法と民主主義2006年10月号【412号】(目次と記事)


法と民主主義10月号表紙
★特集 「天皇制」の現在
特集にあたって……清水雅彦
◆近代天皇制の成立とその問題点……山田 朗
◆現代日本の保守政治と天皇……渡辺 治
◆改憲論・皇室典範改正論の問題点……麻生多聞
◆天皇制と民主主義……澤藤統一郎
◆戦後の学校教育に見る天皇制……藤田昌士
◆女性にとっての天皇制──ポルノグラフィとしての天皇制……笹沼朋子
◆部落差別と天皇制……中山武敏
◆皇室報道を制約するものは何か……佐々木央
◆こんな非人間的な制度はおしまいに──『明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか』を書いた板垣恭介さんに聞く……聞き手・丸山重威
  • 新連載●若手研究者が読み解く○○法E民法(契約法)フランチャイズ契約における本部の経営指導援助義務について……木村義和
  • 判決・ホットレポート●トンネルじん肺と国の責任──東京地裁及び熊本地裁判決をうけて……下山憲治
  • 判決・ホットレポート●良心と良識の勝利──葛飾ビラ配布弾圧事件無罪判決によせて……小沢隆一
  • 判決・ホットレポート●都教委の「日の丸・君が代」強制通達を違憲違法とした東京地裁判決……秋山直人
  • とっておきの一枚●日本社会事業大学名誉教授 小川政亮先生……佐藤むつみ
  • 税理士の目F●銀行はかわったのか……田村 淳
  • 司法書士からのメッセージI●地方の街にみる格差社会の影……P輝大
  • 司法書士からのメッセージJ●司法書士と司法過疎……福山良弘
  • 連載・軍隊のない国J●ソロモン諸島……前田 朗
  • 私が見たアメリカ、私がみた世界E●戦争をする国・アメリカの人権状況と市民の抵抗……伊藤和子
  • トピックス●「9条がんばれ!『第九』コンサート」大成功!……田場暁生
  • インフォメーション●9・21判決をうけて
  • 時評●安倍政権の誕生と私たち……梓澤和幸
  • KAZE●全法務労組中央との懇談会 賑やかに終わる……有村一巳

 
★特集●「天皇制」の現在

特集にあたって
 昨年のトリノ五輪でも今年のサッカーワールドカップでも、無邪気に「日の丸」を振り、「君が代」に「感動」するたくさんの日本人を目にすることができた。今年九月には皇族に男児が生まれ、マスコミ報道によれば、「日本全国で喜びに溢れている」らしい。一方、朝鮮における「将軍様」なる表現を揶揄したり、「金日成・金正日体制」を世襲制と批判する日本人も多い。しかし、こういう人々は、日本が国民主権・民主主義・平等を基本原理とする国家であるのに、天皇制を称える歌の強制の前に苦悩する人たちの気持ちを想像できず、「皇太子さま」「愛子さま」(「様」ではない)なる過剰表現や世襲の君主制に疑問を抱かないほど(政治家二世・三世により争われた自民党総裁選についても同様である)、自国の体制や自分の感覚については鈍感のようである。
 天皇制を支持する民族主義者や右翼にも疑問がある。「さざれ石」が「さざれ」と「石」で切れる「君が代」のメロディーのおかしさはさておき、明治時代に入って外国人(ドイツ人のエッケルト)が編曲した曲を平気で流し、大陸・朝鮮半島にルーツを有する天皇家を持ち上げる「不純さ」についてである。伝統と民族性にこだわるなら、たった一二〇年ほどの歴史しかない歌を「国歌」とすることには底の浅さが感じられるし、弥生時代以前から日本で生活をしていたアイヌや琉球の人々をなぜもっと大事にしないのであろうか。
 さらに、国民主権・民主主義・平等を掲げて運動に取り組む人々にもことの重大性を正確によく考えてほしい。戦前は商船旗(海軍旗とは色と寸法の異なる日章旗)と陸軍旗(旭日旗)が別に存在し、陸軍(喇叭式)と文部省(二番の歌詞もある)が別の「君が代」を作成していたのに、戦後約半世紀も経った一九九九年の「国旗・国歌法」で海軍の「日の丸」「君が代」が「国旗」「国歌」として法的に一本化された事実に(商船旗の「日の丸」でも文部省の「君が代」でもなく。また、戦前は帝国議会で大日本帝国国旗法案は廃案となっている)。「国旗・国歌法」よりも前に法制化されたとはいえ、天皇が国家(空間)のみならず時間も支配するという元号を日常的に使用する鈍感さに(それほど元号が好きなら、「大化」以降の元号を全て覚えるべきである)。祝日(「祭日」ではない。「日曜・祭日」「祝祭日」という言い方もおかしい)一四日のうち九日も天皇制がらみの祝日(四方拝、紀元節、皇霊祭、新嘗祭、誕生日、明治天皇睦仁が東北巡幸から「明治丸」で無事横浜港に帰ってきた旧「海の日」)であるという事実に。
 戦前戦後を通じてできなかった「国旗」「国歌」の法制化もそうであるが、戦前から戦後、さらには現代へとますます天皇制に対する日本社会の対応もエスカレートしている。かつては皇族の呼び方として「ミッチー」「ナルちゃん」「サーヤ」というものがあったが、今や「皇太子さま」「雅子さま」「愛子さま」である(このことに加担しているということをマスコミは自覚すべきである)。「さま」を付けずに呼び捨てにした雑誌編集部が襲撃を受ける事件も起きた。しかし、以上のようなエスカレートぶりは、法律や暴力による強制と脅しを必要とせざるをえない「押しつけ」側の弱さの現れでもある。
 世界の歴史は君主制から共和制に移行してきており、共和制国家が圧倒的多数を占める。日本では国民主権・民主主義・平等が保障されているはずの一方、皇族の男児出産で大日本帝国憲法下のような反応も見られた今、あらためて日本の天皇制について冷静な議論を行いたいと思う。

(明治大学 清水雅彦)



 
時評●安倍政権の誕生と私たち

(弁護士) 梓澤和幸

 九月二六日安倍晋三氏が国会で首班指名を受け、新政権が発足した。軽佻浮薄と重苦しさが同居する不思議な気分である。この気分の背景にあるものは何か。

 それは第一に、新政権が憲法改正を五年以内に実現すると公約した政治家によって率いられているという事実である。

 安倍晋三氏は、軍事力世界第三位の軍隊を、世界の紛争地域にいついかなる時でも政府が派遣することについて、いかなる立憲主義的桎梏をも受けることのない状態に日本をおくことを公言し、そのことによって、保守勢力内の支持を得、さらには、若者の間に強まりつつあるナショナリズム的な方向性に精神的動員(安倍晋三著「美しい国へ」三章参照)をかけた上で、総理の座を獲得したのである。

 政権誕生は期限を区切って、日本の戦後を形づくってきた社会構造を根底から解体する実践的宣言だといえよう。

 自立した個人、自由で平等な価値観を育む教育基本法を変え、全体があって個人があるという価値観を子どもたちに浸透させようとする教育構想が国家改造プログラムの中心に、公然と、明白裡にうたわれていること(総理所信表明演説参照)も見逃せない。

 重苦しさの第二は、政権がメディアとジャーナリストに、沈黙を強いている政治家によって率いられていることである。

 本誌二〇〇五年一一月号特集「NHK番組改変問題から見えてきたもの」は、安倍晋三副官房長官(当時)と、中川昭一経産相(当時)が行った、戦時性暴力に関する女性戦犯法廷についてのNHK放送番組への事前介入と、政治家、NHK、朝日新聞の事後の対応について、メディア論、法律論から仔細な検討を行った。

 詳細は右特集号に譲るとして、そこで指摘された核心は次の点であった。

 安倍晋三氏らの介入の当日である二〇〇一年一月二九日、および放送当日である同年同月三〇日、四四分版の放送素材が四三分もの、四〇分ものに短縮され、戦時性暴力被害の当事者、加害兵士の証言、天皇に責任があるとする国際法廷の核心部分が削除されたこと、それが、憲法二一条、国際人権規約一九条の表現の自由、知る権利保障を蹂躙する重大な違法行為に該当するということであった。

 いま看過できないのは、ジャーナリズムの沈黙が総裁選報道、政権誕生報道にも貫かれたということである。

 全国紙、全国ネット放送では放送介入のことで総裁選立候補者に挑んだ記者の質問は見聞できなかった。県紙沖縄タイムスの作家目取真俊氏のコメント、ブロック紙東京新聞の特報記事に例外を見るだけであった。NHK放送介入事件は、本来は政権誕生を左右するはずの重大事のはずだった。みごとなまでの沈黙甘受の体系は、座視し得ない。

 しかし、闇の中で光を語ることこそ、法律家の貴い使命だと信ずる。元自民党幹事長加藤紘一氏は、靖国問題での発言を動機とする放火事件の後、「今後も自分の発言を曲げることはない」とコメントし、第二東京弁護士会が一一月一〇日開催する集会に、佐高信、鳥越俊太郎両氏とともにパネリストとして出席する。

 また、ジャーナリスト立花隆氏は、「安倍晋三に告ぐ『改憲政権』への宣戦布告」と題する一文を、月刊現代一〇月号に寄せている。一文には、敗戦直後の東大総長南原繁教授のメッセージが引用されている。「戦争を放棄する憲法をもつ日本の世界史的使命は、世界全体に戦争を放棄させるような国際新秩序を建設することにある」

 そして、同氏は、この南原繁氏のDNA(思想)を受けつぐことを表明し、安倍晋三という政治家の率いる政権への闘争を宣言して退路を断った。

 「木の葉沈み、石流れる」この時代に、新しい広がりと輝きをもった言論が登場し始めている。既成概念をとりさった実践の構想が必要だと思う。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

ありのままに生きる 鰥 やもお 12年記

日本社会事業大学名誉教授:小川政亮先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1949年5月22日。吉祥寺の写真館。長男光君10ヶ月。小川先生は若きインテリ。丸めがね。美代子さんはエキゾチックな顔立ち。長男光君は福島県農業試験場時代にメロンの無灌漑農法を編み出す。今は農業指導者としてメロンの母国トルクメニスタンで「砂漠の大地」に挑んでいる。

 小川先生のご自宅は練馬区の関町。吉祥寺からバスで一〇分、バス停から五分千川上水の緑道沿いにある。江戸時代に、玉川上水から分水して作られた。遠く小石川白山御殿、上野寛永寺、湯島聖堂、浅草寺のほか、江戸の諸大名屋敷に給水されていたという。ほとんどが暗渠になっているのにそこにはきれいな水が流れていた。片側の緑道は小さな小道でふかふかの土の上をかがんで歩かないと夏みかんの木にぶつかる。

 関町の家は一九四〇年に多摩少年院院長を定年退職した小川先生の父恂臧が買い求めたものである。当時先生は四人兄弟の長男二〇歳、東京帝国大学法学部三年。父恂臧は二年後敗血症で亡くなる。母清子は一九七五年七六歳で亡くなるまで小川先生の家族とともにこの地で暮らした。六六年後の今、敷地には先生の家と次男の家が棟続きで建っている。門を入ると左が先生の家の玄関、右奥に次男の家族の表札がある。庭木が生い茂り緑道に負けない。「この辺り家二、三軒以外は何もなく、畑の中にぽつんと建っているような所でした」。

 一九九四年三月一三日、小川先生は妻美代子さんを見送った。享年七二歳。九三年の春、背中の痛みを訴えたとき美代子さんは「膵臓癌の末期で手術不能、余命二、三ヶ月」と言われた。在宅療養を続けるが九三年の一二月、七二歳の誕生日を迎えた日黄疸を発症、入院処置後二月五日に退院するが病状は急激に悪化、激痛を訴え、意識混濁状態となる。狂乱パニック、錯乱状態である。理知的で聡明な美代子さんがである。そして昏睡状態となる。「肝性高アンモニア血症による脳障害」だった。「この日から私、娘、次男夫婦、そして福島で看護婦をしている長男の妻、それに時々、長男や長男夫婦の一番上の高校三年になる娘、つまり私たちの一番年長の孫娘も加わって」病室泊まり込み付き添い看護を始めた。一時は小康状態となったが二ヶ月後に意識が戻らないまま逝ってしまう。

 小川先生と家族は日本の癌終末期医療の現実をいやと言うほど思い知らされる。最愛の伴侶に「もっとすべきことがあったのではないか」後悔の思いと「壮絶な闘病の日々へのいたましい思い」が美代子さんを亡くした寂しさと重なって繰り返し押し寄せる。

 小川先生は一九二〇年生まれ。父恂臧は戦前の浪速の少年院院長、官舎で育った。一九三六年には多摩少年院へ転勤した父。小川先生は武蔵高校高等科に入学する。武蔵高校では「軍国主義批判のリベラルな空気がかなり強かった。ことに同級の宮沢喜一君など、辛辣な反軍的冗談を飛ばしていた」。小川先生は三九年東大法学部に入学。四〇年アルバイトをかねて東京市内の軍事扶助受給者の家庭訪問調査をする。「夫や息子を兵隊にとられ、あるいは戦傷病死されて、いかに生活が苦しいか、他の救貧立法よりは優位な軍事扶助法による扶助でさえ生活には足りないものであるかを涙ながらに、家々で訴えられた」。四一年には「東京市内外の軍需工場や町工場に働く少年労働者を訪ねて、その労働、生活、意識などにふれる調査」を。風早八十二氏の名著「日本社会政策史」に感銘。先生の研究者の原点がここにある。

 その年の一二月に繰り上げ卒業、卒業試験の真最中の一二月八日真珠湾攻撃。「定年退官して、家族の扶養のため、なお民間団体に嘱託としてつとめていた父を中心に朝食をかこんだときの冬の朝の食卓の厳粛な、はりつめた空気」「くるべきものがきた」のである。徴兵検査を受け「第二種乙種合格」、あわただしく試験を終え卒業。翌四二年二月一日九段の近衛歩兵第二連隊に入隊。その日は「雪が霏々として降るとりわけ底冷えのきびしい日であった」その夜、小川先生より二〇日早く入営していた初年兵が脱走する。「雪の中の足跡が九段下よりの清水門のところで消えている」事後消息不明「私と同じ東京大学出身者だった」

 小川先生は幹部候補生として前橋陸軍士官学校に入校、一九四三年一二月「学徒出陣で入営してきた初年兵の教官になる」「兵隊というよりは大学の後輩というか、弟たちという気がした」。「もたもたしている私は現場向きではないと思われたのか」本部付きになる。その時一階級上の上官が早稲田大学の野村平爾先生だった。「先生のおかげで随分助かったものである」。その後近衛歩兵に戻り宮城守衛、四五年四月新設の伊勢警備隊に配属となる。食糧難も空襲もあったが命は長らえた。「しつように現役志願をすすめられたのも、そのころであったが、誰が今更、人殺しを本職にできるかと、私たち予備役は、誰もとりあわなかった」。八月一五日当日終戦のラジオ放送を大隊本部で聞く。「私たちは、却ってほっとし、開放感を覚えたものであった。もう戦争は終わった。空襲もない。もう安心して平和に生活できる」。先生は一〇月末復員帰京する。

 一九四六年一一月八日、小川先生は美代子さんと運命の出会いをする。日本社会事業学校の開校前日、たまたま小川先生が勤めていた同胞援護会が管理していた建物の一部を教室として使うことになっておりその視察にいった先生はそこの職員だった美代子さんと会う。「一目で意気投合するものを感じた」。美代子さんは東京生まれ、先生の二歳年下。日本女子大家政学部第三類で社会福祉を学び、小川先生と同じく四一年一二月に繰り上げ卒業、中央社会事業協会研究生を経て長崎市にあった九州保健婦養成所に勤務し、長崎に原爆が投下される前に東京に戻っていた。小川先生はあまりの忙しさを見るに見かねて、当時美代子さんが関わっていた占領軍の方針で設立を急がれていた「日本社会事業専門学校」(日本社会事業大学の前々身)の開校準備に協力することになる。そして開設後はそこに勤務、教師と研究者の生活をスタートさせることになる。美代子さんとは四七年夏に結婚、「私にとって生きる目的はよりよき家庭を作ること」「学校の仕事と別れるのは惜しい気もしますが、あなたがきっと代わりにもっともっといい仕事をして下さるでしょう」。

 小川先生は美代子さんとともに「人権としての社会保障を求めて」研究を続けた。机上の研究だけでなくつねに現実の社会と向き合って活動する。清貧で深い人間性あふれる研究者は、美代子さんを送って一二年、生協に買い物に行き食事洗濯すべて自立しての「鰥」暮らし。二〇〇五年七月「我が最高の伴侶たりし」小川美代子追悼・遺稿集を再刊した。「よく見、よく考え、民主、平和、人権のため前向きに生きようとした彼女の人柄、生きざまを知らされた」という。夫婦はそれぞれ写し絵のようにお互いを照らし出す。

・小川政亮(おがわ まさあき)
1920年東京生れ。1941年東京大学法学部卒業。
1947年から日本社会事業専門学校設立に協力。金沢大学法学部教授、日本福祉大学社会福祉学部教授などを歴任。
共著『日本の福祉を築いて一27年―養育院の解体は福祉の後退』(萌文社、2004年)、著書『日本の福祉―論点と課題』(大月書店、2000年)、『高齢者の人権―これまで・これから』(自治体研究社、2000年)など多数。


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