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 法と民主主義2007年10月号【422号】(目次と記事)


法と民主主義10月号表紙
特集T★「テロ対策特別措置法」延長・新法の制定をめぐって
特集にあたって……編集委員会
◆07年参議院選挙結果と改憲論議、「テロ特措法」延長問題の行方……小松 浩
◆役割終えた「テロ特措法」──洋上補給の意味は変化していた 〈インド洋ルポ〉……半田 滋
◆「テロ対策特別措置法」(報復戦争参加法)の国際法・憲法上の問題点……長澤 彰
特集U★南京事件70周年国際連続シンポジウムB「南京大虐殺」と「従軍慰安婦」問題─カナダ・トロントシンポジウムから
◆特集企画にあたって……南 典男
◆日本における南京事件論争の歴史……笠原十九司
◆日本における南京事件をめぐる訴訟について……尾山 宏
◆「慰安婦」訴訟で得られたものと残された課題──真の和解のために……大森典子
◆教科書問題をめぐる東アジアにおける国際対話……石山久男
  • シリーズ●若手研究者が読み解く○○法O「経済法」2005年独禁法大改正の影響と今後の動向……長谷河亜希子
  • 判決・ホットレポート●薬害C型肝炎訴訟仙台地裁:不正義判決………増田 祥
  • 司法書士からのメッセージS●市町村合併をめぐる住民投票と民主主義について………小儀 晃
  • とっておきの一枚●ジャーナリスト・元参議院議員 田 英夫氏……佐藤むつみ
  • 連載・軍隊のない国(21)●クック諸島……前田 朗
  • 夏期合宿特別報告●参議院選挙の結果で「憲法」はどうなるか……高田 健
  • 連続掲載■9条世界会議をめざして──B日の出る勢い? 日本の「平和」憲法改定……ケネス・ポート
  • 投稿●日赤に対する製造物責任追及訴訟の顛末……左近允寛久
  • 書評●中澤正夫著『ヒバクシャの心の傷を追って』……渡辺 脩
  • 時評●波瀾万丈国会へのご招待……松野信夫
  • KAZE●かぜとなりたや…日々の記抄……坂井興一

 
★「テロ対策特別措置法」延長・新法の制定をめぐって

特集にあたって
 参院選で自民党が大敗し安倍首相が政権を投げ出して、長く印象に残るであろう二〇〇七年の夏が終わった。
 この秋、「ねじれ国会」での最大の争点は「テロ対策特別措置法」の延長とこれに代わる新法の取扱いである。当然に、政治課題であるだけでなく憲法課題として注視せざるを得ない。
 同法は、9・11事件直後の〇一年一一月二日に公布され、同日施行となった。二年間の期限を区切った時限立法だったが、その後三度の延長を経た。現行法の付則は、「この法律は、施行の日から起算して六年を経過した日に、その効力を失う」「前項の規定にかかわらず、施行の日から起算して六年を経過する日以後においても同日から起算して二年以内の期間を定めて、その効力を延長することができる」となっている。
 国会が効力延長法案を成立させない限り、本年一一月一日に失効する。ときあたかも参院での与野党逆転の情勢である。時期の切迫は、既に特措法の延長を不可能としている。
 延長法案が期限切れで廃案となると、今国会の会期中は再議ができなくなる。そこで、別法案を提案して、新法を成立させる方途が検討されている。その内容は流動的で、先行きの予断を許さない。
 われわれの関心は、大きくは次元を異にする次の二点にある。
 一つは、テロ特措法が認める「 アメリカ合衆国その他の外国の軍隊の活動に対して我が国が実施する‥協力支援活動、捜索救助活動、被災民救援活動その他の必要な対応措置」それ自体が国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇にあたるのではないか、あるいは集団的自衛権の行使に該当して、憲法違反ではないかということ。
 もう一つは、テロ特措法に基づく派兵の実施に関してシビリアンコントロールや武器使用の抑制などの措置が厳格になされているかということ。
 なるほど、特措法には憲法に配慮したかと思しき規定が散見される。たとえば、次のように。
 「対応措置の実施は、武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない」(二条二項)。
 「対応措置については、我が国領域及び現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる地域において実施するものとする」(二条三項)
 また、 国連安保理決議を引いて、「我が国が国際的なテロリズムの防止及び根絶のための国際社会の取組に積極的かつ主体的に寄与する」ことが、「我が国を含む国際社会の平和及び安全の確保に資すること」(一条一項)。
 しかし、「外国の軍隊の活動に対する協力支援等」はそもそも日本国憲法の許すところではなく、国連決議によってもゆるがせにすることはできないというべきであろう。我が憲法は、そのような原則の遵守こそが国際平和に寄与するという選択をしているのだ。
 政府説明によれば、インド洋上で海上自衛隊の補給艦延べ二〇隻、護衛艦延べ三九隻が、米・パキスタン・仏・イタリア・英など一一カ国の艦船に、艦艇用燃料・水・艦艇搭載ヘリコプター用燃料を補給してきた。
 問題は、この補給が憲法上許容されるものとして継続しても良いのかということであって、安保理決議に根拠を置いたものであるか否かではない。新法の骨子が自衛隊の活動内容を「他国艦船への給油・給水」に限定し、新たな国連安保理決議を引用したとしても、その違憲性を払拭することにはならない。
 また、市民団体ピースデポの精力的な調査によって、自衛艦からの給油が間接的にイラク作戦に従事する米空母キティホークの活動に使われていることが判明した。外国軍隊の艦船への給油が武力行使と一線を画するというフィクションがもともと無理な理屈というべきである。
 この点、政権与党の対応を批判しなければならないことは当然として、民主党や小沢一郎氏の言説にもいささかの不安が残ることを指摘せざるをえない。インド洋上の対艦船給油には反対しながら、アフガニスタン国内で活動している国際治安支援部隊(ISAF)への参加は認めるということでは、憲法論上本末転倒も甚だしい。
 なお、現行テロ特措法は、次のようにそれなりのシビリアンコントロールへの配慮をしている。
 「内閣総理大臣は、基本計画に定められた自衛隊の部隊等が実施する協力支援活動、捜索救助活動又は被災民救援活動については、これらの対応措置を開始した日から二〇日以内に国会に付議して、これらの対応措置の実施につき国会の承認を求めなければならない」「政府は、前項の場合において不承認の議決があったときは、速やかに、当該協力支援活動、捜索救助活動又は被災民救援活動を終了させなければならない」(五条一項・二項)。
 一〇月上旬、各野党に示された新法の骨子案では、この国会承認条項は削除されていると報じられている。この点にも注目せざるを得ない。
 私たちは、明文改憲だけでなく、なし崩しの解釈改憲にも厳しく反対する。とりわけ、「テロとの戦い」「国際貢献」「国連の要請」等の美名によって、平和主義の原則を崩してはならないと考える。
 そのためにも、テロ特措法をめぐる自衛隊活動の実態や、国会情勢に目を光らせなければならない。
 事態流動化のなかではあるが、以上の問題関心で各論稿をお読みいただきたい。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●波瀾万丈国会へのご招待

(参議院議員民主党)松野信夫


 七月二九日に実施された参議院選挙は自民党の歴史的惨敗に終わった。注目された一人区は民主党の二三勝六敗であり、私も一人区の熊本選挙区で当選することができた。私自身は水俣病国賠訴訟弁護団の一員として裁判闘争を進める過程で、政治が良くならなければ公害問題や人権問題は解決しない、との思いが昂じて政治家への道を進むことになり、二〇〇三年一一月に衆議院総選挙で初当選した。〇五年九月の郵政解散総選挙で落選したが、今回の参院選で再び国会に戻ることになった。
 参院選への出馬表明をした三月時点では、正直言って当選は厳しいと思っていた。しかし、政治の世界はまさに一寸先は闇の世界で何が起こるかわからないとつくづく思う。年金問題、政治とカネ、大臣の失言などによる追い風が吹こうとは予想もしていなかった。追い風に加え国民の多くは安倍総理の国家主義的な色合いに不安や疑念を持っていたことも大きく影響したと思う。
 さて、当選後も政界はめまぐるしく動いた。安倍総理の続投表明にも驚いたが、さらに九月一〇日に所信表明演説をしておきながら一二日に突然辞意を表明することも全くの想定外であった。まさに波瀾万丈の政界である。こうした政局を面白がって選挙大好きというような政治家もいるが、私自身は政局よりも政策を着実に積み上げたいと願う方である。
 世の中全体も小泉政権以来、市場原理主義によって何でも競争という状況が作り出され、社会全体が過度な競争社会になりぎすぎすした感があるが、政界も同じようである。しかし、政界は国民の負託を受けて国民のための政治を行わなければならないから、どちらの政策が優れているか、どちらがより国民のためになるか、その意味では大いなる競争をしなければならない。
 政党にしても国会議員にしても、ある意味では強力な権力を持っているわけであるから、例えて言うならば、中小企業や個人自営業者ではなく、東芝と日立の競争のようなものである。だからこそ競争原理主義でもかまわないであろう。
 臨時国会でも、テロ特措法延長に代わる新法案、年金保険料流用禁止法案、障害者自立支援法改正案、政治資金規正法改正案、肝炎対策緊急措置法案など重要法案が目白押しである。それぞれの法案では与党案、野党案が提示されるから、どちらがより優れているか、より多くの国民のハートを掴むことが出来るか、これは競争であり、こうした競争ならば大いにやらなければならない。
 ただし、弁護士出身者からみると、法曹界では事実と理屈で勝負できるのであるが、政界ではかなり異なる。政界でも、事実と理屈が大きなウエイトを占めるが、それ以外にもパフォーマンスが上手か、より多数を結集できるか、いわば声が大きいかなどという要素で勝負がなされるので、事はそう単純ではないし、戸惑うこともしばしばである。しかし、何と言っても、裁判の世界と同様に事実こそ一番の力であることも実感している。だからこそ国会内でいざ論争になったときに、具体的にどれだけの事実を突きつけられるかが大きな勝負の分かれ目だ。その意味では、弁護士としての経験を活かして、証拠に基づく事実を元に、責任を追及したり、より公正、公平な制度設計を求める姿勢こそ必須である。是非とも多くの弁護士が政界に進出して、単なるパフォーマンスではなく本当に国民の期待に応える政策を打ち出せるようなことを願うばかりである。
 これまで参議院はともすれば衆議院のコピーではないかとも言われたり、中には不要論まであったが、いまや与野党逆転を受けて注目の的になっている。テロ特措延長問題をはじめ前記対決法案は参議院先議であり、攻防の主戦場になるから、是非ご注目いただきたい。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

「戦争をしない国」日本

ジャーナリスト:田 英夫
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1945年5月頃。震洋特攻隊訓練時代、嬉野温泉写真館にて。

 田英夫さんは一九二三年生まれ。今年八四才になった。二〇〇五年、突然脳内出血で体が動かなくなり、大好きなスキーやゴルフができなくなったと嘆く。
 共同通信の記者として大活躍、TBSのニュースキャスターとしてテレビ報道に専念、政府自民党の圧力によって活躍の場を奪われ、政治の世界に。一九七一年参議院全国区トップ当選、その後六期三四年間、参議院員議員として活動を続けた。今期で議員は引退。外交問題を中心にぶれない自分の軸足で「平和」を唱え続けてきたリベラル派である。
 長く政治家の活動を続けてきたのに、田さんはいつまでも品のよいジャーナリストである。事実を現場で見て人に伝える。歴史のひとこまひとこまを曇りなく鋭く伝えるのがジャーナリストの仕事である。時の権力に屈しない強靱な批判精神が、おしゃれで育ちのよい自由な人格につつまれているのである。
 「いつもすてきですね」とミーハーな私に、同行した秘書の片山さんが「そうなんです。全部ご自分でコーディネイトなさるんです」えっ、ニュースキャスター時代からですか。「ゴルフに行かれるときでも全部ご自分でなさいます。海軍で鍛えられたからきちんとたたんで」田さんすかさず「女房なんかにまかせられません」
 田さんは東京世田谷で生まれた。祖父田健治郎は貴族院議員、台湾総督などを勤めた。父誠は鉄道省の官僚だった。姉と二つ違いの兄がいる。一九三〇年に小学校に入学。小学校から高校まで学習院育ちである。「私が学校に上がるたびに戦争が拡大していく」時代だった。大正デモクラシー育ちの「私の両親は当時としてはめずらしいくらいのリベラリストでした。当時の軍隊はもちろん、政治などに批判を持っていました。そして戦争にたいしても強い批判を持っていました」が「私のほうは軍国少年になっていました」
 一九三二年5・15事件の時は英夫君は小学3年生、つきあいのあった「犬養のおじいちゃんが殺された」事件だった。一九三六年2・26事件の時は英夫君六年生。通学の時「ランドセルをしょって、一人で溜池の都電の停留所で電車を待っていたら、赤坂見附のほうから虎ノ門のほうへ馬に乗って抜刀した兵隊が二人、ものすごい勢いで雪の中を走って行きました。なんだろうと思って、赤坂見附のほうへ電車で行ったところ、当時『幸楽』という料亭があって、いわゆる反乱軍がそこを占拠して、本部にしていたのです。そこから伝令が飛んでいった光景」でした。初等科全員が早退となった後、仲間数人で学習院の裏にある殺された斉藤内大臣宅を探索に出かけた。英夫少年はそれでも足りずに、帰りにはわざわざ別の都電に乗って高橋是清大蔵大臣宅を電車からのぞいて帰ったという。
 その年の四月英夫少年は中等科に進学。その翌年が蘆溝橋事件。運動が得意だった英夫君は「勉強と同時に陸上競技に熱中」していた。俊足だった。「飛び級」を進められたり「おまえは一高を受けないのか」などといわれていた英夫君だがとにかく一九四一年高等科に進学する。とその年太平洋戦争が始まってしまう。そんななかで英夫君の当時の目標は大学に入ることだった。戦争は拡大し高等学校は二年半に短縮され英夫青年は一九四三年七月に生まれて初めて受験をする。
 第一希望だった東京帝国大学の経済学部に合格、九月卒業、一〇月に入学となる。「軍靴の足音」に慣れっこになっていた英夫君も友人たちもまさか大学に入学してすぐに学徒動員になることなど思いもせずにいた。「人生の輝ける時期を謳歌しようと考えていたのに」
 英夫青年は、一〇月一日大学に入学、二一日には本籍地のある神戸まで徴兵検査に行くことになる。もちろん甲種合格。入営は一二月八日、終戦まで二一ヶ月、英夫青年の死と隣り合わせの海軍生活が始まる。まずは二ヶ月の二等水兵の訓練。この時英夫青年は目が悪く飛行予備学生に選ばれなかった。「戦闘機に乗っていたら生きていなかった」。
 一九四四年二月に横須賀の武山海兵団に三〇〇〇人の学徒動員兵は集められる。そして「ひたすら肉体を鍛え、精神をきたえる」過酷な訓練が始まった。英夫青年はスポーツ鍛えていた体が幸いして何とか乗り切ることができた。基礎訓練が終わる一九四四年五月、悲惨な「一〇キロ武装駆け足」が隊伍を組んで落伍者が出ないように競争する方法で行われた。三〇〇〇人のうち三〇〇人が途中で倒れ、三人か四人が死亡。「帯剣で自分の腹を切った人もいた」この駆け足がもとで戦病死したものもいた。家族との面会も厳しく制限され半年の訓練中一回逗子の海岸で許されただけだった。英夫青年はたまたま葉山の父の別荘が海軍のクラブに指定されていたので自由に家に帰って両親と会える状態だった。
 六月に訓練が終わって英夫青年は横須賀の航海学校に行くことになる。軍艦の航海士になるための学校だった。一九四四年一〇月一八日、突然全員が集められ特別攻撃隊員の募集が行われた。四〇〇名の予備学生と予備生徒は「死の決意」を迫られることになった。英夫青年は「お国のために命を捧げよ」と言う声と、「生きていたい」という心の中の叫びとのあいだの苦悩の中で志願しなかった。四〇名が志願してすぐに赴任した。内心忸怩たる思いのなか、残った者も「死を選択する方向にさらに一歩進」むことになる。
 四四年の一二月英夫青年は海軍少尉となり選択の余地無く震洋特攻隊に配属される。二〇名の士官とともに大村湾の川棚魚雷艇訓練所で特攻の訓練を受け、その後、新たに部隊を編成することになっていた。「震洋艇はだいたい二七、八ノットぐらい出るモーターボートのような船」舳先に三〇〇キロの爆薬を積んでいる。三月の初めまで「自分たちが死ぬ棺桶」震洋艇で特攻の訓練を続けた。その後部隊に別れ、二二才の田少尉はナンバーツーとして五〇人の予科練搭乗員を指揮し、宮崎県の赤水に基地を作ることになる。二五隻の艇を使って特攻するために毎日訓練をくり返した。部隊二〇〇名うち五〇名は特攻隊としてともに死んでいくのである。死を覚悟した不思議な時間だった。一九四五年八月四日「爆装せよ」との命令が出る。いつでも出撃できる状態で宮崎に敵の上陸用舟艇が現れるのを息を詰めて待っていた。
 八月一五日突然の終戦。全員死なずに終わった。すべて偶然であった。三〇〇〇名の海軍学徒同期で生き残れたのはわずかである。死んでいった戦友たちの「無念の思い」が田さんの戦後の生き方の原点である。
 近著は「特攻隊と憲法九条」新書版。自らの戦争体験の語り部として日本がなぜ「戦争をしない国」になったかを若い世代に伝えなければ。こんな国になったのは戦争を語り続けなかった自分たちの責任だと田さんは言うのである。日本を「戦争のできる」国にしてはならない。
 「ほんとうに怖いことは、最初、人気者の顔をしてやってくる」

・田 英夫(でん ひでお)
1923年東京生れ。43年学徒出陣。47年東京大学経済学部卒業後、共同通信社に入社。62年TBS「ニュースコープ」のキャスターとなりTBS入社。68年ベトナム戦争報道「ハノイ・田英夫の証言」で政治的圧力によりキャスターを解任。70年同社退社。71年参議院全国区(日本社会党)でトップ当選。2007年に引退。著書「ハノイの微笑」・「真実とはなにか」・「草の根核軍縮」等。


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