶとき池田先生は成田に迎えに行き日本にいる間中一緒に行動する。そして成田まで送る。この熱い心を「幸せはささやかなるを極上とする」妻ゆきさんがかたわらで支えているのである。
「ボクは人にいつも恵まれるの。すばらしい人が現れて運動を支えてくれる。すごいよ」
池田眞規
1928年 韓国大邱に生まれる
1953年 九州大学法学部卒業
1966年 弁護士登録・百里裁判・被爆者運動に没頭。
1990年 日本反核法律家協会初代事務局長、現在、副会長。
©日本民主法律家協会