「法と民主主義」のご注文は注文フォームからお願いします

 法と民主主義2010年12月号【454号】(目次と記事)


法と民主主義2010年12月号表紙
特集★検察の実態と病理──真の検察改革を実現するために
特集にあたって………編集委員会・高見澤昭治
◆日本検察の特質と検察改革の視点………川崎英明
◆検察改革の方向性──世界の検察官倫理規定を手掛かりとして………指宿 信
◆検察の横暴とその背景──裁判所・メディアの責任………魚住 昭
◆三鷹事件b謀略事件に加担する検察………高見澤昭治
◆松川事件b検察の犯罪………伊部正之
◆松山事件b検察官の正義とは何か………青木正芳
◆布川事件b検察の不正義とその糊塗………秋元理匡
◆鶴見強盗殺人事件b真犯人はどこに…黒いカバンは知っている………大河内秀明
◆草加事件b少年冤罪において検察官が果たした役割………清水 洋
◆足利事件b証拠を闇に葬った検察の責任………泉澤 章
◆東電OL殺人事件b検察による接見妨害─国家賠償請求訴訟で勝訴判決………佃 克彦
◆大阪・小切手詐欺事件b「特捜検事をなめるなよ」と恫喝した“エリート検事”の敗北………大前 治
◆富山・氷見事件b非人道的捜査手法で犯人にしたてあげた検察………奥村 回
◆志布志公選法違反事件bむき出しの権力犯罪………梶山 天
◆大阪地裁所長・オヤジ狩り事件b役割を放棄し、違法捜査を推進した検察………戸谷茂樹
◆福島県ゼネコン汚職事件b特捜検察は、知事と福島県民を「抹殺」した………佐藤栄佐久
◆朝鮮総聯会館等詐欺事件b初めにストーリーありきの検察捜査………緒方重威
◆京都少年強盗致傷事件b検察官違法取り調べ訴訟………谷山智光


 
★検察の実態と病理──真の検察改革を実現するために

特集にあたって
 大阪地検特捜部の証拠改竄事件を契機として、検察問題がにわかにクローズアップされ、法務大臣の諮問機関として「検察のあり方検討委員会」が設置された。新刑事訴訟法が制定されてから六〇年を過ぎ、重態に陥っていた検察機構と検察官の実態にようやくメスが入れられようとしている。

 本来、弁護士と同じように社会正義と人権を重んじなければいけない検察官が、真実を発見し、犯罪を犯したものに対して適正な処罰を求めるというより、警察官と一体となって客観的な採証活動を軽視し、犯人と思われるものを逮捕し、誘導や強要、さらには拷問・脅迫ともいえる過酷な取調を行って「自白」を引き出すことに汲々としていると言って過言ではない。そして、何とか辻褄を合わせ、文字通り捜査官の作文としか言いようのない供述調書に仕上げることによって起訴に持ち込み、それを最後まで維持することが、検察官にとって最も重要な役割であると考え違いをしているように思われる。

 こうした、まさに糾問的な・反人権的な検察の病理は、戦後の刑事改革の不徹底によって、検察の権限縮小・分散と民主的な統制といった「検察の民主化」がほとんど行われず、戦前からの検察の機構と体質がそのまま引き継がれて今日に至ったことにその根本原因がある。

 本特集は、検察制度を改革し、国民のための検察とするためには、今何をなすべきかを明らかにするために、被疑者の取調べや公判廷で検察官がこれまでどのような悪辣なことを行ってきたか、その実態報告に重点を置いている。

 それぞれの事件についての報告は、できるだけリアルに、しかも客観的に記述するよう求め、さらに「独任官」という検察官の地位からして、できるだけ検察官の名前を明示するようお願いした。これらを見ると、新刑事訴訟法が施行された直後の三鷹、松川事件から最近の事件まで、検察の姿勢や体質は一貫して変わっていないことが理解されるはずである。なお、本来取り上げるべき事件が取り上げられていないとか、もう少し詳しい記述が欲しいというご意見もあると思われるが、様々な事情によって、限定的なものになったことをご理解いただきたい。そのことも配慮し、検察問題を一貫して追及してきた魚住氏には、これまでの経験を踏まえて、総括的に検察の問題点を指摘していただくとともに、なにをどう改革すべきかを論じてもらった。

 本特集では、さらに日本の検察の特質を明らかにし、改革の必要性と改革の視点を川崎教授に提起してもらい、また検察改革を進めてきた国際的な取組みの状況と諸外国で取り入れられている改革の具体的な内容を指宿教授に紹介していただいた。

 瀕死の状態にあるとも言える検察制度であるが、この機会に抜本的な改革が行われないならば、この間、次々と冤罪を生み出し、数多くの善良な国民の犠牲のもとに営まれてきた日本の刑事司法の病態をさらに悪化させ、国民はさらなる犠牲を強いられることになることは間違いない。

 わが国の刑事司法は、そうした検察が起訴した事件の有罪率が、九九・九%、逮捕状の却下率が〇・〇四七%、捜索・差押請求の却下率が〇・〇二二%というのが実態である。それをみても、検察ばかりでなく、裁判所・裁判官にも改革すべき大きな問題があることは明らかである。また、冤罪を生み出す背景には、常にマスコミが存在することも指摘されているとおりである。

 真の検察改革を実現することによって、刑事司法が少しでも健全かつ適正なものに近づき、人権と社会正義が護られる社会が実現することに、本誌が少しでも寄与することを期待したい。

(「法と民主主義」編集委員会 高見澤昭治)


 
時評●国境を越えて 人たるに値する労働条件の確立を

(弁護士)板井 優

 二〇一〇年一一月一三日、日本労働弁護団は今年の労働弁護団賞受賞の弁護団の一つとしてスキールほか(外国人研修生)事件弁護団を表彰した。表彰状は、これらの弁護団が「入管法上労働者でないとされていた外国人研修生について、労働者性を認めさせて、労働基準法及び最低賃金法を適用すべきとの極めて重要な判決を獲得」したことを挙げている。

 このうち三和サービス事件は、二〇〇九年三月一八日津地裁四日市支部、一〇年三月一八日名古屋高裁判決があり、スキールなど天草中国人縫製実習生事件は、二〇一〇年一月二九日熊本地裁判決、一〇年九月一三日福岡高裁判決がある。

 このうち熊本県天草で起こった事件の、中国の縫製工場で働いていた谷美娟(グ・メイチェエン)さんは、中国の派遣会社に日本円で七〇万円(グさんの月収の三年分)を親戚などから借りて支払い、身元保証人の従兄は日本円で二六二万五〇〇〇円の損害賠償予約をして日本にきた。二〇才前後の女性たちは、縫製工場で朝は午前八時半から夜は一〇時まで、遅いときは午前三時まで働かされ、給料は月に六万円、残業代は時給三〇〇円で、社長からは「バカだから給料が安い」と言われた。やっと貰った給料も銀行預金に振り込まれ、通帳と印鑑は社長が管理し、社長が無断で流用した。寮は一部屋一二人で自炊、お風呂は一人用ということで、二〇〇七年八月には実習生の三人が倒れ、とうとう寮を逃げ出した。

 まさに、奴隷労働そのものである。

 逃げ出した彼女たちは、最初は日本で中華料理店を営んでいる中国人に匿われ、さらに裁判の闘いも含め多くの日本人が彼女たちの住居やアルバイトなどを世話して支えてきた。彼女たちが一番訴えたかったことは「私たちは人間です」ということである。

 こうして、長い裁判闘争の末、彼女たちは勝訴判決を勝ち取った。そして、一審勝訴後、彼女たちは東京で入管局長と会い、事態の解決を求めた。史上初めてともいえることであった。

 彼女たちは、司法修習生の給費制存続を求める二〇一〇年九月一二日の熊本県弁護士会主催の集会で、自分たちの闘いを支えてくれた熊本の若い弁護士たちに感謝し、このような弁護士たちを生んでいける制度の存続を訴えた。

 ところで、今年九月七日、中国漁船が尖閣諸島海域で海上保安庁の巡視艇に故意に衝突してきたとして、同漁船を拿捕し、船長を逮捕した。

 これに対し、中国側は世界市場の九三%を独占する希土類の対日輸出を中止すると宣言するなどする中で、日本側は船長を釈放した。メディアは日本側の弱腰外交と一斉に報道した。

 まさに、日中が戦争を始めるかどうかというマスコミすら現れた。こうした中で、クリントン国務長官・前原外相会談で、「日米安保条約による日本領土保護は石垣島はじめ南西諸島群にも適用される」と確認し、マスコミにリークされた。

 これは、東北アジアで国家間の利害が対立した時に、集団的自衛権でもって対応する図式が出来たことを意味するものでもあった。しかし、果たしてそれでいいのか。日本がアメリカの核の傘の下にあるとする「脅威論」で果たして問題が解決するのであろうか。

 東北アジアで、国家間の深刻な利害の対立が起こった時に、武力以外の方法で問題解決を図っていく集団的安全保障方式をこの地域で粘り強く確立して行くことが求められているのではなかろうか。

 わが国では、かつての戦争の犠牲者でもある強制連行事件などで、日本人が中国人等のために日本で裁判を行い人権擁護のために闘って来た歴史がある。

 今、外国人労働者の人権をめぐる闘いも同じようにお互いを人間として尊重して行く闘いである。こうした闘いの無数の積み重ねが武力行使という選択肢ではなく、話し合いによる問題解決方式を支える貴重な実践ではなかろうか。

 国境を越えて人たるに値する労働条件を確立して行く闘いは、人間を分断し武力による解決を当然視する考え方を克服して行く新たな実践ではなかろうか。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

「父が、まだ、中に…」

弁護士郷 成文先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

972年9月。四日市公害訴訟の勝訴判決確定後の企業との直接交渉。場所は公害激し甚地磯津の公民館。原告や磯津のお母さん達も詰めかけている。立っている3人の真ん中が若い郷先生。

 郷先生の左頬と両手、右足には空襲で受けた傷跡が今も残る。一九四五年五月一七日受傷、一三才の時だった。あれから六五年、郷先生は七八才になった。「あの日」はいつも郷先生の隣にある。

 郷先生の父鉄臣は当時四八才、東京大学工学部卒航空機研究に携わってきた技師で、愛知航空機株式会社の重役だった。「リベラルな思想の持主であった父に、戦争末期の疲労の色は薄くなかった」。住まいは名古屋の南東の住宅地域「近くの川端の桜並木だけが絢爛と輝いていた」。母芳子は岐阜市の出身、兄は東京に遊学中、姉は女学校四年、「小学四年の弟は泣く泣く岐阜市の祖母のもとに」、成文君は旧制中学の二年、一三才の少年。姉と工場に動員されていた。軍需産業都市名古屋は、戦争の最後の約一〇カ月間に徹底的に爆撃を受けた。

 大空襲の二日後の五月一六日、一家は「幸いにも焼け残った」家で夕餉の食卓を囲んでいた。「珍しく早く帰った父の晩酌の肴に困った母が、家の前の道路べりの臨時菜園から、小指の先程の未熟なそら豆を摘んできて食膳に供した。」「そのそら豆のしかとは味はわからぬ水っぽさが、妙に印象に残っている」。夜半「突然耳をつんざく警報」「また、来るのか。」「聞き取りにくいラジオの情報に耳を傾けつつ、裏庭の防空壕に」。

 その日の空襲は執拗で峻烈だった。B29の大編隊が焼け残っていた南部の市街地を徹底的に爆撃した。「突然、ターンという至近弾の音」父と成文君は反射的に防空壕を飛び出していた。必死の消火で家を守った。そして「束の間の平穏」がくる。夜明けも近い。父は「これだけやられたのだからもう空襲はこないだろう」とつぶやいた。ところがまた爆音が。「爆弾かもしれない。防空壕に入った方がよい。」「一緒にたたずんでいた姉が入り、母が入り、そして私が入った。最後に父が入って板戸をしめようとした時、ザーッと言う摩擦音がした。あわてて父が戸をしめきったかきらぬかの一瞬、ターンというカン高い音が響いて、その瞬間、私は、右足の甲に電気で打たれたような衝撃を感じた。うーんとうめいて倒れかかる父。出ろ、出ろと一声叫んだのを覚えている。狭い壕内は真昼のよう。見ると、壕の入り口に焼夷弾がはぜている。鼻をつく煙硝の匂い。自分の足を見ると、甲が真っ赤に割れて血の泡が噴いている。出なければと一家蒸し焼きの惨劇が頭をかすめた。狭い壕内は、人二人は通れない。父は、入り口でうずくまったままだ。その向こうで焼夷弾が燃え上がっている。痛む足をひきずって、出ようとするが、父につかえ、何かがからみ思うようにいかない。よつん這いで入り口まで進むと、顔の真下で焼夷弾がはぜる。思わす後退して、また進む。何秒か、何分か。夢中でよろめき出た瞬間、私の背後から、母と姉がとび出てきて、バケツの砂を焼夷弾にぶっかけるのをみた。私は、そのまま進み、裏木戸を出て道路に大の字になって、仰向けに倒れた」。

 「父と私を襲った投下弾は、エレクトロン焼夷弾であった。閉じかけた防空壕の板戸を貫通した焼夷弾の先の鉛の弾頭が、父の心臓部を貫き即死させ、更に、私の右足の甲に当たったのである。弾体部だけがはずれて、壕の入り口で火を噴いたらしい」「脱出の時、エレクトロンの燃焼が直接私の肌に触れ、両手の甲、左顔面が、火傷を負ったのである。火傷は当然重傷であった。母と姉は、奇跡的にカスリ傷一つ負っていなかった」「父の会社は、社内医療施設の看護婦二名を派遣して、私の看護に専属させてくれた」。父の縁で成文君は、重度の火傷の激痛と高熱のなかで生き延びた。母の必死の思いで成文君は岐阜に疎開する。母方の祖父は軍医、祖母なかは軍医の妻として祖父と台湾にいたこともある。当時七〇才、気丈な人だった。「お前の指は、必ずもとどおりにしてみせる」と叱咤していささか無茶とも思えるマッサージを、日夜くり返した。ところが七月一〇日、空襲が、岐阜市街地の中心部柳ヶ瀬にあった疎開先の病院を襲う。祖母と防空壕に避難するが「ひとしきり爆音が止んで、住居が燃えさかる音が迫ってきた時、祖母は腰をシャンと伸ばして」成文君をおぶって逃げる。岐阜の町は火の海、「赤く映えわたった空の上から火の粉がバラバラと降ってきた」奇跡的に、青年将校と連れの女性に助けられ二人は死なずにすむ。一カ月後、富有柿の里で成文君は八月一五日を迎える。「唯、意味もなく、涙が頬をつたった」。

 郷一家の戦後は厳しいものだった。切り売りをしながらの生活。成文君は旧制中学にもどり、家庭教師をしながら高校に進学、文学部に進学を希望するが「喰っていけない」と止められ、一九五〇年、地元の名古屋大学法学部に進学する。成文君は小さい頃から優秀だった。よく本を読んでいて理解力も高かった。入学すると朝鮮動乱が始まる。隣国の戦火に「いたたまれぬ気持ち」になる郷君。「ストックホルム・アピールを一読した時、私の心は感動に震えた」。郷君は平和運動と大学自治会活動に邁進することになる。暮らしのためにアルバイトをしながらの生活だった。なぜか成文君は大学の成績も悪くなかった。卒業を迎え就職の道もあった。が、郷君は助手として大学に残ることになる。長谷川正安先生の推薦があった。専攻は憲法学。得意のドイツ語を生かして研究に励む予定だった。ところが郷君は悩む。「鬱屈した気持ちをかかえて私は当時研究室が存在した名古屋城の堀端を徘徊した」。その頃から郷君は絵を描き始める。画作の中で「うつろな心があらわれる思いがするのでした」。そして郷君は「学究生活から足を洗い再出発する」。「ある女学校の教師」が再生の場だった。そこで同期の数学の教師愛子さんと出会う。一年後に結婚。郷君は労働組合を作り書記長に。そして六〇年安保の年を迎えることになる。よく闘ったが安保体制を崩すことはできなかった。

 郷君は息長く活動をするために弁護士になろうと決意、教師も止め退路を断って試験に挑む。一年後に合格。論文は得意中の得意、択一さえ受かれば楽勝だった。一七期である。研修所入所の時は活動歴のせいか採用通知が遅れたという。

 名古屋で仕事を始める。それからの活躍は水を得た魚状態である。刑事事件から四日市公害事件まで、広く多様な事件に関与してきた。懐の深さと幅の広さが郷先生の魅力である。画業も歌業も筋金入り。事務所にも無造作に作品が積み上げられている。妻愛子さんは定年まで教師を続け「やりたがりやのでしゃばり」の先生を支え続けた。郷先生は「衝動的感激屋で猪突猛進の類」。反戦護憲でしか生きようがない人生である。

郷 成文(ごう しげふみ)
1932年生れ。1954年名古屋大学法学部卒業。
1965年弁護士登録(17期)。四日市公害訴訟弁護団事務局担当、豊橋母子三人殺し冤罪事件弁護団長、その他ベトナム反戦市民法廷、自衛隊イラク派兵差止訴訟などにも参加。


©日本民主法律家協会