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 法と民主主義2010年7月号【450号】(目次と記事)


法と民主主義2010年7月号表紙
特集★核兵器廃絶をめざして──2010年NPT再検討会議
特集にあたって………編集委員会・丸山重威
◆核兵器をめぐる情勢──2010年NPT再検討会議が残したもの………藤田俊彦
◆核兵器と法をめぐる論点──国際法と憲法の関連をさぐる………浦田賢治
◆核兵器廃絶への道筋──モデル核兵器条約によるアプローチ………山田寿則
◆核兵器禁止条約の実現を目指して──世界平和アピール7人委員会のアピールに関連して………小沼通二
◆NPT再検討会議ニューヨーク行動 参加法律家の団長として、被爆者と寄り添い戦った弁護士として………佐々木猛也
◆NPT再検討会議の到達点と今後の課題──日本の法律家として………大久保賢一
◆特別寄稿・日米関係の基礎に「核密約」があった………新原昭治
■資料・2010年核不拡散条約再検討会議最終文書(訳:特定非営利活動法人ピースデポ)

  • 連載●刑事法の脱構築(15)刑事法における「市民」の包摂と排除の統治戦略──ポスト厳罰主義時代に向けて──………櫻庭 総
  • 新連載●裁判員裁判実施後の問題点 No.2 保釈と自白の新たな関連………五十嵐二葉
  • 判決・ホットレポート●生存権裁判の現段階──生活保護法56条違反の争点を中心に………新井 章
  • 判決・ホットレポート●大阪・泉南アスベスト国賠訴訟 控訴断念まで後一歩 2週間の闘いとこれからの決意………伊藤明子
  • とっておきの一枚●被団協事務局次長 岩佐幹三先生………佐藤むつみ
  • 追悼●北野弘久先生 北野弘久先生を偲ぶ………浦野広明
  • 追悼●北野弘久先生 「増税反対総決起集会」となった北野弘久先生を「おくる会」…………鳥生忠佑
  • 日民協文芸●(27)………柳沢尚武/なめきみきを/新倉 修/大倉忠夫/チェックメイト/大山勇一
  • インフォメーション●第6回「相磯まつ江記念・法民賞・特別賞」授与式 等
  • 時評●「修習生の給費法」を守れ………角銅立身
  • KAZE●「歌う明日」を目指して………海部幸造

 
★核兵器廃絶をめざして──2010年NPT再検討会議

特集にあたって
 現代に生きる私たちにとって、「核兵器廃絶」は人類の存亡に関わる重大な問題である。いまなお世界に存在する核弾頭は米科学者連盟の推定で、二万二六〇〇発といわれ、核保有国は、米、露、英、仏、中の五カ国から、既にインド、パキスタン、核保有が濃厚とされるイスラエル、核実験の成功を宣伝した北朝鮮へと広がっている。
 オバマ米大統領は二〇〇九年四月、初めて核兵器を使用した当事国としての責任に触れ、核兵器廃絶の方向に踏み出すことを世界に宣言した。「核抑止論」という「神話」にとらわれていた米国の現役の指導者が「私の生きている時代には実現しないかもしれない」といいながら、「核廃絶」を語ったことは、歴史的な事件だった。しかし、「核兵器廃絶」の課題は、彼が「生きている間」などという悠長な話ではない。直ちに、ヒロシマ、ナガサキの体験者が生存している間に、実現しなければならないことである。オバマ大統領へのノーベル賞の授賞はその課題を確認したものだった。
 事態は容易ではない。米国は、インドには原子力協定を結んで協力しながらイランの「平和利用」は拒否したり、韓国や日本の非核化は抜きに北朝鮮の核保有を禁じようとする。今年三月の「核態勢見直し」では、「核兵器の役割、数を低下・減少させるよう努める」としながら、「より信頼できる抑止力」の維持を目指すという。「核拡散防止」も、ともすれば、「テロリストに核兵器を拡散させない」という論理にすり替えられかねない。
 しかし、一方で情勢も変わっている。五年前、決裂したままで終わったNPT再検討会議は、ことしは被爆者など日本からの二〇〇〇人を超す人々も加わったNGOの集会やデモが広がる中で開かれ、いくつかの成果を上げた。NGOの声を聞く国連の会議では、被爆者の谷口稜曄さん(八一)が、被爆当時の自らの写真を示しながら、「私はモルモットではない。でも、どうか目をそらさないでみてほしい。人間が人間として生きていくためには地球上に一発の核兵器も残してはならない」と演説し、感銘を与えた。民衆が世界を動かす時代が、すこしずつ始まっている。
 国連は昨年九月、核軍縮についての特別会合を開き、鳩山前首相は「日本は核兵器開発の能力があるにもかかわらず、核軍拡の連鎖を断ち切る道を選び、非核の道を歩んできた。それこそが、唯一の被爆国としての道義的な責任だと信じたからだ。私は日本が非核三原則を堅持することを改めて誓い、核廃絶に向けて先頭に立つ」と表明した。世界の非核地帯条約は次々と発効している。
 あらゆる状況を含め、問題の解決は「核兵器全面禁止」以外にないことが次第に明らかになっている。軍縮国際法や国際政治の面からの検討は、既に単なる政治論ではなく、核兵器廃絶条約のモデルが提示されるところまで進んでいる。欧州各国は次々と戦術核兵器の撤去に動き、米ロも軍縮条約を進めざるをえなかった。少なくとも文明国にとって、「核兵器は使えない兵器」は既に常識である。
 普天間基地をめぐる「混迷」が鳩山内閣を崩壊させた。政府は新たな日米協定を結んだが、沖縄に新たな基地を建設することはもちろん、国内に米軍基地を受け入れる場所はない、ということも冷厳な事実である。この議論の中では、基地問題の本質が、実は、日米安保条約に基づくものであることが明らかになった。長い間続けられてきたジャーナリストと学者による日米間の「核密約」の追及の結果、「有事の際の沖縄への核持ち込み」の密約が、安保条約と沖縄問題の基礎にあることも明らかになっている。
 人類が「核」という悪魔のエネルギーを手にして六五年。ヒロシマ、ナガサキから六五年の夏を迎え、われわれ日本人には、改めて「核兵器廃絶」について学び、その展望について確信を持ち、世界に向かって発信していくことが求められている。菅直人首相と日本政府が、名実ともにその運動の先頭に立つことが求められていることも改めて言うまでもない。
 「法と民主主義」では、「核兵器廃絶」について何度か取り上げてきたが、核兵器廃絶に向けた大きなうねりが高まっているいま、改めて、核兵器をめぐる国際情勢、核兵器廃絶の焦点、NPT再検討会議をめぐる動き、ならびに日米間の「核密約」などについて、それぞれの分野の第一人者の皆さんに報告をお願いし、現状と運動の方向性を明らかにしようと考えた。
 二〇一〇年夏、「平和」と「核」と「日本、そして人類の未来」を考える多くの人々にとって、この特集が日本中に核兵器廃絶の「声」を広げ、その「道筋」についての確信や決意を広げていくための「ハンドブック」として活用されることを期待している。

(編集委員会・丸山重威)


 
時評●「修習生の給費法」を守れ

(弁護士)角銅立身

 二〇〇四年に行われた裁判所法の改正では、二〇一〇年一一月一日から司法修習生に対する給費制を廃止し、これに代わって貸与制を導入することになっている。このような給費制廃止は、若者にとって、ただでさえ狭い「法曹への道」を閉ざすことになるものであり、絶対に反対である。弁護士のみならず法曹界あげて、この給費制廃止の実施を阻止すべきだと考える。
 「司法改革」の一環として実施された法科大学院については、さまざまに議論されている通りだが、二〇〇六年度に七万人を超えていた法科大学院志願者は、年々減少して、二〇〇九年度には二万人台まで減少した。この要因は、四年制の大学を終えて法科大学院に進学しようとすれば、さらに二年ないし三年間、巨額な学費を払わなければならないという深刻な問題があるからにほかならない。
 日弁連・司法修習委員会が、二〇〇九年九月、新六二期司法修習生との座談会に出席した司法修習生五二人を対象にした調査では、うち五五・八%に当たる二九人の司法修習生が、既に法科大学院在学中に奨学金制度を利用しており、利用者が貸与を受けた額は、最高では一〇八〇万円、平均でも三三〇万円に上った。
 また、本年一一月一九、二〇日に実施する事前研修に際し、同研修受講予定者である新六三期司法修習予定者を対象にしたアンケートでは、回答者一四八一人中、五二・六%に当たる七七九人が「法科大学院在学中、奨学金を利用した」と回答。具体的な金額を回答した七六四人で見ると、貸与を受けた額は、やはり最高では一〇〇〇万円、平均で合計三一三万六〇〇〇円に上っていた。
 この事態は、法科大学院生が既に厳しい経済状況に置かれていることを示しており、大学でも貸与の奨学金を受けている可能性を考えれば、卒業後に返済を求められる奨学金は、数百万から一〇〇〇万円レベルに達していることになる。
 今回の司法修習生への給費の廃止は、これに加えて、法科大学院を卒業して司法試験に合格し、司法修習生になっても、さらに「借金を重ねろ」ということであり、その意欲を大きく削ぐ制度と言わざるを得ない。強い正義感と固い信念、それに優れた能力を備えた有為で多様な人材が、経済的な事情から法曹を志すことを断念せざるを得ないとすれば、実に重大な事態である。
 高度の専門的能力と職業倫理を備えた法曹を養成するのは、国家的な課題である。改正に当たっては、さすがに衆参両院とも「給費制の廃止及び貸与制の導入によって、統一、公平、平等という司法修習の理念が損なわれることがないよう、法曹養成制度全体の財政支援のあり方を含め、関係機関と十分な協議を行う」ことを求めた付帯決議を付けている。
 若干私自身のことを言えば、官立秋田鉱山専門学校採鉱科を卒業し、古河鉱業大峰炭鉱の甲種上級保安技術職員になったのち、司法修習生になったという経歴を持っている。現在であれば、三年間の法科大学院生活が必要で、その上に二年間の司法修習が加わることになる。
 この道を歩き出したころの私自身のことを思えば、安定した職を辞めて、これから合計五年間、生活費もなく、借金を増やしてまで、弁護士になろうとする選択をするだろうか、と考えると暗然とした思いにとらわれる。
法科大学院制度によって、既に、そこに進むためには、二ないし三年の学費を賄える環境にある者しか法曹にはなれない、という状況を生んでしまっている。 日弁連をはじめ、多くが「給費制廃止の実施反対」を掲げているのは、法の担い手を「富者」だけにしてはならない、ということもあるはずだ。力を合わせて実施を阻止しなければならない。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

母と妹への手紙

被団協事務局次長岩佐幹三先生 
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1936年初春、広島の自宅の庭で撮った家族の肖像である。9年後、幹三君はここで被爆した。左から従兄弟の萩原元康、祖母サダに寄りかかっている好子3才、ビロードのワンピース胸にゾウのアップリケ。後ろに父節、紋付き。正面は幹三くん。

 「母さん、好ちゃん。今年も八月六日がやってきたね」岩佐先生八一才は今年も呼びかける。被爆から六五年も過ぎた。「僕は、原爆で連れ去られた母さんたちの命を甦らせて、手を取り抱き合いたいという空しい願いを持ち続けている」
 「あの日は、動員中の工場が電休日だった。八時一五分少し前、僕は、自宅(広島市富士見町=爆心から一・二キロ)の庭にいた。飛行機の爆音が聞こえて間もなく、激しい爆風の衝撃で、地面にたたきつけられた。そこはやわらかい畑だったからたいした傷も負わなかった。五〇センチほど右にいたら庭石にたたきつけられて即死だっただろう。家の前のバス通りを挟んだ向かいの家の屋根の陰になって、奇跡的にやけども負わなかった」「母さんは、崩れ落ちた家の下敷きになっていた。『母さん!』と呼ぶと、屋根の下から『ここよ』という声が聞こえた。「屋根板をはがして逆立ちするように顔を突っ込んだ目の前には、家のコンクリートの土台の上に大きな梁が重なって、行く手をはばんでいた。わずかな隙間から一メートルほど先に仰向けに倒れている母さんの姿が見えた。つむった目のあたりから血が流れていた。どこかをひどくうちつけたのか、何を話しても目を開けず、顔をこちらに向けようともしなかった。『こっちからはもう入れんのよ。そっちで動けんの』と聞くと、『左の肩の上を押さえている物をどけてくれんと動けんのよ』そのうちに爆風の吹き返しの火事嵐が物凄い勢いで迫ってきた」「『母さん、駄目だよ。火事の火が近づいてきたよ。こっちからはもう側まで行けんよ』悲鳴に近い叫び声をあげた」「母さんは『そんなら早よう逃げんさい』と言ってくれた」「動転していた僕は『母さん、ごめんね。父さんの所へ先に行っていてね。僕も、アメリカの軍艦に体当たりして、後からいくからね』」「『好ちゃんが大きくなったら、いい所へお嫁にやるからね』」「僕はすぐに行くと言いながら、原爆の業火で生きながら焼き殺される母さんを見殺しにしてにげた」二、三日後、幹三君は焼け跡から母清子さんの遺体を見つけ出すことができた。それは「まるでこどものマネキン人形にコールタールを塗って焼いたような油でずるずるした物体だった」
 幹三君の妹好子さんは県立第一女学校に入学したばかり、土橋付近の建物疎開の後片付けに動員されていた。「どこで死んだのか、行方不明のままです」。好ちゃんを探して幹三君はただ夢遊病者のように歩き回った。被爆から一カ月たった九月六日に被爆の急性症状で倒れてしまう。母清子四六才、妹好子一二才、父節五六才はその年の五月に病死していた。幹三君は一六才、その時孤児になった。
 郊外の緑井村に住む、かおる叔母さんが幹三君を引き取った。叔父は被爆して死亡。「必死で高額の注射治療を受けさせてくれた」幹三君は奇跡的に回復する。叔母さんは戦後小学校の教師に復職し幹三君を自分の息子と共に育ててくれた。
 「戦争のお先棒をかつぐ全くの軍国少年、敵の軍艦や戦車に体当たりして戦死すれば家族は守れる」「浅はかにも死ぬことだけを考えていた。死んでも守るべき家族は死に僕は生き残った」幹三君はしばらく「精神的アナーキー状態だった」という。一九四七年、幹三君は旧制広島高校に入学する。そして焼け跡のある本屋で河合栄治郎教授の「英国社会思想家評伝」「英国社会思想概説」をたまたま手にする。「表の字が裏に透いて見えるような粗悪な仙花紙に印刷されたもの」新刊書など滅多に手にできない時にである。河合教授は東京大学経済学部の社会思想史、社会政策の教授。戦争末期特高に逮捕され長い刑務所生活を送る。肺結核を悪化させ敗戦と共に釈放されるが間もなく亡くなっている。幹三青年はこの本でほんとうに救われた。
 一九五〇年、幹三君は旧制名古屋大学法学部政治学科に進学。自主ゼミ「ラスキ研究会」を立ち上げる。イギリス労働党左派の理論的指導者で当時政治学、政治思想史の寵児だった。一九五三年卒業の年を迎える。不景気と新制四年旧制三年両学年の卒業、そして孤児の被爆者。幹三青年を雇ってくれる会社などない。
 その年の一二月所属していたゼミの五十嵐豊作先生から「金沢大学で政治学関係の助手を探している。行ってみる気はないか」と声がかった。自分の能力で勤まるだろうか。眠れぬ日が続いた。
 金沢大学に岩佐先生は四一年勤めた。金沢は保険会社にいた父の転勤で二年間住んだ町でもあった。伝統もある暮らしやすい土地である。「じっくりと実証的に研究して行く学風」が岩佐先生の政治思想史研究にドンピシャリだった。研究のテーマは二つ。どちらも岩佐先生の生きてきた原点にかかわるものである。一つはイギリス思想史、中でもイギリス議会制民主主義の歴史とベンタムの政治思想の歴史的意義の研究そしてもう一つは原爆被害の全体像の解明である。共に国民の側からとらえ直し改革や変革の理論ともなり得るものである。そして自らの思想と行動を問うものでもあった。
 被爆者は「人間として死ぬことも、人間らしく生きることもゆるされない」。生き残った多くの被爆者は「こんなに苦しむのならいっそあの時死んでいた方がよかった」と、原爆によって人間としての尊厳も権利もふみにじられてきた苦悩を訴える人も少なくない。しかしそのような苦難を乗り越えて、「核兵器も戦争もない世界」をめざしてたたかってきたのが、被爆者である。岩佐先生もその一人である。「再び被爆者を作らないために被害の実態を風化させてはならない」「そうしなければ生き残った僕は母さんにも好ちゃんにも顔向けできない」。
 岩佐先生は研究者であり被爆者運動の実践者でもあった。被爆者運動の先頭に立ちながらその思想を深化させている。研究は被爆者として生きる道標となった。
 先生は、金沢大学を退官した一九九四年から千葉に移り住み、被爆者運動にすべての力をつぎ込んできた。
 体調が悪いのに無理にインタビューをお願いした。船橋駅東武デパートの喫茶店でお話をおうかがいする。先生は持病の喘息で咳き込む。「ガンとも付き合っています」、仕事をしながら先生の研究生活を支え続けた奥様寛子さんも被爆者である。体調を崩しておられるのに一階のベンチでインタビューが終わるのを待っていてくれた。
 ショッピングカーを押して二人でゆっくりゆっくり歩いていく。ヒロシマを生きてきた二人である。

岩佐幹三(いわさ みきぞう)
1929年福岡県生まれ。53年名古屋大学法学部政治学科卒業。金沢大学助教授を経て79年同大学教授、92年法学部長。日本政治学会理事、国立大学協会第三常置委員会専門員などを歴任。現在、日本原水爆被害者団体協議会事務局次長。
著書「市民的改革の政治思想──ベンタムとイギリス急進的主義研究序説」等。


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