日民協事務局通信KAZE 2006年6月

 時代を逆行させてはならない


 時代は、ある日突然には変わらない。振り返れば、「あの時が節目」「あの動きが前兆であったか」と思い起こされることになるのだろう。いま、その小さな前兆が積み重ねられつつあるのではないか。今通常国会の法案審議はそんな重苦しさを感じさせる。

 教育基本法、共謀罪、そして憲法改正国民投票法案‥。時代の動きは、教育勅語と治安維持法、そして大日本帝国憲法の時代に逆戻りを始めたのではないか。政権与党のお家の事情で会期延長はなさそうとの見通しなのがせめてもの救い。今国会ではいずれの法案の成立もなさそうだが、継続審議となって次の国会がまた思いやられる。

 教育は、前国家的な根源的存在としての個人をどう育成するかという営為である。国家が国民を教育しようというのでは主客転倒。国民が国家という便宜的なシステムを設計し構築するのだ。教育が公権力の管理や統制から自由でなくてはならないのは自明の理である。それを高らかに唱った教育基本法一〇条は、法案では見る影もなく改変されようとしている。教育内容は、法律でつまり時の政権の意思次第で決定しても良いというのである(改正案一六条)。教育裁判の武器が取りあげられようとしているのだ。

 教育基本法の改正は、東京の学校現場では既に先取りされた現実がある。すさまじい「日の丸・君が代」強制は問題の一端でしかない。職員会議での採決禁止に象徴される管理体制の強化は、学校を上命下服の統制装置に変えようとするものである。管理統制さえ完成すれば、時の政権のイデオロギーを注入することができる。いま、目論まれているのは国家主義であり、ジェンダーフリー攻撃であり、「多様化」という名の教育格差の積極肯定である。

 共謀罪が濫用されることは目に見えている。住居侵入や威力業務妨害、公務員法だってこれほど濫用されているのだ。公安警察には喉から手が出るほどに欲しかろう。

 共謀罪のごとき、掴まえどころのない曖昧な構成要件を犯罪としてはならない。その歯止めとなるはずの裁判所がその機能を果たしていないのだから。濫用をチェックするはずの刑事裁判所には多くを望むことができない。

 板橋高校の卒業式を「妨害」したとされる元教員の威力業務妨害事件判決に弁護団の一員として立ち会った。恐るべき行政追認判決である。刑事司法はまだ瀬戸際にあるのか、それとも既に沖へ流されてしまったか。

 ことの本質は、表現の自由という基本権の制約が果たして許されるのか、ということにある。言論の自由とは、権力が憎む言論にこそ保障されなければならない。しかし、判決にはそのような観点は微塵もない。権力が構想した秩序の維持しか頭にないのだ。

 そして、改憲への地ならしとしての国民投票法案である。これが成立すれば、改憲への行程としては外堀を埋めた感となろうか。

 しかし、暗い材料ばかりではない。今年の憲法記念日には改憲阻止の多くの集会が成功している。平和や人権、民主主義を願う人々の活動は、盛り上がりを見せている。軽々に改憲を許す雰囲気でもあり得ない。

 そんな情勢の中で今年の日民協総会を迎える。法律家の果たすべき役割は小さくない。支配勢力が改憲方向への布石を重ねるのなら、私たちはこれに対抗して改憲阻止の無数の行動を積みかさねなければならない。

(弁護士 澤藤統一郎)


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