ひろば 2016年6月

 安倍政権が推進する国立大学の国旗と国歌


 本年5月1日の毎日新聞によると、同紙が実施したアンケート調査で、国立86大学のうち、76大学が今春の式典で国旗を掲揚し、14大学が国歌斉唱を実施したという。その内、新たに国旗を掲揚したのが4大学。新たに国歌を斉唱したのは6大学。斉唱まではしないが、国歌の演奏や独唱をプログラムに入れたのが5大学。じわじわと、「日の丸・君が代」包囲網が大学を押し包んでいくような不気味な空気がある。

 国立大学での国旗国歌問題の発端は、昨年(2015年)4月参院予算委員会における安倍首相答弁だった。「税金によって賄われているということに鑑みれば、教育基本法にのっとって、正しく実施されるべきではないか」というもの。知性に欠けるということは恐ろしい。反知性の首相であればこそ、臆面もなく恥ずかしさも知らず、堂々とこんな短絡した「論理」をのたまうことができるのだ。憲法も、歴史の教訓もまったく無視して。
 この首相発言を、盟友下村博文文部科学相(当時)が受けとめた。同年6月には、国立大学長を集めた会議で「国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」との要請となり、後任の馳浩文は本年2月、岐阜大が国歌斉唱をしない方針を示したことに対し、「日本人として、国立大としてちょっと恥ずかしい」という意味不明なコメントを述べている。教育行政を司る部門の責任者の言がこれなのだから、国民の方がまことに恥ずかしい。

 だが、愚かな政権の愚かな「要請」の効果は侮れない結果となった。心ならずも政権の意向を汲んで屈服したものは、包囲網に加わる形となって抵抗者を孤立させていく。幾たびも目にしてきた光景ではないか。
 愚かな政権の愚かな「要請」は、本来その意図とは逆の効果を生じなければならない。これまで式典に国旗国歌を持ち込んでいた大学も、「文科省に擦り寄る姿勢と誤解されてはならない」「大学の自治に介入する文科省に抗議の意を表明する」として、国旗も国歌も式からなくすという見識が欲しい。
 国立大学は結束しなければならない。文科省に擦り寄る大学の存在を許せば、当然に差別的な取り扱いを憂慮しなければならないことになる。大学が真理追究の場ではなくなる虞が生じ、世人の信頼を失うことにもならざるを得ない。

 大学とは、学問の場であり、学問の成果を教授する場である。学問とは真理追究であって、大学人には、何ものにもとらわれずに自由に真理を追究しこれを教授すべきことが期待されている。言うまでなく、この自由の最大の敵対者が権力である。したがって、学問の自由とは権力に不都合な真理を追究する自由であり、教授の自由とは時の権力が嫌う教育を行う自由にほかならない。国立大学とは、国家が国費を投じて真理追究の自由と教育の環境を保障した場である。国家は学問と教育の両面に及ぶ自由を確保すべき義務を遵守するが、学問や教育の内容に立ち入ってはならない。こうして、学問は時の政権からの介入や奉仕の要請から遮断されることで、高次のレベルで国民の期待に応えることになる。

 国民の精神的自由を保障するために、権力が介入してはならないいくつかの分野がある。まずは教育であり、次いでメディアであり、そして宗教であり、さらに司法である。この各分野のすべてが、濃淡の差こそあれ政権からの攻撃の対象とされている。この各分野への攻撃は、それ自身が目的であるとともに、戦後レジームからの脱却と改憲への強力な手段ともなっている。国立大学での国旗国歌は、政権の国家主義強化の策動を象徴するテーマとなっている。けっして、これを成功させてはならないと思う。

(弁護士 澤藤 統一郎)


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