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 法と民主主義2009年6月号【439号】(目次と記事)


法と民主主義2009年6月号表紙
特集★平和外交と日本国憲法9条
特集にあたって……編集委員会
◆世界秩序の「捻れ」と人間の「不安全」──出番を待つ平和的生存権……武者小路公秀
◆憲法9条論・規範論について──絶対平和主義と無軍備安全保障の理念について……上田勝美
◆外交権の平和憲法的統制……河上暁弘
◆日米同盟と平和外交……井上正信
◆北朝鮮の核武装強化を止めるために……大久保賢一
◆全朝鮮半島の非核化と迷走する日本外交──DPRKによる「4.5人工衛星打ち上げ」をめぐって……高 演 義

  • シリーズ9●私の原点 若手弁護士が聴く 弁護士 榎本信行先生 新・旧横田基地訴訟……聴き手・安孫子理良
  • 新掲載●刑事法の脱構築6 青少年「健全育成」政策のゆくえ──希望はどこに宿るのか……佐々木光明
  • 事件・ホットレポート●無実を明らかにしたDNA型再鑑定──足利事件で問われるもの……松本恵美子
  • とっておきの一枚●松川事件元被告 岡田十良松さん……佐藤むつみ
  • 司法改革への私の直言(17)特別レポート──裁判員制度・スタート前後 「なぜ裁判員か」の議論欠く 「参加イデオロギー」に無批判……丸山重威
  • 司法書士からのメッセージ(29)●ああ、確定登記……中村優子
  • 日民協文芸●(拾七)……上杉晴一郎/大ア潤一/大倉忠夫/チェックメイト/大山勇一
  • 国会傍聴記(7)● 日本国憲法本来の9条議論の少ない今、改めて沖縄の心に学ぶ……西川重則
  • インフォメーション●理事会声明 衆議院憲法審査会規程の強行採決に強く抗議する
  • 時評●平和と人権の闘いを世界の諸国民と連帯して……隅野隆徳
  • KAZE●最近の刑事事件に復帰して……岡田克彦

 
★平和外交と日本国憲法九条

特集にあたって


 グローバルの時代である。安全保障だけでなく、経済も文化も環境も、民衆の連帯もグローバル化が著しい。しかも、世界は楽観と悲観が入りまじり、この先は一筋縄では捉えがたい。日本の外交事情はまことに重大でかつ複雑である。
 この事態において政府の外交を批判する視点をいかに定めるか。これが、本号の特集の問題意識である。

 まず武者小路公秀論文は、世界の全体状況を概観する。アメリカの「ネオ・ソフト路線」からソマリア、ボリヴァリズム革命までを論じて、世界秩序を「捻れ」ているとする。捻れの内実は、「一極覇権体制下の、グローバル・ガヴァナンスにおける二重基準」との立場である。その上で、これを克服する契機として、「平和的生存権」と「人間の安全保障」を掲げる。

 続く上田勝美論文は、日本国憲法前文と九条が掲げる絶対平和主義と無軍事安全保障の理念と人類史的な意義を再確認する。この理念こそが、人類普遍の原理としてあらゆる国際関係の規範となるべきことを論じ、その実定憲法をもつ我が国こそが、核廃絶の運動の先頭に立つべきことを強調する。

 河上暁弘論文は、日本外交を平和憲法に則ったものとするために、政府の外交権への民主的・立憲主義的統制について論じる。自治体の国際活動を評価して、外交権能を中央政府が独占しているという論理はもはや成り立ちがたいと述べ、市民自治型の国際活動・平和保障のあり方という方向性を示す。市民運動に携わるものにとって示唆に富む。

 以上の「総論」の後に、日米関係と北朝鮮問題を軸とした「各論」の論稿を収載した。

 井上正信論文は、日米同盟の精緻な分析からその硬直性を指摘しオバマ政権も旧路線を引き継ぐものと規定する。しかし、六者協議のあり方とオバマ政権の核政策の変更に、世論を変え九条を実行する安全保障政策を現実化するチャンスとなしうるとの立場を示す。

 北朝鮮問題については、大久保賢一論文が論述する。平和的に朝鮮半島の非核化を求める立場から、必要なことは制裁を強化することではなく、核武装強化志向の動機となる環境を変えていくべきことを説く。

 最後の高演義論文は、北朝鮮の立場を代弁する。ものの見方は立場で変わる。北朝鮮の側から日本の外交や世論がどう見えるか、一読に値する。なお、拉致問題についての言及にも興味深いものがある。

 私たちは傍観者ではない。平和憲法を遵守し、九条の理念に沿った我が国の外交路線を実現して、アジアの非核化と平和、さらに世界の恒久平和を具現化していかねばならない。その具体的課題をどう捉え、どう展望を拓いていくべきか。そのような議論の基本に、本特集が貴重な役割を果たすことを願う。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●平和と人権の闘いを世界の諸国民と連帯して

(専修大学名誉教授)隅野隆徳


  市民と弁護士等の努力の上に取り組まれた反貧困運動は、労働組合運動とも結びつき、東京・日比谷公園での「年越し派遣村」を実現させ、さらに日本各地に広がり、生存権を求める闘いにとって重要な足跡を記している。それらは、自治体での福祉行政の諸規制を突き崩し、生活保護法に基づく本来の生存権請求を進める実績を切り開いている。しかし、ここまで到達するには、とりわけ小泉内閣以来の新自由主義的「構造改革」による貧困と格差の拡大を通じた多くの犠牲の上に獲得されてきた。
 それと同時に、今日の戦争の犠牲者や戦災孤児等についての世界各地の姿を、日本での沖縄戦や原爆体験、あるいは「従軍慰安婦」等の日本の侵略戦争の諸惨禍とも結びつけ、日本の国民において自分の身近に捉える発想や姿勢が出てきていることは注目される。それは、イラクやアフガニスタンで、あるいは中東のガザ等で、戦場の場面が、テレビやビデオ、写真等を通じ、容易に接し得るからだけではない。日本の自衛隊がアメリカの要請により、日本の政府と財界の承認のもとに、イラクでの軍事的補給やアフガニスタンへの給油活動、そしてソマリア沖での「海賊対処」として、武力行使と一体的な行動をしていることを直視すれば、この二〇年近くの間に、日本の軍事的な国際関与が歴然としていることによる。今や日本国民の税金が、公然と戦争加害者の立場で使われているのである。

  ここで日本国憲法の仕組みを観ると、第九条と第二五条を明確に打ち出していることから、第二次大戦前後、イギリス等で唱えられた「バターか大砲か」の選択で、「バター」の道を選び、ナチスや軍国主義日本の「戦争国家(warfare state)」でなく、「福祉国家(welfare state)」の道を、しかも、原爆戦争等の反省から徹底した無軍備平和主義を採ったことは周知のとおりである。そして第九条と二五条は相互不可分に結びついており、二五条による社会福祉等を充実させるためには、第九条の具体化の徹底が不可欠である。そのことは例えば、第二次世界大戦後に制定された財政法四条で、戦時中、ばく大な軍事費の財源となった赤字公債の発行を、国の歳出において原則的に禁止し、憲法九条の財政的裏付けとしている。また第九条に基づき国際関係で平和友好的に対処するには、軍事優先でなく、外交を重視し、対外的にも民衆の生活優先である必要があり、そのことは国内で、二五条に基づく福祉・教育・労働の重視と必然的に結びついてくる。
 その点で日本国憲法はいっそう明解である。すなわち、憲法九七条で、日本国民は基本的人権の行使において、J・ロックの信託の理論に拠れば、人権の信託者である人類に、その受益を還元することが求められる。それが憲法前文第二項で、全世界の国民の「平和のうちに生存する権利」の保障となっており、そのことは日本国民の国際的誓約である。
 そして、この平和的生存権については、自衛隊のイラク派兵違憲訴訟で、二〇〇八年四月一七日の名古屋高裁判決が確認したところで、それは裁判規範であること、日本国民は戦争の被害者の立場におかれることも、加害者の立場にも国家によって強制されない自由権的態様をもつこと、さらに社会権的・参政権的側面もあることなどが明らかにされた。これらの点は理論的にも運動面でも深められ、展開される途が示されている。

  以上のように、日本国民が世界の平和を求め、また基本的人権を護り、主張していく闘いが、世界の諸国民の動きと密接に連携・連帯していることを、私たちは、現実の生活上の取り組みと、日本国憲法の理解、そして憲法に基づくさまざまな運動を通じて体得してきているといえる。オバマ政権の対日政策については、引き続き憲法との矛盾・対立をきびしく監視・批判すると同時に、核兵器廃絶の目標課題設定と日本への核兵器使用の道義的責任に言及した点には注目し、なによりも日本政府を突き動かして、それらの点を追求させていくことが重要である。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

朝つくし、さらにまた晩つくそう

松川事件元被告:岡田十良松さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1957年、柳川で。広津和カ先生と娘の作家広津桃子さん。右に岡田十良松さん。

 岡田十良松さん八三才。松川事件の元被告人二〇人の一人である。事件当時は二三才、あれからもう六〇年になる。年を重ね元被告人は九人になった。それぞれの人生を誠実に穏やかに善く生きた。「松川のたたかいが何であったか。それは元被告たちのその後の人生に示されているのではないか。獄中での苦労を生かして、みな立派に生きています。何よりもうれしいことです」元被告人阿部市次八六才、今も国民救援会福島本部の仕事を手伝っている。
 十良松さんも筋金入りの元被告人である。住まいは東京都の羽村。玉川上水の羽村堰があった。多摩川の左岸、今は東京のベットタウンである。十良松さんは羽村駅の階段を降りた公衆電話の側で約束の時間前から私たちを待っていてくれた。着物姿で下駄ばきである。「座骨神経痛で早く歩けなくて」。昔から縁のある林敦子さんが「始めてお会いしたのは小学校四年の時ですよ」。十良松さんのお宅は駅からゆっくり歩いても一〇分。「昔は駅まで畑でした」ここに住んで三九年になる。移り住んだのは一九七〇年、松川事件国賠訴訟が確定してからである。
 妻の房江さんが玄関先に現れる。子供たちは巣立ち今は二人暮らし。縁側に紅と白のカーネーションが二鉢並んでいる。一昨年十良松さんは娘さんを亡くした。白いカーネーションはそのためだろうか。隣のお台所でなにやら忙しく立ち働く房江さん。「六人の嫁さん候補者がいた」とうそぶく十良松さん。房江さん「選ばれてよかったかはまだわかりませんね」と笑う。「被告だった頃からのつきあいですから」十良松さんがぽつりと言う。
 十良松さん、生まれは福島県田村郡大越町、大きな農家だった。兄六人姉三人、母トクは一人娘で一六才のとき父芳蔵が婿入りしてきた。十良松さんは最後に生まれてきた末子。名前が実に変わっている。一〇番目だったので十、親戚に倉松という立派な人がいたので兄が九良松、次が十良松。トラあんにやと呼ばれる元気な少年だった。父は葉タバコの栽培や養蚕で家を支えながらサラブレッドの育成に力を注いでいた。なかなかいい馬を育てていた。小学生になるとトラちゃんは学校に行く前に毎朝裸馬に乗って牧場に馬を連れて行くのが日課だった。トラちゃんも馬が大好きだった。 
 兄六人のうち元気に育ったのは四人、一番上の兄は家継ぐために養蚕の勉強、八五才で亡くなった。二番目の兄は福島師範を出て先生をしていたが音楽家をめざし上野の音楽学校に入り直した。大学で音楽を教えながら一〇四才で亡くなるまで毎日作曲を続けた。「弟」十良松さんの歌もある。五番目の兄は戦死した。トラちゃんは「勉強が大嫌い」だったが、尋常高等小学校を卒業後一四才で国鉄に入った。福島県の三春駅に配属になり、郡山の養成所に行く。ここで抜群の成績を修めたトラちゃんは名古屋の教習所へ進み建築を学ぶことになる。
 一九四五年一月一三日名古屋は空襲にあう。十良松君はたまたま女子寮の警備を頼まれ千種区の学校にはいなかった。「学舎はペしゃんこになり、同期生五人が即死した」。一九四五年徴兵検査で甲種合格、一九才の十良松君は釜石の暁兵団に入営する。中隊長付きとなる。明るく愉快な性格と木訥さを持つトラちゃんは中隊長に気に入られた。七月に部隊の移動が始まり、山陽本線で宇部に駐屯した。本隊は広島へ、そこで八月六日原爆の投下をうける。十良松君は宇部に残り死ななかった。そして終戦を迎える。「戦争は負けると思っていました」。
 一〇月に福島に帰った十良松君は国鉄に戻る。職場は福島管理部。官舎や駅などの設計監理をやっていた。民主主義自由の時代が始まった。産別の労働組合が結成され、福島管理部は係長以下は全員組合員、二〇代前半の若い世代が幅をきかせていた。しかし時代はすこしずづつずれていく。一九四六年九月一二万五〇〇〇人の国鉄首切りは撤回させたものの、GHQと第三次吉田内閣は大量の首切りと労働組合の弱体化を画策していた。
 十良松君は一九四九年一〇月二一日松川事件第四次の最後の検挙者となった。一審で一二年、控訴審では無罪。身柄が釈放されたのが一九五三年一二月。最高裁で破棄差戻し、一九六三年検察側の上告が棄却され全員無罪になるまで松川事件の「被告人全国オルグ」として懸命に闘い続けた。労働旬報社の一隅に寝させてもらいパン屋でパンの耳をもらって暮らし、オルグは片道切符で。初めは片道も買えず支援の組合員に無賃乗車をさせてもらったこともある。全国何処にでも行って訴えた。十良松さんはオルグの名人でカンパを集めるのが上手だった。話もうまい。「立って眠ったまま演説していたこともある」トラちゃんはほんとに人に好かれる。被告人たちが一審判決後の仮監房でみんなで立てた方針通りに生きた。「二審では必ず勝つ。真実は最後まで守る。体を丈夫に鍛える。そして家族達を励まし、共にたたかう。弁護人の苦労にたいしなぐさめる」松川の被告人たちはほんとにすばらしい。
 一九五一年松田解子らの手によって被告人達の文集「真実は壁を透して」が出版される。「これが多くの文化人の心を強くゆさぶり」あの広津和カの裁判支援が始まる。ヒューマニズムの実践だった。その広津先生は「トラちゃんが一番だ」と言って十良松さんをえらくかわいがった。トラちゃんは広津先生の付き人になった。広津先生について何処にでも行った。「松川事件元被告」兼「全国オルグ」兼「付き人」である。十良松さんは二〇代後半から三〇代、広津先生は六〇代親子の年齢差。安井曽太郎画伯宅にカンパを貰いに行ったこともある。その帰り道「岡田君君はパチンコをやったことがあるかね」と誘われ二人で湯河原でパチンコをしたこともある。広津先生はトラちゃんの師であり尊敬する父親でもある。「何よりも先ず正しい道理の通る国にしよう」広津先生は死力を尽くした。
 一九六三年九月一二日松川事件の無罪が確定する。一九六四年、十良松さんは弁護団の松本善明の法律事務所に勤務し選挙戦を戦う。六七年三多摩地域に法律事務所とその立ち上げから参加する。三多摩地区の民主運動を支えて二〇年、一九八七年六三才で三多摩法律事務所を退職。古巣の国民救援会運動に戻る。救援会の運動も二〇年を超える。
 「お赤飯が炊けましたのでいかがです」お赤飯だ。「女房の赤飯は評判なんです」もちろんいただきます。「亡くなった娘の孫が一八才、誕生日なので」おいしーな。お赤飯はつましく暖かな芯のある「岡田さんちの赤飯」だった。

岡田十良松(おかだ とらまつ)
1926年生れ。43年旧国鉄に就職。48年国労福島分会書記長、福島地区労書記長。49年松川事件発生、逮捕される。53年二審無罪。松本善明法律事務所を経て、67年〜三多摩法律事務所勤務(87年退職)。布川事件三多摩守る会事務局、国民救援会羽村支部長を歴任。


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