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 法と民主主義2010年4月号【447号】(目次と記事)


法と民主主義2010年4月号表紙
特集★子どものための親権法をめざして
特集にあたって……内藤光
◆国家と家族──家族法における子の位置……広渡清吾
◆児童の権利条約からみた親権法……岩志和一郎
◆親権行使における意見の対立──医療行為を中心に……家永 登
◆親権濫用論の限界と親権制限制度の課題……鈴木博人
◆離婚後の共同親権──イタリアにおける共同分担監護の原則から……椎名規子
◆婚外子への親権……本山 敦
◆家事事件手続における子の参加の保障……大塚正之

  • シリーズ(16)●私の原点 若手弁護士が聴く 弁護士 鈴木亜英先生 人も虫も好き 権力に屈しない 昆虫博士弁護士……川合きり恵
  • 判決・ホットレポート●国公法違反「堀越事件」東京高裁無罪判決とその意義……須藤正樹
  • 緊急報告●旧日本軍チチハル遺棄毒ガス事件 判決を前にして◆事件の概要、裁判の経緯、判決の見通しについて……穂積匡史
  • 緊急報告●旧日本軍チチハル遺棄毒ガス事件 判決を前にして◆チチハル遺棄毒ガス事件はなぜ認知されにくいのか─意識的に取り組む必要性……永野いつ香/林 公則
  • 連載●刑事法の脱構築(12)裁判員裁判シフトの終焉?──厳罰主義の後始末……石塚伸一
  • とっておきの一枚●弁護士 谷村正太郎先生……佐藤むつみ
  • 検証●冤罪はこうしてつくられた(下)『無実の死刑囚 三鷹事件 竹内景助』をめぐって……大石 進/高見澤昭治/五十嵐二葉
  • 日民協文芸●(25)……大倉忠夫・チェックメイト
  • 時評●選択的夫婦別姓と非嫡出子の差別撤廃の実現を……平山知子
  • KAZE●もう一度学ぼう沖縄の歴史と現在……工藤勇治

 
★子どものための親権法をめざして

特集にあたって

 日本の家族法は、大きな改正を見ることなく、戦後六〇年以上を経ている。一九九四年に、「子どもの権利主体性」の承認と「子どもの利益」の保障を内容とする「子どもの権利条約」を批准したものの、民法の親権規定は、明治民法時代とその基本構造は大きく変わっていない。
 日本の家族法では、子どもは、「親権」にもとづき、親の権利の客体と位置づけられ、「権利の主体」および「子どもの利益」という側面から位置づけがなされていない。このため、親権法では、「子どもの権利条約」が求めている「子どもの利益」の実現という観点からも、多くの未解決の問題が残されたままである。
 すなわち、婚外子の親権者は、原則として母親とされ、父母共同親権の制度は採られていない。また離婚後は、単独親権とされ、親権から排除された親は、子の養育に親権者としてひとしく参加することができず、面会交流権(面接交渉権)の保障も充分ではない。さらには、子の手続参加の制度もない。
 また、親権者同士の意見の不一致に対応する制度がない。虐待などの親権濫用については、親権喪失の制度があるが、親権喪失制度が機能していないだけでなく、民法と福祉との連繋が十分ではない。
 このような、わが国の家族法における親権法の大きな特徴のひとつは、婚外子の親権が母親の親権とされ、離婚後の親権についても、単独親権とされているように、子と親との法的関係が、親の婚姻の有無により、差をもうけられている点にある。もうひとつの特徴は、親が子の利益を実現できない場合に、国や社会が、親に代わって子の利益を実現するという観点に乏しい点である。すなわち、わが国では、家族への公的援助が最小限にとどめられていること、および福祉法と民法との連繋が充分ではない結果、家族内の問題解決は、個々の家族の責任に委ねられているのである。
 これに対して、ヨーロッパ諸国では、家族法を「子の利益」のための法制度にすべく改革を進めてきた。たとえば、ドイツの家族法では、かつては、日本と同様に、「親権(Elterliche Gewalt)」という語を用いていたが、七九年に「親の配慮(Elterliche Sorge)」に改められ、さらに九八年には、嫡出子と非嫡出子の区別が廃止された。またフランス法においても、一九七二年の親子法改正以後、〇一年の婚外子の相続分差別の撤廃、〇五年の嫡出子と自然子の区分の廃止など、子の利益を実現するための法制度を整備している。
 これらのヨーロッパ法の改正の特徴として、親の婚姻の有無と親子関係とを切断した父母共同責任の原則、子の主体性および手続への子の参加の保障、民法と福祉的サポートとの緊密な連繋を挙げることができる。
 すなわち、「子の利益」の実現は、第一次的には父母の権利義務とされるが、子が父母に対して有する権利は、父母の婚姻の有無の影響を受けない。離婚しても父母が共同して責任を負い、また婚外子についても共同責任の途を開いているのである。また、父母が、「子の利益」を実現できない場合には、二次的に国や社会が親に代わって「子の利益」の実現のための具体的制度を整備している。

 本企画は、ヨーロッパ諸国の家族法との比較法的視点および新しい実務的観点という多角的な見地から、これまでのわが国の家族法のパラダイムを転換し、「子の利益」のための親権法の構築の道筋を示すことを目的とする。
 まず広渡論文では、全体の問題点を見渡す包括的な視点から、ドイツ法と日本法の比較を通して、子の保護についての親の責任と国家および社会の関係を論じ、親子関係が子に対する責任関係であることを軸にして、国家・社会による支援体制の整備が重要であることを主張している。
 岩志論文は、子どもの権利条約とわが国の親権法との整合性を論じ、子どもの権利条約の理念を実現するために、わが国の親権法において何が求められているのかを指摘する。
 家永論文では、イギリス法の考察をもとにして、医療行為において、未成年の子と親権者との意見が対立する場合、親権者同士の間で、親権行使に合意を見出せない場合における「子の利益」の実現のための解決を示唆している。
 鈴木論文は、ドイツ法を視座に置き、虐待などの親権濫用の場合の親権喪失制度のあり方に疑問を提示し、親権制限制度についての提言を行う。
 椎名論文は、離婚後の親権行使について、イタリアの共同分担監護の制度から、離婚後も父母の共同参加が「子の利益」の実現に不可欠であることを提示する。
 本山論文は、婚外子の親権について、ドイツやフランスの婚外子の父母共同親権の流れをふまえて、わが国の認知制度のあり方を含めて、日本の民法の問題点を指摘する。
 最後に、大塚論文では、実務の新しい視点から、子の家事事件手続への参加の保障について、単に、子のための代理人の制度を設けても、「子の利益」を実現する実体法との連動なくしては、「子の利益」は実現されないことを指摘している。
 いずれの論文も、「子の利益」を機軸とする新たな親権法の地平線を開く意欲的な論理が展開されている。今後、親権法を考える上で、また実務における「子の利益」の実現のために、新たな視点を指し示すものといえよう。
 ご多忙中にもかかわらず、ご玉稿をお寄せいただいた各氏に感謝する。

(『法と民主主義』編集委員会・内藤光博)


 
時評●選択的夫婦別姓と非嫡出子の差別撤廃の実現を

(弁護士)平山知子


 法務省がようやく選択的夫婦別姓の実現に向けて、民法改正案を出すらしいと、報道されている。私が日弁連の両性の平等に関する委員会委員長をしていた一九九六年の日弁連人権大会で選択的夫婦別姓導入と非嫡出子の差別撤廃を求める民法改正に関する決議をした。法制審議会も、こうした世論や女性たちの運動に押され、同年に、「選択的夫婦別姓を含む民法改正案」を答申したのである。しかし、右翼的宗教団体などのすさまじい反対運動が草の根的に展開され、自民党の反対(自民党の一部には賛成する議員もなくはなかった)で、ついに日の目を見ることなく、葬り去られた。その後も毎年のように超党派野党で改正案を提出してきたが、廃案とされてきた。
 あらためて言うまでもないことであるが、日本の民法では、「婚姻」する際には、夫婦いずれかの姓を名乗ることが強制されている。いずれかといっても九六%は夫の姓を名乗っている。
 私が結婚したときはすでに旧姓で弁護士登録をしていたので、数ヶ月婚姻届を出さず「事実婚」で抵抗したものであったが、結局夫の姓を名乗って婚姻届を出した。当時は、弁護士会でさえ、通称は認められず、戸籍名でしか仕事ができなかったのである。大変な不便と労力を費やした経験がある。
 名前は、人間の個人を表象する大切なものであり、個人の尊厳を守るという憲法の大原則から考えても「人格権」として尊重されるべきものと思う。私の三人の子どもの場合も、一生懸命考えて名前をつけたのである。二人の娘は結婚して、選択的夫婦別姓が実現するまで……と、何年間も事実婚で頑張ってきたが、最近遂に、婚姻届を出さざるを得なくなった。一人は子どもが生まれるということ、一人は「配偶者の扶養」の関係からである。仕事上は通称を使っているものの、保険証、通帳、パスポート(今は旧姓も併記できる)などは戸籍名となる。
 いまや、世界的にみれば、夫婦同姓が強制されている国は、日本の他は、インドだけとなった。上記の日弁連の決議の頃は、法務省の調査ではタイも同姓強制の国と聞いていたが、そのタイも二〇〇三年からは、選択的夫婦別姓となっている。
 自民党や右翼的潮流の反対論は、「家族の絆が壊れる」と言う。その人たちに問いたい。あなた方は、家族の絆を「同一の姓」で縛らなければならないほど弱いものしか築けないのかと。そもそも、国際結婚をした場合には、現在でも法律的には夫婦別姓なのである。
 また、同姓が「日本の伝統である」などと言う人もいる。しかし、明治以降戸籍制度ができてからの話であり、それも「家制度」と深く結びついている。江戸時代以前は、庶民は姓がないことが普通で、武士社会でさえも結婚により姓は変わらなかった。「北条政子」や「日野富子」が良く例として出される。
 もちろん女性の中には、結婚願望から「改姓願望」を持つ人もいる。「選択的夫婦別姓」は、同姓を望む人は同姓を選んで貰える制度なのである。逆に別姓を希望する人に「同姓」を法律で強制しないようにするということだけなのだ。それなのになぜこれほどの抵抗があるのか。やはり「家制度」への郷愁と憲法二四条敵視論が底流にあるのではないだろうか。
 また、今回の民法改正では、ようやく非嫡出子の差別をなくすことも含まれている。子どもの権利条約に則り、国連から何度も差別是正の勧告を受けながら、放置をしてきたこれまでの政権政党の責任は大きなものがある。
 まだ与党内でも反対もあり、難航は予想される。しかし、今度こそ、選択的夫婦別姓と非嫡出子の差別撤廃を含む民法改正を、必ず実現したいものである。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

真実を極めるまで

弁護士谷村正太郎先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1975.8.3 芦別事件現地調査。上告審まで23回も行われた。井尻場は空き地になっていたがそこに白いテープで部屋の区画を作り弁護士が説明した。右にいるのが谷村先生。

 谷村先生はメモを作って私を待っていてくれた。横罫紙に「趣味は」とか「面白かった本は」「大事な本は」とか質問を想定して回答をメモしてあったらしい。私の質問は行き当たりばったりであちこちに飛ぶ。二時間以上も話し込んでから先生はそのメモを確認して、聞かれなかったことをご自分で補充する。「民事・刑事事件実務の一貫して丁寧で丹精込めた仕事ぶりにいつも敬服している」と事務所の弁護士にいわれる谷村先生である。
 二〇〇九年五月まで二期四年、東弁・二弁合同図書館館長だった。「ほんとに面白かった」本好きの先生はうれしそうに言う。一九三五年生まれ、今年七五才になる。弁護士になって五〇年。少し体調を崩して生まれて始めて入院、仕事を減らして無理をしないようにしているという。山登りが趣味で健脚の先生は「歩くのが遅くなって」病気に気づいた。「リューマチっていわれたんだけどどこも痛くないし」。
 先生の故郷は渋谷区代々木山谷町。生まれるちょっと前まで東京府豊多摩郡代々幡村大字代々木字北山谷だった。少し北に行くと京王電車、玉川上水、甲州街道が並行して走っていた。先生は長男で下に弟と妹がそれぞれ二人いる。一九四五年五月の大空襲で一帯は焼け野原になった。正太郎君と弟二人妹は母静枝の実家のある静岡の牧ノ原に疎開していた。富士山をめざしてサイパン島から飛んでくるB29を茶畑に隠れて見ていた。終戦はそこで迎える。「大きくなったら兵隊さんになって死ぬ」と思っていた正太郎君。神風も吹かないまま日本が負けたことがよく理解できなかった。夏休みが終わり学校がはじまった。「当時、小学校には修身という学科があり、日本は万世一系の天皇が治める、世界に比類のない国であり、米英は鬼畜であると毎週教えられていました。ところが、戦後その先生は、何の反省の言葉もなく、進駐してきたアメリカ人と交際するときのエチケットについてという授業を始めました。私は強い衝撃を受け、以降、先生のいうことだから、学校の規則だから、国の決めたことだからという理由だけでは何事も信じない、自分で考えて納得のいくことだけを信じようと決意しました」一〇才だった。
 正太郎君の父親谷村直雄は、中央大学法科を卒業して花岡敏夫法律事務所に所属する弁護士だった。治安維持法弾圧事件の学生の弁護がきっかけで中央統一公判の弁護人になっていた。一九三一年に四谷法律相談所を設立して解放運動犠牲者救援弁護士団の書記長を勤めていた。一九三二年に八月に治安維持法違反で逮捕、一〇月に起訴され、一年余の未決拘禁後翌三三年一二月に懲役二年執行猶予三年の判決を受けた。執行猶予中で失職中の一九三四年に母静枝と結婚した。正太郎君は執行猶予中に生まれた。静枝は日本女子大を卒業し当時としてはめずらしい東京市社会局に勤める職業婦人だった。直雄の仕事を理解し支え続けた。直雄はしばらくじっと息を潜めて生活するしかなかった。その父は一人代々木山谷町に残っていたが無事に終戦を迎えた。「敗戦後は自由法曹団の幹事となり、三鷹事件の弁護に参加、主任弁護人の一人となった。一九五〇年、私は中学生であったが、一審無罪判決の日に父が喜んで帰って来たこと、ただ一人有罪となった竹内景助氏を気づかっていたことを記憶している」。一九五五年から渋谷区の区議会議員を一二年つとめ、PTA、地域活動、地域医療の仕事、国民救援会の東京都本部会長等、弁護士以外の仕事でも多忙だった。家には人の出入りが多く、どんなことにも親身になって相談に乗る直雄の活動は経済的にも大変な生活だった。
 子どもたちは自由放任、父の背中を見ながらそれぞれの道を進んだ。正太郎君は代々木中学から戸山高校に進み、東京大学法学部に進む。もちろん弁護士をめざした。教養学部では社研に属し法学部に進んでからは民科に。一九五八年に司法試験に合格し、一三期、静岡修習だった。裁判官にも惹かれたが何しろ父親が「筋金入りでは」。自由法曹団の弁護士になるべく東京合同法律事務所に入所する。
 一九六一年、同期の渡辺脩、高橋清一と一緒の入所だった。事務所に行くと先輩弁護士はそれぞれ事件をかかえ全国を飛び回り事務所には三人の新人が残された。それもつかの間それぞれ怒濤の弁護士生活がはじまる。自由と人権を守る闘いと一般事件、三人の新人弁護士は現場に放り込まれることになる。そして一九六二年の春、谷村先生は芦別事件の応援に札幌に派遣される。一人で白鳥、芦別事件を担当していた杉之原舜一先生との出会いもその時である。札幌・東京間片道二〇時間、青函連絡船を使って往復する生活がはじまる。月に一度時には二カ月に一度。芦別事件は控訴審の終わりの段階から、白鳥事件は再審の準備から。先生の一七年にわたる奮闘が始まるのである。
 芦別事件では刑事事件で無罪になったが国賠で二審逆転敗訴に終わる。白鳥事件では、二三年におよぶ村上国治さんの無実の訴えが再審でも斥けられるという辛苦に遭った。「裁判運動は生き物であり、それ自体で完結した総括に値するし、また是非ともそうあらねばならない。その後の再審運動一般の成果などに解消して正当化してはならない」。そして先生はその思いのうえに日弁連を舞台に再審運動に心血を注ぐことになる。先生が書かれた「再審と鑑定」二〇〇五年発刊を読むと地を這うような緻密な弁護活動と支援運動に対する目配り、人に対する温かくて深い目線に心打たれる。パソコンもコピーもない時代、手書きで記録を書き写し、一〇〇〇枚のカードを作り扇風機に飛ばされないように窓も開けないでやった最終準備書面作り、現地調査や証人探し、科学鑑定。事務局長としての仕事。超人的である。
 「弁護士二年目で、はじめてこの事件に参加した当時の私はまことにしょうがない存在でした。それまで生活の苦労はしたことがないし、口はわりあい達者だし、生意気が背広を着て歩いていたようなものです」。「私は事件を通じて多くのことを学びました。なかんずく人間の生き方について」。
 手塚治虫全集全四〇〇巻、長谷川町子全集、のらくろ全集が先生の宝物。ゲド戦記のアーシュラ・K・ル=グウィン「西のはての年代記」がお薦めの本だそうです。柔らか頭の正太郎君の面目躍如である。
 先生はいまだに父直雄を超えられないと言う。権力や不正義に対する怒りと実践力が違う。弁護士として胆のすわり具合が違う。先生、私たちはその先生を超えられません。

谷村正太郎(たにむら まさたろう)
1935年東京都生まれ。58年東京大学法学部卒業。61年弁護士登録(13期)。白鳥事件の第1次再審請求の際、弁護団事務局長をつとめた。日弁連再審法改正実行委員会副委員長、同人権擁護委員会委員長、東弁・二弁合同図書館館長などを歴任。
著書「再審と鑑定」(日本評論社、2005年)。


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