|
|||
|
■特集にあたって
憲法九条を語るとき、しばしば「理想論にすぎない」という反論を受ける。そして、ときに、その反論に対しことばに窮することがある。
では、本当に理想論にすぎないのか? 九条を実践する現実を語ることばを、わたしたちは持っていないのか?
答えは否。実践している国が、地域が、個人があるではないか!それらをまとめ、とらえ直すことによって、「理想論」を「現実論」に変え、説得的な「武器」にしていこう!そんな思いで、以下、三つの章で憲法九条のリアリティを語ってみたいと思う。
第一部は、四月のイラクで拘束される中、拘束グループとの対話の中で憲法九条のリアリティを実感した高遠菜穂子さんへのインタビューを、第二部では憲法九条同様、非武装憲法をもち紛争の多い中米で積極的永世中立平和主義を貫徹しているコスタリカの秘密を、第三部は、国のあり方が憲法九条から遠く離れようとしている日本において、現在広がりつつある「無防備都市宣言」運動を概観する。日本の中に小さなコスタリカをいくつも創り、憲法九条を現実化する歴史的運動にしていかなければならない。
「軍隊はなくっても大丈夫だよ」という憲法九条のリアリティを確信すると、おとなもこどもも笑顔になる。元気になる。
この特集が、その確信を呼ぶとともに、「平和とは、戦争のない状態をいうのではなく、永遠のたたかい」(カレン・オルセン・フィゲーレス元コスタリカ大統領夫人)の一歩となることを願います。
(1) アナン国連事務局長さえ「違法だ」というブッシュのイラク侵略戦争は、期待に反したブッシュ再選で何時終わるとも知れなくなったが、アメリカ軍のファルージャ侵攻は、わが国軍による「南京大虐殺」と全く同じ構造だと思わざるをえない。抵抗するあるいは少なくとも歓迎しない民衆の中に武力のみを頼りに侵攻した兵士たちは怖くてしかたがないから、動くものすべてを虐殺するのである。わが国の首相はこのようなファルージャ侵攻の「成功」を願った。彼の靖国神社参拝の本心がここに露呈したことは明らかである。
(2) 排外主義者石原東京都知事のもとでは、教育・研究に輝かしい成果をもつ都立大学が破壊され、本会の有力メンバーを含む優れた法学者が大学を去った。都教育委員会は、都立学校の卒業・入学式に日の丸の掲揚・君が代の斉唱を強制し、ささやかな抵抗を試みた先生たちを懲戒処分に附した。これは明らかに思想・信条の自由を侵害する憲法違反の行政行為である。一部の弁護士を中心とした告訴・告発の動きがあるのももっともだと思われる。
(3) 横田めぐみさんの遺骨として彼女の夫と称する人物から渡された骨が真っ赤なにせものであることが明らかになり、大げさにいえば日本国中があきれ返り憤激している。日本の排外的な動きに拍車をかけるような北朝鮮のやり方には私も腹が立つ。たまたま見たテレビのニュース・トーク番組で、日本人列席者が口を揃えて北朝鮮制裁をいう中で、アメリカ人の出席者(まことに申し訳ないが名前は失念)が「植民地時代に朝鮮人民が強制的に日本に連行され、多くの人が死んだがその遺骨の返還が問題になったことはない。それを考えるとこの問題には奥深いものがある」と発言した。日本人たちは返す言葉がなかった。私も考えの浅さを思い知らされた。まことに自分たちの「加害者性」を忘れないというのは難しいことである。「歴史認識」とはまさにこのようなことをいうのである。
(4) 私が今辛うじて関わっている消費者問題の領域で、二つの喜ぶべきことがあった。
その一つは、商工ローンの貸金利息に対する貸金業法四三条のいわゆる「みなし弁済」条項の適用について、同法一七条・一八条文書の要件を厳格に解すべきだとした平成一六年二月二〇日最高裁判決である。われわれは、四三条の制定当初からその不当性を指摘し、早急に廃止すべきこと・その適用に当っては要件を厳格に解すべきことを主張して来たのであるが、一部の学説や下級裁判例の中には要件の緩和を認めるものもあった。この点につき最初の最高裁判決が厳格な解釈を明示したことの意義は極めて大きい。ここ一、二年われわれのクレ・サラ対策運動には追い風が吹いているが、この結果をもたしたのは、全国クレ・サラ対協に参加し各種の弁護団を創設して戦っている弁護士・司法書士・被害者その他の人たちの粘り強い熱烈な活動に他ならない。
二つ目は、いわゆる「弁護士費用の敗訴者負担」立法の廃案である。内閣提案の法案が廃案になるのは稀有のことである。私は、反対市民運動の代表の末席を汚しているにもかかわらず実際の運動には参加できず、パソコンで集会やロビー活動の状況を見ながらただやきもきしていたので、廃案の見込みが報道されるやメーリングリストに「廃案万歳」と題する短文を送信したが、弁護士さんたちから「まだ会期は残っているから油断出来ない」などとの批判を受けたのであった。この成果については、日弁連の反対が大きな力になったのであるが、国民の権利に関する事柄について広く理解を求め、粘り強い精力的な活動を展開すれば素晴らしい成果がえられることを実証したといってよい。
これらの事例は、私たちが力を結集して頑張ればわが国もまだまだ捨てたものではないと思わせてくれる。希望をもって新しい年を迎えましょう。
一九四四年三月、誠吉少年は遠く上海を目指して一人長崎港埠頭に立っていた。まだ一六歳、生まれ故郷の仙台にはもう戻れなかった。中国大陸は戦火の中。目指す上海はむき出しの資本主義と植民地主義、貧困と享楽が混在するモザイクの魔界。各国の租界が「奇妙に自由な空間」を作っていた。誠吉少年は上海の銀行の支店長から「坊ちゃん大金ですよ」心配されるほど、いまで言うと二億円もの多額の留学資金を持たされ、フランス租界でオランダ人の別荘農園と温室のついた家を借り、「亡命」留学生生活を開始した。針生先生の原点は六〇年前のここ上海にある。
針生先生は一九二七年宮城県仙台市に生まれる。仙台の多額納税者「針生家」六人兄弟の次男。「まぎれもない支配階級」の出である。「針生家」は「幕藩体制以来の古くからの町人ですから、日常の生活は非常に質素で、成り上がりの贅沢というのは、厳しく戒められて、たとえば、メシは麦飯なんです」「反面、教育には非常に熱心で、もう小学生の時から大学教授の書斎ぐらいの勉強部屋を別棟にちゃんと作ってもらっていたし。それから図書費は、ほとんど本を買うと言えば何でもくれるんです」「ですからぼくの勉強部屋は図書館みたいで」そのとき買った本は「今でも私の蔵書になっています」父は「資本主義精神の典型みたいな、健康なブルジョワ精神を持った人でした。母は一関の蘭学者の建部清庵の家の出身で」「学問熱心」「非常にヒューマンで合理的な判断を持っている」人だった。「非常にいい教育環境と財力に恵まれて育ってきました」
父はスキーに行った蔵王で遭難して亡くなる。一九三三年、六人の兄弟は合資会社の資産をそれぞれに受け継ぎ、「針生家」は祖父と母が支えることになる。誠吉君は暗い戦争の時代の中でもすくすくのびのび育って行く。「刀はいらない」「暴力を忌み嫌う」軍人などを特別扱いしない「針生家」の博学で自由な自立心に富む次男坊は一九四三年二月、旧制仙台一中三年の時ある事件に巻き込まれる。
仙台一中配属将校弾劾事件。「太平洋戦争史からみれば、芥子粒みたいな事件ですけれども、私には非常に深刻な影響を与えたんです」「私は軍人たちの、中国女性を姦淫しては殺すという、侵略的で野蛮、不潔な考え方というのは我慢できない」配属将校が授業で恥ずかしげもなくする薄汚い話。挙げ句の果てに尊敬する進歩的で知的な先生の授業を監督し一中の自由な空気を圧殺しようとする。配属将校の助手から「責任は問わない。好きなことを何でも書け」と言われた作文、誠吉君は「一中の自由のために」と題し、痛烈な批判を書く。「一中の民主主義は危機に瀕している。一中にブルータスはいないのか」専制君主シーザーにたとえられた配属将校は激怒する。「針生を放校にしろ」軍国主義のまっただ中、あらゆる批判が封じられていた時、こんなことを作文に書いたら社会から抹殺される。良き師達に守られ誠吉君は放校にはならなかったが、「すさまじい軍国主義の社会的圧力」に晒される。いずれ徴兵年齢に達したら「当然懲罰徴兵、一番危ないところに送り出される…親御さんとしては当然ご心配なさったんでしょうね。…オックスフォードやケンブリッジにでも留学させるところなんだけれども、それも敵国ですからね。それも日本占領下の中国」と同郷同窓同学の一〇歳年下の弟分樋口陽一先生は言う。上海留学を決めたとき祖父は「軍人に頭を下げることはない」と言い放った。
もともと音楽に長け耳の良い誠吉少年は中国語をものにする。針生先生は実は英語もドイツ語もロシヤ語もできるらしい。上海の内山書店のお得意さま誠吉君はそこに集まる時代の知をそれこそ脳みそにしみるように吸収し、混沌の現実から歴史を感じる。中国共産党が中国の覇者となることも確信していたという。日本がアメリカに負けることなどとうにお見通しであった。日本軍の現実、封建制と植民地の中での中国の民の惨状、そして自ら経験した「社会全体の異端排除の力」、針生先生の学問はその後もすべて感じた見た現実を独特の切り口で分析し理論化していくことになるのである。
針生青年は一九四五年敗戦後すぐに帰国。仙台にもどり旧制二高に入学する。
「太平洋戦争とは何かと言うことを一日四時間くらいしか寝ないで勉強しぬいて」結核で吐血。療養の五年間。あらゆる本を読みまくったと言う。一九五〇年東北大学法学部法律学科に入学。戦後の全盛期、木村亀二、中川善之助、「美濃部門下の清宮先生のような非常にリベラルでしかもトップレベルの学者がいた時代ですから、病人のわたしをご親切にしていただいて」針生青年の知的興味は国の権力を制約し人権を掲げる憲法に向かうのである。
針生先生は初めは憲法の立憲主義や権力の分立の研究、そして東大社研に内地留学し、得意の中国語を駆使して社会主義法・中国法に取り組むこととなる。中国法研究は時代の花形になっていた。一九六四年北京科学シンポジウムでは日本の代表として中国語で報告、毛沢東、ケ小平、郭沫若、歴史上の人物に会ったという。成蹊大学から都立大学へ。針生先生はここで一九九一年定年となるまで研究と教育を続けるのである。
市川房枝らとともに美濃部革新都政を支え革新都政の成立と崩壊を見届ける。「日本の革新運動や進歩主義の限界というものをよく見据えることができた」この実践の中から針生先生は憲法学に住民運動や地方自治の視点を持ち込みその地平を広げるのである。同時に政治権力と社会構造についても分析研究を続け針生節は意気軒昂である。
中国法研究から始まるアジアの国家と社会構造の分析も「開発独裁国家」、二一世紀のアジアの行く末を見通す「アジアの産業革命とアジア・ルネッサンス」と続いている。
インタビューでお会いした日も代表幹事になり二七年間の住民学習の場「小金井を住み良くする会」の会合があった。テーマは「平和憲法と政治の現状―世界史大変動の底流を見よ」七七歳の先生は仙台なまりで明解に説く。「改革開放の中国は二〇三〇年には日本の経済力を上回る発展を遂げる。中国を敵視すれば日本に勝ち目などない」「時代はズンズン進んできている」「子どもだって分かること」対米従属の小泉政権のあり方を鋭く批判する。針生節が唸る。
針生誠吉
1927年8月17日、宮城県仙台市に生まれる。
1958年3月、東北大学大学院修了。1991年3月、東京都立大学定年退職。
主な論文・『日本国憲法と私―アジア新時代創造のための歴史的省察―』(岩波書店)、『定本 憲法の二十一世紀的展開―針生誠吉先生古稀記念論文集』(明石書店)。その他著書多数。
©日本民主法律家協会