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 法と民主主義2012年11月号【473号】(目次と記事)


法と民主主義2012年11月号表紙
特集★マイノリティとマジョリティの共生を目指して
特集にあたって………清水雅彦
◆アイヌ民族の人権・歴史・文化──内なる国際化を求めて………清水裕二
◆在日朝鮮人への差別問題と共生に向けての提言………朴 三 石
◆日本政府による難民政策の問題点と共生への取り組み………渡邉彰悟
◆ムスリムという「恥辱」──公安テロ情報流出事件をめぐって………倉地智広
◆「バリア無き大学」を──障がい学生と共に歩む………新國三千代
◆未だ、無理解、偏見に晒されている同性愛者………永野 靖
◆性同一性障がい者の「生」と「性」──問われる家族のあり方………山下敏雅
◆部落解放・人間解放を求めて………中山武敏

緊急特集■みんなで創ろう「人にやさしい東京」を
◆緊急特集にあたって………編集委員会
◆憲法を守る、憲法を生かす東京を………渡辺 治
◆首都の教育再生こそ喫緊の課題………澤藤統一郎
◆都民の参加と知恵で、東京は「脱原発」の先頭に………丸山重威
◆開かれた姿勢で総合的施策を………木村裕二
◆資料
  • 判決・ホットレポート●一人一票判決をめざして………伊藤 真
  • 連載・裁判員裁判実施後の問題点●15
  • ■裁判員に量刑をさせるな………五十嵐二葉
  • スポット●「STOP! 秘密保全法共同行動」が始動………丸山重威
  • 時評●「無実の人を無罪に」できる司法へ………秋山賢三
  • KAZE●再生可能エネルギー普及促進の鍵………榎本弘行

 
マイノリティとマジョリティの共生を目指して

特集にあたって
 一 はじめに
 日本社会には様々なマイノリティが存在し、憲法一四条により差別は許されないはずである。しかし、マジョリティによるマイノリティに対する無理解・差別がまだまだなくならない。
 そこで今月号では、この差別をあらためて考察しつつ、両者の共生を目指して本特集を組むことになった。通常はごく簡単にまとめる「特集にあたって」を拡大し、本稿では本特集の意図と企画担当者としての私見を少し述べたいと思う。
 二 マイノリティ問題の所在
1 本特集における「マイノリティ」とは
 日本法社会学会編の『法社会学』第七七号が、「マイノリティと法」という特集を組んでおり、「企画の趣旨」では、「本特集は、マイノリティ(minority)を、その直訳である『少数者』で表されるような数の多寡のみではなく、マジョリティ(majority)とは異なる属性や特徴ゆえに、社会から何らかの意味で排除されたり、承認されていない存在を広く指すものとしたうえで、マイノリティの直面している困難と、それをめぐる法のあり様に焦点を当てる」?としている。本特集も同様の問題意識に立って企画を考えた。
 では、具体的にマイノリティとは誰を指すのか。この『法社会学』第七七号で論じられているマイノリティは、ホームレス、宗教的マイノリティ、人種的マイノリティ、未成年者、性的マイノリティ、女性の六種である。もちろん、先にあげた「企画の趣旨」の中で、「種族的、宗教的、言語的なマイノリティだけでなく、障がい者、性的マイノリティ、ホームレス、…、そしてありふれたマイノリティである子ども、女性、…、それ以外にも、被災者、外国人労働者、その他マイノリティとして社会運動を繰り広げる可能性のある集団には限りがないだろう」?というように、その種類は多様である。
 このことは、本特集についても言える。本特集で取り上げたマイノリティは、アイヌ民族、在日朝鮮人、難民、ムスリム、障がい者、同性愛者、性同一性障がい者、被差別部落民である。もちろん、在住外国人も障がい者も多様であるが、本特集では限定した。本特集で取り上げなかったマイノリティについては、別の特集や寄稿など何らかの形で今後取り上げることができればと思うので、今回はご容赦願いたい。

2 マイノリティ問題の何が問題か
 マイノリティの一般的問題は、一社会における多数者(マジョリティ)による少数者(マイノリティ)への差別や排除などである。多数者が「普通」とされ、少数者が「異常」とみなされる。また、両者の関係は社会的強者と社会的弱者との関係としても立ち現れる。
 この関係で日本においては危惧するのは、単純な多数決信仰である。日本においては、例えば、国会で多数決で制定された法律に対する盲従意識が強い。悪法についての反対運動をする人たちでさえ、国会で制定されると反対運動が沈静化してしまい、違憲訴訟や市民的不服従として抵抗運動が続くことは限られる。このような国民性が、橋下徹大阪市長・日本維新の会代表のような、とにかく五一対四九でも選挙で勝てば、勝った側に白紙委任が容認されるとの言説がはびこらせ、これを容認する空気も作り出されている。
 このことは、多様な生き方を否定し、少数派の権利・自由を押しつぶすことにつながる点で問題がある。特に、アメリカの「9・11事件」や、昨今の日本における治安の悪化の中で、「白か黒か」「敵か味方か」といった単純な二項対立が流行り、マイノリティへの差別・排除が助長されている。


 三 マイノリティ問題の解決に向けて
1 解決の糸口
 では、マジョリティによるマイノリティへの諸問題に対して、どのような解決策があるのか。まず法律家として言えるのは、憲法意識の浸透・定着である。もちろんこれは、憲法一四条の法の下の平等や一三条の個人の尊重規定に限らない。どんな思想や宗教も最初は少数派であり、将来多数派になる可能性があるし、また、多数派は弾圧されないからこそ少数派の保護が大事である。戦前のナチス・ドイツの経験から、人類は多数派が常に正しいわけではないことを学び、第二次世界大戦後は元々アメリカ独特の制度であった違憲審査制(少数の裁判官が、多数決で成立した法律についても、憲法に適合しない内容であれば違憲判決を出すことにした制度)が多くの国で採用されるようになった。違憲審査制の根底には、多数決でも少数派の人権を奪えないという観念がある。日本の裁判所がまずはマイノリティに対する差別制度・法に対して違憲判決を多く出すことであり、それによって国民が立憲主義に対する理解を深めることが必要である。
 次に、人間として言えることは、どれだけ私たちが他者を理解し、想像力を持てるのかということである。倉地論文の「日本人は世界のマイノリティであり、ムスリムが世界のマジョリティだ」という表現が大変わかりやすい。所、さらに時が変われば、マイノリティとマジョリティとの関係は逆転することもある。そして、人間は生まれる場所も時代も親も選べないが故、日本におけるマジョリティが、「自分はたまたま現代の日本の『普通(平均的、一般的)』の(な)家庭に生まれた」ということを想像できるかどうかである。日本に生まれても封建時代の差別される側に生まれていたかもしれないし、現代に生まれても階層国家に生まれていたかもしれないのだから。

2 本特集のマイノリティについて
@ アイヌ民族――北海道では道内各地の独特の地名から北海道が元々アイヌの土地であったことを日常的に意識するが、本特集の清水論文にあるように、アイヌ民族に対する差別は根深いものがある?。
 このアイヌ問題に対しては、まず歴史的視点が必要であろう。一一月一日の各紙朝刊で報道されたように、アイヌ民族と沖縄の人たちは縄文系の遺伝的特徴が強く、本州などの日本人は縄文人と大陸・朝鮮を経由した弥生人との混血であることが遺伝子レベルでも裏付けられたという。とするならば、先住民族であるアイヌ民族(と琉球民族)こそ伝統的日本人であり、かつてはマジョリティであり、大和民族は敬意を払うべきである。
 一方、最近、アイヌの側からは、アイヌの伝統音楽や踊りを発信する動きがある。首都圏の若者たちによるAINU REBELSは二〇一〇年に活動を停止したが、カラフト・アイヌの伝統弦楽器「トンコリ」の奏者であるOKIは、ムックリ(口琴)とウポポ(歌)の名手であった故安東ウメ子だけでなく、アイヌの若い女性四人組のMAREWREWのCDもプロデュースしている?。札幌大学では、アイヌの学生に授業料相当額を給付し、これら奨学生にアイヌ文化の発信を期待する制度を導入している?が、大学外でもアイヌの文化が広まることは今後の共生の点で興味深い。
A 在日朝鮮人――在日朝鮮人については、朴論文が中心的に論じている朝鮮学校差別にとどまらず、戦前から差別がある。さらに、最近では「在日特権を許さない市民の会」(在特会)による卑劣な排外主義的活動がエスカレートしてきている。
 しかし、弥生系の血が濃い天皇家に対する批判や、弥生系との混血である多数派日本人の自己否定を行わない在特会の不思議さはさておき、私たちは歴史的に考えれば弥生系のルーツである中国人・朝鮮人に敬意を払うべきである。在特会やネット右翼に対しては、保守系雑誌の『SAPIO』が、「元来、日本の保守は近隣諸国に心を開き、共存共栄を目指す懐の深さがあった」という立場から、櫻井よしこ氏や小林よしのり氏が批判しているのは興味深い?。まずは日本人が朝鮮学校の公開行事などを訪問し、在日朝鮮人を知ることから始めるべきである。
B 難民――渡邉論文でも指摘されているように、日本は昔から難民の受け入れについては欧米諸国と比べて冷たい国である。このことは、世界の国からすれば、人権意識の低い国と映るであろう。先にも書いたとおり、日本におけるマジョリティが「自分はたまたま現代の日本に生まれた」、したがって、生まれる場所が違っていれば自分が難民になっていたかもしれないという想像力を持つことから始めなければならないと思う。
C ムスリム――先に触れた『法社会学』第七七号では、宗教的マイノリティとして「手かざし」療法を行う宗教団体について取り上げているが、同様の事例としては格闘技と輸血を拒否するエホバの証人がある。しかし、日本においてムスリムに対する差別は、宗教的問題というより、政治的な差別といえる。このムスリム差別については、倉地論文でも触れているように、日本のマジョリティが相手(ムスリム)を知ることから始めるべきであろう。
D 障がい者――障がい者に対する差別には、見た目やマジョリティとの違いからなされるものもあれば、法的規制がなければ資本の論理から行われるものもある(労働生産性が健常者に比べて低い障がい者に対する雇用差別など)。ただ近年は、障害者基本法、障害者雇用促進法、バリアフリー法などが整備され、以前よりは差別が解消されてきているといえる。
 とはいえ、以前、ある大学で非常勤講師をしていた時、大学が障がい者を積極的に受け入れているにもかかわらず、ノートテイカー確保が不十分で、私の授業には毎年のように聴覚障がい者が受講していたのに、全員にテイカーがつかなかった(私自身は、障がい学生には必ず特別の補助プリントを配布していた)。そういった意味で、新國論文にある札幌学院大学のバリアフリー委員会の取組は画期的である。
 ところで、本特集で取り上げるのは身体障がい者であるが、そもそもこの身体障がい者と健常者とを明確に区別できるのであろうか。私自身は「健常者」に分類されるが、眼鏡・コンタクトがなければ日常生活を送れない。高齢となり杖や車いす、介護が必要となれば、そのような人たちも「障がい者」といえる。そう考えれば、純粋な「健常者」はマイノリティであり、なんらかの障がいを抱える者がマジョリティである。実は多くの人が「障がい者」であるという視点から、差別の無意味さを見いだせないだろうか。
E 同性愛者――ハリウッド映画では同性愛をテーマにした『ブロークバック・マウンテン』?や『ミルク』?が評価され、一部ヨーロッパの国やアメリカの州では同性愛者の結婚を認めるようになってきた一方で、欧米と比べ遅れているのが日本である。日本ではまだテレビの世界ではゲイがお笑いの対象として扱われることが多く、同性愛者が普通に、カミングアウトできない状況は残念なことである。
 しかし、永野論文が指摘するように、LGBT自体が人口の約五%も存在する。実は、学校や職場など身近に多くのLGBTが存在するのであり、このような生き方を一つの生き方として尊重し、私たちは向き合うべきである。
F 性同一性障がい者――この問題に関しては、私の勤務校で、性同一性障がいのある学生から性別変更の申し出があり、本人の希望通り大学として変更を認めた。学内のことなので詳しくは書けないが、この変更に対して抵抗感を示す教員がそれなりにいたのに対して、変更後の様子を聞くと、学生たちはこれまで通りの変わらない対応を取っているという。
 性同一性障がいについては、二〇〇一年にテレビドラマの『3年B組金八先生』が取り上げ、二〇〇七年にNHKの『紅白歌合戦』に中村中さんが出場することで、その存在が日本でも広く知られるようになった。また、昨今の「草食系男子」や髪型・服装におけるユニセックス化も進展している中で、かつての「男らしさ」「女らしさ」という意識が薄れ、中高年層に比べて若年層には性同一性障がいについても、抵抗感はなくなってきているように思われる。確かに、山下論文が指摘するように、性同一性障がい者の性別の取扱いの特例に関する法律には問題があるが、とりわけ若い世代に希望を感じる。
G 被差別部落民――被差別部落民をマイノリティとして扱うことには異論もあるかもしれない。しかし、歴史的に多数派・強者によって差別されてきたことから、本特集で扱うことにした。現在はかつてほど差別があるわけではないが、中山論文にもあるように、部落差別はなくなっておらず、最近も橋下徹氏に対する卑劣な攻撃があった?。
 とはいえ、この問題も、若い層は昔ほどの差別意識はなくなってきているように思われる。そして、いわれのない政治的な部落差別の歴史を正確に学校教育などで教えれば、部落差別の解消にも結びついていくのではないであろうか。
H その他――国家主導により差別・排除されている集団には、オウム真理教(現Aleph・ひかりの輪)や暴力団がある。もちろん、両者の犯罪行為は断罪されなければならないが、オウム真理教信者・暴力団組員=犯罪者ではないし、ましてや信者や教祖の子どもは無関係である。オウム排除の問題については私も既に論じたことがある?。オウム問題と暴力団問題を他のマイノリティと並列してここで扱うには違和感もあるので、また別の機会にあらためて検討できればと思う。

(日本体育大学 清水雅彦)


 
時評●「無実の人を無罪に」できる司法へ

(弁護士)秋山賢三

 二〇一二年六月七日、東京高裁第四刑事部は、ネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリ氏について再審を開始し、無期懲役刑の執行停止決定をした。検察は異議申立をしたが、裁判所はこの異議を認めず、同氏は無罪判決を待つことなく家族の待つ母国に帰国できた。一〇月から再審公判が開始され、検察は無罪論告を余儀なくされた上、一一月七日無罪判決(控訴棄却判決)が言渡されて終局した。
 この事件は、〇四年四月一四日に東京地裁が無罪判決を言渡したが検察が控訴。同年一二月二二日、東京高裁(高木俊夫裁判長)は、ごく短期間の審理を経ただけで原判決破棄・逆転有罪を言い渡した。しかし東京高裁は、一審が投げかけた数々の疑問点を全て被告人に不利益に理解し、「疑わしきは被告人の利益に」原則を踏みにじった違法・不当な判決であった。再審段階に至り、四二点の新証拠が開示されてDNA鑑定の結果、確定判決を覆す新証拠が発見され、再審開始・無罪に結実したものである。
 一連の経過は、無実を明らかに示す証拠があったのにもかかわらず、検察がこれらを隠匿して起訴したこと、検察の公判活動を無批判・盲目的に支持した東京高裁の杜撰な事実認定が冤罪の根本原因であったことを示している。
 わが国の再審法制は「開かずの扉」として、長い暗黒の歴史を刻んで来た。一九七五年五月二〇日、最高裁第一小法廷が白鳥事件につき再審の場合にも「疑わしきは被告人の利益に」原則の適用を認め、その判断は新旧両証拠の総合評価によることを明らかにし、この趣旨は、翌七六年の財田川事件にも適用された。しかも、白鳥決定は再審請求それ自体は棄却したが、財田川決定は新証拠の証明力に関わりのない範囲についてまでも踏み込んだ判断を示した上、再審開始に繋がる破棄差戻決定をした点に特徴がある。以後、わが国は「再審ラッシュ」と言われる時代を迎えたのである。      しかし、一九八四年の「再審における証拠開示は慎重にされたい」趣旨の最高検次長検事通達により検察の運用が元に戻り、再び厳しい時代に舞い戻っていた。それでも尚、二〇一〇年代に至り、足利、布川、福井女子中学生事件、東住吉事件等について、再審は再び新たな胎動を迎えつつある。その特徴は、当然とも言える再審における証拠開示の少しずつの拡大、DNA型鑑定等の科学的証拠方法が新証拠として威力を発揮し始めたこと、の二点である。
 わが国刑事裁判の有罪率は異常と言う程に高く、一審終局判決人員のうち、有罪率は九九・九%で、通常、起訴された被告人は有罪判決を覚悟しなければならない状況にある。そのことは同時に、検察が一旦起訴した以上、あらゆる手段を駆使して、ひたすら有罪判決獲得のみに邁進する運用を生み出すことを意味している。少なくない誤判・冤罪事例は、このような事情から生み出されている。ここに検察による起訴をチェックできる弁護活動の充実、冤罪を防ぐ刑事司法の構築の課題が鋭く問われるゆえんがある。 アメリカでは、一九七三年から二〇〇七年五月までの間、一二四人の死刑囚が雪冤により監獄から釈放されていると伝えられている(「なぜ無実の人が自白するのか…DNA鑑定は告発する」スティーヴン・ドリズィン、伊藤和子訳、日本評論社一五一頁)。
 重要なことは、DNA鑑定がなくても、証拠を冷静に分析することによって無罪判決に辿り着いた一審判決が存在した事実である。すなわち、「利益原則」を遵守することにより、裁判官は無辜を救済することが十分に可能だったのである。  今回の無罪の論告を聞いたゴビンダ氏は、「無為に過ぎ去った私の一五年間を返して下さい」と述べた旨報じられている。ゴビンダ氏のこの言葉は、日本に住む私達に対し、裁判に臨む姿勢を鋭く問いかけているように思われる。



©日本民主法律家協会