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 法と民主主義2009年11月号【443号】(目次と記事)


法と民主主義2009年11月号表紙
特集★放送の公共性とは何か NHKと情報法制の課題
いま放送が危ない・特集にあたって……丸山重威 ◆いまNHK問題とは何か──公共放送NHKと政治……松田 浩
◆『坂の上の雲』放映─何が問題か……中塚 明
◆NHK支配にうごめく政財界と右翼……岩崎貞明
◆女性国際戦犯法廷・番組改竄問題とは何だったのか──その経過と残されたもの……川ア泰資
◆NHK「ETV2001」改変事件と「編集権」……戸崎賢二
◆NHK受信料請求訴訟の帰趨──一審判決と憲法上の問題……梓澤和幸
◆世界の公共放送の現状 韓国、イギリス、ドイツの場合……隅井孝雄
◆情報通信法問題で立ち上がる市民たち──ComRightsとは何か……日隅一雄
◆情報通信法構想に隠された意図……砂川浩慶
◆放送を国民のものとするために──視聴者運動と放送の民主化……醍醐 聰


 
★放送の公共性とは何か NHKと情報法制の課題

いま放送が危ない・特集にあたって

 NHKが一一月二九日から、スペシャルドラマ「坂の上の雲」を放送します。作者の司馬遼太郎自身が生前、NHKの番組で「なるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品」「迂闊に翻訳すると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりするおそれがありますから」と語っていた作品です。
 しかしNHKは、二〇〇九年度から三年間にわたって多角的に企画された「プロジェクトJAPAN―戦争と平和の一五〇年」という大型企画の一環として取り上げられることになったとしています。
 「『坂の上の雲』は、国民ひとりひとりが少年のような希望をもって国の近代化に取り組み、そして存亡をかけて日露戦争を戦った『少年の国・明治』の物語です。そこには、今の日本と同じように新たな価値観の創造に苦悩・奮闘した明治という時代の精神が生き生きと描かれています。この作品に込められたメッセージは、日本がこれから向かうべき道を考える上で大きなヒントを与えてくれるに違いありません」と、NHKは企画意図を説明しています。司馬さんが語ったような「迂闊な翻訳」がないのでしょうか?
 NHKは、戦前から戦後、そして今に至るまで、国民にとって、「世界を知る窓口」だったと同時に、知らず知らずのうちに日本人全体の「常識」とか「意識」を形成し、「世論」に大きな影響を与えるメディアとして大きな役割を果たしてきました。
 「プロジェクトJAPAN」の企画では、ことし四月五日、NHKスペシャル「JAPANデビュー」の第一回「アジアの一等国=vが、日本の台湾統治を取り上げたことに対して、右翼団体の呼び掛けで、八三〇〇人余りによる集団訴訟が起こされたほか、安倍晋三元首相、故・中川昭一前金融相らが「公共放送のあり方について考える議員の会」(会長 古屋圭司会長、稲田朋美事務局長)をつくり、攻撃を始めています。
 NHKは「女性国際戦犯法廷」を取り上げ、二〇〇一年一月に放送したETV特集シリーズ「戦争をどう裁くか」第二回「問われる戦時性暴力」をめぐって、中川議員や内閣官房副長官だった安倍晋三氏の「圧力」に屈したのではないか、と問題になりました。ここでは、内部告発したディレクターや、法廷で証言したプロデューサーが配転され、結局退職することになったことも、よく知られたことです。その後も、安倍首相が自らを囲む財界人の一人の古森重隆・富士フイルムホールディングス代表を経営委員長に任命(昨年一二月辞任)したり、国会では、自民党の世耕弘成議員が「NHKスペシャルは格差とかワーキングプアの問題に偏り過ぎている」と会長に制作現場の監督強化を求めたり、磯崎陽輔議員がNHKスペシャル「セーフティーネット・クライシス〜日本の社会保障が危ない」について「偏向している」と攻撃したりするなどの干渉が絶えません。
 放送法によって「公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内放送」を行うことを主たる目的に掲げた、公共放送であるNHKに、政府や政権政党がこうした攻撃や圧力をかけるのは許されないことです。「国民のための公正なNHK」が侵されてはなりません。
 一方では、放送全体に関わる法改正が動き出しています。
 総務省・情報通信政策局が二〇〇六年八月に設置した「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」は、二〇〇七年六月、電波法・放送法・電気通信事業法などに分かれている放送・通信関連の法律を「情報通信法」(仮称)に一本化する中間とりまとめを公表しました。「通信と放送の融合」の時代にこたえようというものです。
 そして、二〇〇九年八月選挙の結果登場した鳩山内閣は、電波の割り当てや放送免許など通信・放送行政を米国の連邦通信委員会にならった独立の行政委員会に移す「日本版FCC構想」を明らかにしています。
 しかし、この政策については、委員会の構成や任命の仕方をどうするかの問題がある上、権限についても課題があります。内藤正光総務副大臣は九月二二日、市民メディアが開いた「東京メディフェス2009」の講演で、「放置すると被害が急速に進んでしまうような場合には、例外的に通信・放送委員会が何らかの対応を取れる権限を持ってもいい」と述べています。そうなると、民放も含めて「放送への介入」が心配です。
 こうした論議の中で、公共放送と民間放送二本建ての日本の放送の在り方や、市民メディアの位置づけ、受信料制度の在り方など、技術が発展した環境の下での放送制度をどうするか、あるいは既に二〇一一年七月に決まっている「アナログ波停止」をどう考えるか、どう対応するかも、大きな問題として浮かび上がっています。
 日本の放送が、「電気紙芝居」と揶揄されるような単なる「大衆迎合のメディア」から脱皮し、本当に国民の知る権利を実現するものとして、世界の平和と人権と民主主義をすすめるために、政治や経済、社会の在り方に積極的に問題提起する「ジャーナリズム」の役割を果たしていくことができるのかどうか。
 このことは、NHK、民放を問わず、放送を送り出す側にとってだけでなく、ドラマ「坂の上の雲」をどう観るか、どう考えるかまで含めて、実は放送を受け取る側、視聴者である国民全体の政治的、社会的意識とも深く関わっています。この点で、公共放送が放送ジャーナリズムとして健全な発展を遂げることは、日本の民主主義を進めていく上で、非常に大きな意味を持つことになるでしょう。
 今回の特集では、このような視点から、NHK問題を中心に放送の在り方とその法制について多角的に取り上げ検討することにしました。私たちの情報環境をどう創っていくか、皆さんと一緒に考えたいと思います。

(「法と民主主義」編集委員会・丸山重威)


 
時評●近隣諸国との平和外交を生み出す市民間の交流の重要性を考える

(弁護士)青木正芳


 七月二四日から三〇日まで、「混声合唱組曲「悪魔の飽食」韓国公演と平和の旅」に応援団として参加した。
 この合唱曲は、先の大戦の時、陸軍がハルピン郊外で化学・細菌戦の研究と称して想像を絶する残酷な生体実験を実施し、中国人、朝鮮人、モンゴル人、ロシア人などの捕虜約三〇〇〇人を殺戮した第731部隊の実態を森村誠一氏が告発した著書をもとに同氏が一六編の詩を書かれ、池辺晋一郎氏が作曲した混声合唱組曲である。
 これは神戸市役所センター合唱団の依頼で一九八四年に作られ、以来、北は北海道(旭川)から南は沖縄まで都道府県単位で二〇回公演を重ねている。公演の都度、前に参加した人々が全国から自費で合唱団に参加し、今では約三〇〇人で歌い上げるという発展をみせている。宮城での公演の縁で、私は応援団として参加して来た。
 公演の指揮は、勿論、池辺晋一郎氏が行い、森村誠一氏はトークを行うという形式になる。
 今回は、ソウル・清州の二回の公演に加え、朝鮮戦争の時、ノグンリで人民軍をかくまっているのではないかとの疑いで四〇〇人を超す人々がアメリカ軍によって無差別殺戮がなされた現地の慰霊祭にも参加し、現地で実態を生き残った被害者の方から聞く調査活動と、ソウルでは西大門刑務所歴史館や安重根歴史館、一九一九年三月一日「独立宣言文」が読み上げられたタプコル公園等も訪問するという内容の旅で全国から一七八人が参加した。私は初めての韓国訪問であった。
 韓流ブームといわれる日本での状況が存するにも拘わらず、韓国ではいたるところで、一九一〇年以降のかつての日本の植民地政策の残した傷跡の深さを痛切に感じさせられた。
 西大門刑務所歴史館では、日本官憲の行った暴虐を学ぶ小中高生の姿(この学習は小中高で三回が必須とされている)に、そして私たちのガイド役を担当した韓国人の添乗員の人々の言葉や態度に、植民地支配の歴史は、未だ深く、韓国人の心を傷つけていることを感じさせられ、日本人の案内役を引き受けている自分を責める心すらあるとの事実を知らされた。
 しかし、公演の後、来場した人々や添乗員の人々から「私は、日本に対する見方が一八〇度変わりました。ありがとうございました。これからは、皆さんのような日本人がいることを周りの人に伝えていきます」と涙を浮かべて語ってもらった時は、私たちも、心を込めて手を握り合ったのでした。
 かつて、カイロ宣言(四三年一一月二七日)で、朝鮮人民の奴隷状態からの解放が表明され、ポツダム宣言(四五年七月二六日)でこれが日本の義務と確認されたことの意味を改めて考えさせられた。
 ポツダム宣言では、日本の軍隊は、完全に武装解除され、軍人は各自の家庭に帰り、平和的・生産的な生活を送ること、そして、日本国民の自由に表明する意思に従い、平和的傾向を有し、且つ責任ある政府が樹立された時は、占領軍は直ちに日本国から撤収されるとされていることと日本の現状との乖離についても改めて考えさせられることになった。
 政府間で平和条約が結ばれても、そこに生きている人々との間で、過去の問題を正しく整理し、その責任を認め合い、その上で信頼関係を築くことなしには、真の平和的つながりは実現しない。
 今、日本がアメリカとの対等平等の関係を実現し、日本からアメリカ軍が撤収することになったと仮定したら、日本は再び再軍備路線を突っ走るのではないかとの危惧を抱く人々が近隣諸国の人々の中に存在するとも伝えられている。
 先の中国の南京・北京での公演の時、交流した人々との間でも感じたことであるが、今回の旅でも改めて侵略戦争、植民地政策に走ったかつての日本の歴史を日本人が心して学び、過去を忘れずに未来を拓くための市民レベルでの交流に努め、この市民間の外交が政府間の条約の基礎にしっかりと定着しなければ、真の平和外交は成立しないことを痛感したところである。   (あおき まさよし)


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

「田舎弁護士」二代

弁護士安田純治先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1972年。沖縄第1回知事選挙にて。若々しい安田先生。向こうに革新共同の相棒田中美智子議員。握手しているのは瀬長亀治郎衆議院議員の後ろ姿。

 福島は今や新幹線で東京からわずか一時間半。駅はホテルや商業施設を持つ。駅周辺開発が進んだが妙に大味で人通りも少ない。安田純治先生の事務所までタクシーで向かった。「ああーあれだ」無愛想な運転手さんが無線で所在を確認してくれた。木造モルタルの二階建て、一昔前の建物。玄関を入るとあがりがまちがあり、床は古い板敷き、目の前に二階に上がる階段がある。二階が執務室。奥の事務室から返事がある。床を歩くとぎしぎしとなる。階段の下には届け物の大きなコメの袋が二つ、自家用飯米と書いてある。左手が応接スペース。部屋の半分に机があるが後は空いている。思わず「すごくなつかしい建物ですね」と私。
 安田先生は「三年前に使ってくれと言われて移って来ました」「松川事件の被告人斉藤千さんの土地で建物は中小企業福利協会が入っていました。斎藤さんが老齢となり、頼まれてね」松川事件救援活動の拠点でもあったこの場所に安田先生は最後の事務所をおくことになった。一九三一年生まれの安田先生は松川事件発生の時一七歳、今年七八歳。
 安田先生の父安田覚治は弁護士だった。一八九〇年生まれ。小学校六年で向学心に燃え家出をして相馬から線路を歩いて東京に向かった。途中貨車に乗って上野に着く。偶然同じ村出身の上野駅前の薬屋に拾われて医者の書生になり、日大専門部に入って弁護士になった。大地主同士の事件もやったが「大地主や官憲の横暴に対する義憤や人道主義の立場に立っていた」。「弁護士の世界では、戦前戦後を通じて少数派・反主流派だった」。
 安田先生は一九三一年福島市で生まれた。純治君は上に兄と姉二人、末っ子のぼっちゃんだった。一二歳年上の兄は中央大学の法科に進み母はそれについて東京に住んでいた。姉たちも東京で学校に行っており純治少年も上京、鷺宮の小学校に入学する。ところがその小学校は軍人の子が多く純治君を馬鹿にする。純治少年もきかん気でケンカになる。勉強もしない。五年生で福島の父の元に返され、福島師範学校付属小学校に編入する。ここは物凄い軍国主義教育の小学校だった。竹刀で殴られるのは日常だった。東京の小学校から来た革靴を履いた少年はここでも孤立する。六年になって進路を決めるとき純治少年はとにかく福島から逃げたい一心だった。兄は学徒動員で戦争に行っていた。純治少年はすぐにでも入れる学校に行きたい。「古河航空機乗員養成所」一二歳で入学できた。付属からは二名が合格し、純治少年は勇んで福島を後にした。一九四三年四月である。父は「まだ早い。どうせ行くんだったら士官学校へ行ってえらい軍人になれ」と反対。
 そこは軍隊だった。二年間軍隊式に鍛えられた。一九四五年三月東京大空襲は花火を見ているようだった。その時、母と次女は本所にいた。その空襲で亡くなった。長女は千葉に疎開していて助かったが、兄は生死不明だった。安田先生は今でも花火を見ると当時のことがフラッシュバックする。四月には航空学校の少年たちは二ヶ月奥日光に疎開させられる。皇太子(現天皇)も疎開していた。そして本土決戦のために古河に戻される。八月一四日夜古河に空襲が来る。近くの農家の軒下に逃げて翌朝帰ると重大放送があると言われた。航空学校には情報が入り戦況はよくわかっていた。敗戦だとすぐに理解できた。「生き延びられる」とは思っていなかった。満員列車に乗って夜中福島に帰った。「初めはとぼとぼ歩き、家の周りをしばらくうろうろしてから、わざと足音を立てながら家に入った。玄関の戸を開けると父がいた」。息子の帰りを待っていた。「興奮するな。興奮するな」父の第一声であった。軍国少年の純治君が自決でもすると思ったのか。純治君はしらけていた。
 純治君は付属の高等科二年に籍を置き一九四六年一月から三月まで学校に来れば師範学校に行けることになった。が、今まで軍国主義教育をやっていた先生が今度は民主主義を語る。「頭に来た」純治君は学校を辞めた。だから小学校卒である。「日本で一番年少の部に属する復員崩れで、フリーターの元祖のような生活」を始める。闇米の運搬、知人の誘いで亜炭炭坑に行って炭坑夫に。これがすごい。電気もない炭住に住み、テコから測量の助手、三年後に「陸に上がって」事務屋になった。他にすることがないので本だけはよく読んでいた。炭坑を辞め、女性の下着訪問販売、旅館の番頭、税理士事務所の事務員、職を転々とした。英語学校に通っていたこともある。一九五一年、二〇歳になって福島に戻った。無頼の日々を送りながら純治君は「無学歴でも小説くらいは書けると豪語していた」。福島に戻った純治君は人形劇団プークに夢中になる。そして父も関わっていた松川事件と出会うことになる。
 二二歳の時友人の裁判所の書記官に「お前も弁護士の息子だろう。将来どうする気だ。司法試験は無学歴でも受けられるぞ」と進められ一緒に教養試験を受けに行く。よく本も読み英語もやっていた純治君は合格する。が、人形劇をやったり、松川事件の支援運動をやったり、弁護士になる気はなかった。兄は戦死、父は一人で弁護士をやっていた。「弁護士の息子だから、門前の小僧よりましだろうといわれて、小集会に通って自白の任意性や特信性などを解説して歩いていた」。「松川運動の進展に伴い、門前の小僧だけでは済まなくなり」純治青年は司法試験を受けることになる。一年間必死で勉強して一九六一年合格、一六期、弁護士になったのは一九六四年三月、三三歳だった。劇団で知り合って県庁で赤旗を振っていた妻佳子とは一九五九年に結婚して子どもが二人いた。
 修習が終わるとすぐに福島に戻り父覚治の事務所で仕事を始める。安田先生は童顔である。年齢よりずーっと若く見える。苦労が顔に出ない。最初は父親とくらべられて「大先生じゃなかったんですか」と言われて苦労した。一九七二年に請われて革新共同候補として衆議院選挙に出、一九七六年当選。妻は大反対だった。二期勤め、一九八〇年まで活動した。革新共同の流れは広がらなかったが、安田先生は全力を尽くした。安田合同事務所は多くの弁護士を輩出した。父覚治は八八歳で亡くなるまで仕事をしていた。安田先生は七〇歳の時「三年後に人に迷惑をかけないように仕事を辞めよう」と事件を減らし始めた。ところが減らない。今は新六〇期の弁護士と共に仕事をこなしている。税理士の仕事もやっているので大忙しである。
 二階の一室では父覚治の書類の整理もやっている。安田先生、後一〇年お父様と同じ年まで「田舎弁護士」を続けて下さいね。

安田純治(やすだ じゅんじ)
 一九三一年八月 福島市栄町に生まれる。
 一九六一年   独学で司法試験合格
 一九六四年四月 弁護士登録一六期
 一九七六年   衆議院議員当選


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