法と民主主義2003年12月号【384号】(目次と記事)


法と民主主義12月号表紙
★特集★戦後責任を問う!
  ―被爆者・残留孤児・中国人戦争被害賠償―
特集にあたって……南 典男
■戦争責任と戦後責任ーよりよい未来をともに築き上げるために……小野寺利孝
■中国人戦後補償裁判のもつ意味と今後の課題……泉澤 章
■中国人戦争被害者の要求を支持する運動の広がり―日本を再び戦争をする国にしないために……大谷猛夫
■中国「残留孤児」訴訟の現状と課題……安原幸彦
■中国「残留孤児」、なぜ集団訴訟かー戦前と戦後の誤った政策を問う……菅原幸助
■人類の現在と未来のために―原爆症認定集団訴訟―……宮原哲朗
■被爆者運動・たたかいの歩みと集団訴訟……岩佐幹三
■「過去の克服」と戦後補償裁判……石田勇治

 
国際シンポジウム・東北アジアの平和への展望

特集にあたって
 日本の外交官が二人殺害された。そして、日本はイラクへの派兵を強行しようとしている。二人の死を英霊として祭り上げ「テロとの闘い」という口実でイラクへの派兵を強行するとしたら、日本は、イラクを侵略した側の国家として、被害を受けた罪のない多数の人々に対する責任を負わなければならないだろう。
 この責任は、日本が犯した侵略戦争による被害者に対する責任と同一のものではないだろうか。
 戦後、原爆被害者、無差別爆撃による被害者などの要求に基づく運動が展開され、さらに、九〇年代に入りアジアの戦争被害者、残留孤児らが立ち上がった。しかし、日本は国家としての責任を拒み続けている。拒み続けたまま、再び戦争を始めようとしている。
 五八年もの間戦争責任を放置し続け、しかも、また戦争による被害者を生み出そうとする日本政府の責任、戦後責任を問うことが、今まさに私たち国民に求められているのではないだろうか。
 私たち国民の側から言えば、主権者としての戦後責任が問われているのではないかと思う。これは、現在進行形の、今を生きる私たち国民一人一人の課題である。
 政府が再び戦争を始めようとしている今日、先の侵略戦争の被害と加害の実相を広汎な国民のものにし、戦争被害者の要求を阻んでいる国家の戦争責任回避政策の転換を求める共同の闘いが重要になっていると思う。
 本特集は、加害の問題と被害の問題に関する平和運動の到達点と今後の展望について共通の認識にし連携を深める契機となり、再び戦争による被害者を生み出さない共同の闘いを強めることを願って企画された。

(南 典男・弁護士)


 
時評●ついに戦地に赴く自衛隊

大阪市立大学教授 松田竹男

 自衛隊をイラクに派遣するための基本計画が閣議決定された。実際の派遣時期は明記されていないが、一月には輸送業務にあたる航空自衛隊が、二月には陸上自衛隊の本隊が派遣されることになりそうである。
 しかし、イラクでは、米軍に対する攻撃がますます増加しているのみならず、イタリア軍やスペイン情報機関員、日本の外交官、韓国の民間業者など、米軍に協力する部隊や米占領体制の安定に寄与する者にまで攻撃対象が拡大してきているから、自衛隊が行けば自衛隊が狙われることはほとんど確実と言ってよい。
 イラク特措法は、自衛隊をイラクに派遣しても憲法違反にならないための根拠あるいは要件として、それが「現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる」地域に派遣されることを挙げていたが、イラクにそのような地域は存在せず、自衛隊派遣の条件は完全に失われているのである。
 しかし、本当の問題は、イラクに非戦闘地域があるかどうか、自衛隊が攻撃されるかどうか、ではない。国連の許可もなく攻撃を始めた米軍がイラクを占領しているかぎり、イラクでは武力紛争が継続しているのであって、イラク国民には占領軍に抵抗し、武力で攻撃する権利があるということこそ、一番重要な点なのである。
 ブッシュ大統領が「主要な戦闘が終わった」と宣言したからといって、それで武力紛争が終了したわけではない。たとえば、武力紛争法(国際人道法)の中核をなしている一九四九年のジュネーブ四条約は、「一締約国の領域の一部又は全部が占領されたすべての場合について、その占領が武力抵抗を受けると受けないとを問わず」適用されるのである。現実に戦闘があるか否かは関係ない。米軍がイラクを占領しているかぎり、米軍の武力行使はまだ続いているのであり、このような地域に自衛隊を派遣することは、たとえ攻撃を受ける可能性が無くても、やはり戦闘行為への参加であり、憲法違反なのである。
 小泉首相によれば、自衛隊は戦争に行くのではなく、イラクの人道復興支援のために行くのだと言う。しかし、人道復興支援活動であっても、米軍の占領下にある地域で占領当局の許可の下で行われる活動は、やはり占領統治の一環と言わなければならない。まして、米軍の兵士や補給物資を輸送するとすれば、これはまぎれもない戦闘行為である。
自衛隊は武力を行使しないが、テロリストに対しては正当防衛しなきゃならないと言う。しかし、占領軍やそれに協力する軍隊、占領体制を支える人々に対する攻撃は「テロ」ではない。「テロに屈するな」、「彼らの遺志を継げ」という形で、日本人外交官の死を自衛隊派遣に利用する動きが見られるが、占領当局と連絡調整に当たる活動を行っていれば、攻撃されて当然なのである。
 占領軍やそれに協力する者に対する攻撃が「テロ」と呼ばれる理由の一つは、そのゲリラ的な攻撃方法にあるのかもしれない。たとえ占領軍に対する抵抗闘争であっても、民衆に紛れての攻撃など、民間人を危険にさらすような攻撃方法は、たしかに許されない攻撃方法と言わなければならない。しかし、現在行われているのは、道路に爆弾を仕掛けたり、自動車での追い抜きざまでの狙撃、物陰からの狙撃、自爆攻撃などで、必ずしも民間人を危険にさらすようなものではない。
 もともと武力紛争法は、紛争当事者が殺害・破壊の可能性を互角に持つような紛争を前提にしている(武器対等の原則)のであって、武器の性能や装備の水準が隔絶した当事者の間では、民間人の生命・身体に不当な危険を及ぼさないかぎり、そうした能力差に見合った多様な戦闘方法が許されてしかるべきなのである。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

遠くを見つめて 今この時の法社会学 利谷信義

東京経済大学現代法学部長:利谷信義先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1978年9月、南ドイツのクルムバッハ農家相続調査の準備、生活体験のホームステイ。左は御主人、右は親友になった孫のフランク。 「国分寺の駅からボクはいつもタクシーを使っています」東京経済大学を訪ねる約束をした時先生は細やかな気配り。「食事を御一緒しましょう」とやさしい。門の守衛室から連絡し研究室を訪ねようとするとそこで待つように言われる。晩秋の大学のキャンパスは明るく、モダンな建物と広場に銀杏の木がきれいに色づいている。しばらくして長身の利谷先生が向こうから足早に近づいてくる。「利谷スマイル」が私に近づき「食事に行きましょう」。正門を出て「家庭的で紅茶が美味しい」といいながらすたすたと歩いていく。入ったのは戸建て住宅の一階、出迎えたマダムは満面の笑みで「先生いらっしゃいませ」まるで知人の家に呼ばれているような気分である。西京焼きの和定食は家庭の味で器がすてき。教授会が始まるまで一時間、インタビュウはできるのか。「まずは召し上がれ」利谷先生は食べ始める。気が気でない私は食べるのと聞くのと覚えるので頭の中はぐちゃぐちゃである。ニャーと大きな猫が先生の膝に乗る。「お前かよしよし」とご挨拶をしてしばらくすると今度はおおきな黒猫が隣の部屋から引き戸を自分であけて出てくる。先生は自宅で食事をしているような雰囲気のまま私の質問に答えていく。
 利谷先生は一九三二年釜山生まれ、敗戦の時は旧制釜山府立中学一年一三才、ちょっと生意気な軍国少年であった。敗戦の年の夏、信義少年は陸軍幼年学校受験資格者四人の一人に選ばれ、身体検査も終え幼年学校の軍服を着る日を夢見ていた。八月一五日信義少年は自宅で終戦放送を聞く。勝ったのか負けたのか良くわからなかった。「勝った様子ではないが、負けたとはっきりいってない」「父は負けたのだ」という。「私は、幼年学校行きをどうしてくれるのだ、と腹が立った」。家族は京城帝国大学予科一年だった長男の帰宅を待って帰国することになった。「祖父母の代から韓国に移り住んだ私たち家族には、すでに喜んで迎えてくれる故郷はなかった」。父親は帰国を頑として拒む母親を説得、大工の棟梁の「一緒に松山に帰らないか」との親切な申出に乗る。息子の会社の船で松山の三津浜へ引き揚げるのである。松山は一面焼け野原、旧制松山中学一年に転入した信義少年の教室は焼け跡だった。
 引き揚げ者の生活は苛烈だったという。そんななかでもあの松山中学である。坊ちゃんを演じないでいられようか。信義君は「赤シャツ」を演じる。口もうまく頭も回るこうかつな悪役であるが、坊ちゃんよりずっと演技力が要求される。利谷先生はいまでも赤いシャツが似合う。運動会ではある名物先生の葬式。葬儀委員長は信義君、葬儀屋から一式借りての本格仕様に生徒達は悪のりしまくった。空腹でもみんな元気である。高校は新制高等学校。高二の時、「私は実施された学区制による男女共学をエンジョイし、受験勉強は放棄し、テニスに邁進し、女子学生との交流に全力を注いだのです」利谷フェミニズムの原点ははここである。
 学生は「自分が何になりたいかなんてわからない」「ボクだっていろんな出会いと偶然から研究者の道に進んだのです」東京大学文Tに進んだのも何となく。大学時代は戦後民主化の逆行の時代。利谷青年はここで運命的出会いをする。来栖三郎先生の民法講義、開講の講義は日本法社会学史であった。これがすこぶる面白く登場する穂積・末弘・戒能・川島らそうそうたる人々がいきいきと活写される。利谷青年は心奪われる。三年になるともちろん来栖ゼミに参加。先生から与えられたテーマは「男女不平等論」だった。利谷青年はゼミで「古今東西の男女不平等を時間いっぱい論じて上級生を顰蹙させてしまう」二一才。ここから四一年後、一九九四年利谷先生は男女共同参画審議会に参加、九六年には「男女共同参画ビジョン」の起草委員となる。九九年男女共同参画基本法が制定される。法社会学・民法の研究者として息の長い研究活動をふまえ先生は時代のステージに登場する。
 三年時には来栖ゼミで富士吉田市の貰い子調査に参加、これが先生初めての法社会学調査となる。セツルメント法律相談部に参加、四年の時は来栖先生から福島正夫先生の戸籍制度研究の手伝いに派遣される。資料と格闘しながら学生の身で「家」制度研究会にも出席。研究者としての基本を学ぶことになる。偶然のたまものと先生は言うが、何事にも臆さない先生の性格と研究者としての資質がこの人との出会いや場を呼ぶのである。
 大学院では我妻栄先生に学び社会科学研究所の助手となる。そして六一年に都立大へ、研究活動とともに授業、ゼミを持つ。六九年東大社研にもどり定年まで二四年間多方面にわたる充実した研究活動を続ける。九三年お茶の水大学生活科学部へ、多数の役職をこなしながら生活法学を研究、ジェンダーセンターを立ち上げた。九八年から東京経済大経済学部に。二〇〇〇年四月発足の現代法学部新設そして初代学部長。もちろん学会や共同研究の仕事や役職もこなしている。
 先生は犬型の研究者なのだそうである。「猫はねずみを捕る特技を持ち、充分な獲物を確保すれば後はこたつで丸くなる。犬は雑食性で何か美味しいものはないかといつもうろうろしても、特技もないので成果が上がらずいつもお腹を空かせている」そのうえ実証型「事実をして語らしめ、現状分析を志向しつつ歴史分析を前提とする傾向がある」そして共同型「共同研究の中でなんとか自分を高めていく」と自己分析する。広いフィールドとたくさんの人との出会い、多種多様な研究は先生に多くの研究成果と利谷スマイルをもたらした。おだやかな指導者として多くの研究者を育て、教育と研究の場を作ってきた。
 七一才のいまでも次から次と新しい興味が湧き「折り返し地点をもう少し先に延ばしたい」。ドイツの友人が贈ってくれた「永遠に生きるかのごとく研究せよ。明日死すがごとく生きよ」先生の座右の銘である。
 そのお店のお気に入りの紅茶はマルコポーロ。エキゾチックな香りが馥郁と漂う。店を出て大学にもどる先生は、アフガンファウンドのように颯爽と優雅に毅然としてやさしく頭を上げ、すっーすっーと歩く。

利谷信義
1932年 韓国釜山にて誕生
1961年 東京都立大学、69年 東京大学社研、
91年 お茶の水女子大学、99年 東京経済大学を経て
2000年 東京経済大学現代法学部長 現在に至る


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