法と民主主義2003年1月号(目次と記事)


法と民主主義1月号表紙
★特集★司法改革の全体的状況とわれわれの課題
     ─第35回司法制度研究集会から
■特集にあたって……編集委員会
第一部 パネルディスカッション「司法改革を俯瞰する」
■新自由主義戦略と司法改革……進藤兵
■研究・教育の視点から見た法科大学院……右崎正博
■行財政改革と司法改革─全司法のとりくみ……布川実
■構造改革・規制緩和、そして司法改革─「改革」のなかの司法と大学─……小沢隆一


第二部
(1)「司法改革の全体的状況とそれぞれの取り組み」
■司法改革の正念場に向けて攻勢的な取り組みを……杉井厳一
■日本裁判官ネットワークの夢と現実……井垣康弘
■司法改革のせめぎあいと自由法曹団の取り組み……島田修一
■司法改革と労働裁判改革……水口洋介
■青法協の取り組みについて─いま最も憂慮すること……立松彰
■司法制度改革・司法書士法改正と司法書士の今後と課題……金子良夫

(2)「司法改革における当面の焦点と課題」
■裁判官制度改革の状況……宮本康昭
■民主的裁判員制度をつくろう─「市民の裁判員制度つくろう会」から……新倉修
■法科大学院の現状と課題……中西一裕

(3)「司法改革の現段階における市民の立場からの運動と課題」
■弁護士報酬の敗訴者負担制度問題……坂勇一郎
■「日独裁判官物語」を活用して敗訴者負担制度を粉砕……高橋利明
■私たちの「司法改革10大要求」
  • 冤罪・誤審をなくすために●秋山賢三さんの出版を祝う集い……望月憲郎
  • 裁判・レポート●中国残留孤児国家賠償訴訟について……鈴木経夫
  • 次世代通信(3)●お母さんも泣きたかった……千葉恵子
  • 新シリーズNO.3●離島へ持っていきたい3シリーズ……笹山尚人
  • とっておきの一枚●上田誠吉先生……佐藤むつみ
  • アフガニスタン国際戦犯民衆法廷(2)●「殺す思想」を逆照射する民衆……前田朗
  • 続・心神喪失者等処遇法案●衆議院での審議……足立昌勝
  • 司法制度通信NO.9●慎重な検討がもとめられる「裁判迅速化法案」、「リーガルサービスセンター構想」、裁判官改革の前進等……笠松健一
  • 日記●さほど目出度くもない年の初めに……澤藤統一郎
  • 時評●家永教科書裁判30年は何であったか……新井章
  • KAZE●今回の司研集会の企画と舞台裏……岡田克彦

 
時評●家永教科書裁判30年は何であったか

弁護士 新井 章

 昨年一一月末に家永三郎さんが亡くなられた。ここ二、三年は一切の社会活動から身を引かれ、療養専一でおられたと聞き及んでいたので、こういう報せに接することもあるかと密かに心構えはしていたものの、実際突然の連絡を受けてみると、大いにうろたえ、悲しみに打たれるばかりであった。家永さんは当協会と直接のつながりはなかったが、氏が提起された教科書訴訟の闘いは、民主主義と人権司法の確立を目指す協会の運動とも密接に関わっており、相互に支えあう間柄にあったといえるだろう。
 ところで、家永さんの教科書検定違憲訴訟は一九六五年(昭和四〇年)に起こされ、一九九七年(平成九年)にすべてが終わった。この三二年にわたる大訴訟を今になって振り返えると、当時は気が付かなかったことがいくつか見えてくる。
 その第一は、この訴訟がわが国戦後の教科書検定行政に対する“告発”として果たした、社会的・政治的な役割の大きさということである。この訴訟が起こされた六五年当時までにも、保守党政府・文部省による教科書検定行政が執筆・編集者の作成した教科書の内容に容喙し、政府・与党の見解を教科書に押し付けるための道具と化しているという批判は、歴史学界を始めとする諸学界からも、教科書の編集出版に携わる人達からも、毎年のように繰り返し提起されていた。にもかかわらず、政府・文部省は恬然として権力統制の姿勢を改めることがなかったが、家永氏の蹶起により、彼らは初めてかような批判に真剣に立ち向かわざるを得ぬ状況に追い込まれ、三二年もの間、これへの対応に奔命し続けることを余儀なくされた。提訴の際に当局者が“青天の霹靂”と語って、その受けた衝撃の深刻さを告白したと伝えられたが、さような強度の緊張感は、政府当局側が恐らく最後まで保持することを強いられたに違いない。
 その間、家永氏の主張を真正面から受け止めて、検定制度は運用の如何で違憲のそしりを免れぬとした東京地裁判決(杉本判決、七〇年)や、検定行政はいかにも恣意的で違法という外なしと断じた東京高裁判決(畔上判決、七五年)が出されたこともあり、この訴訟の進展は、多くの国民に教科書検定制度の問題性を気付かせ、これに憤慨し是正を求める人々を結集させ、それどころか、韓国・中国をはじめとする近隣諸国の人達を日本政府に対する抗議行動に立ち上がらせることにも貢献して、著大な政治的・社会的効果を発現した。もしこの訴訟の断固たる提起と持続なかりせば、わが国戦後の教育状況は一体どのように推移したであろうかと想うにつけても、その戦後史的な意義の大きさには更めて打たれざるを得ないのである。
 その第二は、教科書裁判三二年がたどった経過が、わが国戦後司法の歩みを如実にあぶり出す結果となっていることである。というのは、この訴訟が起こされた一九六五年前後の時期は、わが国戦後司法に訪れた初めての高揚期であり、例えば公務員のスト権について深い理解を示した全逓中郵事件の最高裁判決(六六年)や都教組事件の最高裁判決(六九年)が相次ぎ、これらの判決を出させる原動力ともなった下級審の無罪判決や人権判決が全国各地で続出していた頃である。だからして当時の弁護団としては、この上げ潮に乗って闘えば検定違憲の判決も決して夢ではないと思っていたし、実際にも前掲の「杉本判決」等、全面勝訴の判決を次々に獲得することができた。
 ところが、わが国の保守的政治支配層はかような司法部門の人権志向・民主化傾向にむしろ危機感を深め、六九年頃からは司法部への露骨な干渉―最高裁判事の入れ替えや青法協裁判官の放逐など―に乗り出した(いわゆる“司法反動”の開始)。その結果は予想にたがわず、裁判現場での人権判決の激減となって表われ、家永教科書訴訟の場でも状況は一変して、七四年の「高津判決」、八二年の「中村判決」、九六年の「鈴木判決」、九三年の「可部判決」…と、原告側敗訴の裁判が続くこととなった。
 このように教科書裁判の歩みを見ると、六九年頃を境目とした戦後司法の転回(暗転)ぶりが手に取るように判り、皮肉にも家永教科書裁判は戦後司法の姿を映し出す“鏡”となったのである。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

帝の国から民の国へ ぼたり土の上につばきの花

弁護士:上田誠吉先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 上田誠吉先生は蕎麦好きと聞いた。東京合同法律事務所で「そ連」を立ち上げたがあまり人気がない。なんといてもネーミングが悪い。いかにも不味そう。そば好きになったのは江戸文化の達人、蕎麦好き杉浦日向子の影響らしいが、実はもっと現実的な出会いがあったのである。事務所からちょいと歩いたところに赤坂名月庵田中屋がある。二年前の開店時、無類の酒好き上田誠吉は開店祝いのただ酒に釣られた。まずは一杯。酔いもしない。もう一杯。「旦那さん一杯にしてください」店の女将さんは気が気でない。自腹を切って呑んだ後の蕎麦はこれがなかなかいける。以降贔屓にして通い続けている。私は先生の業績より蕎麦のことばかり気になり「先生お話は蕎麦屋でいかがですか」と繰り返し口走っていた。愛想のない先生、電話のその口調に私はますますうわずった。ついに「蕎麦の話はいいから」とぴしゃり。
 上田先生は一九二六年生まれ、今年喜寿七七才を迎える。痩身で少し猫背の先生はこのところは事務所にいるより自宅で読書にふけることが多い。一九五〇年二四才で弁護士登録、二期。新憲法で司法試験を受けた最初の法律家であった。自由法曹団の老舗東京合同事務所の設立が五一年。先生は今事務所に残るただ一人の創立メンバーである。今東京合同の屋台骨は先生の子の世代、新しい所員は可愛い孫の世代である。帝の国を捨て戦後日本の新しい歴史を刻み込む人々の戦いの五〇年でもあった。
 先生は押し寄せる事件に忙殺される中で多数の著作や論文を書き続けて来た。資料を調べ、考え、書き綴るのは時間と根気のいる大変な仕事である。苦しくも楽しいこの時間を先生はどうしてひねり出していたのだろう。いくら有能で仕事の速い先生でも並大抵のことではない。武蔵野高等学校尋常科時代の一二才からすでに「ずばぬけた読書家」だった誠吉君はどんな知の蓄積を続けここに至ったのだろうか。
 その数と内容には圧倒される。一九九六年作成の「上田誠吉執筆目録」には「私は、私に仕事と問題関心の移ろいを確かめる方法としてこれ以外にないと考えて、この目録を作るのに十年の歳月をかけました。一人の人間の歩みの軌跡として、ご覧頂ければ幸いです」と記されている。とても全部目を通すことなどできず手に入るところで読みとばした。私は“人々とともに―弁護士40年の歩み”が好きである。書評、祝辞弔辞、小論評、エッセイなど。代表作“ある内務官僚の軌跡”の重厚な検証はないが、歴史のの一瞬をすくい上げたような簡潔な状況描写と先生の息づかいが聞こえてくるような文章である。特に子供時代のエッセイは映画のようである。上海で立ち読み少年誠吉と内山完造との出会いそして魯迅とのニアミス。平河町の森の犬飼い婆さん。自分のことを書きながら思い出話にならない客観性。先生は子供の頃から観察し考える人であった。
 先生の父親は帝の国の最強の統治機構、特権内務官僚だった。特高警察幹部から県知事まで勤めた内務官僚のエリートだった父は家庭では決して家父長的ではなかった。むしろ家族の人格を尊重するまじめでいい父であった。上田家は父が内務官僚として公人として何をなそうが、恵まれたリベラルな雰囲気を持ち、誠吉君はその中でのびのびと育った。姉澄子、長男誠吉、次男誠也、次女晴子の四人の子供。長男誠吉は父誠一の誠の一字と吉という極めて庶民的な名を付けられた。息子のために意識的にその名を選んだ父は息子の生きていかなければならない時代をどこかで予見していた。しかし戦争が終結し誠吉青年一九才が民衆のために闘う「左翼」にならんとしたときそれを受け容れがたかった。一九四六年四月、「父は僕を茶の間に呼び入れた。そして左翼に加わることを決めていた僕に、それだけはやめてくれ、と言った。しかし僕は反論した。『なぜ特高は共産主義者に拷問を加えたのか』と。父はそれには答えず、突然たちあがって、僕の頬を平手でなぐった。僕が父になぐられたのも、そのことが親子の間で話題になったのも、その時が最初で最後だった」
 父を父の時代を乗り越えようとした上田先生はその父と最後まで吉祥寺の家で家族として暮らした。一九六九年七〇才で父誠一は戦後の二四年を生き亡くなる。
 先生の母初生さんは一九〇二年生まれ奈良女子高等師範を卒業した父誠一と三才違い、同郷の才媛だった。四人の子供を育て家庭にあったが、大正デモクラシーの申し子のような自由と進取の気質をうちに持つ人だった。特権内務官僚の妻でありながら岡本かの子の「撩乱」に魅せられ私淑していたことがあり、ダンス教室に通っていたこともあるらしい。四〇才を越えてから家計を支えるために戦後一〇年ほど女子高校の数学の講師をするエネルギーの持ち主で晩年の二〇年は家の裏手の物置をアトリエにして抽象画絵をかきつづけた。家事に疎い自由を夢見るような妻の気質を父誠一は決して否定することがなかった。上田先生と東京女子大時代にマルクス主義研究会で出会い一九四八年先生が研修所に入所する時に結婚した伴侶圭子さんも東宝でスクリプターとして映画作りに励む。東宝の争議後独立プロに参加、働く自立した女性であった。
 上田先生は七八年七六才の母を吉祥寺の自宅で送る。母の柩のかたわらで子供たちは母が幼いころ枕元で歌ってくれたなつかしい「ぽたり」の歌を歌う。ぽたり/土の上に/ころがり落ちた/はてな/なにが落ちた/またきこゆる/雨戸をあけて/よくよく見れば/はははあ/つばきの花
 先生はもう弁護士の仕事はやりたくない、人に迷惑をかけるからと言う。「書きたいテーマが熟成してでこない」「うーん。年だ」と言いながらこの時代がどうなるのか「興味津々だな」といたずらっ子のように目を輝かせる。
 インタビューのあとタメ口の西田美樹弁護士とくだんの田中屋に強引に先生を誘う。まずは一杯。西田が先生に有無を言わせず故郷の酒酔鯨を呑ませる。もちろん二杯。美味い蕎麦をたぐりなが先生は気もそぞろ。秘蔵の孫が家に来るからと私たちはすぐに見捨てられてしまったのでした。

上田誠吉
1926年神戸に生まれる。
武蔵高校を経て、東京大学在学中に兵役、敗戦を迎える。1950年弁護士登録、自由法曹団に加わる。1951年東京合同法律事務所開設に参加。1974〜1984年自由法曹団団長。著書、論文多数。


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