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■特集にあたって
戦後、過去の悲惨な戦争に対する反省と未来への再び過ちを繰り返さないという誓約として、私たちは日本国憲法の九条を手に入れた。しかし、日本の権力者は憲法九条の空洞化を進め、さらには九条そのものの改定をもくろんできた。そのような中で、この憲法九条を護り、発展させようという各地での訴訟が行われてきた。本特集では、戦後のこれら「九条裁判」を振り返り、あるいは行く末を見ながら、平和運動の展望を考えていきたいと思う。
本特集では、戦後の「九条裁判」を大きく三期に分けて論ずることにした。第一期は、一九五〇年代・六〇年代以降の砂川事件・恵庭事件・長沼事件・百里基地訴訟という法廷で九条論が激突する自衛隊・米軍裁判である(「九条裁判のはじまり」)。続く第二期は、一九七〇年代・八〇年代以降の横田や厚木などの基地公害訴訟や良心的軍事費拒否訴訟という九条論以外の主張によっても取り組まれた訴訟である(「九条裁判の展開」)。そして現在に続く第三期は、一九九〇年代・二〇〇〇年代以降の市民平和訴訟(「湾岸戦争」関連訴訟)・PKO違憲訴訟・テロ特措法違憲訴訟・イラク派兵違憲訴訟という戦争の被害者性より加害者性の拒否を強調する訴訟である(最近の九条裁判)。
このように三期に分類することには多少強引な印象を持たれるかもしれないが、訴訟の大きな特徴の違いから分けてみた。すなわち、第一期は、「逆コース」が進展するという政治情勢の中で、刑事事件や行政訴訟という具体的な出来事・行為から裁判が始まり、裁判の中でも憲法九条、とりわけ九条二項が争われ(もちろん、前文の平和的生存権も主張されるが)、一審判決(砂川事件・長沼事件)では米軍・自衛隊違憲判決も出る。
ところが、その後の控訴審・最高裁判決では憲法判断を回避する流れが定着し、七〇年安保闘争以降は司法の反動化も進む。このような中で、訴訟でも九条論以外に(場合によっては全く九条論に触れず)人格権・環境権侵害を理由に基地公害訴訟が行われるようになる。こうした訴訟の取り組み方は、「九条裁判」という意味では一歩引いた形ではあるが、過去の騒音被害で損害賠償を一定の範囲で勝ち取る成果をあげている。その一方で、第三期につながる九条論以外に個人の権利(思想・良心の自由、信教の自由、納税者基本権)侵害や軍備増強加担の拒否を主張する軍事費拒否訴訟が登場する。これが第二期である。また、第二期訴訟の特徴は、第一期と比べて原告の広がりも見られることである。
そして第三期では、自衛隊の海外派兵や戦争協力・参加に対して、自分たちが戦争の被害者にも加害者にもならないという視点を前面に押し出して行われる(平和的生存権侵害の強調)。また、「冷戦の終結」「五五年体制の終焉」と「護憲派の退潮」という政治情勢の中で、訴訟の原告が三桁・四桁にもなるという「裁判の大衆運動化」現象も見られる一方で、訴訟の中身としては第三期が一番苦しいものとなる。
もちろん、このような「まとめ方」には異論もあるだろうし、色々な評価・議論の仕方があっていいと思う。ともかく、以上のような三期に分けた上で、それぞれの訴訟にはどのような意義があり、どのように評価するか、そして今後の展望はどこにあるのかなどについて特集を組んでみた。
具体的には、本特集では第一部の座談会と第二部の論稿という二部構成にした。第一部では、第一期から「九条裁判」に関わってこられた立場から弁護士の新井章先生と憲法研究者の浦田賢治先生に、第三期から「九条裁判」に関わりはじめた若手弁護士の川口創先生に参加していただき、同じく第三期から関わりはじめた若手憲法研究者として私が司会を務め、座談会を開催した。そして、第二部では、それぞれの期の裁判に関わってきた法律家として、第一期は弁護士の内藤功先生、第二期の基地公害訴訟は弁護士の中杉喜代司先生、良心的軍事費拒否訴訟は憲法・税財政法研究者の北野弘久先生にお願いし、第三期は私が担当して、事実の概要・判決の内容・訴訟の評価などをまとめていただいた。
現実には第三期訴訟は現在進行中である。これまでの「九条裁判」を振り返りつつ、現在の「九条裁判」を成功させるために、本特集が少しでも役立てば幸いである。
「自衛官のみなさん・家族のみなさんへ 殺すのも・殺されるのもイヤだと言おう」と書かれたビラを自衛隊宿舎に投函した行為が住居侵入罪(立川自衛隊宿舎反戦ビラ事件)、「憲法九条は日本国民の宝です」「改悪には絶対反対です」「戦争はしない」「戦力は持たない」「九条の精神でアジアと世界に働きかけます」「自衛隊をイラクの戦場に送ることは、憲法が許しません」と掲載されている政党機関紙号外を、国家公務員が休日に自宅周辺のマンションの郵便受けに投函した行為が国家公務員法違反(堀越事件)、日の丸・君が代の強制に反対するビラを卒業式開始前に配布した行為が威力業務妨罪(板橋高校ビラ配布事件)、三〇人学級、区民生活などに関わる政党区議団による区政報告のビラをマンションの郵便受けに投函した行為が住居侵入罪(葛飾マンションビラ配布事件)。
イラク戦争に反対し平和を訴え、改憲と日の丸・君が代強制に反対し、政治を国民のものにするための政治的言論活動が、公安警察・検察により逮捕・起訴される事件が、最近、続発している。
なかでも「堀越事件」は、国家公務員の私的な市民生活の場における政治的行為を、刑事罰の対象とする国公法一〇二条・人事院規則一四―七の規定を合憲と判断したものの、その後あらたな起訴事案もなく凍結されていた猿払事件最高裁判決を、三〇年ぶりに解凍しての登場である。
こうした公安警察・検察の暴走ともいうべき政治的表現の自由への抑圧は、世界的規模で展開している米国の軍事戦略と一体化し、「海外侵攻型」の戦争に追随し、改憲をして戦争する国へと、その歩を進めようとする有事体制つくりと関係しているのは間違いない。
しかし、さらに重大なことは、これらの政治的言論活動の封殺の動きは、政党や市民団体による言論活動に照準を合わせているだけではない。これから改憲の動きが激しくなってくるなかで反対の声をあげようとする一般の市民による表現活動をも射程に入れていることである(小田中聰樹「ビラ配り刑事弾圧の先にあるもの」「世界」05・3月号)。
特に、94年の警察法改正以降、「犯罪の増加」と「体感治安」を理由に自治体、自治会・商店会、住民ぐるみの安全・安心の防犯体制=警察主導の「相互監視社会」の動きが市民社会に浸透し、安全・安心のためには、警察主導による日常不断の相互監視にともなう市民的自由の制約を受け入れる「生活安全条例」が、全国で一四〇〇を超えるほどの動きとなっている。「警察の市民化」の浸透をバックにしての安全・安心のための治安強化の動きは、「警察と関係機関、地域住民が連携した社会全体での取組」による「犯罪に強い社会の実現」「地域連帯の再生と安全で安心なまちづくりの実現」めざす最近の警察の動き(03年8月26日「緊急治安対策プログラム」、04年度「警察白書」、04年12月18日「犯罪対策閣僚会議」)とあいまって、「市民の警察化」に拍車をかけていくことだろう。
プライバシーが公権力等によって日常的・系統的に監視・統制される社会=地域ぐるみの相互監視社会が市民自身のなかに一定程度受容されていくもとで、ビラ配布のためのマンションへの平穏な出入りが、警察によって市民のプライバシー・被害者感情(不快感)と意識的に衝突させられ、政治的表現の自由が排除される。 そこに平時からの、自治体と国民、民間事業者等を総動員する「国民保護計画」によって、戦争に協力する民間防衛体制(隣組組織)をつくりあげようする有事体制つくりが合流する。
かけがえのない表現の自由の保障を私たちのものにする理論と運動の真価が、今、きびしく問われている。
三月一〇日、東京高裁で検察官の即時抗告が棄却され、再審請求一九年目にして再審開始が確定した横浜事件。一九四二年政治学者細川嘉六の『改造』に掲載された「世界史の動向と日本」の発禁そして同氏の検挙が発端になった「戦前戦中最大規模の言論弾圧事件」である。一九四五年まで、確認されているだけで学者、編集者、研究者六二名、未確認の労働者を合わせると九〇名近くが神奈川県の特高に検挙された。残忍な拷問が容赦なく検挙者に加えられ、獄死者は四名、保釈直後死亡した者は一名。
横浜地裁で再審開始決定が出たとき、東京高裁で裁判所に向かうとき、弁護団のそうそうたる面々。戦後の民主的な司法のために心血を注ぎ、その人生をかけて支え続けた弁護士たち。もちろん竹澤先生もその中にいる。何しろ最高齢の森川金寿先生は今年九二歳、あとに続く斉藤一好先生八五歳、環直彌先生八四歳、竹澤哲夫先生は七九歳、四人で三四〇歳。ここに新井章、内田剛弘弁護士の七〇代が続き事務局長格の大島文明弁護士が最若手である。こんな弁護団は世界初、すばらしき我らが大先輩、パワー全開である。
竹澤先生は遅れて弁護団に入った新参者と謙遜する。「どこまでやれるかわからないが弁護士の仕事の集大成として再審に力を注ぐつもりです」竹澤先生は倒れるまで権力に虐げられた人々のために闘うつもりである。
竹澤先生は一九二六年富山県西砺波郡戸出町(現高岡市)で生まれた。沼田稲次郎先生と同郷である。実家は薬種商くすりやで、四人兄弟上から二番目。長男は家業を継ぐため薬科へ。哲夫君は旧制富山高等学校から京都大学法学部に進学する。旧制富山高校は当時はめずらしい公立の中高一貫校であった。哲夫君は無試験で高校に。旧制高校二年時は学徒動員、戦況が厳しく一九四五年三月に繰り上げ卒業になる。割り当てで京都大学法学部に入学。この時も入学試験無し。
七月に一九歳になった哲夫君に招集令状が来る。初期結核に罹患したことがあったため第二乙種合格であった。早速富山の連隊に入隊しなければならない。二等兵として入隊するが当時の日本陸軍には支給する軍服もなく、哲夫君は学生服で訓練を受けたという。一週間後特別甲種幹部候補生に採用されたので久留米の士官学校に行くように指示される。八月一日連隊から実家に帰るとその夜、富山は大空襲。哲夫君は罹災を免れる。翌二日動いていた鉄道で久留米に向かう。やっとたどり着くと今度は身体検査で「即日帰郷」になってしまう。富山の実家にもどるしかない。八月六日午前七時すぎ列車は広島駅につく。ホームで哲夫君は水を飲んで列車にもどり列車は広島駅を出た。しばらくしてピカッと光った閃光と真っ白い雲が窓の外に見えたという。何だろうと思ったが、原子爆弾などと気付くはずもなかった。少し遅れていれば被爆した。隠れるように実家で待機していると八月一五日、終戦になる。哲夫君はとにかくほっとしたという。戦争の惨禍を偶然くぐり抜けたような日々であった。
一〇月に哲夫君は京都大学にもどる。大学には京大事件で大学を追われた末川、恒藤、佐々木教授らが復帰、哲夫君は彼らから学ぶこととなる。初めて落ち着いて勉強する時間を持つたのである。下宿の友人が司法試験を受けることになり、試験のための書籍をそろえていた。「ボクが受かったらこの本を全部君にやる」と言われ哲夫君はこれにのった。一九四七年その友人は合格、哲夫君は一九四八年三月の卒業を九月に延ばし、もらった本で受験勉強をする。哲夫君にとって本格的な受験勉強はこの時が初めてであった。各省で採用していた労働省の試験も受けたところ採用され、まずは卒業後上京し三ヶ月間労働省に勤めていた。その年の暮れ、司法試験に合格し労働省はやめることとなる。
一九四九年一月、研修所に入所するまでと言われて哲夫君は東京地裁の刑事六部で書記官として刑事公判立ち合いなどをする。今と比べて裁判所も随分のんびりとしていたものである。刑事裁判官になるようにずいぶん勧められたという。ところが研修所三期の竹澤先生は同期の友亡石島泰先生に強く誘われ弁護士として一九五一年民刑の労働公安事件が集中していた唯一の共同事務所東京合同に入所することになる。これで竹澤先生の一生は決まってしまった。
時代は騒然、入所すると怒濤の日々が竹澤先生を待っていた。新人などと言ってはいられない。一九五一年八月自由法曹団の夏の旅行。二五歳の竹澤先生「今度は平事件(騒擾罪被告一五〇名)の公判(福島地裁本庁から平支部に移せとの被告人側の要求で、何と当時日本一と言われた一五〇名の被告人と傍聴人を収容できる大法廷が作られていた)にいってくれという話しが岡林さんか大塚さんからあった。当時松川の一審判決後で控訴趣意書を仙台高裁に提出する期限が迫っており主任の岡林・大塚はこれに忙殺されている時期だった」「どうしても満足に立ち会えないのでリリーフに出ろ」「最初のうちは岡林さんか大塚さんのどちらかに法廷に一緒に出てもらったが、そのうち松川二審が本格化する頃になると一人で立ち会わざるを得ないことが多くなった。しんまいで気の小さい自分にはどうにも手に負えない場面に何度かぶつかった」「裁判所は平事件専門部を構成しているから月八日間開廷するという方針を変えようとしない。平事件の故に職を失った被告人がそれで食っていけるはずがないのだが、裁判所の立場もわかるような気が当時の自分はしていた。何しろたくさんの被告人である。次々と立って生活の苦しさを訴える。裁判をそんなにひんぱんに強行するなら日当を出せと要求する。裁判所は弁護人席にむかって弁護人どうですかという。そこでハタと窮するわけである。自分が窮してくると、『被告人の言い分も勝手ではないか』『そんなこと言っても法律上の理由にならぬ』『法律上の根拠がない』等々ぐちを言って自分のしりごみを合理化したくなる」
竹澤先生は四年間平支部に通い続け、時には炭住に泊まり安い魚のアラを食べ被告人とともに闘い続けた。裁判所に「生活の事実と道理」を被告人の目線で主張し続けたのである。一九五五年八月平支部で無罪となる。
原点の平事件、これをやったら怖いものはない。熱いうちに打たれた鉄は半世紀の時を経ても鋼の強さを持ち続けるのである。
竹澤哲夫
1926年 富山県で生まれる
1948年 京都大学法学部卒業
1951年 弁護士登録。東京合同法律事務所入所
1956年 第一法律事務所設立に参加。現在に至る。
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