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 法と民主主義2009年10月号【442号】(目次と記事)


法と民主主義2009年10月号表紙
特集★核廃絶、その新しい展望
特集にあたって……編集委員会
◆核兵器のない世界をめざして──一人の原爆被爆者として考えていること……岩佐幹三
◆核兵器廃絶にむけての世界情勢の変化と展望……中村桂子
◆日本の核兵器廃絶運動の意味と課題……内藤雅義
◆世界的規模での核廃絶運動構築のために……吉田博徳
◆核兵器の廃絶を私たちの手で──それは可能です……秋葉忠利
◆第7回平和市長会議総会を終えて……田上富久
◆原爆症認定集団訴訟と核廃絶……安原幸彦
◆日本被団協50年の歴史のなかで……伊藤直子
◆オバマ・金正日会談の実現を……毛利正道
◆核兵器廃絶のために、日本の法律家が求められていること──日本反核法律家協会からの訴え……大久保賢一
◆2010年NPT再検討会議へ──1200万署名のとりくみ……前川史郎
◆原水禁運動のいま……井上年弘

  • 検証●刑事司法の実態(第1回)冤罪は何故生まれたのか「恐喝でっち上げ事件」……青木年秋・安倍晴彦・池田眞規・佐々木光明
  • シリーズ12●私の原点 若手弁護士が聴く 弁護士 馬奈木昭雄先生 公害の原点「水俣病」とともに……聴き手・小野寺信勝
  • とっておきの一枚●鹿島理智子さん……佐藤むつみ
  • 司法書士からのメッセージ(30)●司法書士の債務整理広告をめぐる問題……大部 孝
  • 書評●浦田賢治訳「力の支配から法の支配へ」(日本評論社)……山田寿則
  • 書評●君島東彦編「平和学を学ぶ人のために」(世界思想社)……猿田佐世
  • 書評●今崎暁巳著「北の砦 ルポルタージュ 鳥生忠佑と北法律」(日本評論社)……澤藤統一郎
  • 日民協文芸●(弐拾)……冨森啓児/チェックメイト
  • 追悼●長谷川正安先生を偲ぶ……郷 成文
  • 国会傍聴記(10)●政権交代した鳩山連立内閣……西川重則
  • 司法改革への私の直言(21)●日民協第41回司法制度研究集会にご参加下さい!……海部幸造
  • 時評●総選挙を了えて……佐々木秀典
  • KAZE●2009年夏季合宿に参加して……後藤安子

 
★核廃絶、その新しい展望

特集にあたって

 六四年間にわたって苦しみ続けた被爆者をはじめ、反核平和を求める世界中の市民の悲願である「核兵器のない世界」の実現に向けた動きが、ようやく強まりつつあります。今年四月のプラハでのオバマ大統領の演説に続き、九月二四日、国連安全保障理事会は、核不拡散・核軍縮に関する初の首脳会合を開催し、核軍縮を目指す決議を全会一致で採択しました。

 国連安保理決議は、@核兵器のない世界に向けた条件の構築、A核拡散防止条約(NPT)非加盟国に対する加盟要求、B来年の再検討会議でのNPTの強化と、現実的で実現可能な目標の設定、C非核兵器地帯条約締結に向けた動きへの期待、D核実験全面禁止条約(CTBT)の早期発効に向けての署名・批准の要請など、核軍縮に向けて各国が共同して取り組むことを宣言しました。

 人類を確実に破滅に導くおびただしい核兵器を持つ超大国が対峙する中で、新たにインドやパキスタンに続いてイランや北朝鮮が核開発を進めつつあるという危機感が、核廃絶に向けたこうした動きを大きく前進させたことは確かです。しかし、オバマ大統領の強い決意の表明に呼応するように、各国首脳が核廃絶の必要性に賛同した背景には、わが国の被爆者を中心とする、世界に向けた反核運動があったことを改めて確認することが必要だと思われます。「ノーベル平和賞受賞者のヒロシマ・ナガサキ宣言」は、「人類がこれまで三度目の核兵器による悪夢を避けることができたのは、単なる歴史の幸運な気まぐれではありません。第二のヒロシマやナガサキを回避するために世界へ呼びかけ続けてきた被爆者たちの強い決意が、大惨事を防止することに確かに役立ってきたのです」と、そのことを明記しています。

 被爆国として核廃絶に向け積極的な役割を果たすべきであったにもかかわらず、わが国はこれまで米国の「核の傘」の下で、曖昧な態度をとり続けてきましたが、国連演説で鳩山首相は唯一の被爆国であることを強調し、核廃絶の先頭に立つことを表明しました。新政権が、具体的にそれを今後、どのような行動に移すのか注目されます。

 本特集は、これを機会に、世界から核を廃絶するためにはどうしたらいいかを明らかにすることを目指しています。そのために、被爆者の悲惨な体験とこれまでの運動を振り返り、その成果と問題点を明らかにするとともに、新たな政権の下でわが国の核政策を確実に転換させ、核廃絶に向けて世界の先頭に立つにはどうしたらいいか、それを実現するために反核運動をどう強化するかを、それぞれの立場から論じてもらっています。

 核廃絶を実現するにはさまざまな難題が待ち受けていることも事実ですが、こうした動きが核の廃絶へと大きく前進するきっかけになることが期待されます。そうした中、人類の生存と平和な未来を切り開くために、本特集が少しでも役立つことを願っています。

 本特集の原稿締切後、一〇月九日には「核なき世界」の構築に向けた姿勢を評価されたオバマ米大統領に二〇〇九年のノーベル平和賞が授与されることが決定しました。そして、一〇月一五日には米政府代表は、国連総会第一委員会で「非配備の核弾頭を含む核兵器保有量を二〇一二年までに半減させる」と演説し、核兵器の大幅削減に踏み出す決意を示しました。
 また一〇月一一日には広島・長崎の市長が核廃絶の実現をめざす二〇二〇年にオリンピックを両市に招致することを明らかにしました。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●総選挙を了えて

(弁護士)佐々木秀典


 第四五回総選挙は、民主党の勝利と自民党の敗北、公明党の苦戦が事前に予測されていたものの、その結果はそれをはるかに越える衝撃的なものであった。それを称して金城睦氏は、本誌前号の「時評」欄で、この選挙の結果と意義は「革命的」といっていいほど巨大で画期的と称されたが、直接この選挙に関わった者としても正にそれを実感したことだった。
 四年前の八月八日、小泉総理の強引な郵政解散を機に、五期一五年の議員生活にピリオドを打った私は、小泉ブームが続き自民党優勢の状況の中で、私と同姓(親族関係はない)の北海道議会議員、佐々木隆博氏を後継者に指名し、その選対本部長としてこの選挙に臨んだ。相手は前回比例代表で当選していた自民党現職で予想通り厳しい闘いだったが、結果は二千票の僅差で勝つことができたのだった。因みにこの選挙はご承知のように全国的には自民党が圧勝し、小泉チルドレンと称された多くの新人議員が誕生したが、北海道においては、一二の小選挙区での当選者は民主党が八人で、四名に止まった自民党に打ち勝った。
 それから今次選挙までに四年間は誠にむなしく長過ぎた期間だった。鳴物入りの小泉改革は地方と社会的弱者の負担を重くし、郵政民営化もその実を上げず、年金の是正も画餅に帰した。国民との関わりを全くもつことなく総理となった安倍、福田は何れも失政で退陣を余儀なくされた。その後釜の麻生内閣は本来選挙管理内閣のはずが、私をして言わしむれば、少なくとも人格、品性において歴代最劣悪な麻生総理が、身の丈に不相応な野心を燃やし、景気回復を謳い文句に、半年で三度の補正予算という異例の措置(彼はそれが出来たことを自慢していた)や、バラ撒きそのものと云える定額給付金で国の借金を大幅に増やした。又、国会答弁、長崎原爆記念式典での挨拶など重要な公式の場での再三の原稿の読み違えや聞き捨てならない失言、妄言の連発など、大方の失笑や、憤りを招来することしばしばにも拘わらず、恬として恥じない態度は多くの国民を呆れさせたが、中川財務大臣のG7における酒酔い記者会見などもこの内閣への不信感を増幅させることとなった。かくして良識ある国民の、麻生、自公連立内閣への不信と政権交代を望む気持ちは頂点に達した。政権に執着した結果、こうした状況下に総選挙を設定せざるを得なくなった麻生総理は、およそ政治的センスに欠けた政治家であったといわざるを得ない。
 それにしてもわが国では、一九五五年の保守合同以来、一九九三年八月から翌九四年四月までの細川政権と、その後僅か二ヶ月の羽田政権の時期を除いて、自民党が単独又は連立で一貫して政権を独占して来た。北大の山口二郎教授は「日本人にとって選挙で権力を変えるというのは事実上初めての経験です。これを一回経験すると政治に対するかかわり方が変わってくると思います。これからは政権政党を国民が、その時の状況に合せて選んでいくという、本当の民主主義になっていくんだと思います」と述べておられる。(北方ジャーナル一〇月号)
 一三年前、わが国ではじめての小選挙区制が導入された際、社共両党は、この制度が必ずしも民意を反映するものではないとして反対したが、昨夏の参院選そして今次の総選挙の結果からすると、選挙による政権交代の実現には中選挙区制では無理であることが立証されたように思われる。ただこの制度では少数政党の存続への配慮に検討の必要があるのではなかろうか。新発足の鳩山内閣は目下支持率も高く国民の期待も小さくない。各閣僚にも意欲的な言動が窺える。千葉景子法相が就任時述べた取調べ可視化の実現にも期待したい。気懸かりは多数となった民主党衆参議員中、九条を含めた改憲派が少なくないことだ。連立を組んだ社民党は、民主党護憲派議員との連携を深め改憲の暴走抑止の役割りを果たして貰いたい。そこにこそ連立の意義があるはずだから。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

私の青空

鹿島理智子さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1930年、12月のクリスマス。京都の栗原家で。

 鹿島理智子さんは映画「日本の青空」のパンフレットを持ってまっていてくれた。東京芸術劇場の一階、ベンチに座っている理智子さんは一九二七年生まれの八二歳、若くておしゃれ。秋色でエキゾチックな植物柄の薄手のブラウスと手に持った植物柄の上着がいい感じ。胸元のブローチもモダン、イヤリングはくすんだグリーンである。洒落たメガネもよく似合っている。
 お住まいは要町。結婚して五五年間ずっとここに住んでいる。夫の実家である。今は「老老介護なの」と笑う。つれあいの鹿島哲さんは九一歳になる。大学で化学を教えていた。「昔はいつもこの辺まで自転車で買い物に来ていたのよ」。ながーいエスカレーターで五階に。カフェマエストロでロイヤルミルクテーを飲みながらのインタビューになった。
 理智子さんはあの鈴木安蔵先生の長女である。「日本の青空」が制作され、このところいろんなところに引っ張り出される。理智子さんが生まれたとき安蔵先生は二三歳、母俊子さんは二二歳。安蔵先生は俊子さんの兄佑と京大社研で活動していた。俊子さんの旧姓は栗原。父栗原基は東京帝国大学で英文学を学び、ラフカディオ・ハーンの一番弟子で熱心なキリスト者であった。三高で英語・英文学を教え、YWCA学生寮の世話もしていた。一家はその寮に隣接する家に住んでいた。長男の下に四女一番下に二男六人の子どもがいた。俊子さんは次女。栗原家の子どもたちはリベラルな家庭のなかで「新しい時代を求める思想や学問にひかれていった」。
 俊子さんは同志社大学に進み安蔵さんと知り合う。理智子さんが生まれる一年前の一九二六年安蔵さんは「学生社会科学連合会事件」で検挙される。治安維持法最初の思想弾圧事件で京都大学を始め学生三七名が検挙された。一九二九年二月俊子さんは理智子さんを実家に預けて安蔵さんと共に上京。憲法学と政治学を研究し実践するためだった。ところが一〇月には「第二無産者新聞」の活動で中野署に逮捕され、学連事件の判決と合わせ一九三二年六月まで二年八ヶ月の囚われの身になる。市ヶ谷刑務所から豊多摩刑務所へ。「獄中で鈴木先生は、奥様の差し入れを媒介にして、憲法学の著書をほぼ余すことなく読まれ、研究の方向を定められた」と立正大学の金子勝教授。
 「私が小さいとき父はいつのまにか帰ってきてまたどこかにいってしまう、いつもだれかにつけねらわれていたんですね」「母は『特高』の目をごまかすため、赤ん坊だった私をねんねこでおぶって、獄中の父が求める本を神田の古本屋で探していたそうです」。
 「母は、父が獄中にあった一九三二年、東京の亀戸に無産者託児所を開き、三四年に弾圧され閉鎖に追い込まれるまで、私を育てながら託児所の運動に力を注いでいました。生活は苦しかったと思いますが、独学でロシア語の幼児教育の文献から学んだことを生かした仕事でした」松田解子さんの長男と次男もここで育った。主任保母だった俊子さんは、五歳の理智子さんの手をひいて資金集めに工場街を毎日歩いたという。開所後は託児所に住み込んで働いた。俊子さんは暖かい面差しの女性でみんなに慕われていた。でも「私にはとっても厳しい母で泣き虫だった私が泣いて帰ってくると、『しっかりしなさい』と叱られた」。「女は手に職を付けなければ」といつも言っていた。
 一九三二年六月に安蔵さんは出獄するが、一九三四年三月再び「第二無産者新聞」の活動で逮捕される。二年の懲役となるが、恩赦になり一九三五年一月に出獄。以降は政治・社会運動に適さない自分に残る道は「学問の力で社会変革を」と決意する。生き延びてこその変革である。安蔵さん三一歳、俊子さん二九歳、理智子さんは八歳だった。次女耿子、そして三女露子が生まれ、家族は五人になった。
 鈴木一家は軍国主義の時代を何とか生き延びた。英語が好きだった理智子さんは青山女学院から東京女子大英文科に進学する。アメリカ人の先生が本国に引き揚げ、「鬼畜米英」と言われても理智子さんはそうは思えなかった。家にも大学にもまだリベラルな雰囲気があった。一九四五年戦争が激しくなり理智子さんは父の父母が当時住んでいた仙台に疎開する。仙台にも空襲があり理智子さんは病に伏せっていた祖母をたすけて広瀬川に逃げたという。一九四五年八月一五日理智子さんは仙台で終戦を迎える。安蔵さんは一九四五年七月に西部軍管区報道部員として徴兵され九州で終戦を迎え、帰京する。「アカ」と呼ばれた鈴木家はみんな無事に終戦を迎えた。
 東京に戻り女子大を卒業し、理智子さんはアメリカ赤十字に勤め、一年後に横浜のミッションスクールの教師になる。二七歳で結婚し夫の両親と共に夫の実家に住むことになる。長女と長男を育てながら理智子さんは家庭と両立するように神田女学園の英語の講師になり、日本語教師の資格を取る勉強を始める。長女は音楽の道に長男は哲学の研究者となった。
 安蔵先生は終戦のその年民間団体の「憲法研究会」の幹事として「憲法草案要綱」をまとめ、これがマッカーサー草案に最も大きな影響を与えた。日本国憲法の間接的起草者になった安蔵先生。独立していた理智子さんは「お父さん、なんだか憲法のことで忙しいんだってさ」と妹たちから聞いていた。現憲法が発表されたとき「あぁ、これなんだわ」と感激した。ながい苦労が報われたような誇らしい気持ちだった。父を支えた母俊子も万感の思いだったにちがいない。安蔵先生は時の人となり憲法解説と普及のため大活躍となる。一九五二年静岡大学の教授となり、初めて月給なるものが手に入るとわかった時の父と母の弾んだ声が、今も耳に残っている。
 安蔵先生は優しい人だった。
 春先の 気候の変わり 病みたらむか
 我が女の童 今日も来たらず
 (獄中子の面会に来るの遅かりし折りに)
 「お父さんはしばらく留守にします。毎日外に出て元気に遊びなさい。日光浴をしないと丈夫になれません。お母さんの言うことをよく聞いて勉強しなさい」入獄する時の置き手紙である。
 「母が『日本の青空』を見たら、どういったかしらと思います。『こんなあまいもんじゃないわよ』『生活はもっと厳しかったわよ』と言うでしょうか」。
 父と母が残した憲法をその孫たちに伝え、ひ孫たちもそれを受け継ぐ。理智子さんはこの憲法を守らなければと思う。
 この子らが 行く道悲し 然が思い  嘆きごころは 深まり行くも (獄中で)安蔵先生は青山霊園無名戦士の墓に眠る。

鹿島理智子(かしま りちこ)
1927年に鈴木安蔵の長女として、東京で生まれる。
1947年に東京女子大学専門部外国語科(当時の正式名称)卒業後、高校の英語教師を経て、1953年結婚、家庭に入る。後、時間講師として神田女学園に勤務の傍ら、日本語教師の資格をとる。


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