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 法と民主主義2009年2・3月号【436号】(目次と記事)


法と民主主義2009年2・3月号表紙
特集★日本の人権状況を検証する──自由権規約委員会の最終見解をどう活かすか
特集にあたって……編集委員会
◆総括所見への経緯と概観──裁判官等に対する人権教育と個人通報制度をめぐって……鈴木亜英
◆日本の法秩序における自由権規約の効力と適用……西片聡哉
◆人権国家モデルは人権制約条件を乗り越える──総括所見を活用して……新倉 修
◆冤罪の温床・代用監獄制度に明確な廃止勧告……田鎖麻衣子
◆死刑廃止は世界の流れ……小川原優之
◆戸別訪問禁止は許されない──公選法・大石事件……河野善一郎
◆ビラ配布は犯罪ではない──葛飾ビラ配布弾圧事件……荒川庸生
◆「法的責任」を認めよ──日本軍性奴隷制(「慰安婦」)問題……大森典子
◆自由権規約を武器に──日の丸・君が代強制批判……彦坂敏之
◆人権教育の充実を……渡邊 弘
◆総括所見に魂を吹き込む実践を……伊賀カズミ
  • シリーズ6●私の原点 若手弁護士が聴く 弁護士 児玉勇二先生 子ども・障害者の人権保障……聴き手・小川杏子/田所良平
  • 司法改革への私の直言●裁判を「復讐ショー」にしてはならない─法廷での映像使用に問題はないのか……丸山重威
  • 司法改革への私の直言●裁判員制度「死刑・無期刑」は当面実施延期を……毛利正道
  • とっておきの一枚●ジャーナリスト 原 寿雄先生……佐藤むつみ
  • 税理士の目(17)●今後の税制の動き……田村 淳
  • 司法書士からのメッセージ●(28)犯罪収益移転防止法、その後の動向………古根村博和
  • 新掲載●刑事法の脱構築2 司法機能の強化について考える……春日 勉
  • 追悼●中田直人日本民主法律家協会理事長ご逝去……新井 章/谷萩陽一
  • 日民協文芸●(拾四)
  • 国会傍聴記(4)●武力の行使に道を開く予算委員会の今を問う……西川重則
  • 書評●吉岡一著『イラク崩壊』(合同出版)……鍋谷健一
  • 書評●スティへヴン・A.ドリズィン、リチャード・A.レオ著/伊藤和子訳『なぜ無実の人が自白するのか』(日本評論社)……庭山英雄
  • インフォメーション
  • 時評●自衛隊の武器使用緩和・派兵恒久法制定を目指すソマリア「海賊新法」……内藤光博
  • KAZE●「派遣切り」という人災に未曾有の被害者……安孫子理良

 
★日本の人権状況を検証する ──自由権規約委員会の最終見解をどう活かすか

特集にあたって


◆特集にあたって─────────────────────────────

 締約各国の人権状況審査を任務とする自由権規約委員会は、日本政府の第五回定期報告についての審査を終え、二〇〇八年一〇月三〇日に最終見解を公表しました。
 本来締約国政府には五年ごとの定期報告が義務づけられていますが、日本政府の今回の報告書提出は大幅に遅れ、第四回報告一九九八年以来実に一〇年ぶりの審査となりました。

 同見解は、「日本国政府の第四回定期報告の審査後の見解において委員会が日本国政府に発出した勧告の多くが、その後日本国政府によって履行されていないことに懸念を表明する」と指摘し、国際水準から日本政府の人権問題への取り組みの弱さを厳しく批判するトーンで貫かれています。

 同見解は、日本政府の男女平等やDVに関するいくつかの施策、国際刑事裁判所への加入などを「肯定的側面」として評価をしています。
 しかし、大きく紙幅を割いているのは ヲ実効性のある国内人権機関の設置 ァ「公共の福祉」概念の明確化 ィ国内裁判における規約の活用 ゥ規約に基づく裁判官等の人権教育の徹底 ェ第一選択議定書(個人通報制度)の批准促進 ォ両性平等と女性の社会進出 ャ死刑制度の廃止と運用面における人道配慮 ュ刑事手続きにおける諸原則の尊重(代用監獄の廃止、無罪推定原則の徹底、自白の偏重と科学捜査の軽視、取調べ可視化、取調べの弁護人立会等) ョ戸籍、相続等における差別禁止 ッ家族、プライバシーの保護 ー思想信条、言論表現の自由 ア様々な差別的取扱いの禁止等々の「主な懸念事項及び勧告」についてであって、詳細多岐にわたって二九項目の具体的な問題点の指摘と改善勧告が明記されています。改めて、国際水準から見た日本の人権状況について検証せざるを得ません。

 同見解を紹介し検討することは、必ずしも日本の法律家に認識十分とは言えない人権の国際水準を再認識するよい機会だと思われます。また、指摘された懸念を改善し、政府に勧告を実施させるために何をなすべきか、を論じる第一歩でもあります。
 さらに、日本が批准して以来、自由権規約は国内実定法としての効力をもっているのですから、訴訟実務においても重要な役割を果たしうるものと考えられます。その先駆的な実践例についての経験交流や、活用の工夫についての意見交換が重要なものとなっています。
 そのような問題意識から、今号は自由権規約委員会最終見解をめぐる特集を組みました。

 国際人権活動日本委員会議長の鈴木亜英弁護士には最終見解に至る経緯及びその内容の概観について、京都学園大学の西片聡哉先生には自由人権規約の国内実定法的効力について、青山大学の新倉修先生には国際水準における「公共の福祉」概念の明確化と国際的連帯行動の必要性について、それぞれ論稿をいただきました。
 そして、自由権規約活用の具体的実践について、諸活動や事件の現場から、貴重な経験をお寄せいただきました。
 日本の人権状況を検証し改善するために、ぜひ本特集をご活用ください。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●自衛隊の武器使用緩和・派兵恒久法 制定を目指すソマリア「海賊新法」

(専修大学法学部教授)内藤光博


1 ソマリアへの自衛隊派兵問題
 現在、アフリカのソマリア沖海賊対策のために、海上自衛隊の派兵といわゆる「海賊新法」の制定が、進みつつある。
 国際法では、「海賊」は「人類普遍の敵」とされてきた。国連海洋法条約では、すべての国に、公海上の海賊船舶と海賊航空機に対して拿捕・逮捕又は押収・起訴・処罰の権限を与えている(同条約一〇五条)。
 国連安保理は、ソマリア沖海賊問題について、〇八年六月に、国連加盟国に対し、海賊対策を採ることを要請する決議を採択した(決議一八一六号)。また一〇月には、海洋活動の安全保障に関心を持っている国連加盟国が、軍艦や軍用航空機を派遣し、必要な措置をとることを要請する決議(決議一八三八号)を採択し、さらに一二月には、国連加盟国が、ソマリア領土内で海賊制圧のための活動を認める決議も採択した(決議一八五一号)。
 日本政府は、こうしたソマリア沖海賊対策にあたり、第一に、応急措置として、自衛隊法八二条の「海上警備行動」に基づき、本年三月に護衛艦二隻を派遣することを決定した。その際、海賊に対する自衛官の武器使用については、自衛隊法九三条一項の規定に基づき、警察官職務執行法七条を準用(正当防衛・緊急避難の場合の武器使用)すること、それとともに停戦目的のために海賊からの発砲前に海賊船に「危害射撃」を行うことを可能とする新解釈を示した。
 第二に、海賊対策のための新法の制定である。三月四日には、海賊対策を検討していた与党のプロジェクトチーム(PT)は、「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律案」(海賊新法)の骨子を提示し、三月一三日には閣議決定され、今国会に上程されようとしている。
2 与党PT「海賊新法」骨子の内容
 与党のPTによる「海賊新法」の骨子の主要な内容は、次のようなものだ。
 第一に、主として海上保安庁が海賊対策にあたるものとし、防衛大臣は、海賊対策のために「特別の必要」がある場合に、内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊に「必要な行動」(骨子では「海賊対処行動」とよぶ)をとることを命ずることができるとする。
 第二に、海賊新法は、地域を限定した時限立法のような特別法ではなく、一般法(恒久法)とする。
 第三に、外国船舶を含むすべての船舶に拡大する。
 第四に、自衛官の武器使用については、警察官職務執行法七条による武器使用のほか、海賊が制止に従わなかった場合、「他に手段がないと信ずるに足りる相当な理由のあるときには、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる」とする。
3 与党PT骨子の問題点
 この与党の「海賊新法」骨子には、憲法九条から見て、次のような問題がある。
(1) 自衛隊の海外派遣の恒久化
 海賊対策のために地域を問わず自衛隊を派兵することが可能になり、憲法九条のもとで、海外派兵を厳しく限定してきたこれまでの原則が大きく転換される。
(2) 自衛隊の武器使用要件の緩和
 「危害射撃」を加えることにより、先制攻撃が可能となる。これは、武器使用要件を拡大したものであり、憲法九条が禁止している武力行使にあたる。
(3) 集団的自衛権行使の可能性
 保護する船舶に、外国船舶を含むことから、集団的自衛権の行使の可能性が出てくる。関係各国との連携のもとに武力行使が行われる可能性が高いからである。
(4) シビリアンコントロールの形骸化
 国会報告を義務づけるにとどまっていることから、自衛隊の軍事行動に対するシビリアンコントロールを形骸化することになる。
4 自衛隊の武力行使と派兵恒久化へ
 「海賊新法」骨子は、海賊対策に限定して、自衛隊の武力行使の容認と海外派兵を恒久化する役割を担っている。これは、自衛隊の武力行使禁止原則を突き崩し、海外派兵恒久法制定に向けて、既成事実を作り出すものに他ならない。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

御意見番「喝」でしょう

ジャーナリスト:原 寿雄さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

961年8月。平和大行進入京。多摩川大橋を渡って東京へ。原さんは新聞労連副委員長。旗手を務めている。

 平日の午後だというのに日比谷のプレスセンタービル九階ロビーは会員で賑わっていた。原寿雄さんにインタビューをお願いした時「なぜ僕が選ばれたか理解できません」と厳しく言われた。「僕に何を聞きたいのですか」。困った私。当日澤藤統一郎前法民編集長と指定の場所にうかがった。原さんと西日が差す窓際のテーブルに陣取った。脇を通る方々が原さんにご挨拶をしていく。
 一九五〇年に共同通信社に記者として入社してから社会部、新聞労連で四年半、デスク、バンコク支局長、編集局長、専務理事・編集主幹、事業部門の株式会社共同通信社長となって一九九二年に退職。以降各種委員会で放送、新聞の監視役を続けてきた。現場から労働組合、経営側まで、新聞の世界でジャーナリズムのあり方を問い続け実践してきた。常に「ラジカル(根源的)」である。
 原寿雄さんの名刺には肩書きがない。「自分としては、ジャーナリストというのはどうも、口幅ったい」「私はなりそこない」と言う。インタビューの途中で岩波書店の編集部の方が、岩波新書「ジャーナリズムの可能性」の初刷を持ってみえる。発売日の四日前である。一九九七年四月に出版された「ジャーナリズムの思想」の続編。「この世界に生きてきてほぼ六〇年」原さんは八三才でこの今の社会に切り込み続ける。その力に驚く。三時間のインタビューも楽々である。
 原さんは「本物の知識人」それも「主体的に現実行動にコミットする」知識人になりたいと思い続けて生きてきたと言う。子の世代が息切れしてるのに。
 原さんは一九二五年神奈川県平塚郊外の小作農の家に生まれた。「親父の車のあとを押しながら、地主の家に年貢を納めに行っていた」。姉三人妹一人、男は原さん一人。平塚農学校に進学。軍国少年だった原少年は、四年の時親に内緒で海軍兵学校を受験失敗。卒業後安定した職場だった国鉄に入って品川駅で改札係を。「改札主任がまるで小使のように自分の私用に使う」「それで辞表を書いてから喧嘩をしてやめた」国鉄には二年ほどいた。
 一九四四年一〇月海軍経理学校へ入学。「天皇ロマン主義者」の軍国青年は、「人生二五年」と本気で思っていた。原さんは経理学校にいた一一ヶ月弱で二五〇〇発殴られた。日記に暗号で記録していた。上級生が素手で下級生を殴る。「殴る方も手が痛くなるから、バケツの水に手を浸しながら殴るんです」。理由は何でもよい。「私は耳が今でもおかしいんです。それは海軍時代の遺跡だと思っています」「水兵と言われる下級兵は手で殴ってくれないんですね。精神棒という棒で殴られるんです」
 兵庫県垂水に疎開した経理学校で、敗戦を迎える。「恵まれた敗戦だった。海軍経理学校は、一九四五年にも英語を教えていた。憲法の宮沢俊義、民法の我妻榮というような人たちの授業も続いていた。兵庫県垂水の丘で戦車を迎え撃つタコツボ掘りや、さつまいもつくりの合間に、日本の代表的知性による授業が陸戦訓練と並行した。」「お陰で、軍国主義に凝り固まった私の頭の中に、近代合理主義の根は断ち切られずにすんだ」。
 平塚の家に帰ったのは八月の二三日。家は米軍の爆撃で全焼していた。「昨日まで信じていたことががらがらと崩れていく、壊れていく」原さんは二〇才になっていた。
「かなかなも生きているわが臍つかむ」
 原さんは一高の二年に転入、そして一九四七年に東大法学部政治学科に入学。
「近代的な知識とか、物の見方、考え方というものに移って行くまでが大変だった」
 一九四九年一二月に原さんは共同通信社に入社、大学卒業前に記者の卵になった。社会部を希望したのは川島武宜の法社会学にひかれたからである。お前らは「キシャ」じゃなくて「トロッコ」だ。書いたものは毎日「ろくに読んでもらえないでボツ」。「記者になったのは間違いだったな」原さんは転身まで考えたという。しかし数年経ち、急に気持ちが晴れた。「名文とか美文とかをめざすのはやめよう」「わかりやすい記事を書く記者になろう」。
 そして「菅生事件」に出会う。一九五二年六月二日未明、大分県の菅生村の駐在所が爆破される。共産党員五人が逮捕有罪となる。実は警察のでっち上げ爆破による自作自演だった。共同通信の特別捜査班六人は調査を進めついにこの事件の首謀者を追いつめる。一九五七年三月一三日潜んでいた東京新宿のアパートで捕まえる。事件発生から五年、警察組織は彼を匿っていた。全員無罪となった。
 この報道で、原さんらは一九五八年第一回日本ジャーナリスト会議賞を受賞する。この時の盟友があの斎藤茂男である。「僕は記者として彼にはかなわない。事実に深く切り込んで人の心をつかむ。決してあきらめない」斎藤茂男は記者として書き続け一九八八年に共同通信を退社する。人の心のひだに寄り添うような繊細な感性と深い共感、そこから時代の深層を描き続けた。一九九九年に斎藤は七一才で風のように逝ってしまう。原さんより三才年下だった。
 一九六二年末、原さんは新聞労連から戻り、社会部のデスクとなる。その時書いたのがデスク日記、新聞作りの現場からの内幕レポートである。六三年の一二月から六八年一〇月まで五冊。小さい小さい活字で埋められている。もう絶版になっているこの本をやっと手にして読んだ。
 この日記が問題になって原さんはバンコク支局に飛ばされる。これが原さんに新しいアジアを見る視点を与えることになる。戻って後、編集局長に。共同通信の記事全体の総指揮官となる。「考えていたことの十分の一しかできなかった」「編集局長が頭をかかえるほど威勢のよい記事が出て困った」こともなかった。そして専務理事・編集主幹に。「商業性と公共性、パンとペンの相克」原さんの経営の舵取りはゆらがなかった。
 インタビューは澤藤さんまかせ。私が質問できたことと言ったら「あの、お召しになっているシャツとネクタイは何方がお選びに」それは不思議な色と風合いなので気になって仕方がなかった。「奥さんの手作りです」えっ。「ミシンを踏んでいるのが趣味ですから」。息子さんも共同通信の記者になった。
 「情報栄えてジャーナリズム滅び、ジャーナリズム滅びて民主主義滅ぶ そうなってはならない」「ジャーナリズムの再生」が岩波新書の最終章、原さんの思いである。

原 寿雄(はら としお)
1925年神奈川県生れ。50年東大法学部政治学科卒。
共同通信社で社会部、バンコク支局長、編集局長、編集主幹、事業部門の同社社長などを歴任。94年から民放連放送番組調査会委員長(〜99年)など、放送、新聞の監視役を勤める。東大新聞研究所、文教大、成蹊大の講師やフリージャーナリストとして活動。
著書「日本の裁判」(三一書房)、「ジャーナリズムの思想」(岩波新書)、「メディア規制とテロ・戦争報道」(編著、明石書店)など多数。


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