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■特集にあたって
一九四六年制定の日本国憲法は、戦争の放棄のみならず戦力の不保持を定めた点で、歴史的にも比較法的にも画期的な憲法として位置づけられる。しかし、制定後六〇年が経とうとしている現在、改憲の危機にさらされている。改憲論の中には、「理念と現実との間に開きがあるから、現実に理念を合わせるべきだ」との議論もあるが、憲法に縛られる権力者が理念の実現に向けて努力もせずに、理念の放棄を主張するのは誤りである。そして、憲法理念に反する「現実」にも色々あるが、平和憲法理念に大きく反する「現実」は、一九五〇年代からの日本の再軍備と日米安保体制であった。
この日本の再軍備と日米安保体制は、米ソ冷戦下におけるアメリカの対共産圏の軍事戦略に組み込まれて機能してきた。それがソ連東欧の崩壊後、アメリカの戦略が「対東=vから「対南=vに比重を移していく中で、さらに「9・11事件」を受けて大きく変化していく。今でも中国・朝鮮に対する戦略を残しつつ、アジア・中東における石油資源の確保や反米民族主義抑圧のための戦略が前面に出てくるようになったのである。後者の具体的戦略は、「対テロ戦争」や各種「テロ対策」として現れてきている。
このような戦略の転換がありながらも、日米安保条約は一九六〇年の改定以降、一度も改定されてこなかった。六〇年安保・七〇年安保の大衆運動とその背景にある国内外の民衆の平和意識や、とりわけ平和憲法そのものの存在が日米安保のさらなる改悪を拒んできたといえる。そこで、日米政府当局者たちは正面から憲法や条約の文言を変えるのではなく、七八年のガイドラインや九七年の新ガイドラインの締結、九五年の新防衛計画大綱や二〇〇四年の新々防衛計画大綱の決定によって、日米安保と自衛隊の位置づけを変えてきた。今回の日米安全保障協議委員会(2プラス2)の「中間報告」「最終報告」は、日米安保と自衛隊をさらに大きく変えることになる。
そこで、本特集では、大きく三部構成に分けて昨今の動きを検証することにした。まず第一部では、日米安全保障協議委員会報告書について松尾高志氏(ジャーナリスト)に分析・検討していただき、報告書に基づく米軍・自衛隊再編問題について金子豊貴男氏(第一軍団の移駐を歓迎しない会)、吉岡光則氏(艦載機受け入れに反対する会)に報告していただく。また、報告書とは別問題であるが、ここで同時期に出てきた横須賀の原子力空母配備問題について呉東正彦氏(弁護士)に報告していただく。次に第二部では、日本本土が戦場となる「日本有事」に備えるためという理由で制定されたはずの有事法制が、現実に日本で起こりうる「テロ」など「緊急事態」に備えた法制に変質していく問題を足立英郎氏(大阪電気通信大学)に分析・検討していただき、その下で各地で着々と進む「国防体制」作りを大西一平氏(東京都国民ホゴ条例を問う!連絡会)と鈴木猛氏(日本国民救援会)に報告していただく。そして第三部では、このような中で、従来は自衛隊(軍隊)=防衛、警察=治安という役割分担のあった自衛隊と警察が融合化していく現象(軍事と治安の融合化)を池田五律氏(派兵チェック編集委員会)と私が分析・検討し、北海道での治安出動訓練について石田明義氏(弁護士)に報告していただく。
基地周辺住民の声を無視して、「中間報告」「最終報告」の具体化、日米安保体制の再編が進んでいる。さらに、私たちに十分な説明もなく、自衛隊が変質しつつある。この流れに歯止めをかけ、憲法理念の実現こそを目指していく上で、本特集が少しでもお役に立てれば幸いである。
現在、群馬県長野原町にある景勝の地吾妻渓谷に、巨大なダム(八ッ場ダム)建設事業が進められている。
この計画の発端は、首都圏に大きな災害をもたらした一九四七年のカスリーン台風にあった。この災害の原因は、当時上流に禿山が多く山の保水力が低下していた、戦争中堤防整備が遅れていた、という時代状況にあったことが明らかになっている。この時の洪水流量を基にして、建設省が洪水防止と都市用水の確保を目的として八ッ場(やんば)ダム建設の方針を地元に示したのが一九五二年である。
このダムが建設されるならば、多数の民家、そして情緒溢れる川原湯温泉街も水没することになる。当然のことであるが、長野原町には建設反対の住民運動が起こった。行政による住民運動の分裂、補償基準の調印を経てこの地域は衰退している。しかし、まだダムの本体工事は着手されてはいない。
小久保ダムの建設のために、下流の景勝地三波石峡が荒廃し、観光客も減少した。地元群馬県鬼石町関口茂樹町長が、新聞紙上で八ッ場ダム建設に警告を発したことが契機となったと思われるが、一九九九年に、市民団体としての「八ッ場ダムを考える会」が発足し、関係一都五県(東京・群馬・埼玉・栃木・茨城・千葉)にダム反対の運動組織も誕生した。
私が、たまたま吾妻渓谷を訪れたのは二〇〇三年一〇月であるが、当時の市民団体の目標は、吾妻渓谷の保護、つまり自然保護であったように思われる。地元の人々の置かれた状況と関心のあり方との間には開きがあった。したがって、戸惑いを免れなかったので、このダム問題に積極的にかかわることには躊躇があった。
事態が変わったのは、二〇〇三年一一月、国交省が八ッ場ダムの事業費を二一一〇億円から四六〇〇億円に増額すると発表し、六都県の知事に照会したときからである。市民団体の都県に対する働きかけにもかかわらず議会は事業費の値上げを承諾した。
事業費総額のうち国の負担を除いた約四〇〇〇億円が一都五県の負担となる。自然保護に加えて、このような負担をしなければならない正当な根拠はあるかという問題意識が顕わになった。一都五県の住民が一斉に「八ッ場ダム建設事業への公金支出の差し止め」を求めて住民監査請求を行い、この請求の却下または棄却の後、住民訴訟に踏み切ったわけである。
自治体当局は、このダム建設に巨額な財政支出をする納得できる理由を説明していない。また監査委員による監査も、事務局主導でまったく形骸化している。これまでの経緯を眺めると、中央政府と地方自治体との関係における後者の主体性の欠落と地方自治体と住民との関係における説明責任の放棄を痛感する。私も住民訴訟の原告に加わったが、この訴訟を通じて住民自治の確立、ひいては地方自治の確立に寄与できるのではないかと期待をもつからである。
ダム建設の理由は治水と利水であった。治水については、過大な計画高水流量を基礎にしていること、また流量調節には八ッ場ダムはほとんど役立たない位置にあることが指摘されている。利水については、現在の用水確保量と需要動向からみて、さらに用水を確保する必要性はないことが明らかにされている。ダム建設の基盤が脆弱であり、さらに地質からみて湛水に伴って地すべりのおそれがあるため、ダムの建設後に災害が発生する危険性も指摘されている。すでに述べた自然破壊も加えて総合的に判断すると、このダムは有害無益なものというべきであり、建設を正当化する根拠は全くないと思われる。
都県によるこのようなダムの建設に対する財政支出が地方自治法二四二条の二に規定する違法な行為に該当するかが理論上の焦点になってくる。
大田尭先生は八八歳。インタビューにうかがった日は「米寿を祝うの会」の翌日だった。先生に繋がる多くの人々が集まり「大田尭がそこにいる」ことを喜ぶ会であったにちがいない。会の終わりには参加者全員で歌った「早春賦」。先生の気持ちにぴったりの大好きな曲。季節は春なのに「風の寒さ」、世を憂いながらも春を待つ。あんまり気持ちの良い会だったので「生前葬にしたい。アッハッハッ」ですって。
先生は権威権力が大嫌い、仰々しい席も本当は勘弁してもらいたいと思っている。が、なんと言っても教育学者として六〇年。研究者・教育者として人間一人一人をかけがいのないすばらしい存在として見つめ愛し続けてきた。他の動物とは違い「多岐選択型動物」である人間、その研究は尽きない。知性の広がりと深さ、実践の確かさ、毅然としてやさしい人となり。出番が減るわけがないのである。
「日本で民主主義が死のうとしている。抵抗しながら殺されているのではない。安楽死しつつあるのだ」在日作家徐京植。「私自身は、今の時勢を『末世』とはとらえておらず、また『安楽死』も望みません。せめて、かりに一度死しても、なおそこから新たな蘇りを信じたいと思います。むしろ、より積極的に、日本の民主主義の『未熟』さに思いをいたし、『未熟』は『可能性』を秘めているとも考えるからです」
二〇〇五年七月四日「朝から梅雨さながらの激しい雨がアスファルトの道をたたいて」いた日。東京地裁。東京都教育委員会の教師に対する「君が代」の強制に抗する「国歌斉唱義務不存在確認訴訟」略称「予防訴訟」の法廷。一次原告二二八名、教育裁判としてはかつてない大型訴訟である。良心の自由を求めて法廷を埋める人々の前で大田先生は証言する。「八七歳になられた大田尭さんは、確信に充ちた明瞭な口舌で、その良く通る声が人々の胸にしみ通るようでした。決して大柄でないその背中が傍聴席からはとても大きく見えました」「裁判官が退席されたとき、驚いたのは、大田さんの証言に対して大きな拍手が傍聴席から湧き上がったことでした」桐山京子傍聴記。
聞き手は尾山宏弁護士である。大田先生は「勤評裁判、学力テスト裁判、内申書裁判、長い家永教科書裁判、そして現在の憲法、教育基本法『改正』の動きへの静かな抵抗は、続けてきたつもりです」「証言の日、悪天候のなか傍聴席を埋め尽くされ、なお入場出来なかった教師の方々そのほか各界のみなさんの、良心の自由を求める熱気に支えられたこの『証言』です。法廷外の、日本各地の志を共にする多くの方々に思いを馳せつつ」そして時空を超えて多くの人々に繋がるのである。渾身の証言であった。
大田尭先生は一九一八年広島県豊田郡舟木村に生まれる。旧姓は築島。後に結婚して妻の姓大田となる。三男だった。父親が事業に失敗し大阪に。旧制中学から旧制広島高校へ。ここで「人生観が変わった」哲学、文学、芸術など広く関わり当時の将来への希望は「人間になること」だった。東京帝国大学文学部に進学、教育学を専攻する。戦況が厳しく一九四一年一二月大学は繰り上げ卒業となる。
文学部の大学院に進学するが八月に招集を受け一兵卒として入隊。歩兵として一年訓練を受け一年は検疫所の事務部門に配属された。将校になる気はまったくなくそのまま一九四四年八月南方戦線に送られる。八月セレベス海で潜水艦の攻撃を受け輸送船は海没。三六時間漂流しいかだに命綱をつなぎ眠らないように互いに励まし合いながらなんとか生きのびた。そしてセレベス島に上陸。敗戦の一年前。セレベス島これが幸運だった。アメリカ軍の艦船はセレベス島の沖合を通過しレイテ島にむかう。奇跡的に敵兵と直接対峙することなく敗戦を迎える。食糧もなんとか食いつなぎ赤痢・マラリアその他病気が敵だった。オランダ軍の捕虜になるがそのまま放置され帰還出来たのは一九四六年五月だった。先生は軍隊で、その不合理と共にそこに集められた人々の生活力に圧倒された。帝国大卒のインテリである自分に「学問とは何か」自らの存在価値を問うほど劣等感を持ったと言う。
帰還後、妻智子の実家広島県本郷町で地域教育計画にかかわっていたが、東京大学大学院の研究室から呼び戻される。一九四七年から特別研究生となり戦後の日本の教育制度の確立変遷と共に先生の研究者生活が始まるのである。
先生の住まいは東浦和の駅から一〇分ほどの坂の上にある。それはもう大きな樫や欅の大木が目印である。その下に茶室と三階建てのように見える打ちっ放しのコンクリートの建物。デザインが斬新で一階部分が半円形のゼミ室になっている。道草を食っていた私を心配して先生は通りにでて待っていてくださった。インタビューはこのゼミ室で。「トーチカのようでしょう」テーブルも建物に合わせて緩く弧を描いている。壁一面には本棚。小さな窓がある。床暖房のために足下が心地い。落ち着いた閉じられた空間である。
先生はここで月六回、サークルの会合を今でも続けている。長いものはもう半世紀にもなるという。教育現場の事実に学ぶと言うのが先生の学問の原点。「自由な意思でみんなが出番を持って支えつ、支えられつつというところに、何ともいえない安定感があった。何か得をすることがあるわけではない。人間の自立と連帯との素朴な萌芽をたたえているところにサークルの意味があるのだろう」メンバーは教師、中小企業家、育児中の若い主婦、研究者、中国人留学生などが中心で世代もバラバラである。「重要な講演、行事のまえに、私は必ずこの人たちの前で、簡単なリハーサルをして意見を聞く」常に自らの感性と知識をとらえ直し学び直す、これが先生の学者としての生き方である。
一九九九年七月二九日、先生の伴侶妻智子さんは先生と三人の息子さんに看とられて死を迎えた。ガンで余命六ヶ月と診断された妻智子さんの最後を先生と家族はわが家をホスピスにして看とる。「死ぬ前の四週間は、私と三人の息子を中心に交代で彼女の病室に寄り添うことにし、死の数日前まで」三食は必ず食卓についてもらった。嘔吐しながらの食事でも「生きてあるあかし」である。死の三日前先生に「意識あるうちに」と痩せた手をさしのべ「ありがとう」と堅く握りしめた。窓からは大きな木が見える。
先生はしばらくものを食べられなかった。「私の喪失の痛みは、それよりも何倍もの冷たく惨いものとして、いま地球の至るところで日々重ねられています。それらへの共感力が、妻の死によって内面でいくらかのたくわえを増すことになように思えます」
深瀬忠一
・大田 尭
1918年広島県生まれ
1941年東京帝国大学文学部教育学科卒業
東京大学教授、都留文科大学学長を歴任。
教育史・教育哲学専攻。東京大学・都留文科大学名誉教授。
著書 「教育とは何か」(岩波新書)「子どもの権利条約
を読み解く」(岩波書店)他、多数