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■特集にあたって
「アメリカ発」の金融・経済危機がグローバルに拡大し、その軍事的覇権主義も行き詰まりを呈するなか、自由・平等・民主・平和など憲法の諸原理と資本主義との関係を改めて問い直さねばならない時機にさしかかっています。
そのような問題意識から、憲法と資本主義の歴史的展開をふまえて、昨年『憲法と資本主義』(勁草書房)を上梓された杉原泰雄先生に、「総論」の執筆をいただきました。
「一〇〇年に一度の危機」と呼ばれる今回の経済危機がなぜアメリカからはじまったのか。杉原論文は、二つの指摘に触れています。その第一は、第二次世界大戦後一環して推し進められてきた「軍拡」の政策。そして第二に、「例外なき自由化」「自己責任」「小さな政府」をスローガンとする市場原理主義の「世界化」政策です。この二つは、日本国憲法九条の求める平和主義と、二五条にかかげるすべての国民に「人間らしい生活」を保障する生存権の課題に対応しています。
日本の経済危機は、けっして「一〇〇年一度の危機に巻き込まれた」のではない。日本国憲法の理念に反してアメリカの二つの政策に積極的に加担してきた、その反憲法的政策の結果だと強調されています。
この杉原論文を「総論」とし、経済・福祉と労働・平和・地方自治・農業・中小企業の六つの分野から、「各論」の執筆をいただきました。いずれも、それぞれの分野で、現代を覆う危機の状況をどう捉え、どう展望を切り拓いていくかについての貴重な論稿です。
「経済の危機」を執筆いただいた米田貢教授は、国民経済の不況打開は、反国民的政治姿勢の転換にこそ、その鍵があると強調されます。
派遣村名誉村長の宇都宮健児弁護士は、「貧困を絶つ運動は平和を守る運動につながっている。今こそ声をあげて繋がろう」と訴えます。
池田眞規弁護士は、地球的規模で進んでいる三つの危機への克服の道は、「理論」ではなく、被爆体験者の人間回復の「魂の叫び」である日本国憲法前文と第九条に顕現していると力説されます。
白藤博行教授は、都市から地方にいたるまでの自治の破壊状況を克明に告発し、既に「改憲実態」にあると言い切っています。
楜澤能生教授は、「聖域なき改革」が、本来市場的競争原理に適合しない分野までも改革対象としてきた誤りの具体例として、農業の領域に現われた危機を分析し、警鐘を鳴らしておられます。
また、企業経営者である大橋正義社長からは、経済・雇用のみならず地域、社会、文化の発展に寄与している中小企業が、今、崩壊の危機に立たされているその実態を告発するとともに、日本経済の再生への道を中小企業憲章の制定運動に結びつけて熱く説きあかしています。
これらの「一〇〇年に一度の危機」を、「平和国家」・「社会国家」の定着と発展のチャンス(本誌七頁・杉原論稿より)として捉え、私たちの果たすべき課題への指針となるべく本特集をお届けいたします。
法律は本則と附則から成る。その法律の主要な部分は「本則」と呼ばれ、附則はその法律の主要な事項以外の付随的事項を定める部分の名称である。附則はその法律の施行期日に関する規定が代表例だが、その他、既存の法律の改廃に関する規定などをする。
「平成二一年度・所得税法等の一部を『改正』する法律」(〇九年度税制改定法)の附則第一〇四条は「税制の抜本的な改革に係る措置」について定めた。
この附則一〇四条は、「消費税を含む税制の抜本的な改革を行うため、平成二三年度までに必要な法制上の措置を講ずるものとする」とし、「改革」の「基本的方向性」として次の八項目を掲げた。
【個人所得課税】(各種控除及び税率構造の見直し。給与所得控除の調整等。金融所得課税の一体化)。【法人課税】(社会保険料を含む企業の実質的な負担に留意。法人の実効税率の引下げを検討)。【消費課税】(消費税の税率を検討。複数税率の検討)。【自動車関係諸税】(負担の軽減を検討)。【資産課税】(相続税の課税ベース、税率構造を見直し、負担の適正化)。【納税者番号制度】(導入の準備図る)。【地方税制】(地方消費税の充実を検討。地方法人課税の在り方を見直す)。【低炭素化の促進】(税制全体のグリーン化を推進)。
附則一〇四条は消費税増税にとどまらない悪税制の推進を行う国民への重大な挑戦状である。「法律で決まった」として、今後の悪税法制定に先鞭をつけることが大きな狙いである。
〇九年度税制改定法は成立までに次の経過をたどった。
まず、「〇九年度の税制改正に関する答申」(政府税制調査会、〇八年一一月二八日)は、税制抜本改革の方向性について、「当調査会としては、昨年〈〇七年一一月〉の答申に示した各税目の中期的な改革の考え方は、その後の大きな情勢変化の中でも、揺るぎなく堅持すべきと考える」と述べた。
そして、与党(自民公明)税制「改正」大綱(〇九年一二月一二日)は、税制抜本改革の道筋として、「消費税を含む税制抜本改革を経済状況の好転後に速やかに実施し、二〇一〇年代半ばまでに持続可能な財政構造を確立する」とした。
自民公明内閣はこの大綱をそのまま受け継ぎ、「持続可能な社会保障構築とその安定財源確保に向けた『中期プログラム』」を閣議決定した(〇八年一二月二四日)。
中期プログラムは、税制抜本改革の道筋として「消費税を含む税制抜本改革を二〇一一年度より実施できるよう、必要な法制上の措置をあらかじめ講じ、二〇一〇年代半ばまでに段階的に行って持続可能な財政構造を確立する」としている。
このような経過を経て〇九年度税制改定法ができあがった。
「消費税を含む税制抜本改革」の具体的内容は、政府税調の「〇九年度の税制改正に関する答申」が堅持を求めた〇七年一一月の政府税調答申「抜本的な税制改革に向けた基本的考え方」(〇七年答申)が詳しく述べている。
その内容は一言でいえば、空前の庶民大増税(所得税、住民税、消費税、相続税、固定資産税など)、大企業、大資産家減税(法人税、株式税制など)である。
税金のあり方を考える「大きな方向転換」をしなければ国民は奈落の苦しみを負う。租税の賦課・徴収は必ず国会の制定する法律の根拠が必要である(憲法三〇条、八四条)。これ以上の悪税制を成立させないためには、国会、地方議会、首長などの選挙で庶民増税に反対する意思表示をすることが重要である。私はこれを「税民投票」と呼んでいる。
日本国憲法は、所得に応じた負担(応能負担)を原則とし、税金は税金を平和や福祉、教育や社会保障に使うことを示している。世界有数の経済力を持つ日本は、国民の幸せを第一に考える福祉大国になれる可能性を秘めている。それができない原因は、選挙民の投票行動に基づく「政治の貧困」に尽きる。
大企業や大資産家に応分の負担を求め、すべての税を「福祉社会保障目的税」とする政治を求めたい。
野間美喜子先生の夢が二〇〇七年五月四日、平和憲法公布から六〇年を経た若葉の季節にやっとかなえられた。開館前の一年間、野間先生は弁護士の仕事をなげうって、すべての時間を開館準備にあてた。アクティブミュージアム「戦争と平和の資料館ピースあいち」の誕生である。開館の日の空は抜けるような青空だったという。うかがった日も明るい日差しが降り注いでいた。名古屋の名東区よもぎ台の住宅地、明るくてモダンな会館の正面の白い外壁には画家の丹羽和子さんが描いたイラストがある。青い空にいる女性を下から男性が両腕をかかげて見上げている。すてき。私はピカソの描いた鳩のイラストを思い出した。
野間先生はここの館長である。一九九三年に建設運動を始めてから足掛け一五年。仲間たちがみんな「もう駄目か」と力つきかけていた二〇〇五年の五月、一本の電話が野間先生の事務所に架かってきた。事務員の三好さんはあまりに突然のことで意味がよく理解できなかった。当時八四才のご婦人が新聞で窮状を知り「建設用地と建物の建築費用一億円を寄付したい」と言うのだ。「その女性は、結婚一年足らずで夫と死別され、戦後の厳しい時代をひたすら働いてつましく生き抜かれ、生涯かかって蓄えた大切な財産のほぼ全部を下さった」「念じ続ければかなうのよね。ほんとうに」野間先生はうれしそうに微笑む。
一九三九年生まれだから今年はなんと古稀セブンティである。ご存じのとおりおしゃれでチャーミング、野間先生は相変わらず「可愛い」。もとは自宅も兼ねていた事務所は玄関を入ると左に受付とソファー、奥に執務室が見える。執務室の入り口にはピアノがある。上に「日本の叙情歌」なんて歌集も置いてある。ピアノの横の壁に利発そうなおかっぱ頭の女の子の人物画、自画像である。なるほどこんな少女だったんだ。野間先生の大きな机がL字型に部屋の真ん中にあり、会社役員の広い執務室に案内されたようである。もちろん机の上にはパソコンが鎮座している。机の向こうの洋服立てに帽子とコートがディスプレイのように架かって、何ともいい色合い。小柄な野間先生はアルトの名古屋弁。論客で迫力のある話しぶりの印象が強いのだが、直接話すとちょっと違う。落ち着いていてやさしい。昔は「おきゃんなおひいさま」「実際、彼女の出自は津の藤堂藩三二万石の家老家である」なんだって。
野間先生、生まれは東京四谷の左門町である。姉が一人いる。父親は貿易の仕事をしていた。一九四四年五才の時一家は空襲を逃れ父の実家の津に疎開した。一九四五年には津も空襲で危なくなり荷車一台を引いて母の里の亀山に再疎開する。野間先生の書かれたものによると「二〇年早春の昼さがり。疎開先の津に、その日は空襲がなく、子供たちは道端で遊んでいた。ふと仰いだ真っ青な空に小さな白い点が見え、それはやがて風を大きくはらみ、絵で見るような美しいパラシュートの形になって、川向こうの林に落ちて行った。敵機が近くで撃たれ、アメリカ兵が脱出した。大人たちは林の方へ走り、子供たちも続いた。薄暗い林の中に白っぽい服を着た兵隊が倒れており人垣が遠巻きにしていた。そのとき、一人の老人が負傷しているその兵隊に近づいていった。そしていきなり手に持った薪のような棒で、兵隊を打った。兵隊はじっと動かなかった。それから何人もの人が兵隊に向かって石を投げた。その老人は子供たちもよく知っている靴屋のおじさんだった。よくゴムの切れ端や白墨をくれ、遊んでくれるやさしいおじさんだった」。幼稚園の中庭には矢車草が一面咲いていて、途切れたあたりからそら豆畑が続いていた。毎日のように空襲があり、サイレンが鳴るとすぐに家に帰された。『頭を出さないようにして帰りなさい』と先生に言われて、キャッキャッとふざけながら矢車草の中を走った。途中で、そら豆畑の畝の間に座り込んで、そら豆の葉をふくらませて遊んでいては、よく叱られた」。その町にも容赦なく爆撃が続いた。「高い塔の中でいつも静にお祈りをしていた園長先生や幼稚園の仲間たちの幾人かが死んだ。私の最初のボーイフレンドだった良ちゃんも死んだ。再疎開するときにくれた小さな虫かごが六才で死んだ良ちゃんの形見となった」。亀山でも警戒警報で避難する生活が続いたが、やがて終戦。
翌年一九四六年四月、美喜子さんは小学校に入学する。その年の一一月に平和憲法が公布される。「先生が教室で読んでくれた憲法前文は、私が生まれて初めて出会った最高に美しい言葉だった」。「そのときから私の中で特別のものになった」美喜子さんたちは平和憲法の第一期生である。「食べ物や、ノートや鉛筆には事欠いたけれど、自由と民主主義だけはたっぷりあった」。
五月に「戦争中の無理がたたって」父を病で失った一家は、「その夏八月、東京四谷の焼け跡に父が建て始めていた家が完成し、母は私と姉を連れて上京した。東京の焼け跡で母子三人が暮らす手だてはなく、母は迷った末に田舎に戻ろうとしていた。その一ヶ月ばかりの夏の日を、私たちは東京の焼け跡の家で過ごした。華族サマが住んでいた近所のお屋敷も、マンジの旗がへんぽんと翻っていたドイツ大使館も跡形なく、ほうき草と暗赤色の実を付けた名も知れない夏草があたり一面生い茂っていた」「夜になると、ほうき草の原っぱは真っ黒な海のように焼け跡の一軒家を呑み込んだ」。夏の終わり頃不格好なやぐらを組んで盆踊りが行われた。どこから集まったのかびっくりするほどの数の人が、東京音頭を踊った。失った人を思い生きている喜びを分かち合って踊った。
母愛さんは二人の娘を懸命に育てた。利発な美喜子さんは、中学まで母の実家の亀山。高校は下宿して名古屋大学の付属に入学。一九五八年、名古屋大学法学部に進む。安保世代である。美喜子さんは名大学演劇サークル所属。後につれあいになる高校の同級生宏さんは名大合唱部。四年の就職時期女子の就職は厳しかった。美喜子さん司法試験受験を決心してその年に合格。一九六四年、修習生の時長女映子を出産。追試で二回試験を受けてその年名古屋で弁護士を始める。しばらくイソ弁をして独立。その後四五年ずーっと一人で店を張ってきた。一九六八年に長男啓を産み、二人の子供を抱えながらの奮戦が始まる。母が同居してそれを支えた。長女は内科医、長男は弁護士に。夕方六時三〇分「母を看ているので帰らないと」。お母様は九九才。
野間先生、仕事も家族もしっかりフルコースである。
野間美喜子(のま みきこ)
1939年東京生れ。1962年名古屋大学法学部卒業。64年弁護士登録(16期)。
民事・家事事件を中心に活動し、四日市公害訴訟、新幹線公害訴訟、予防接種ワクチン禍訴訟などにも携わる。89年名古屋弁護士会副会長。「ピースあいち」館長(07年〜)。著書「まけるな日本国憲法」「哀愛」。
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