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■特集にあたって
今年五月三日は、憲法施行六〇周年にあたり、日本国憲法が還暦を迎える。
二〇〇七年の幕開けにお送りする特集は、「日独裁判官物語」でよくご存じの青銅プロの片桐直樹監督が、昨年一〇月初旬に完成させた、ドキュメント映画「戦争をしない国 日本」を素材に、二部構成による企画です。
この映画は、敗戦後の日本の六〇余年を丹念にふりかえりながら、圧倒的迫力をもって歴史の事実を映し出す映像の力で、私たちに語りかけています。
くり返される戦争の実相。敗戦後の世界の中で、日本政府がアメリカ合衆国とどんな関係を結び、かつ国民をだまし欺き「戦争をする国」にしていったか。誰にどんな利益があったのかを赤裸々に描くとともに、抗する人々の闘いの場面も織り込まれながら、憲法九条がつねに脅かされ続けてきた歴史をまざまざと見せつけられます。
第一部の座談会では、今回の映画製作に大きくかかわるとともに、司法試験受験生や多くの市民に憲法の講義をしている、伊藤塾の伊藤真先生、憲法運動を中心に長いこと市民運動を担いながら、若者の中に新しい平和を創造する力を見いだしている高田健さん、そして、憲法の恩恵を受けながら、憲法をないがしろにする社会をつくりだしてきた自戒をこめてこの映画を製作したと話す片桐監督に、憲法への思いとともに、この映画をこれからどう活用していくかについて語っていただきました。
第二部は、この映画をご覧いただきながら、ご自身の思いを重ねあわせ、老若男女の方々からよせられた「二〇〇七年への決意表明と連帯のメッセージ」です。
安倍首相は、年頭所感で、「活力とチャンスとやさしさにあふれ、自立の精神を大事にして世界に開かれた美しい国、日本を実現する」との考えを強調するとともに、「たじろぐことなく改革の炎を燃やし続ける」と改革姿勢をアピールし、「新しい時代にふさわしい憲法を、今こそ私たちの手で書き上げていくべきだ」とし、その前提となる日本国憲法改正手続きに関する法律案を通常国会で成立させることを目指すとしています。
改憲がいよいよ現実化するのではないか、という状況を迎えつつある今、この「戦争をしない国 日本」の映画の活用のみならず、さまざまな活動の展開と、私たちの運動の力量が試されているのではないでしょうか。
二〇〇七年、私たちは、
「もっともっと憲法を使いこなそう。憲法の理念を実現する司法が必要だ。憲法の理念を実現することに執念を持つ法律家の育成も重要だ。そして何よりも、職場で、学校で、社会で、議会で、為政者の横暴に抵抗する運動がなくてはならない。日本国憲法施行から六〇年。この憲法を守り抜いた国民の力量に乾杯。そして、これを使いこなす国民の力量はこれからの課題」(澤藤統一郎・憲法日記から)。
そして、「騙まされず、怒り、そして抗う」(本誌「時評」・霍見芳浩)。
そんな一年に、ともに力を合わせて闘い抜こうではありませんか。
共に二〇〇一年初めに誕生したブッシュ大統領と小泉首相以来、米国では「米国を取り戻そう(ブッシュのネオ・コン国粋帝国主義から)」の草の根運動に参加し、日本人には「明日の日本を今のブッシュ米国にするな」と警告し続けて来た。米国では、やっと昨年一一月の中間選挙で民主党の上下院奪回となり、二〇〇七年一月の新議会から、ブッシュ内外暴政との対決と清算が始っている。このせいか、日本からのクリスマス・カードや年賀状には、「日本の民主党にも頑張って欲しいが」と書き添えたのが多かった。怒りと行動を忘れた自閉症的な他力本願の日本人が増えているのだろうか。これでは、ブッシュによる小泉・安倍日本の「植民地化」が深まるのも当然だろう。
二〇〇四年の大統領選挙でオハイオ州の得票をゴマカして再選したブッシュと共和党は、「俺達の一党独裁は永久に続く」と公言して来ていた。米国の民主党も日本の民主党のように萎縮していた。これを「闘う政党」として甦らせ、ブッシュの内外暴政を清算して米国民主主義を守れと立ち上ったのは全国津々浦々の無名の草の根市民達だった。ブッシュ政権誕生からの六年間、ブッシュ国粋神政帝国の実害を国民に知らせたのは大メディアでも、民主党でもなかった。
大メディアと民主党に権力批判と民主主義を守る良心はないのかと詰問し続けたのは、草の根国民の不屈の法廷闘争と街頭でのビラ捲き、デモ参加、地元タウン紙への投書、そして友人への口コミゲリラやミニ広報だった。これに共感した者がインターネットで自発的に広げ、及び腰だった民主党に活を入れた。彼等を鼓舞し続けたのは、全国各地の街角でブッシュのイラク侵攻以来、毎週土曜日の午前中、黙って手製の反戦プラカードを掲げ続けた人達だった。
ブッシュは米国の「自由、民主主義、基本的人権、法の支配」を意図的に破壊して、内政では、一九世紀の終りから続き、遂いに一九三〇年代の大恐慌を起した「成金横暴と不公正な格差社会」へと押し戻すネオ・コン革命に注力して来た。外政ではイラクの無期限占領、イラン攻撃準備と北朝鮮封じ込み、そして、ブッシュ帝国主義の賄い方として、小泉・竹中・奥田(トヨタ)の日本売却三人男を操り、国会ではなく、首相直轄の経済財政諮問会議を通じて郵貯と簡保の庶民の金融資産と企業の買い叩きの仕組みを押しつけてきた。
この間、日本の御用メディアや御用学者は米国による事実上の植民地化に気づかずに、「国鉄民営化は大成功」、「郵政民営化が日本を救う」、「株価が企業価値を決める」、「所得格差は勤労意欲を高めるから経済成長にプラス」そして「児童犯罪やいじめは教育基本法のせい」などのウソ八百を国民の意識に擦り込んだ。この結果、ブッシュ米国の惨状に似て、GDP(国民総生産)指数や兜町日経ダウは上っても、国民の九割の暮しは不安に晒され、膨大なワーキングプアの存在は国民間の反目を広げ、日本経済の長期成長力を削っている。
暴走する「醜い国」の清算には、米国の草の根市民に習って、「騙されず、怒り、そして抗う」を合言葉に、「小異を捨てて大同につく」だけの政治意識と行動が欠かせない。野党分立の愚を避けて、今夏の参院選挙で民主党に勝たせ、安倍政権をくじくのである。
御用メディアや御用学者に騙されない為にも、NHKの「受信料支払拒否」と大テレビのニュースとトーク番組の視聴を拒否する。また、ブッシュ米国と安倍日本の横暴に抗う証しとして、米国の品と金融サービス、そしてトヨタ自動車のボイコットを続ける。全国紙の代りに本誌や『週刊金曜日』の購読を友人や家族に勧奨する。そして、日本の惨状を知り、怒り、民主、社民、共産の各議員に対して、「国会無視でブッシュに隷属の経済財政諮問会議の廃止と米国の毎年の対日改革要望書の拒否を安倍政権に突きつけろ」とハッパを掛ける。ブッシュと安倍の不当な北朝鮮叩きにも抗う。
中澤先生のお名前は前々からよく聞いていた。椎名誠らの「怪しい探検書焉vの一員であるくせに、なぜか代々木病院の精神科部長、全然怪しくない。時々椎名誠のエッセイに登場する。どうも頼れる兄貴分というポジションにいるらしい。肩書きに精神科医に加えて「作家」とあるくらいで著作も多い。お会いしてみたいなあと常々思っていた。
年末のある日、突然、池田眞規先生から「この次のとっておきは中澤さんにしろ」とのお達しがあった。「原爆訴訟で彼の『被爆者の記憶に関する意見書』がすごい働きをしたのよ。面白いよ」だって。「オレが変なおばさんが行くと言っておくから」「中澤さんは皮肉屋だし、あんたもすぐ精神分析されるぞ」まあいいけどさ。とてもお忙しいって聞いているのに大丈夫かしら。すぐに池田先生が連絡、年明けの早々の土曜日の午後代々木病院で時間を取ってもらうことになった。シーンとした代々木病院、外来の診察室で先生のお話を伺うことになった。ロマンスグレイの癖毛がいい感じ、紺ブレとストライブのシャツ、ネクタイもおしゃれ。誰の趣味かしら。私が患者の椅子に座っていたせいか先生は皮肉など一言もおっしゃらない。
中澤先生は一九三七年群馬県渋川生まれ、群馬大学医学部を卒業後同大の講師を経て一九七九年「東京の真ん中、代々木病院の精神科部長」になった。九四年からみさと協立病院長、九七年には古巣の代々木病院精神科に戻っている。「怪しい探検隊」の兄貴も今年七〇歳、古稀を迎える。
中澤先生の実家は「村の鍛冶屋」。子供が八人、一人も欠けずに大きくなった。上四人が姉。先生は五番目の長男、下に弟と妹二人がいる。待ち望んでいた長男だった。父は貧乏人の子だくさんであったがとにかく「勉強しろ」が口癖だった。姉たちも優秀だった。とりわけ正夫君を「なんとしても医者にするんだ」と決め「老躯でハンマーをふるいながら、念仏のようにそう唱えていた」。正夫君が医学部に入学した時お父さんは正夫君に前橋の洋服屋さんで新しい学生服をあつらえ、入学式にともに出席した。正夫君の学校に来たのは後にも先にもこのときが初めてだった。しばらくして体調を崩し、正夫君が医者になったときはボケてしまっていてその報告にうなずくだけだった。弟も正夫君の後を追って群馬大学医学部に入り大学の教授になった(昨年退官)。父の願いは叶った。「姉たちが順番に家計を支えていた。そのおかげで僕らは医者になれたんだ」。
正夫君が精神医学に進むことになったのは学部で江熊要一助教授の最初の講義に感銘し、「精神科の完全開放病棟」を目指す情熱に打たれたからである。一九五九年当時のことである。きわめて革新的な考え方だった。その師は一九七四年一月新人医師の結婚披露宴で来賓祝辞一番手でスピーチ中、心筋梗塞で倒れ急死する。四九歳だった。隣席にいた中澤先生はショックで心臓神経症になる。そして後を継いだ前田進助教授も癌との壮絶な闘いをして四九歳で亡くなった。四九歳は中澤先生にとって鬼門となった。
一九七九年先生は請われて代々木病院に来る。あるべき医療の実践と後継者の育成、医療制度に対する闘い、中澤先生に課せられた課題は重たかった。自分の予想どおり「都会のリズムの速さや、新しい職場との関係、寄せられる期待の重圧」からストレス性の症状を起こす。「はじめは、前ぶれのない腹痛とひきつづく下痢である」。「下痢は時、所をえらばず起こった」。「もちろん、だれにも知らせず、新任の医師として颯爽として働いていた」。「いよいよ仕事をまかされて自分がのっぴきならないポジションにおかれていること、私が転職にかけた夢の実現の遠いことがはっきりわかってきた」。そして「胃痛」「鈍い痛みが絶えずあり」「そして夜など、突然激しい痛みに襲われるようになった」。「それはまわりに隠しておけるような程度のものではなかった」。「内科で見てもらったときはすでに胃壁に穴があいていた」。「ストレス性潰瘍」であった。
赴任して三年、今度は慢性の反応が現れる。「みるみる白髪が増えてきた」。そして四九歳が近づき先生は四九歳ノイローゼになる。「こう書いてくると私の病院が、えらくひどいところで、私はそこでドレイのように働かされていると思われては困る」。「病院はこれまで私が渡り歩いたどの病院より熱心な治療集団が揃っているし、私は好き勝手なことを言ったりやったりしている」。「医師集団の中で最も外れたことをやるのも私である」。「その私をしてストレス三段締めがおそうのである」。
中澤先生は精神科医、「治し人であり患者の悩みグチの聞き役でもある」。「患者もいろいろ、ストレスもいろいろ」。「精神的な病気は一生かかって直していくもの」そして社会で何とか支え合いながらそれなりに生きていくことだという。医療従事者や患者その家族そして心ある人びとの奮闘の甲斐なく、日本の精神医療の歩みは遅い。西欧では精神病棟の廃止、地域ケアーがはじまっている。中澤先生は治療の現場から離れず、たくさんの心ある若い精神科医を育て、制度の変革に力を尽くし続けている。
先生はストレスに弱いし、悩みも多い。「僕は自分が壊れないように工夫してきた」。まずはものを書くこと。書くためには興味を持ってよく見なければならない。よく考えなければならない。先生は書くことで精神のバランスを取ることになる。そして遊ぶ。これはいろいろと有名である。外国にも出かける。家でごろ寝をすることもある。「ジャーナリストや弁護士・学者などとサロン風勉強会もしています」なるほど知的なフィールドでの探検ですか。
弁護士の知人友人も多い先生に弁護士と依頼者の関係について聞いた。「弁護士はまずリクツで言い負かそうとする」。だって先生、依頼者にそうしなければ事件は解決しないんです。話をずーと聞いていてもどうにもならないんですよ。中澤先生そこでふんと笑って言う。「急ぎますよね」。えっ私たち弁護士はそうはいかないのです。解決しなきゃいけないんです。「ちょっと待て。言い負かさないで解決する」か。依頼者はどこで納得するんだろう。さすがに人間観察のベテランと感心する私でした。
この正月休みに先生は被爆者問題についてまとまったものを書くことになっていたのだそうです。近著は居住福祉ブックレット「精神科医がめざす近隣力再建」(東信堂)、子育て問題と絡めて分析が面白い。ますますさえる中澤先生なのです。
・中澤 正夫(なかざわ まさお)
1937年群馬県生れ。1962年群馬大学医学部卒業。現在、代々木病院精神科、被爆者中央相談所理事。主な著書「フツーの子の行方」(三五館)、「子どもの凶悪さのこころ分析」(講談社+α文庫)、「非効率主義宣言」「精神科研修の覚書」「精神保健と看護のための100か条」(萌文社)、「ストレス善玉論」(角川文庫)、「凹の時代」「他人の中のわたし」「死の育て方」(筑摩文庫)、「なにぶん老人は初めてなもので」(柏書房)、「分裂病の生活臨床」(正・続 創造出版・共著)、「治せる精神科との出会い方」(朝日新聞社)。