法と民主主義2004年1月号【385号】(目次と記事)


法と民主主義1月号表紙
★特集★ここまできた司法改革
──これからの課題―第36回司法制度研究集会から―
特集にあたって……鳥生忠佑
第一部◇
基調講演■ここまできた司法改革と法科大学院構想等の現実……村井敏邦
関連報告■法曹養成制度の到達点と課題……椛嶋裕之
会場からの発言

第二部◇
・第一ブロック◇裁判官制度改革、裁判所改革の現状と課題
報告■裁判官改革、裁判所改革の到達点と課題……杉井厳一
  • 司法改革と裁判官の意識、意見……北澤貞男
  • 司法改革と裁判所の職場の状況……布川実
  • 簡裁代理権付与と司法書士……盛岡登志夫
  • 会場からの発言
・第二ブロック◇民事裁判改革の現状と課題
報告■弁護士費用敗訴者負担問題の最終局面をどう勝ち抜くか……辻公雄
  • 労働裁判改革と労働審判制……井上幸夫
  • 行政訴訟の動向と行政裁判改革……高橋利明
  • 会場からの発言
・第三ブロック◇刑事裁判改革の現状と課題
  • 報告■裁判員制度創設と刑事司法改革……伊藤和子
  • 刑事司法をとりまく状況と刑事司法「改悪」……立松彰
  • 刑事司法改革と裁判闘争……橋勲
  • 会場からの発言


 
ここまできた司法改革 ――これからの課題

特集にあたって
 今回の司法改革は、「市民・国民のための司法」、すなわち裁判を「市民に親しみやすく」「使いやすい」ものにするため審議会を設け、その後制度設計に三年をかけて進行させているものです。司法改革審議会の意見書を基礎とした制度設計もあと一年を残すのみとなりました。司法改革はどう進行したのかを確認し、今後残された課題と問題点は何かを見極めること、が問われています。
 日本国民は、戦後これまで、司法改革を三回経験しました。第一回目敗戦直後の改革は、新憲法のもとで司法の独立と裁判の民主化が期待されながら不十分に終わりました。国民は敗戦の混乱と戦前・戦時中の暗い裁判から抜け出したばかりの状態で、司法の民主化に関心を寄せる余裕がなく、また情報の伝達もないまま、結果として司法官僚制の復活を許し、司法行政が裁判官人事などで裁判と裁判官を締め付ける体制の確立を招きました。
 第二回目一九六四年の臨時司法制度調査会意見書による改革は、弁護士会が強く要請した、すべての裁判官を社会経験をもつ弁護士から採用するとの「法曹一元」制度の実現を棚上げし、裁判の「迅速化」と裁判官を統制・監視する機構を作り、この結果司法の独立を侵害し、裁判の形骸化を招いてきました。
 これら過去二回にわたる司法改革の教訓は、改革にあたっては、国民に十分な情報を提供し、これにもとづき国民各層から十分意見を汲み上げて行うべきであり、一部官僚の考えで行わさせてはならない、というものでした。
 この教訓のもとで始められた第三回目、今回の司法改革はどうでしょうか。情報の伝達は格段に改善されました。しかし、弁護士会側と官僚側との対決構図の中に、財界・大企業側が割り込み、三巴で複雑に展開してきました。この結果、財界と官僚の提携で「国民のための司法改革」が輝きを弱められ、後退する現象が起きています。
 行き詰まった日本の司法の改革は必要です。しかし、真に改革が進行しているのか警戒を要します。
 すでに、裁判迅速化法、法科大学院三法、弁護士懲戒制度の改正など重要なものが進行しました。これらには「裁判は早ければよいのか」「法律家をめざすには裕福な家庭でないとなれないのか」「権力と闘う弁護士の最後の守り手は弁護士自治であり、これを弱めてよいのか」など大きな問題点を残しています。これに加えて、今後の課題には司法の根幹をなす重要問題が目白押しです。
 その中でも、以下に挙げた課題の今後の進行は大変重要です。
 @有罪率九九・九%という無罪を認めない日本の刑事裁判に、はじめて「裁判員」制度を創設して、国民の司法参加を実現することになりました。しかし、これが本当に刑事司法の再生に繋がるものとするには、多くの問題点を残しています。
 A民事裁判についても、国民と弁護士会の大きな反対にもかかわらず裁判に負けたら相手方の弁護士費用まで負担させられる「弁護士費用の敗訴者負担」制度を新たに導入しようとしています。これでは、「裁判を起こせなくなる」との市民・国民の強い反対意見に、双方の「合意」があればできるとの条件付案が浮上しています。問題は解決していません。
 もともと、弁護士費用の敗訴者負担の問題は、司法改革に逆行するものであり、裁判官の大幅増員を回避しようとする「裁判抑制策」です。したがって、このような問題そのものに反対していくべきだと考えています。
 日本の裁判官は、簡裁判事を除いて二、三三三人で、先進国の中でも最も少ない数です。裁判官の大幅な増員を行わなければ、司法改革と言えません。これが、今回司法改革の最大の問題点です。最高裁は少なくとも現在の裁判官数の三倍をめざし、当面二倍を急いで達成すべきです。
 「国民のための司法改革」の原点を改めて見据えて、市民として、国民として、抜本改革の声を上げていこうではありませんか。

(鳥生忠佑理事長 司法制度研究集会での開会挨拶から)


 
時評●憲法問題の国際化がキーワード

早稲田大学教授 浦田賢治

 1 いま憲法擁護のために、どうすればいいのか。憲法の初心に立ち戻って現在の問題を再考しよう、とわたしは言いたい。強調したいのは次の点である。日本国憲法は、大日本帝国の解体宣言であるが、そればかりでない。それは新生日本が国際社会との間で交わした約束ごとを書きこんだ国際文書である。日本は、その国内問題を、憲法に適合した形で解決することを通して、国際社会に貢献することを約束したのである。

 2 その背景には、次の三つの指針が存在した。ク日本の軍国主義と帝国主義によるアジアの人民に対する度重なる侵略戦争の加害行為を自己批判すること(とくに前文第二段にいう平和的生存権)、ケ人類がとりわけ非戦闘市民が受けた帝国主義戦争による惨禍を将来にわたり繰返さないようにすること(とくに前文、第九条にいう規範、すなわち民主主義・立憲主義・平和主義・国際協調主義)、コ「核時代」を迎えた戦後世界の正義と平和を求める崇高な理念を示すこと(とくに第九条二項、戦力不保持、交戦権否認)。

 3 この指針を承認するなら、実践的課題は、次のように要約できるだろう。
 クアジアの法律家と連帯して、日本の戦後責任について共通認識を形成するよう努力すること、またこれと関連して、いま改憲、実は憲法改悪を阻止する積極的な意義を形成的に認識することが緊急課題である。このことは、日米安保条約一〇条を活用した、この体制からの脱却が、アジアの平和と繁栄の条件であるという主張にも、繋がっている。
 ケ支配層が冷戦後の脅威と位置付ける、いわゆる「テロとの戦争」論に対抗して、国連憲章を含む「国際法の支配」論を強調することである。こうして、「ルールなき資本主義」の横暴に対抗する民主主義・立憲主義・平和主義の運動を構想し、そして国際協調主義のグローバルかつ地域的な政策と活動を追求することになる。そうすれば、世界の心ある法律家と現実具体的な仕事を通じて共同戦線を組む展望が開けるだろう。
 コインド・パキスタンの核武装は「第二の核時代」をもたらしたといわれるが、日本の法律家が、核不拡散から核廃絶への道筋を展望した正義と平和を求める崇高な理念を日本政府に示し続けることは大事なことである。かつまた法律家としての職業的な技能を、被爆者救援活動など可能な領域で発揮することは、世界の法律家にとっても意義あることであると思う。とくにいま、日本の法律家が、朝鮮半島の不戦と非核化を追求する活動を強めることが重要である。こうして将来、中国・朝鮮半島・日本の諸地域を含み、経済・政治から安全保障へと発展させる「東北アジアの共通の家」を形成するという、一応の展望を持つことができる。

 4 確かに今年は、国内立法の諸問題でも、重要な闘いが予想される。たとえば、@イラク特措法の実施、A有事法制を完成させる「国民保護」法制、B米軍支援立法や自衛隊海外派兵の恒久立法、C教育基本法改正、D自民党と民主党の改憲構想キャンペーン、E憲法改正国民投票法、F夏の参議院選挙、G地方分権を含む「構造改革」推進のための諸施策などなど。こうした国内立法を批判し阻止してこそ、改憲に反対し、憲法擁護の実績をかちえたといえる。だがいま、ここで、わたしが強調したいのは、日本の憲法問題を、単に日本だけの問題に留めず、これを国際社会に提起することである。こういう意味で、国際化がキーワードだ。

 5 もう一度問うてみる。憲法擁護のために、どうすればいいのか。それは、日本社会の現実具体的な場を捉えて、法律家が憲法を活用するというアイデアをもち、日々の実践を通じて、憲法擁護の世論をささえ、あらたにこれを形成する活動をすることから始まる。とりわけ、憲法問題を国際化する活動に取り組むことが重要であろう。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

いつもごはんを作りながら しゃもじに託す思い 清水鳩子

主婦連参与:清水鳩子さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1946年、遠足の日、国分寺第一小の子供たちと。「ぽっぽっぽ、鳩ぽっぽ」 清水鳩子さんは奧むめおさんが作った東京本所菊川町の婦人セツルメントで育った。早くに夫を亡くした母小よしさんは鳩子さんと弟を抱え、婦人参政運動で「子連れの韋駄天」と言われた長姉奧むめおの手伝いをしていた。通っていた小学校で鳩子さんは「セツルメントの子」と呼ばれていたという。
 婦人セツルメントの開設は一九三〇年、今から七四年も前である。二四年生まれの鳩子さんは当時六歳。モダンな編み込みのセーターを着て鼻の頭を真っ赤にしたおかっぱの鳩子さんが集合写真に写っている。写真には鳩子さんの弟も同じようにアンサンブルのセーターの坊ちゃん刈りで一番前に立っている。奧むめお、鳩子さんの母小よしさんも母の会の幹事やエプロンをした子ども達とカメラを見つめている。
 一九三〇年、失業者が町にあふれ労働争議が激化していた時代。一〇年前の一九二〇年に奧むめおは女子大の先輩平塚らいちょう、市川房枝らと新婦人協会を設立、懸命な運動で二年後女性の政治集会参加の権利を勝ち取る。しかし「母も弁士になって、もてはやされて日本中しゃべって歩いた。ところが、政談演説会に来るのは名流婦人や男ばかりで、自分と同じように赤ん坊を背負って苦労して働いているん女の人たちは、会場にも来ない、喜びの声もかけてくれない。」
 「ものすごい挫折感を感じて」「大衆の中に入って大衆の望むところから政治的要求が出てくるような運動をしなきゃダメなんだと思った」奧むめおさんの娘、中村紀伊さんの言。紀伊さんは鳩子さんと同い年の従姉妹、「きいちゃん、はとちゃん」はそろって奧むめおの婦人運動に対する一途な情熱に引っ張られその人生を生きることになる。
 セツルメントの子、鳩子さんは当時の軍国教育を受け続け普通の軍国女学生になった。明治の自由人だった母小よしさんは「死ぬときは死ぬ」と防空演習などくだらないと参加しない。鳩子さんは母が憲兵に連れて行かれるんじゃないかとはらはらして真っ先に出て行っていた。女学校から東京府立女子師範に進み一九四三年国分寺第一小学校の教師職業婦人になる。
 当時国分寺第一小学校の半分には陸軍が駐屯していた。若き女教師鳩子さんはそこで軍隊の二等兵をいたぶる酷いいじめや食事を与えないで拘束するリンチを目の当たりにする。一九四五年の八月終戦。勤めてから二年五ヶ月の夏の日だった。駐屯していた陸軍の一番えらい軍人は真っ先に食料を持って馬で逃げる、まじめな士官は近くの中央線に飛び込んで自殺、混沌のなかで教師も手のひらを返したようにその生き方を変える。
 子ども達は食べるものに困り弁当を持って来れない子も多かった。鳩子さんは幼い妹と弟のために三個の弁当を盗んだある男の子をつい叱ってしまう。叱ってはいけなかったのに。鳩子さんは教師でいることがほんとうに嫌になり終戦の年に辞表を出す。が教師不足のために三年間留保され、一九四八年社会福祉事業大学の入学を口実に教師を辞めるのである。 さて奧むめおは国会議員立候補勧誘を断り切れず、一九四七年第一回参議院選に。セツルメント時代の青年がのぼりを立て、長男と長女「きいちゃん」が乳母車に拡声器を付け連呼、むめおさんは辻説法で当選。多くの婦人議員とともに参議院議員となる。五二歳。そんなむめおさんが鳩ちゃんを放って置くわけがない。「ちょっと手伝いなさい」
 「私はただで使えるから便利だったのよ」鳩子さんはそういいながら笑う。むめおさんはたくましき婦人運動家である。運動を進めるための資金づくりのためだったら何でもやる。「やっていることが正しいんだから恥ずかしいなんてことはないのよ」石鹸売りも随分やらされた。四八年には「不良マッチ退治主婦大会」、そして主婦連が創立された。鳩子さんは運動に没頭、東京中を走り回った。
 そんなとき鳩子さんは夫と出会う。鳩子さんはもともと家事は大好き、主婦になることにはなんの抵抗もなかった。夫は、大学を卒業したメーカーのサラリーマンだった。「これが不思議なの。働く女性、自分の意見を持って行動する女性になぜか興味があったのよ」むめおさんは反対。「サラリーマンの妻になるなんてやめなさい」。しかし一九二五年に結婚。ほんとうの主婦になった。
 それから一五年、鳩子さんは二人の子どもを育て台所に立ち続けた。とはいえ、子どもを背負ってバケツを持って選挙のビラ貼りをやりまくったり、社宅でほかの奥さんを誘って内職仕事をを組織化したり、共同購入をしたり。地域活動をしながら主婦連の活動にもできる限り参加していた。「ここにきて運動に参加しなさい」とむめおさんは子どもを抱え経済的にも厳しい鳩子さんに、来られるときだけで良いからと四ッ谷までの定期を買ってくれたこともあった。「自分も苦労したからやさしいのよ。運動は理屈だけでは続かない。情も大事」。メーカーに勤める夫は一言も文句は言わなかった。しばらくして「会社と直接取引のある相手のときだけはテレビに顔が出ないようにしてくれ」と。「私は彼が夫じゃなかったら続けられなかったわ」
 主婦連は「台所の声を政治に」をスローガンに常に台所から消費者の立場で様々な運動を提起してきた。商品テストによる科学的な消費者運動も始まった。一九七三年にはジュースの無果汁表示をめぐって主婦連と会長奥むめお個人が行政を訴える初めての裁判をかかえることになる。引き受けてくれる弁護士が現れその事務所で打ち合わせをする。大きく有名な法律事務所だったので弁護士の費用が心配になった。試験室長の高田ユリさんと鳩ちゃんはその事務所の帰り地下鉄の駅で二人で泣いたという。実は事務所のプロボノ活動として費用を請求されることはなかったのである。
 鳩子さんは消費者の実感にもとずき足で稼ぐ調査を運動の基本とした。お米、輸入品、に始まり、環境問題に関わる大気汚染の測定運動など、いきいきとした運動が生まれていく。生活感覚に根ざす粘り強さと実践力はことの真実を明白にする。その一点で一致できればどんな人とでも、思想信条が違っても一緒にやる。「企業は競争しながらも手をつないでやっているのですから、消費者も仔細なことで運動の輪から絶対に外れてはだめです」五〇年を越える主婦連の運動を続け七九歳の鳩子さんは夫を送り今は一人。
 やわらかな笑顔でまだまだ豆をまくつもりである。

清水鳩子
1924年生まれ。東京府立女子師範学校卒業。
1950年、主婦連合会設立と同時に、初代会長・奥むめおさんのもとで消費者運動に参加。
事務局長、副会長、会長を経て現在、参与。


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