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 法と民主主義2009年8・9月号【441号】(目次と記事)


法と民主主義2009年8・9月号表紙
特集★熊本・鹿児島・新潟の水俣病問題は 今──水俣病特措法成立を受けて
特集にあたって……編集委員会
◆第二の政治決着・「水俣病特措法」の批判的検討……神戸秀彦
◆水俣病における責任と費用負担──特措法成立を受けて……除本理史
◆ノーモア・ミナマタ国賠訴訟について……園田昭人
◆新潟水俣病第三次訴訟について……高島 章
◆ノーモア・ミナマタ新潟全被害者救済訴訟……中村周而
◆明らかになってきた水俣病の実態と、問われる行政のあり方……高岡 滋
◆新潟水俣病第三次訴訟における未認定患者……斎藤 恒
◆「昭和52年判断条件」と認定問題と原因確率……津田敏秀
◆水俣病患者の父と兄と自分のこと……近 喜三男
◆無知の怖さ……山田サチ子
◆正念場を迎えている闘い……大石利生
◆全ての水俣病被害者の救済を求めて……桑鶴親次
◆私と水俣病……中嶋武光
◆特措法成立を受けての想い……山口広則
■資料 熊本・鹿児島・新潟水俣病関係年表

  • 連載●刑事法の脱構築8 外国人登録制度の崩壊と新たな在留管理制度への再編……楠本 孝
  • シリーズ11●私の原点 若手弁護士が聴く 弁護士 鈴木利廣先生 「医療問題」のプロフェッショナル……聴き手・吉田律惠
  • 司法改革への私の直言(19)●第一回裁判員裁判の記者会見をみて……小池振一郎
  • 司法改革への私の直言(20)●一人の拒否からみんなの拒否へ。みんなの拒否は制度の廃止……高山俊吉
  • とっておきの一枚●弁護士 彦坂敏尚先生……佐藤むつみ
  • 税理士の目(18)●いまこそ消費税廃止の声を……奥津年弘
  • 寄稿●平和的生存権の新たな展開──長沼訴訟からイラク派兵違憲訴訟へ……新井 章
  • 寄稿●不況永続でも潰されない人民的英知……新垣 進
  • 日民協文芸●(拾九)……冨森啓児/みちのく赤鬼人/もりかわうらゝ/大倉忠夫/チェックメイト
  • 国会傍聴記(9)●本来の憲法政治を求めよう──「鳩山首相」誕生にあって……西川重則
  • 時評●今次総選挙の革命的意義をかみしめよう……金城 睦
  • KAZE●定額給付金で緊急支援を!……米倉洋子

 
★熊本・鹿児島・新潟の水俣病問題は 今

特集にあたって

 水俣病は、熊本での公式発見(一九五六年五月一日)、新潟での公式発表(一九六五年六月一二日)以降、第一次訴訟での原告勝利(一九七一年九月新潟、一九七三年三月熊本)、その後の多数の訴訟での判決をへて、一九九五年の政治決着で約一万二〇〇〇人が救済対象となり、一応解決したかにみえました。
 しかしその後、二〇〇四年一〇月一五日、水俣病関西訴訟で、最高裁は、国・熊本県の責任を肯定し、また、環境庁の一九七七年認定基準より広い病像を採用しました。
 最高裁判決以降も、政府は一九七七年基準を改めていませんが、公害健康被害補償法(以下、「公健法」)の認定申請者が急増し、熊本・鹿児島両県で合計六三六五人(二〇〇九年三月末)、新潟県で五五人(二〇〇九年五月末)となりました。
 また、最高裁判決以降に受付が再開され「新保健手帳」(医療費の自己負担分支給)を交付された人が三県合計で二万二一六六人(二〇〇九年五月末)となりました。
 さらに、最高裁判決以降、新たな訴訟が提訴され、「ノーモア・ミナマタ国家賠償訴訟」(第一陣提訴が二〇〇五年一〇月、現在第一七陣まで提訴)の原告数は一八七九人に及び、二〇〇七年一〇月には水俣被害者互助会も国・熊本県を被告に提訴しています。
 そのほかに、行政訴訟として、二〇〇一年一二月に提訴され、現在福岡高裁係属中の溝口氏による行政訴訟や、二〇〇七年五月に提訴された関西訴訟原告団長の川上氏による行政訴訟があります。
 他方では、新潟においても、二〇〇七年四月に第三次訴訟が提訴され、二〇〇九年六月には「ノーモア・ミナマタ新潟訴訟」が提訴されました。
 ところが、与党PT(プロジェクト・チーム)は、水俣病特別措置法案(@チッソ分社化を行い、「補償部門」を親会社・「事業部門」を子会社として分離する、A四肢抹消優位の感覚障害者に対し一人一五〇万円を給付して三年以内に救済を完了した後に公健法の指定地域を解除する、というもの)を二〇〇九年三月に国会に提出しました。
 これに対し、民主党も二〇〇九年四月に独自案を国会に提出しましたが、与党案のようなチッソ分社化・公健法の地域指定解除は含まれておらず、内容に大きな隔たりがあり、合意は困難とみられていました。ところが、その後両党は協議して修正合意し、二〇〇九年七月、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」(「水俣病特措法」)が国会で成立しました。

 今号の特集は、次のような内容です。
 第一に、与党と民主党の合意による「水俣病特措法」の内容を分析し(新潟大学の神戸秀彦氏)、特にチッソ分社化の背景をなすチッソの経営問題に焦点をあてて、この法律の批判的検討を行います(東京経済大学の除本理史氏)。
 第二に、二〇〇四年の最高裁判決以降提訴された訴訟は、「水俣病特措法」成立後も継続されていますが、熊本・鹿児島の訴訟を担当する園田昭人氏、新潟の訴訟を担当する高島章・中村周而の各氏)により、その現状と課題の検討を行っていただきました。
 第三に、現場で患者を診察する医師から「水俣病」という病気の見方に関する検討を、熊本・鹿児島について高岡滋氏に、新潟について斎藤恒氏に、さらに、公健法の一九九七年認定基準に関する批判的検討を、岡山大学の津田敏秀氏に行ってもらいました。
 そして、、ノーモア・ミナマタ新潟訴訟の原告で、新潟県に在住する二氏(近・山田の各氏)と、熊本県・鹿児島県の各地に在住するノーモア・ミナマタ国家賠償訴訟の原告の四氏(大石・桑鶴・中島・山口の各氏)の発言も掲載させていただきました。
 今後の展望について確たることはいえませんが、熊本水俣病公式発見後五三年を経てなお解決しないこの問題を、共に考える機会をえられて幸いです。
 ※今号の特集に掲載の写真は、「不知火患者会」と「新潟水俣病阿賀野患者会」から提供していただきました。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●今次総選挙の革命的意義をかみしめよう

(弁護士)金城 睦


1 総選挙の革命的意義
 〇九年八月三〇日に実施された総選挙は、民主党が大勝し政権交代が実現した。この総選挙の結果と意義は、「革命的」といっていいほど巨大で画期的である。「革命的」などと大袈裟で大時代的、一面的で一時の興奮に酔いしれた素人の浅はかな感覚的な感想に過ぎないとの見解も少なからずあるであろう。
 しかし私は、二〇世紀末から二一世紀初頭にかけた「人類滅亡」の危機をも迎えた大激動期において、今次総選挙とその結果の示した意義の大きさは、まさに全人類的との形容詞も相当するほどの意義が含まれていると感ずるものである。
 たとえばかつて「復帰運動」の渦中に身をおきつつ沖縄の日本復帰という「世替わり」を体験したり、ソ連という国家体制が崩壊するという現実を目の当たりにした人生経験があるにもかかわらず、そのもつ巨大な意義を必ずしも自主・主体的には把握しきれなかったという悔しさがある。社会現象への理解や対応の仕方は本来こういうものなのかもしれないが、本質的意義を敏感に感じ取る感性の豊かさを身につけておきたい気がする。
2 社会事象としての決定的瞬間
 「民主党への追い風」や「政権交代というムード」「小選挙区制というカラクリ」などが相乗作用した結果現出したのが今回の総選挙の様相であることはまちがいなかろう。でも戦後史に特筆されるべき事態であることも疑いを容れまい。それどころか日本国民が基本的に自らの手で社会的大変革に連なる「政権交代」を実現せしめたのは歴史上初めてといっていい。だから見方によれば、日本最初の市民革命が現出したものとみていいのである。いってみれば日本における「無血革命」なのだ。「革命」ということばを連発して今の時世でいささか奇異に感じる向きもあるかもしれないが、これはまさしく「庶民革命」なのだということを肝に銘じておきたい。
 社会事象の変化は、眼に見えにくく認識しにくい面があり、日時が経過してあれこれの事象を寄せ集めて変化を「解釈」する面があるが、時に醸し出される「決定的瞬間」というものの認識や自覚を重視する必要があると思う。
3 「沖縄問題」解決の夜明け・核廃絶の課題
 戦後の日本政府保守政権は、一貫して「沖縄問題」を日本の政治課題から遠ざけ、無視し続け「沖縄差別」を固定化してきた。沖縄戦の終了以来実に六三年間も沖縄県民は基地に呪縛され、呻吟させられてきている。
 九五年の少女暴行事件発生の際、一時期基地が動き出すかに見えたが、結局市街地の真中に陣取っている普天間基地の名護市辺野古地先の海域を埋め立てての新基地建設と引き換えにしか返還されないとの日米両政府によるペテン的動きがすすめられてきた。それが鳩山代表(新首相)は「最低でも県外移設が期待される」と述べ、今回沖縄から当選した五人の新代議士は(小選挙区民主二、社民一、国民新一、比例共産一)こぞって県内への新基地建設反対を表明している。
 米軍再編と連動した「辺野古への新基地建設中止」の動きは、国レベルではいまだかつてなかったことであり、まさしく沖縄の黎明を感じさせるものである。
 また、長年唯一の被爆国たる日本が国是としてきた非核三原則さえ密約によって形骸化させられてきたこれまでの政府の在り方に対し、アメリカのオバマ大統領のプラハ演説に連動するがごとく、新政権は世界からの核廃絶の先頭に立つ気概を見せている。(なお、〇九年一月号の池田眞規弁護士時評参照)
4 女性の進出
 当選者のなかで女性は過去最大の五四人にのぼった。うち民主党は四〇人で新人が二六人を占めている。これも本選挙の特徴を示している。ただ「革命的」と評するには、いささか物足りなさの感は否定できないが、女性の数が過去最大の点をみて将来に期待したい。(きんじょう ちかし)


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

「江戸っ子」北に行く

弁護士:彦坂敏尚先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1967.1.12恵庭事件最終弁論開始の日。札幌地裁第一法廷入り口。全日空松山沖墜落事故(1966.11.13)で亡くなった友六川常夫弁護士の遺影を抱いて入廷する彦坂先生38歳。

 彦坂先生は神田神保町で生まれ明神下で育った。大学は中央大学だから神田界隈が故郷、ちゃきちゃきの江戸っ子である。一九二九年一二月生まれ、七九歳。今年中に八〇歳になる。「港が見えるところ、横浜に住みたくて」今は西区「みなとみらい」のマンションに住む。そこをお尋ねしたかったのだが「狭いから」と断られてしまった。きっと「窓を開ければ港が見える。メリケン波止場の灯が見える」なのに残念。指定されたのは長男の弁護士彦坂敏之さんの事務所である。関内にあるビルの九階。窓左半分が横浜公園のうっそうたる緑。右半分には横浜スタジアムが広がる。いい眺めである。
 敏之さんは父彦坂先生にまったく似ていない。父はそら豆のような愛嬌のある丸顔で太め、息子は色白小顔の優しい童顔でスレンダーである。「似ていらっしゃらないですね」としみじみ言うと「性格は似ているところもあるんです。頑固で」と敏之さんがにっこりする。彦坂先生は歌う弁護士で有名である。シャンソンをはじめ何でもござれ、いろんなところで歌いまくってきたらしい。これがいい声なんだって。もちろんうまい。敏之さんはバイオリンを弾く。アマチュアオーケストラの第二バイオリンである。声はテナーで父と同じ。前に私は第九を一緒に歌ったことがある。「彦坂先生は合唱はなさらないんですか。テナーはどこの合唱団でも不足してるんですよ」と聞くと「僕は人と歌うのは嫌い」きっと譜面通りに音色を合わせて歌うなんて「ちゃんちゃらおかしくてやってらんない」だろう。息子の敏之さんは札幌育ちである。「僕も歌が好きです。今度カラオケに行きましょう」と敏之さん。この気配りとフォロー。優しい息子さんは彦坂先生の大傑作である。
 「僕の性格はおっちょこちょいだな」。そうなんですか。せっかちで勝手、お調子者これって江戸っ子の特性。そして自分をしゃれのめすのも江戸っ子のDNA。
 一九二九年生まれの先生はもちろん戦争の時代に育った。父は弁護士、神田明神下で開業していた。七歳の時に日中戦争開始、一二歳で太平洋戦争開始。一九四五年三月の東京大空襲のとき先生は父と二人、明神下の家にいた。火にまかれ父と逃げたが、父は大やけどを負う。彦坂先生一五歳、旧制中学の三年生だった。そして「最愛の父」は生きられなかった。皇国少年敏尚君は座してたたかいを待つことなんかできなかった。早速、予科練に志願し四月に海軍土浦航空隊に入隊する。特攻になって闘って死のうと思っていた。空襲は激化する。特攻なんていけるはずもなく、日々空襲におそわれるだけだった。ただただ幸運が重なって敏尚少年は死ななかった。仲間は空襲にあい体がばらばらになって死んでいった。航空隊は土浦から茂原に移り、米軍の本土上陸に備えた。戦車に体当たりをするのである。竹藪で訓練中に空襲を受けた時はなぜか直前に体の向きを変えて敏尚少年兵は間一髪で掃射を逃れたこともあった。とにかく生きて八月一五日を迎えられたのが不思議な一六歳の夏だった。
 旧制中学三年に復学、翌年三月、四年生で中学を卒業し中央大学法学部へ進学した。父への思いがあったのだろうか。生活に追われていた敏尚君は生きるために仕事をしなければならなかった。四八年三月に「東京地裁の雇い」、九月には第一弁護士会に採用され弁護士会図書館で仕事をするようになる。大学には試験の時だけ行って単位を取る。司法試験の勉強にはうってつけの職場だった。予科三年学部三年をのり切って五二年に大学を卒業し、一九五三年に司法試験に合格。二六歳で八期になった。
 彦坂先生は「民主的法曹」になると心に決めていた。自らの戦争体験と松川、メーデー事件など戦後の大事件が自分の立つべき場所を教えてくれた。「私が研修所を出た昭和三一年にいわゆる民主的法曹を志した者は一〇人そこそこしかいなかった」尾山宏、平井直行、立木豊地、新井章、六川常夫、岩村滝夫、木下元二、南山富吉、相磯まつ江そして彦坂先生を含め一〇名である。
 彦坂先生は佐伯静治先生の元へ。佐伯先生は「当時謹厳そのもの、黙って記録または本あるいは組合機関誌を読むか、瞑想三昧。声をかければ短い答えが返るが、自分からは何もおっしゃらない」「準備書面を出せば翌朝、見るも無惨。あるときは接続詞だけが、あるときには名詞だけが残る」「残るものは先生に対する感謝の念と同時に劣等感のみであった」「なにしろ先生はよく勉強された」。現場に飛び込みたくてうずうずしていた彦坂先生は「不肖の弟子」。砂川、勤評、全逓中郵、多発した労働事件、王子争議、警職法反対闘争、安保、三井三池。意気揚々と走り回っていた。
 そして彦坂先生に一大転機が来る。「昭和三六年に北海道で尺別事件が起きる。弁護士になったら松川事件をやりたいと願って果たせなかった私は、この事件を勝ちたいと思った。当時、北海道と九州をかけめぐっていた私は同時に、事件を出張して処理するのではなく、たたかう労働者と定着してすごし、事件を通じてそこになにかを築き上げたいとも考えていた」実は「誰も北海道に行きたがらないのよ。出身の弁護士も」江戸っ子彦坂「えーいままよ。行こうじゃないか」と言ってしまった。長男は九歳、川崎市生田に家を建てて二年目だった。一九六二年、家も売り家族を連れて東京を離れた。彦坂先生弱冠三二歳だった。
 冬には馬糞混じりの風が吹く札幌で彦坂一家は生活を始める。雪も寒さも初めて、冬中石炭を三屯焚いた。彦坂先生は北海道全土を駆け巡った。札幌の彦坂事務所は唯一の民主的法律事務所としてあらゆる運動の中心にいた。炭労、国労、動労、全逓、全自交、その他の労働争議。北教祖関連事件、恵庭・長沼事件。もちろん事務所を維持するために一般民事事件もこなす。超人的な仕事ぶりであった。事件は社会的運動として広がってゆく。彦坂先生は北海道民主的法律家運動の顔になっていた。
 実は、彦坂先生東京に帰りたかった。忙しければ忙しいほどその気持ちは強くなった。北海道とは文化が違うと思った。一九八〇年彦坂先生は東京に戻った。重い荷物を下ろしてちょっと早い五〇歳の区切りであった。自分の時間を自分だけのために使う生活が始まった。
 完全燃焼した札幌の一八年は彦坂先生の大舞台だった。「この社会の矛盾を克服することに努力している我らの戦列に一人でも多く加わってほしい」。先生のまいた種は確実に育ち、舞台はロングラン公演になっています。

彦坂敏尚(ひこさか としひさ)
1929年東京都生まれ。1946年中央大学法学部卒業。56年弁護士登録(8期)。
砂川基地闘争、都教組勤評闘争、三井三池闘争、恵庭事件、長沼事件、常磐じん肺事件などに携わる。


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