法と民主主義2003年7月号【380号】(目次と記事)


法と民主主義7月号表紙
★特集★「えひめ丸」事件が問いかけたもの
◆特集にあたって……えひめ丸被害者弁護団
◆「えひめ丸事件」解決への過程とその意義……豊田 誠
◆「少数被害者の権利」を守って……井上正実
◆息子よ!……寺田真澄
◆二度と繰り返さないために……古谷乙善
◆被害者家族とともに取り組んで……富永由紀子
◆日米弁護士の共同事業の経過……池田直樹
◆NLGとの連帯とその強化……鈴木亜英
◆解説・NTSBへの意見書について……大熊政一
◆「えひめ丸」事故への自治体の対応……向井康雄5
◆「何かがしたい」から始まった蟻の行列……森真奈美
◆同じ米軍被害者から見た「えひめ丸事件」……海老原大祐
◆米軍への恨みは消えることはない……椎葉寅生
◆「愛媛」という県……遠矢新一郎
◆教育現場からみた「えひめ丸事件」……揚村勝幸
◆被害家族の涙と先生たちの勇気ー2年間の取材を振り返って……北 健一
◆語られざる真相を追う……ピーター・アーリンダー(訳・薄井雅子)
◆えひめ丸事件と教育基本法……篠原義仁
◆米海軍とたたかって……神原 元
◆“幹事長”のお役目と思い……木村晋介
◆通訳奮闘記……鈴木麗加

 
時評●日民協理事長に就任して

弁護士 鳥生忠佑

 一、去る本年七月五日の総会(第四二回)で理事長に選出され、同日就任しました。
 想えば、私は、弁護士となった年の一九五九年一二月、日米新安保条約の締結と批准に反対し、国民の大運動に法律家として参加するため安保改定阻止法律家会議の結成に参加しました。次いで、弁護士三年目の六一年一〇月、同法律家会議を発展的に改組して結成された本会、すなわち日本民主法律家協会の創立に参加し、以後本会の会員となってきた経緯があります。有事三法の成立と自衛隊のイラク派遣法の衆議院通過で、体制的にも日本が米国の戦争に巻き込まれるおそれが現実のものとなった正に今日、日民協理事長に就任を要請されたことは、個人的にも何か運命的なものを感じます。
 二、四二年前となる当時の日民協創立宣言は、次のような認識を示し、決意を表明しました。
 「日米新安保条約は日本を戦争にまきこむおそれが強く、日本国民の反対運動が広範にまきおこりました。」「しかし、国民の平和への願いと民主主義を踏みにじって、新安保条約は形の上では批准ということになりました。」と指摘し、「私達はこのような事態に対処するため、安保改定阻止法律家会議を改組して、更に多くの法律家と共に安保条約の廃棄と軍備撤廃をめざし、民主主義と人権の擁護を目的とする日本民主法律家協会を設立しました。協会は日本の民主的法律家の恒常的な組織として広く目的を同じくする国内外の法律家と提携して、その目的を完遂するまで強力な活動を展開することを宣言します。」

 三、この創立宣言が予測したとおり、今日事態はいっそう深刻化していますが、日民協が結成理由である平和と独立の危機に際しこれに対処するのは第一の任務だと考えます。
 そのために、今回の日民協総会で採択されたアピールにあるとおり、国際法と国連憲章に真向うから違反し、また攻撃理由さえ明らかでないイラク「先制攻撃」に対し、日民協が国際社会とともにその責任を法的に究明し、運動化していくことが大切です。そのことが、国際的にはアメリカの国連復帰を早め、国際平和の維持、そして武力によらない北朝鮮問題の解決に役立ち、同時に国内的にも、日本政府のアメリカ追随と自衛隊海外派遣への批判を強め、国民の中に憲法九条擁護の認識を深めるのに役立つと考えられます。
 国内的にも、日民協が当面する課題は山積しています。憲法改悪の動きはマスコミを動員し、@集団的自衛権の容認、A自衛措置の名で相手国の基地を先制攻撃することの容認、そしてB日本を核武装すべきだとの論議までも公然化させています。これらの論議を注視し、二一世紀において憲法九条のもつ意義と役割を着実に広めていく活動が大切であると考えます。そして、教育基本法の改定、規制緩和、国立大学法人化による今後の影響など、民主主義と人権を守る観点から活動の強化も求められています。
 最後に、司法改革については、今後の進展で制度の創設が一応確立しても、各制度をどのように運用するかの観点から、より良い運用のために努力することが大切であると考えます。官僚司法を真の国民参加の司法に転換させていくのが司法改革の目標であり、裁判官の大幅増員を含めて、よりよい運用の定着が達成されるまでは今回の司法改革は終わらず、できた法律もこの観点から改正までも視野に入れる認識が必要です。

 四、以上のとおり日民協はいま出番です。私はもとより浅学非才ですが、理事長として、また一会員としても、組織の強化を含め努力したいと考えています。会員先生方、皆さん方の御指導、御支援をお願いします。
(二〇〇三・七・一四記す)


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

善なる者の軌跡 −惻隠の心あふるるばかり

国民救援会会長:山田善二郎さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

一九五一年一二月二日
「内山様 信念を守って死にます。
  時計は一時を      鹿地
 看守の方に ご迷惑をお詫びします」
「なんて書いてあるのか読んでくれと」と、二世の光田軍曹から渡された紙片の文字を、わたしはゆっくりと声を上げて読んだ。一字一句、噛みしめるように詠みあげながら、わたしは、言いようのない何かに激しく心をつき動かされた。その人の姓と思われる「鹿地」の読みは、相撲取りの鹿島灘や、終戦をそこで迎えた鈴鹿海軍航空隊から、ごく自然に「カジ」と読んだ。人びとの寝静まった深夜、誰一人みとる者もいない寒々とした部屋に監禁されたその人物は、「鹿地」という名を残して自殺をはかったのだった。「余計なことをしてくれたものだ」とでも考えているのだろうか、光田は、無造作にその紙切れをポケットにねじ込んだ。「ここにいてくれ」無表情なまま言い捨てて、わたしだけを残して、自殺未遂に終わったその人の汚れた衣類などをまとめて外に出て、裏庭でガソリンを振りかけて燃やしてしまった。焼けかすが黒く残っていた。その人は、二〇畳ほどの畳をはがしてリノリウムをはった部屋の中にポツンと置かれた軍用ベットの上で気を失って横たわっていた。部屋の中央のシャンデリア風の電灯は、その人が首を吊った時にもぎ取れ、床に転がっていた。薄暗く、ひんやりとした部屋。意識を失ったその人の口から流れてくる汚物を拭きとり、洗面所で洗い流したわたしの手は、突き刺されるように冷たく痛かった。建物の周辺を取り囲むように植えられていた、十数本のヒマラヤ杉の茂った葉のあいだから、かすかに差し込んでくる日の光に手を当ててこすりながら、光田のもどるのを待っていた。
(決断ー謀略・鹿地事件とわたし)
 山田善二郎さん二三才コック、占領軍総司令部参謀の諜報機関キャノン機関に拉致された反戦作家鹿地亘四八才、場所は米軍に接収された川崎市新丸子の東京銀行川崎グラブ。私は山田善二郎さんが五〇年を経て書いたこの本を途中で置くことが出来なかった。冒頭の一章から息を呑むような場面が続く。迫りくる諜報機関の黒い手、善二郎青年のとまどいと正義感、突き動かす思いと関わる人びと。時代の匂いと「間一髪の歴史のほほえみ」が見事に描き出されている。善二郎さんの原点はここにある。そして彼の書き手としての力量、事実を見る目の確かさはどこで作られたのだろうか。
 善二郎さんの父親は陸軍省の下級公務員だった。住まいは杉並区の天沼、七人子供を薄給で育てるのは容易でなく山田家はいつも貧乏だった。尋常小学校を卒業したら兄のように高等小学校にいき一家の働き手になるつもりだった。小学校で江藤价泰さんと同級生だったと言う。「僕はぼんくらだったけど江藤さんは秀才で」担任の先生は善二郎少年に東京市立第一中学の夜間部、九段中への進学を勧めた。入学試験に合格、昼間は給仕として働きながら学校に通っていた。九段中学は靖国神社の隣にあった。軍国少年は日本の戦況に一喜一憂「一九四三年五月戦局が傾き始めると、押さえがたい憂国の念にかられたものだった」。ついに七つボタンに憧れ、親に内緒で海軍の予科練を志願する。最年少一五才合格、中学四年一学期であった。一年で予科練を卒業、飛行練習生として鈴鹿海軍航空隊に移転。練習飛行の燃料も無くなりアメリカ空軍の空爆も激しくなって、「飛行場では、練習機に爆弾を積んだ特攻隊を見送るようになっていた」。一九四五年八月、農村の神社に疎開して防空壕を掘っていたとき天皇の「詔勅」を聞く。「ラジオのガーガーピーピーの雑音の中に天皇の甲高い声が混じっていたが、なにをしゃべっているのかさっぱりわからなかった」
 頭の中は軍国主義のまま善二郎青年は生きるために進駐軍の仕事を始める。「エンプロイ ミイ アズ ウエーター」初めて米兵と交わした言葉である。その後キャノン機関のボス ジャック・Y・キャノンに会うのである。「まじめに働けば、良い職場を探してやる」とのキャノンの甘い言葉に乗る善二郎青年。キャノンの家族のコックとなった。なかなか器用な善二郎青年パーティ料理まで作ったという。誠実で働き者、優秀な彼をキャノンは重宝したに違いない。一九五〇年六月朝鮮戦争が勃発、しばらくしてキャノンがピストルで撃たれて重傷を負う。一九五一年キャノンは帰国。善二郎青年は米軍諜報機関の日本人従業員として働き続けた。山田家では、長男は戦争から帰らず、長女は子どもを産んだ直後に結核で死亡、脳腫瘍で重複障害になったその子を引き取っていた。家計は妹弟達を含め善二郎青年の双肩に掛かっていた。両親に給料袋を差し出すと母は「ありがとう。ありがとう。」と拝むように受け取って仏壇に供えたと言う。
 自分も消されるかもしれない恐怖、一家の糧を失う不安の中で善二郎青年は鹿地の手紙を密かに届け続ける。届け先は内山完造。一九五二年六月善二郎青年はアメリカの秘密機関から脱出する。元キャノン機関のエイジェントとして活動した松本政喜は「山田を消してくれ」と光田軍曹からピストルを渡されていた。一二月六日、猪俣浩二代議士の自宅で乾坤一擲の記者会見、翌七日鹿地は明治神宮外苑絵画館近くで解放される。生き証人善二郎青年は時の人となり、命は落とさずにすんだ。
 この時から善二郎青年は国民救援会を知り、活動をともにするようになる。そこで活動している人々の一途な姿に魅了された。特に難波英夫は善二郎青年の師となる。五〇年間善ちゃんは「スティック ツウ ユアー ブッシュ“食らいついたら離れるな”」の精神で救援会を支えてきた。支援する人と同じ地平で「おっかさんの気持ちで接することが大切だ」難波さんの口癖である。おっかさんは我が子を絶対的に信じ無私の精神で支える。その存在自体を愛おしむ。善ちゃんは何人のひとの母となったのだろうか。
 「小さくやせ細った平沢貞道が、拘置所の面会室の金網の向こうから、仏様を拝むように両手を合わせてこちらに向かい、『ありがとうございます』と深々と頭を下げて礼を述べた。…一九八七年八王子医療刑務所で九五才の生涯を閉じる。」無実の死刑囚の再審事件は力及ばないときはその死を招く。無実が晴れないうちに命つきる多くの人を善ちゃんは無念の思いで送った。
 七五才になる善ちゃんはいつも強く人に優しい。この素朴な暖かさは救援会の筋金入りである。

山田善二郎
1928年新潟県三条市に生まれる
1946年キヤノン機関勤務
1992年日本国民救援会会長に選出、現在に至る
著書・「決断」光陽出版社


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