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 法と民主主義2008年8・9月号【431号】(目次と記事)


法と民主主義2008年8・9月号表紙
特集★自衛隊イラク派兵違憲判決をどう生かすか
特集にあたって……編集委員会
◆恒久派兵法の問題点と自衛隊イラク派兵違憲判決の意義……内藤 功
◆事実に基づいた論証の勝利──自衛隊イラク派兵差止名古屋高裁判決……田巻紘子
◆いわゆる「傍論」について……北野弘久
◆政府の9条解釈の歪みを浮きぼりにした名古屋高裁判決の「武力の行使」論……小沢隆一
◆「憲法9条1項」に踏み込んだ名古屋高裁判決……西川重則
◆自衛隊イラク派遣名古屋高裁判決の思想的意義──平和的生存権の新たな展開をめざして……横田 力
◆私の考える平和へのグランドデザイン(4)判決の今日的意義と平和憲法のグランド・デザイン……深瀬忠一
資料■自衛隊のイラク派兵差止等請求控訴事件・名古屋高等裁判所判決全文
資料■自衛隊イラク派遣・名古屋高裁違憲判決に対する新聞論調……丸山重威
  • シリーズ1●私の原点──若手弁護士が聴く 弁護士 豊田誠先生 薬害スモン訴訟……聴き手・安孫子理良
  • 特別寄稿●激動の六年余、道は半ば──中国残留日本人孤児の国家賠償訴訟、新たな支援策、そして現状……浅野慎一
  • 判決・ホットレポート● 生活保護制度を理解しない不当判決─生存権裁判東京判決……田見秀
  • 判決・ホットレポート● 布川事件、東京高裁決定の意義と特別抗告の不正義……井浦謙二
  • とっておきの一枚●弁護士 東中光雄先生……佐藤むつみ
  • 税理士の目(16)●後期高齢者医療制度と税金問題……奥津年弘
  • 時を読む●核戦争から我々が生き残るためにモデル核兵器廃絶条約案を活用しよう……池田眞規
  • 時を読む●モデル核兵器条約の概要、特徴そして課題……山田寿則
  • 文献紹介●杉原泰雄編「新版 体系憲法事典」……浦田一郎
  • 日民協・文芸●〈玖〉
  • 時事評論●狙いに「総裁選キャンペーン」 繰り返された政権投げ出し……丸山重威
  • 時評●米4政治家の核廃絶提言を読む──世界の世論は、どうなっているか?……浦田賢治
  • KAZE●裁判員制度の問題点について法律家団体としての意見表明を……海部幸造

 
★自衛隊イラク派兵違憲判決をどう生かすか

特集にあたって
 九月一日、福田康夫首相が唐突に辞意を表明した。安倍晋三前首相がその職を投げ出したのが昨年の九月一二日。福田政権発足から一年に満たない。二代続いての首相の政権投げ出しは醜態というほかはない。いずれのできごとも、一見あり得ないことのごとくでありながら、実は現政権の矛盾の深まりが招いたものである。
 自公連立政権への国民の支持率低下は覆うべくもないが、その政権は財界とアメリカの縛りの枠から逃れることができず、国民本位の政策に転換することができない。その象徴が、イラク・アフガニスタン戦争協力問題である。
 安倍辞任は〇七年七月の参院選大敗が招いた。ねじれ現象下の臨時国会乗り切りに自信をなくした安倍は、敵前逃亡のタイミングで職を投げ出した。言うまでもなく、臨時国会最大の課題は一一月一日に期限切れとなる「テロ対策特措法」の取扱いだった。「自分の力では、対米公約であるインド洋給油継続が実現できない」、これが首相辞職の直接の動機となった。日本の為政者にとって、戦争協力の対米公約は「職を賭す」べき重みをもつものなのだ。
 その後始末を引き受けた福田は、旧テロ対策特措法の延長をあきらめ、一年の限時法である補給支援特措法(新給油法)案を国会に提出、〇八年一月参院で否決されながらも五七年ぶりの衆院の再可決によってかろうじて成立に漕ぎつけた。
 そして今また、福田に新給油法延長の課題が重くのしかかってきている。国民世論は我に利あらずと、公明は衆院再可決の強行に難色と報じられている。
 さらに、イラク復興支援特別措置法に基づいてイラクに派遣している航空自衛隊部隊の活動継続が困難という問題も抱えている。イラクにおける多国籍軍の活動を容認する国連安保理決議が今年一二月に期限切れになり、自衛隊のイラク派兵継続のためには日本が年内にマリキ政権と地位協定(条約)を結ぶ必要があるところ、現在の国会情勢ではその批准は困難という事情がある。
 こうして、〇八年九月の臨時国会における最大課題も、昨年と同様に海外派兵・対米協力法案の取扱いとなった。この課題を乗り切る自信を失って、福田も職を投げ出した。
 誰が首班となるにせよ、新政権のもとイラク・アフガニスタンでの米国の戦争への協力法案の扱いが大きな問題となってくる。さらに、限時の特措法ではなく、海外派兵を合法化する恒久立法の動きが急となってくるだろう。
 私たちは、一切の戦争協力拒否こそが日本国憲法の理念とするところであることを強く訴えなければならない。この立場は、いま国民世論の強い支持を得てもいる。
 本年四月一七日、名古屋高等裁判所が、イラクで活動する航空自衛隊の空輸活動は米軍と一体の「武力の行使」にあたり、憲法九条一項に反するという画期的な違憲判決を下した。そして、平和的生存権の権利性について、踏み込んだ判断を示した。いま、その意義は極めて大きい。
 本号はこの判決の特集である。違憲判決獲得までの運動と法廷活動を学び、あらゆる面からこの判決を分析し、さらに、この判決を現実の平和獲得にどう生かすか役立てるか、その議論の出発点としていただきたい。
 思いがけずに、自衛隊イラク派兵違憲判決が提起する問題点が政権を揺るがす時期と重なった。読者の関心も高いものと思われる。資料の掲載にもページを割いている。ぜひ、ご活用いただきたい。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●米4政治家の核廃絶提言を読む──世界の世論は、どうなっているか?

(早稲田大学名誉教授)浦田賢治


 1 核廃絶に向かう世界の動向と世論は、どうなっているのか。例えば原水爆禁止世界大会(原水協系)の初日(八月二日)国際会議で、登壇した約二〇人のうち八人が、アメリカの元老級四政治家の核廃絶提言に言及した。「国際世論が大きく動き始めている」と評価された。そう言えるかもしれない。だがこの提言の意味が、正確にしかも深く理解されたうえでの評価だろうか。この核廃絶提言の意味するものを検討し、見解を述べてみたい。
 2 アメリカの元老級四政治家とは、ジョージ・シュルツ、ヘンリー・キッシンジャー、ウイリアム・ペリー、およびサム・ナンである。共和・民主両党から、それぞれ二名出ている。「冷戦下の核態勢」は、核兵器国と非核兵器国の安全保障をいずれも脅かしている。これが彼らの基本認識である。そこで完全核軍縮を達成し、かつ核の国際危機を回避するために必要な、次の措置あるいは段階を提起している。
 まずもって「冷戦下の核態勢」を変革する@、次に現存する核戦力を削減するA、さらに、前線配備の短距離核兵器を廃絶するB、この三つである。また他方、米上院が包括的核実験禁止条約(CTBT)を批准するC、米と他の「基軸国家」が核兵器庫と兵器級プルトニュームおよび高濃縮ウラン(HEU)の安全を確保するD。この二つが加わる。
 3 すでにシュルツとサム・ナンらは、行動を起こしている。しかも核兵器と核燃料サイクルを結びつけて問題にしている。例えば、核廃絶を目指す彼らの三回目の会議(二月、オスロでノルウェー外務省主催)には、イスラエルを含む核兵器国すべての参加があった。帰国後三月、シュルツは、インタビューに応えて、次のように述べた。「冷戦終結後、少なからぬ国が核兵器を取得しており、またその他の国も核兵器を持つことを切望している。……もし原子力発電所が地球上に広まると──地球温暖化が進むことに人々が心配しているように、──その際、核燃料サイクルの問題が出現する。これらの事柄はみな一体となって、あなたを不穏な感情にさせるにちがいない」。
 だから、シュルツらの提言は次の点に及ぶ。E核エネルギー供給グループ(NSG)および国際原子力機関(IAEA)が、ウラン供給を管理し制限し、およびその濃縮を専ら民間使用に限るように国際的に管理し制限する。F計画の最終目標は、高濃縮ウラン(HEU)の民間商業取引を段階的に廃止し、研究施設で使われる兵器使用可能なウランを安全にすることである。(いまNPT体制を破壊する米印協定とNSGの変容については、紙数の制約上、立ち入らない)最後に、G核拡散の起動力となる地域紛争を解決する努力を倍増する。こうして核廃絶提言は、八つの措置・段階を呼びかけている。
 日本政府と外務省の高官は、この八提言を支持する姿勢をまだ示していないようだ。
 4 この核廃絶提言が、次の米大統領の核政策に良い影響を及ぼすかどうか。消極説が有力である(例、ジョセフ・ガーソンやブルース・ケント)。だが他方、ワシントンで廃絶シナリオの検討も始まったようだ(「スティムソン・センター」)。
 現実世界では、年毎に、核兵器はその保有者の安全を削減する一方、その危険を増大させている。核兵器の保有は核拡散を促進している。浦田賢治編訳『地球の生き残り─「解説」モデル核兵器条約』(日本評論社、二〇〇八)を参照。
 このサイクルを打ち破るため必要な措置は、核兵器を持つ国と持たない国に関する二重基準を、単純な一つの基準でもって置き換えることである。第一歩をふみだすのは核兵器国の意思にかかっている。人類自身を破滅から救おうとする人類の団結した意思、これが考慮に入れるべきひとつの力であるだろう(ジョナサン・シェル)。私はこの判断が正しいと思っている。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

おっちゃんが東中か 「そや」

元東京家裁調査官:浅川道雄先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1956年2月。インドの空港。左から東中光雄

 新大阪のホームにおりると足元からむっと暑さが上がってくる。湿気のある蒸し暑さが大阪中を覆っているようだった。東中先生のお宅の最寄り駅は谷町線の野江内代。「のえうちんだい」何度聞いても不思議な地名だった。駅の出口の隣に榎並小学校、道路の向こうの出口はローソンの裏。出ると角にたこ焼き屋が元気に店を出している。小路を曲がりながら東中宅を発見する。夏祭りの囃子の音が熱い風に乗ってくる。
 上に一人娘佐智子さん一家が住む二世帯住宅である。にこにこしながら先生が玄関先に登場する。歌舞伎役者のような舞台映えのする大作りな顔立ちである。誰と並んでも負けない顔立ちは長い国会議員生活で磨きがかかった。演説も国会質問もいけていたと思う。一九二四年生まれだから今年で八四才になる。激務の議員時代から歩く健康法で足腰も丈夫。何しろ議員会館宿舎の階段(六階)を歩くことを日課としていた。
 「大正生まれの男性としては最高の人だと思います」という伴侶の昭代さんが煎れてくれた冷たい緑茶で一息つきながらインタビューが始まった。先生の書斎には古い大きな机がある。その右袖の一番下の引き出しに先生の戦後の思索の原点、「開世録」と題した終戦当時の日記がつまっている。日記は書かれてから戦後六〇年ずっとそこある。生き残った二一才のゼロ戦特攻隊長光雄青年がよみがえった。
 東中先生は奈良県生駒郡都跡村に生まれた。兄弟姉妹八人下から三番目の次男坊である。「若草山や春日山の丘陵をのぞむ美しい自然に囲まれた静かなところです。家は貧しい農家でした。ノートや鉛筆を買うためにイナゴとりや玉子売りに行きました」。子どもたちもみんな大事な労働力、手伝いをしながら光雄君はいつの間にか足腰の丈夫な少年になった。父親は「日露戦争に従軍した傷痍軍人で『軍隊はとてもよい所だ』と自慢してました」当時は戦争一色の時代、「戦勝の華やかな提灯行列がよく行われたものです」。体も丈夫で勉強もよくできた光雄君は担任の先生の強いすすめで、傷痍軍人の師弟に給付される奨学金をもらい、旧制郡山中学に進学する。自転車で夜間の電報配達をやりながらの進学だった。
 夢は軍人「東郷元帥のようになりたい」と思い海軍兵学校を受験、一九四一年一二月に江田島へ。「郡山中学としては、在学中の海兵合格は絶えて久しいということで、学校あげての祝福を受け送り出されました」。「命を捨てて国を守るの精神のもとに、毎日毎日が訓練、学習の連続」。運動能力抜群の光雄君は「ただ夢中で訓練を受けました」。二年四ヶ月後光雄君は海兵を卒業し飛行学生になり、戦闘機操縦訓練を受け「ゼロ戦」乗りになった。一九四五年三月「弱冠二〇歳で海軍中尉、霞ヶ浦航空隊の操縦教官になった」。しかし、この年四月、米軍は沖縄に上陸、六月全島を占領。次は本土上陸をねらう勢いだった。光雄中尉も六月、特攻隊を志願する。その任務は米軍の本土上陸を阻止するために「日本沿岸に近づいた艦に爆弾を抱いたゼロ戦で、身体もろとも突込むものです」。突込む前に撃墜されないようにする命がけの訓練、訓練中に亡くなった人もいた。光雄君は隊長として自機のほか四機編隊六隊二四名を束ねていた。決死の覚悟でいたが千歳基地で八月一五日を迎え、終戦の「玉音」をラジオで聞いた。そこにあったゼロ戦で千歳基地から茨城の矢田部基地へ飛び、奈良の生家に一週間後にはもどった。二一才であった。
 「私はひと足ちがいで生き残りましたが、何の疑問も抱かずに散っていった同僚や後輩たちを思うと、今も胸が締め付けられるのです」。「オレは何のために戦ってきたのか」「敗戦の責任を強く感じると共に、生きがいが根底からゆらぎ始めたのです」。深い虚無の深淵に居た。
 先生の書斎に大きな風景画が掛けてある。故郷奈良の春日山のやさしい風景がそこから部屋いっぱいに広がっている。国民救援会のバザーで一目で気に入って買い求めたのだという。先生はこの地で癒されたにちがいない。一九四六年三月光雄青年は同志社大学政治学科に入学する。政治と社会について徹底的に学ぶ覚悟だった。あらゆる講義を聴きあさり手当たり次第本も読んだ。当時学長は田畑忍。徹底した平和主義者である。光雄君は憲法田畑ゼミである。さて将来はと考えたとき、職業軍人だった光雄君はF項パージで教師やジャーナリストにはなれなかった。弁護士の道しかない。田畑先生は「よく勉強すれば必ず通ります。よくやらなければ必ず落ちます」。その通り。よく勉強して光雄青年は在学中の一九四八年高文司法科試験に合格、そうそうたる面々の三期となる。
 時は一九五〇年代の騒然とした世の中。揺るぎない思いを持った東中先生は大阪で言論弾圧事件、吹田、牧方など反戦デモ弾圧事件、借地借家事件まで担当し、何百人もの逮捕者の弁護ために法廷から法廷と走りまわることになる。一九五四年には東中法律事務所を開設、労働事件も引き受けることになる。関わった事件は国鉄、全逓、教組等々六〇〇〇件に及ぶという。言論弾圧の大事件も抱えてである。一九五六年、頑強な先生もあまりのオーバーワークで「急性肋膜炎」に罹患する。絶対安静の闘病生活を命じられるが「私の闘病生活は三ヶ月も続きませんでした」。全逓労組の闘争が激化、幹部メンバーが逮捕された。「たとえ病気の身の上であっても弾圧を黙って見過ごすわけにはいかず」病院を飛び出してしまう。「闘いが一段落し、病院へ恐る恐る行ってみると、病気はフシギによくなっていた」また目の回るような忙しい日々が続く。そして弁護士生活一八年間、東中先生は幅広く超人的な仕事をこなしていく。
 一九六九年、先生は大阪二区選出の共産党衆議院議員となる。以来一〇期連続当選。憲法を自らの血肉として徹底的に一歩も引かず悪政を追及し続けた見事な三一年であった。先生は「人も知る剛直の士です。直線の持つあの強さです」(毛利与一)。そして家では「生まれてこのかた私は父の不きげんな時を知りません」「たまに家にいるときは母と母方の祖母と私を笑いの渦にまきこみます」「おはこは炭坑節と河内音頭」と言っていた娘の佐智子さんは婦人科の医師。妻からも娘からも評価が高い。
 議員を辞めて事務所に戻った先生。「日本のゆくえが気になります。国のゆくえに危うさを感じるのです」。戦争を知らない私たちの危うさでしょうか。

・東中光雄(ひがしなか みつお)
1924年、奈良で誕生
1946年、同志社大学政治学科入学
1951年、弁護士登録
1969年、日本共産党衆議院議員初当選、以来10回連続当選。著書、「偽りのパートナーシップ─日米安保…時々刻々」「新ガイドラインと日本国憲法─国会論戦」(いずれも清風堂書店)等々


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