法と民主主義2002年6月号(目次と記事)

法と民主主義6月号表紙
★特集★●国家の情報管理に異議あり―「個人情報保護法案」を点検する
■特集にあたって………編集委員会
■個人情報保護法案・人権擁護法案の憲法上の問題点………山内敏弘
■インタビュー・吉岡忍先生に聞く「情報保護法案反対運動―吉岡忍流」………聞き手・梓澤和幸
■座談会・「言論統制二法」と闘う………
   出席者―飯室勝彦/畑  衆/梓澤和幸/澤藤統一郎
■資料

 
時評●国民を主権者として知り、己を知れば百戦危うからず−防衛庁は失敗に学べ

弁護士 高橋利明

 国民に背番号をつけて、行政府が個人情報を一括管理する住民基本台帳法が九九年八月に制定され、同改正法が施行される二〇〇二年八月までに「わが国における個人情報保護システムの在り方について」検討し、諸法制を整備することになった。これを受けて、政府の「高度情報通信社会推進本部」の下に「個人情報保護検討部会」(座長・堀部政男中央大学教授)が設置され、同部会は九九年一一月の「中間報告」で、「官民を通じた基本原則の確立を図るための、全分野を包括する基本法の制定」をするという方針を示した。しかし、昨年国会に上程された、いわゆる「個人情報保護法案」は、メデイアの活動を規制し、情報通信事業者を取り締まる法案であった。この法案で、行政府への規制を先送りしたことについての政府の説明は、「行政機関・個人情報保護法」(八八年)で、既に若干の条文が設けられているということと、「政府は悪をなさず」という建前であった。
しかし、今回、見事にその建前は足下から崩壊した。
☆     ☆     ☆
 〇二年五月二八日、毎日新聞朝刊は「防衛庁が請求者リスト」「まるで思想調査」と報じた。防衛庁の情報公開室が、情報公開請求者の身元調べをしていたのである。その後の報道と六月一一日に公表された「海幕三等海佐開示請求者リスト事案等に係る調査報告書」等に基づくと、とりあえず、次のようなことがわかった。防衛庁の情報公開室に所属していた海幕三佐が“個人的に”作成した情報公開請求者のリストには、実名に加えて「反戦自衛官」とか「オンブズマン」とか、あるいは勤務先、職業など請求者の“氏・素性”が記入されていた。そして彼は、情報公開の事務に無関係の者にもこのデータを配っていた。陸幕、空幕、内局、防衛施設庁でも、同じような趣旨のリストが作られていた。たとえば陸幕のリストでは、「○○新聞社」とか「オンブズマン」とか「情報公開市民センター」とかの団体名、そして個人ではイニシアルと職業や住居地が表示され、各請求者が防衛庁のどのような事務分野に請求をかけてきているのかが一目瞭然となるようになっていた。これらの資料は、各幕の情報公開室が中心となって作り、これを庁内のLANで流していたのである。ようするに、「どういう団体や個人が、自分たちのどこを調べているのか」を組織的にチェックし、知らせていたのである。情報公開請求者に対する身辺調査というのは、防衛庁の専売特許ではない。〇一年四月の市民オンブズマン・グループの霞ヶ関一斉情報公開請求では、警察庁の職員が請求者の自宅を管轄する警察署に出向いてきて、所轄警察署の電話を使って請求者の自宅へ問合せをしてきているのである。担当者は「警察庁を調べようとしている不審者がいるが、どういう人物か?」と、所轄警察署で情報収集をしながら、そこから請求者宅に電話をかけてきたのであろう。警察庁、都道府県警でも、防衛庁と同じようなリストを作っている可能性を否定できない。
 防衛庁によるスパイ活動の話ではないのだが、「全国市民オンブズマン連絡会議」としては、すでに公安調査庁から活動がチェックされ「調査報告書」をつくってもらった経験をもっている。
 防衛庁の職員らは、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」と、あの戦陣訓を実行したのではないか。霞ヶ関官庁、とりわけ秘密を溜め込んでいる役所は、情報公開請求者は自分たちの「敵」なのであり、調べておく必要があると考えるのである。「行政機関の保有する情報の一層の公開を図り」とか、「国民に説明する責務が全うされるように」とか、「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資する」などという情報公開の目的などは、空念仏なのである。再発防止には、今回の不祥事の徹底的な調査と責任者の処分、そして、「国民を主権者として知り、己を知る」ことの再教育が必要である。それに、国民の側からすれば、一層、的確な情報公開請求を積み重ねてゆくことが肝要である。(情報公開市民センター代表)


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

仏の顔は何度でも ヒューマニズムの法を説く 甲斐道太郎

弁護士:甲斐道太郎先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 甲斐道太郎先生は一九二五年生まれで今年の一一月に七七才喜寿を迎える。不惑をすぎた五〇才代から三〇年このかた「大物」「西郷どん」「大将の器」「大人」「大石内蔵助」などと言われ、みんなで頼りにしてきたので七七才と聞いてもふんふんと言う程度である。二〇年以上前、甲斐先生に初めてお会いしたときからそのままである。

 「西郷どん」などといわれているが甲斐先生、内務官僚の父親の任地だった鹿児島で生まれてすぐに奈良に転勤、小学校は大阪、中学校は大阪府立高津中学(現高津高校)関西の育ちである。高校は京都の三高文化甲類。八人兄弟姉妹の長男、父親は日活撮影所長を勤めた後大阪で一九三三年から弁護士を開業していた。甲斐という名字は父の大分県臼杵出身の祖父による。

 甲斐家の長男道太郎君の成長は「一五年戦争」とピッタリ重なる。小学校入学が「満州事変」の翌年、「蘆溝橋」の翌年に中学入学。中学四年の時に開戦、三高にはいると、動員で明石の工場で戦闘機づくりをさせられ、勉強どころではない。二年で卒業となり道太郎君は一九四五年四月父と同じ内務官僚を目指し東京大学法学部政治学科に入学する。入学もつかの間、道太郎君は一九才に下げられた徴兵により四月、大学はそのままにして入営することになる。

 「典型的なオールド・リベラリストのインテリを父に持った家庭環境と、中学・高校(旧制)を通じて受けた教育」のせいで道太郎君は成長するにつれ「反軍・反戦」の考えを持つようになっていた。「家庭・親戚・友人の間でしょっちゅう政府・軍や戦争に対する批判的な会話が交わされていた」上に「高津中学は個性尊重的自由主義的教育」三高は寄宿舎の名が「自由寮」朝晩に鳴り渡る鐘が「自由の鐘」という学校である。あの時代で「どうしても戦争を正義のものと考えることが出来ず」「顔をあわせると、いかにして兵役を免れるか・兵隊になっても最後まで生き延びるにはどうしたらよいか等を真剣に論じた」もちろん「一生懸命考えては、結局絶望するほかなかった」後日甲斐先生は「直感的な反戦思想」で「鼻持ちならないエリート意識に支えられていた」と言うがその程度だったから何とか生き延びられたと私は思う。

 「戦争に行ったらとにかく生きて帰って来よう」と誓った道太郎君は、戦争の最後の五ヵ月間、年配の召集兵の人とともに陸軍に配属された。熊本県大矢野島で部隊に編成され訓練が始まる。大矢野島は熊本県三角の向かいにある小さな島で、熊本から車で一時間。道太郎君はそこで訓練を受けるが輸送船に乗る前に八月終戦を迎えてしまう。この戦争では絶対に死なない覚悟の道太郎君は「敵がもしこの島に上がってきたらどこへ逃げればよいだろうかと真剣に研究しました」島で機銃掃射など受けたと言うが先生の話はどことなく悠揚迫らずの感がある。カンカン照りの暑いあの日島の民家で聞いた「玉音放送」はよく聞き取れなかった。どうも降伏らしい「やれ助かったか」と道太郎君は思った。

 生きて戦争から解放された道太郎君だがひどい疥癬に罹患、別府の親戚の家に身を寄せ一〇月まで湯治。どこか大物でしょう。ゆっくりと怒濤の生活を洗い流し東京に戻る。東京は焼け野原、道太郎君は四六年四月京都大学に転校してしまう。もう内務官僚などに魅力は無く研究者の道に進むことになる。甲斐先生はわだつみ世代の最後、多くの先輩友人を戦争で失った。

 日本社会を近代化するにはどうすればいいのかそれを法社会学者として研究したい。道太郎青年の戦後はここから始まる。卒業時に特別研究生になり、イギリスの土地法史の研究に没頭することになる。甲南大学経済学部を経て一九六四年甲斐先生は大阪市立大学法学部の先生になる。大阪市立大学は甲斐先生にぴったり、リベラルな学風と民主的な運営の大学である。甲斐先生はそこで定年まで勤める。その後龍谷大学、京都学園大学を経て現在は年金生活。研究者としても大学の運営に関わる面でも甲斐先生の業績は高くその人柄とともに寛容で自由である。「甲斐さんの学殖は、その訥々とした語り口に関わらず、豊かで透明である。他人の学説を極めて正確に理解し、これを学説史的に適切に位置づける点において出色であるとともに、その批判は肺腑をえぐる舌鋒を秘めている。しかも、甲斐さんの法律学は具体的な解釈論にいたるまでヒューマニズムに裏打ちされている。まことに稀有と言わねばならない」石田喜久夫。

 困ったときの甲斐頼み。甲斐先生のところには次から次と仕事が持ち込まれる。「我慢強く他人の話を聞き続け、最後は静かに説く」椿寿夫 学外での活動はとにかく広汎で深い。学者の団体から各種法律家団体、地労委の公益委員、ともかくどこでも大人気。クレ・サラ、公団、公害、薬害、情報公開など多くの人権問題の実践活動にも引っ張りだこである。「頼まれるとよう断れないんです」甲斐先生は悪いことでもしているように言う。ただつき合うだけではなくとにかく誠実でまめなのである。ここが大事なところで甲斐先生は「こまめさが人目に付かない大物」沢井裕なのである。

 クレ・サラ事件と甲斐先生のつきあいはもう四半世紀になる。いつでもどこでも変わりなくじっと見守っている。運動の初期は甲斐先生もその嵐に巻き込まれ「いつもやり繰りがつく限り労をいとわずにご出席いただける。そして疲れも見せずに、打ち上げコンパにも遅くお付き合いくださるのが常だ。昼のジェットで大阪を発ち、五時・記者会見、六時から八時まで集会、一〇時までコンパ、そして翌日は早朝七時のジェットで帰阪し、一〇時の市大の卒業式に御出席される」木村達也という具合だった。娘の牧子さんは当時の甲斐先生を「昨日九州へ行っていたかとと思うと次の日には飛行機で東京へとんでいく」「母が一生懸命話しかけているのに、新聞から目を離さず、カラ返事をしているだけ」だったという。

 しかし月日が流れ、鉄人甲斐先生も還暦迎え「ある日ふと気がつけば、少し気味の悪いくらい家族に対してとても愛想の良い父になっていました」「老後をともに暮らすのに理想の相手」となった。

 還暦から一七年、私がお会いしたときも奥様とコンサートの帰り、お二人で律儀そうにホテルのロビーで待っていてくれた。父としても夫としても甲斐先生は「優しい人です」 高校の遙かな後輩の木村達也弁護士とクレサラ集会の後温泉でどちらも丸顔の二人、仏顔の親子か。

甲斐道太郎 1925年11月鹿児島で生まれる。
1948年京都大学法学部卒業、
1953年同大学院特別研究生修了。甲南大学・大阪市立大学・龍谷大学・京都学園大学教授を経て、現在、池坊学園理事長。


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