法と民主主義2005年1月号【395号】(目次と記事)


法と民主主義12月号表紙
★特集★検証・「司法改革」−これで司法は良くなるのか
/第37回司法制度研究集会から
特集にあたって……鳥生忠佑
 ■第一部■基調講演
◆司法改革をどう見るか−いくつかの文脈と論点……広渡清吾

 ■第二部■パネルディスカッション・検証「司法改革」
◆労働者の視点で、司法(制度)改革を考える……丹波 孝
◆公判前整理手続きの落とし穴……伊佐千尋
◆裁判員法・「改正刑事訴訟法」の問題点と大衆的裁判闘争……山田善二郎

 ■第三部■特別報告
◆司法官僚制は変容を受けたか……鈴木経夫
◆裁判所の現場から見た司法制度改革……布川 実
◆司法改革と総合法律支援法─弁護士自治は大丈夫か……小川達雄
◆会場発言

 ■司法制度研究集会のまとめ……澤藤統一郎

 
検証・「司法改革」−これで司法は良くなるのか

特集にあたって
 今年も、会員をはじめ、内外から多数の御参加をいただき、厚く御礼申し上げます。

 言うまでもなく、司法本来の役割は、独立した裁判所と裁判官が立法と行政をチェックする機能を果たし、強者の横暴から弱者の権利を擁護し、憲法が保障する平和と民主主義、そして基本的人権が尊重される社会の実現に役立つことにあります。しかし、日本の司法はこれをなし得ていません。それは、最高裁事務総局を中心とした一部の司法官僚が裁判官の人事をはじめ司法制度の全般を統制・管理し、これらの運用の中心を占めているからであり、日本民主法律家協会は一貫してこれを批判し、市民のための司法制度の実現に向けて、その先頭に立って努力してきました。

 一部の司法官僚が統制・管理する司法は、官僚のための司法そのものであり、これを根本から正さない限り「市民・国民のための司法」に転換することはありません。また、裁判官の大幅な増員のもとで、裁判官の独立と良心にもとづく判決の実現を期待することもできません。

 さらには、今期の司法改革を機に、新たな司法の諸制度が実現しても、統制・管理の司法がそのままでは、これらの制度を国民の権利擁護に資するよう十分に機能させていくことを期待することもできないと考えられるからです。

 今次の司法改革は、本年(二〇〇四年)夏までの間に、いくつかの課題を残すだけとなり、すでに制度設計がほとんどすべて終了し、これらは法律として立法化されました。この中にあって、当初の司法制度改革審議会の審議と意見書及びその後首相の下に設けられた司法改革推進本部の法案作成作業が、この日本の司法の病理を正し、司法本来の役割への転換を、司法改革として実現したであろうか、これがいま問われています。

 本日の第三七回司法制度研究会はこれを検討するため、〈検証・「司法改革」―これで司法は良くなるのか〉と題して開催します。東大教授広渡先生から総括的な基調報告をいただき、また市民会議を結成して市民の意見反映の先頭に立たれた代表の方々から、とくに刑事司法と敗訴者負担問題に関する御発言をいただき、そして司法改革の重点をなす問題点に関し、それぞれの部署におられた会員の方から特別報告をいただく予定にしております。ご多忙の中で御報告、御発言をご承諾いただいた方々に、厚く御礼を申し上げます。

 今次の司法改革の制度設計が法律の形で成立したとしても、日本の司法改革は官僚司法が根本から正されるまで終りません。日民協は今次の改革に関しても、本日ご参加の皆様とともに、今後成立した法律の改正及び運用改善を通じて司法本来の役割の実現に向けて努力していく決意です。

 今後とも、皆さんの力強いご支援をお願いします。

日本民主法律家協会 理事長 鳥生忠佑
(第三七回司法制度研究集会開会のあいさつから)



 
時評●戦争の世紀を生きた私

弁護士 相磯まつ江

  二〇〇五年が明けた。今年は世界は平和でいられるだろうか。とりわけ気になるのがアメリカがイラクで行っている戦争のゆくえである。昨年の暮れにインド南岸で起きた大津波では、最初六〇〇〇人、続いては数十万人を超える死者を出したと報道され、その災害の大きさに改めて驚愕した。加えてアメリカが今年もイラクで人を殺すことは絶対に認めることは出来ない。私はアメリカが一刻も早くイラクから軍隊を引きあげることを年頭にあたり要求する。

  ところで私は一九二二年(大正一一年の)生まれであるからまさに戦争の世紀を生きた世代であることになる。昭和七、八年頃から始まった満州事変、支那事変、太平洋戦争と、日本が主導した一連の戦争で、小学校の同級生であった男子の三分の一は、戦死したり戦病死したりしてこの世にいなくなった。満州や中国、フィリピン、樺太、アリューシャンなど祖国を遠く離れた最果ての地で、飢えたり、弾に当たったり、切られたりして、非業の死を遂げ、海や山に屍を曝し、異国の土となった。悲しいという言葉では云い尽くせないむごい生涯であった。この学友を悼む気持ちは六十数年経った今も涙が溢れ留まることを知らないほど強烈である。罪もない私の学友の多くは、「天皇陛下のため」という一言の呪文によって、一身を捧げるべく勇んで戦地に赴き、三分の一は帰ってくることが出来なかった。狂気の様な熱病の様なあの軍国主義を経験した私は、年頭にあたり今年も強く警戒する。そして、政府要人の言動には細心の注意を払って、国粋主義・軍国主義・ファッショの芽は小さくとも見逃さず、摘み取っていかねばならないと考えている。

  話はかわるが、私の生家の隣に八名の男の子を立派に成人させ、七名を兵隊としてお国に差し出した天晴れな軍国の母がいた。家名を「したのうち」といい、一町歩の田と八反歩の畑をもつ富裕な百姓であった。八名の男の子のうち七名までに次々と召集令状が来て、兵隊としての任務についた。残ったのは元来ひよわだった末子のみであった。八名のうち七名までも兵隊に取られた軍国の母の名は「おてふさん」といい、村一番の働き者で、美人で朝は星をいただいて野良に出、夕べは月に照らされて家路を急ぐという働きぶりであった。この一家を戦争という嵐が襲った。八名の男の子のうち、なんと七名までが徴兵検査で甲種合格となったりそれを過ぎたものは予備兵として応召されたりしてみな兵隊にされ、風雲急を告げる満州や中国、フィリピンに送られたのである。「したのうち」の七名の兵隊の結果は又凄まじいものであった。七名のうち六名までが戦死又は戦病死で、私と同い年の与作ちゃんは戦病死したとして満州から遂に帰ってこなかった。それからの「おてふさん」の働きぶりは前にも増して凄まじくなった。少し曲がっていた腰は遂に二つ折れになり、歩く時は地を這うようにして歩き、その目はいつも血走っており、青白く狂人のように見えた。

  一九四五年(昭和二〇年)八月一五日、日本は降服し、アメリカ占領軍は上陸したが、殺されることも強姦されることもなく、かつての日本の為政者の宣伝していたことは皆嘘だったことが明瞭となった。あっけにとられる程、すべてが反対だった。私は敗戦の時二四歳であったが、ただ、呆然として政府になされるがままで、でくのぼうの様に、それに従っていた無知な田舎娘でしかなかった。然し恐らく日本人の大多数は茫然自失、思考停止の様な精神状態ではなかったかと想像する。世の中というものは、そう簡単に変革できるものではない。

  私が世の中は変わったと認識したのは、一九四八年四月に田舎の家を出て近くの町で独立した生活を始めてからである。この時、私は「生きる」ということの意味を認識し、自力で人生を開拓することの苦しさと楽しさを知ったのである。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

ふたつの「愛妻」ものがたり 撮りつづけて五五年

映画監督・新藤兼人さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 新藤兼人さんは九二歳。一九一二年生まれ今年九三歳になる。最新作は斬新な傑作『ふくろう』原作・脚本・監督はもちろん新藤さん、九〇歳の作品である。低予算の実験的な映画である。新藤さんは美術も担当した。助監督はひとり。セットはひとつである。役者は主演の大竹しのぶを始め個性的。たぶん現役の映画監督では最高齢。一九九五年の映画賞を総なめにした愛妻乙羽信子の最後の映画、渾身力を込めた作品「午後の遺言状」は八三歳の作品。そして「これから撮りたい作品が二本あります。愛妻記とヒロシマの原爆の映画です」と言う。

 仕事でこもっている新橋第一ホテルの二〇階、プルミエルラウンジに上がってきた新藤さんは二五年前のまま。弁護士になり立ての私が映画配給代金をめぐる紛争にかかわったことがあった。今思えばその時新藤さんは六七歳。どんな事実を主張するかと細かい打ち合わせをしている協会の面々と弁護士を前に「自分で考えていることを自由に書いて『最後に…と思う』と書けば良いんです」とちょっとぶっきらぼうな独特な口調で言い放った。単刀直入、そうは言ってもと思いつつ、一同シーンとした。さすが映画監督と私は妙に感心した。

 「シナリオ一本を書くためにトラック一杯の本を読むんです」協会のプロデューサーが新藤さんをそう評していた。その時の骨太でどこかたたき上げの職人の匂いのするエネルギッシュな様子は今そこにいる新藤さんそのものである。

 何しろ近代映画協会の方々、所属する役者さん、新藤組と呼ばれるスタッフの皆さんは息が長い。近代映画協会の設立が一九五〇年今年で五五年になる。何十年という単位で繋がっている。スタッフとしてそれなりの仕事ができるようになるのに一〇年、その大事な仕事が撮影現場のキャスト・スタッフの弁当の手配。これがやれて一人前。シナリオ書きはひとりの仕事であるが映画作りは気の立った何十人を束ねての戦争のようなものらしい。敵は撮影ばかりでなく天気からお金まで怒濤の如く渦巻く。独立プロの制作は常に最小の予算で質の高い映画を作るため監督はあらゆることを見て短期決戦集中体制をより強く求める。即決即断で人の心をつかみ自分の創りたいものを現実化していく体力も気力もみなぎっていなければとてもとてもできることじゃない。もう新藤さんは怪物でしょう。

 「人は熱情を持って仕事をしなければならない」どんな仕事でももっとうまくもっとすぐれたものをと考え努力を尽くす、そこに人間として生きていく意味がある。「饅頭屋は毎日どうしたらもっと美味しい饅頭が作れるかと考える」「美味しい饅頭を作れば売れるから経済も成り立つ」活動屋新藤さんの饅頭は映画である。

 巨匠が饅頭と言ってのけるこの逞しさ。

 そして新藤さんが五五年映画を作りを続けられたのは「団結」力だと生真面目にいう。いい仲間がきちんとした「目的」を持ってやってきたからだという。「目的」を示し現実化してきたのは新藤さんの熱情と実行力である。人にも自分にも甘えのない厳しい映画人である。今多くの仲間が向こう岸に行ってしまった。新藤さんはともに映画を創ってきた熱き日々を思いつらくはないと言う。

 新藤さんの愛妻は「乙羽さん」である。乙羽信子さんは新藤さんのことを「先生」と呼ぶ。どこでもいつでもこう呼ぶ。新藤さんと乙羽さんの出会いは一九五一年『愛妻物語』であった。『愛妻物語』は新藤さんの最初の妻との生活その死を描いた。洗面器にいっぱい血を吐いて死んだ妻へのレクイエム。新藤さんのシナリオ、監督デビュー作品である。乙羽さんの背中がなき妻にそっくりだったという。乙羽さん二七歳、新藤さんは三九歳その時妻と二人の男の子がいた。

「乙羽さんの突進力は凄い。こうだと思ったらわき目もふらない、それは生涯つづいた」そして宝塚から引き抜かれ所属していた大映を飛び出す。「乙羽さんは、独立プロへきたのだが、私のところへ来たのだった」

 美代夫人は新藤さんと離婚し、そして三年後に亡くなる。四年後の一九七八年新藤さんは乙羽さんと結婚する。出会ってから二七年、子ども達も乙羽さんをむかえ入れる。五四歳になっていた乙羽さんは記者の質問に「これからは一緒に映画なんか見に行けますから、それがうれしいです」と答えていたという。乙羽信子さんは大女優である。「乙羽さんはだれとでもすぐ仲よくなれるのだ」新藤さんは乙羽さんが大好きである。女優としても妻としても彼女に救われたのだと思う。

 「愛妻記」は、一九九五年一二月、乙羽さんが癌で亡くなって一年後に刊行された。乙羽さんが肝臓癌に冒され亡くなるまでの出来事を映画のシナリオのように一シーン一シーン書かれている。二人の出会の情景が織り込まれ、最後の映画『午後の遺言状』の映画作りの進行が重なって全体が映画のようである。私は読み始めて胸が詰まり時々号泣したくなった。冒頭のシーンからいけない。

 「耳もとへ口をよせて、乙羽さん、とそっと呼んだ。乙羽さんがゆっくり目をひらいて、顔を少し傾けてわたしを見た。目にはちからがなかった。黙ってわたしを見ているので、わたしも黙っていた。唇がうごいたので、顔をよせると『センセイが、目が見えなくなったら、仕事をやめて、手をひいてあげようと思ったのに…』低い声で言った。やっと声にしたようであった。それきり、じっとわたしを見ているので、わたしは唇づけをした」「わたしが右目を失明しているので、左も失うようなことがあったら、シナリオライターとしてはお手あげだな、と言っていたのである。これが乙羽さんの最後の言葉だった。それから荒い息をしてこんこんと眠りつづけ、二日目に、しだいに呼吸が弱まった」

 「わたしたちは一対一の仕事師だから、結婚して妻と夫になっても、それは変わらない」新藤さんの監督作品は『午後の遺言状』まで四四作品、乙羽さんが出ていないのはたぶん一作だけである。

 乙羽さんを送って一二年目新藤さんは孤独ではないという。「この写真を見てしばらくややぼんやりとしていた。その時を思い出しいきいきとした時間を共有できる」宇野重吉さんもいない。ブランコに乗った乙羽さんの笑顔は死ぬまで変わらなかった。「逢いたいと思えばいつでも逢える。対話ができないから、より心と心で話せるのだ」乙羽さんは新藤さんの撮った映像のなかで生き続ける。

新藤兼人
1912(明治45)年、広島生まれ。1934年 新興キネマに入り、溝口健二に師事。1950年 独立プロ「近代映画協会」を設立。文化勲章受章。映画一筋70年。主な監督作品「愛妻物語」「原爆の子」「午後の遺言状」など。また、著作も多数あり。


©日本民主法律家協会