法と民主主義2006年6月号【409号】(目次と記事)


法と民主主義6月号表紙
★特集 検証:「格差社会」
特集にあたって……清水雅彦
(第一部)
◆「構造改革」と「格差社会」……後藤道夫
◆企業社会における法の機能と課題……西谷敏
◆派遣・請負労働の現状とおおさか派遣請負センターの課題……村田浩治
◆フリーター・青年労働者の現実と問題点……笹山尚人
(第二部)
◆均等待遇を求めて──非正規労働者のおかれた実態から……鴨桃代
◆無権利状態で働く若者が声を上げ始めた……河添 誠
◆タクシー労働者を「貧困層」に追いやる「規制緩和」……小林隆
◆大学非常勤講師が直面する「格差」問題とその改革運動 ……渡辺隆司
◆格差社会における多重債務者の被害事例……本多良男
◆ホームレス問題の現在……湯浅 誠

 
★特集●検証:「格差社会」

特集にあたって
 政府の五月の月例経済報告によれば、景気の拡大局面が「バブル景気」を越えるのは確実であるという。確かにトヨタ自動車など一部大企業の業績は好調であり、六大金融・銀行グループの三月期当期利益も「バブル期」ピークを越えた。最近はIT産業の成長がめざましく、「ヒルズ族」が憧れの対象になったり、株の売買で莫大な収益を得る者もいる。「ライブドア事件」が発生したが、これまでの傾向に大きな変化があるわけではない。

 しかし、多くの消費者が景気拡大の恩恵から五月の大型連休を海外で過ごしたり、多くの企業が順調に収益を増やしているわけではない。どの企業もトヨタ自動車に、誰もが「ヒルズ族」や「株長者」になれるわけではなく、「成功者」はほんの一握りに過ぎない。特に庶民生活に目を向けてみれば、多数派の生活が大幅に向上したわけではなく、逆に伸び悩む給与水準と税や公的負担金等の引き上げにより、生活は苦しくなっている。最近よくいわれる一部の「勝ち組」とそれ以外の「負け組」の問題である(嫌な表現であるが)。

 この「勝ち組」と「負け組」を生み出し、両者の格差を拡大しているのが「新自由主義」である。二〇世紀の先進資本主義諸国家は、戦前の恐慌対策や戦後の社会主義諸国家との対抗と国内労働運動の成果・社民勢力の伸張などにより、ケインズ主義・福祉政策による「大きな政府」路線を歩んできたが、一九八〇年代からイギリスのサッチャリズムとアメリカのレーガノミクスが「小さな政府」を標榜する新自由主義改革を推し進めてきた。

 これに対して日本では、自民党(支持層)内「守旧派」の抵抗もあり、中曽根政権や橋本政権では部分的な「改革」しか進まなかった。それでも、「改革」の「成果」が出始める九〇年代末から失業率・ホームレス・生活保護世帯が増加し、「構造改革」を掲げる小泉政権下では貯蓄ゼロ世帯率・ジニ係数の拡大も指摘され、「格差社会」という言葉が日常用語にまでなった。それにも関わらず、この「格差」を否定する言説も多々ある。

 そこで本特集では、「格差社会」の問題について、これをもたらした背景や現実問題の理論的法的分析からなる第一部と、この問題に直面している現場からの声や問題提起からなる第二部との二部構成で検証することにした。具体的には第一部では、「格差社会」をもたらす「構造改革」問題について後藤道夫氏(都留文科大学)、「格差社会」と労働法問題について西谷敏氏(大阪市立大学)、昨今の労働政策による派遣・請負労働問題について村田浩治氏(弁護士)、法律家の立場からフリーター・青年労働者問題について笹山尚人氏(弁護士)に検証していただく。そして第二部では、連合会長選挙でも注目された非正規労働者問題について鴨桃代氏(全国ユニオン)、当事者の立場からフリーター・青年労働者問題について河添誠氏(首都圏青年ユニオン)、規制緩和による労働条件悪化の著しいタクシー労働者問題について小林隆氏(自交総連)、専任の法学研究者も取り組みが不十分な大学非常勤講師問題について渡辺隆司氏(首都圏大学非常勤講師組合)、消費者金融に対する規制の甘さなどが生み出す多重債務者問題について本多良男氏(被連協)、深刻の度合いを増すホームレス問題について湯浅誠氏(自立生活サポートセンター)に、それぞれの問題についての現状や取り組みなどについて報告していただく。

 今問題となっている自民党の「新憲法草案」や政府の「教育基本法改正案」には、これからも日本が新自由主義改革を推し進めるのに適合的な内容も含まれている。また、規制緩和や民営化、市場主義など資本の露骨な欲望を国家が解き放つ新自由主義に対して、求められているのは人権と平等概念に裏打ちされた市民の理性により国家を通じて資本をコントロールしていくことである。そういう意味で、本特集が事象の分析のみならず今後の改憲阻止運動とオルタナティヴ追求を補強するものになれば幸いである。

(明治大学 清水雅彦)



 
時評●法が愛を語るとき

(龍谷大学教授・名古屋大学名誉教授) 森 英樹

 大阪府知事をつとめた憲法学者・黒田了一さんは、歌人でもあったが、冗談半分で「六法全書を開いてみても、恋という字はなかりけるかも」という一句をひねったことがあるという。情緒とは縁遠い法の世界に、心ときめく「恋」のことなど規定していないだろうと私も思ったが、法律だけで一七〇〇件を超えるその全部を調べたのか、この話を聞いたときは心配になった。当時と違って今はパソコン検索という手がある。調べてみたら二〇〇〇年制定のストーカー規制法に「恋愛感情」という文言があると、一件だけヒットした。

 「愛」という字は、公職選挙法の別表に愛知県とか愛媛県が出てくるので、あるといえばあるのだが、より端的には、今話題の憲法と教育基本法にある。教育基本法一条は「真理と正義を愛する」ことが教育目的のひとつだ、という。憲法のほうは前文で、「われらの安全と生存」は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して保持」するというくだりで出てくる。これは、「政府」は戦争したいかもしれないが、生身の人間である各国の人々はもともと平和を愛しているのだから、そこを信頼して九条で行こう、という趣旨である。ところが日米安保体制が始動したころ、これを別様に「解釈」して、「世界には平和を愛さない国民もいるから日米安保体制は必要だ」と説く者がいた。ともあれ、法に「愛」を規定すると、文言の情緒性のゆえに議論百出しやすい。だから法が新たに「愛」を語り始めると、法律家はどうしても身構えてしまう。

 新たに「愛」を定める動きがある。自民党「新憲法草案」は、前文で「日本国民は、帰属する国や社会を、愛情と責任感と気概を持って自ら守る責務を共有する」と定める。ストレートに「愛国心」を書き込む予定だったことからすると、ややぼかされた表現になった。ぼかされた、というのは、ストレートに「愛国心」と書くのではなく、「心」が消え、国と並んで「社会」も対象にしているからであり、また文章の構造上も、国を「愛情と責任感と気概」を持って「自ら守る」べし、としているから、実は「自分の国は自分で守る」ことを、しかも国民共有の「責務」にするという提案である。「愛国心」を求めているというよりは「国を守る共同責務」、つまりソフトタッチではあれ「国防義務」を求めていると見たほうがいい。愛国心はぼかされているかも知れないが、国防義務っぽい規定ぶりは、むしろかなり鮮明である。

 新教育基本法案の方は、第二条第五号に「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する態度を養う」ことを「教育目標」と定める。ここでも「心」は消えたが、「態度」を問題にする以上、国旗・国家強要問題と類似の、内心に直結する「態度」を強要する教育現場が容易に想定できよう。こちらの方が「愛国心育成」をストレートに語っていると見ていい。

 自民党改憲案では「国と社会」とが、新教育基本法案では「国と郷土」とがセットになっているが、これは日本語の「国」文言が孕むあいまいな感性に悪乗りしている。周知のとおり、日本語で「国」という場合、それがnaturalなcommunity性を帯びた人々の集合体を指すのか、人為的に設計された政治的組織としての国家を指すのか、といった基本的相違さえ分別不明なまま、国土にあたるlandも、共同体的意味合いを含むcountryも、そして論争的なnationも、統治機構としてのgovernmentや政治的統一体としてのstateも、「国」という同一の言語表現を可能とする、それこそ「伝統と文化」がある。W杯でも高揚する「ニッポン」への愛着が、地続きのまま「日本国政府」への「愛」に転用されてはたまらない。

 法が愛を語り始めるときは、よほど冷静にその底意に対応しなければなるまい。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

妻との晩酌 至福の時

弁護士:向 武男先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1956年。都立目黒高校グランドテニスコート側で。若々しい青年教師向先生と生徒達。みんなの憧れの教師だった。後日この写真を写っている一人の女学生が先生にと届けてくれた。大事に持っていてくれたという。

 向武男先生は今年八二歳になる。「えっ」と思う。長身で白髪、若若しくてダンディ。にこやかな笑顔、一〇歳以上若く見える。古巣の南部事務所に戻って一二年。一一時に事務所に現れて四時には引き揚げる。「ボクは焼酎と焼き鳥が好きなんですけどあなたはどう」インタビューを申し込んだ時の先生のお答えである。いまの私は「ホッピーと串あげで立ち飲みですが喜んで」と言いかけてぐっとこらえた。南部事務所はあの蒲田にある。駅には蒲田行進曲が鳴りひびくところ。先生の所場の焼き鳥か、ぐらっと来た。が、しかし、飲んでいたら私の頭のちょうつがいが壊れる。インタビューは蒲田駅前のきれいなビルの四階「南部事務所」でお願いした。

 何年ぶりかわからない程のご無沙汰でうかがった南部事務所。あの「南部事務所」は明るく広く近代化していた。「きれいですね」と感激しながらずんずん見て回ると事務局の方々はなれなれしい変なおばさんの出現に茫然としている。日民協現事務局長海部さんがにこやかに事務所を案内してくれる。お仕事中の弁護士の皆々様に日民協になり代わって日頃のご支援のお礼を言うのも忘れてしまった。塚原先生が「裁判所の図書より充実している」と豪語している書庫スペース、会議室は広く、明け放つと三〇人がゆったりとテーブルを囲める。椅子も机もなかなか、外の景色もちがって見える。もちろんOA化もバッチリである。起案室、畳の部屋まであるもんね。

 事務所は一九九七年にここに移転した。「若い人たちがこのビルが空いたのを聞きつけて移りたいって言うんです。前のところに移転して五年目だった」意見を聞かれた向先生は「事務所が発展するんだったらいいことじゃないか」みんなで力を合わせれば経済的な負担だって何とかなる。向先生は移転当時は七三歳。

 南部事務所は四〇年前、一九六八年に設立された。東京の南の地域に根ざした事務所を作るのが目的だった。地元の人が用意してくれたのは蒲田駅から遠い古いビルだった。「隣の大丸市場が火事になったとき、事務所の記録が焼けてしまうのではないかと心配した依頼者が駆けつけた」という。そんな事務所の創立メンバーは小池、市来、松井、向の強者の面々である。向先生の隣の席の坂井興一弁護士は開所一年たって入所した生え抜き一期生。たくさんの弁護士が南部事務所から巣立って行った。

 向先生は実は一九六五年、弁護士の仕事を蒲田のお隣大森で一人で始めた。四ヶ月して第一事務所に入所、三年後に南部事務所の創立に加わる。個性的な面々と事務所を立ち上げ、とにかく事件に追われた。当時一二〇件も持っていたという。地域のあらゆる紛争が待っていましたとばかりに押し寄せた。四年たったある日、第一事務所から竹澤・鶴見両弁護士が南部事務所にやってくる。「向弁護士を返してもらいたい」よほどのことであろう。請われればいやといえない向先生。第一事務所にもどるのである。

 中央区銀座にある第一事務所で先生は

弁護士会活動や中央区の地上げ問題、さまざまな市民事件に取り組み二二年を過ごすことになる。この間戦前の知られざる闘う弁護士の掘り起こしを続けている。こつこつと足で資料を集め労作を書く。どこにいても収まりのよい人柄で「弁護士の仕事はその人の悩み事全部を聞くことだ」という。

 先生は一九二四年、金沢の犀川上流犀川村に生まれた。父親は仏壇の商いで全国を回っていた。その村で高等小学校を卒業、親戚の田中家に養子に入る。金沢中学一年に編入、町場の田中家から旧制中学に通うこととなる。暗い戦争の時代「そんな時代に生まれ育ちながら、不自由だとも考えなかったし、他をうらやましく思ったこともなかった。いうなれば健康で純真な軍国少年であった」剣道二段大柄で目立つ青年は、いつもはおとなしいのだが、自分がこうだと思うと激しくなる。先生と対立し「貴様退学だ」といわれたり最終五年の時にストライキを指揮したり過激である。

 植民地の行政官を養成するハルピン学院への進学を家族に反対され犀川村で代用教員をしているときに徴兵。一九四三年である。国のために死ぬ覚悟で入隊、幹部候補生として習志野の教育隊に入る。そこで終戦を迎えることになる。向青年にとって敗戦は実に口惜しいことだった。

 除隊後金沢に帰った向青年はとある人に「田中君弁護士にならんか」と言われ即「なります」と答えてしまう。どうしてそんなことになったのか良くわからないまま「なります」。その一言が、後の向青年の運命を決めることになる。

 ところがここから先、紆余曲折の人生が向青年を待ち受けるのである。一九四六年、大げんかして養家を飛び出し上京。中央大学専門部に入学。生活のために無資格のまま小学校の教員になる。それからガリ版筆耕の仕事に就く。大学には試験の時だけ行ってなんとか卒業。コッペパンをかじりながら図書館にこもり勉強するが一九五二年、司法試験択一に失敗。しばらく頑張るが受からない。一九五五年から四年間は今度は正式に都立目黒高校の政治経済の教師となる。女生徒にもてる青年教師であった。楽しい日々だったが司法試験のことが気がかりでついには実家が送ってくれたお金を糧にお寺にこもって勉強する。それでも択一が受からない。一九六一年に小学校の教員をしていた愛子さんと結婚。二人で金沢に帰ったとき厳しい叔母さんから「いつ弁護士になったんだね」と叱責される。愛子さんはどこからか向先生の択一の点数を聞き出しあと何点なんだからとはっぱをかける。後に引けない二人三脚で次年には論文まで受かってしまう。なぜか口述で失敗。次の年はめでたく最後まで合格する。先生は一七期である。

 研修所に入学したときは三九歳。同期の堀野、西嶋弁護士は「修習生になったときのお前さんをみて、酷い年寄りがいると思った」んだって。向先生、弁護士なったら年は勲章である。早く年寄りといわれていた先生はずーとそのまま、今では揶揄する両弁護士と変わらなくなってしまったのである。

 向先生は焼酎好きで毎日晩酌を欠かさない。同居している息子さんに「あまり飲み過ぎるな」とくぎを刺されているので毎日焼酎二杯と決めている。日本中の美味しい焼酎を集めている。今日は何を飲もうか。いつも仏壇に「ママ」と話しかけながらいっぱいやる。愛子さんは一九八九年に先生を置いて逝ってしまった。一七年になる。心の会話は毎日出来るから孤独ではない。先生の「至福の時」である。「あの人があってのボクの人生だった」

・向 武男
1924年、金沢市生れ
1943年、代用教員時代に徴兵
1955年、都立目黒高校教師
1965年、弁護士登録


©日本民主法律家協会