法と民主主義2004年2・3月号【386号】(目次と記事)


法と民主主義2・3月号表紙
★特集★シリーズ ムダな公共事業─道路編
道路行政の抜本的転換を求めて
特集にあたって………西村隆雄
■道路政策転換の理念論………西村弘
■道路建設と市民運動ーそして法律家への期待………杉田聡
■圏央道あきる野ー執行停止と収用取消訴訟─1.9キロに2つのインターチェンジは必要か─………吉田健一
■高尾山天狗裁判………関島保雄
■名古屋環状2号線東南部公害調停について………樽井直樹0
■国道2号西広島バイパス高架道路延伸工事・公害差止訴訟について………足立修一
■神戸・西須磨道路公害調停事件について─公害調停を活用して貴重な成果を勝ち取ってきている事例として─………村松昭夫
■尼崎公害裁判と公調委のあっせん──実効ある大型車の交通規制を求めて………山内康雄
■この町に住み続けたい………松光子
■深刻な被害を生み続ける東京の道路公害─東京大気汚染公害裁判─………小林容子
■道路公団民営化と財政問題………橋本良仁

 
シリーズ ムダな公共事業─道路編 道路行政の抜本的転換を求めて

特集にあたって
 この間、増え続ける借金によって、わが国の財政が重大な危機を迎えており、その元凶が大型公共事業、とりわけ、ダム、干拓などの水関係と並んで、道路建設にあることが、国民の前にクローズアップされてきた。道路四公団あわせて四〇兆円に及ぶ巨額の債務を前に、従来野放しで進められてきた道路建設の見直しが急務となった。
 一方、やみくもな道路建設の結果、大気汚染、騒音、交通事故など『車依存社会』の矛盾はますます激化するばかりである。とりわけ自動車排ガス汚染は、いっこうに改善のきざしはなく、全国の都市部でぜん息などの被害者が増加の一途をたどっている。
 しかしこうした中で、二〇〇三年一二月発表された政府、与党の道路四公団改革案では、結局、高速道路の整備計画九三四二キロ全ての建設にレールが敷かれ、不採算路線は国、地方の負担による新直轄方式を採用する一方、「道路建設の打ち出の小槌」といわれる道路特定財源制度についても、これを温存したばかりか、新たに高速道路建設にも投入することとなった。
 これを反映するように、公害拡大、環境破壊の道路建設がますます急ピッチで強行されるところとなっている。強引な公共事業に抗して全国各地で展開されてきた土地・立木トラスト運動に対抗するため、二〇〇一年七月、土地収用法が改「正」されたが、新収用法初のケースとなった圏央道裏高尾の審理では、意見陳述の大幅な制限、開催日の一方的指定などの非民主的な進行により、強引に期間短縮がはかられている。
 こうした厳しいせめぎあいの中で、しかし被害者、住民のたたかいは、着実に前進している。
 自動車排ガスによる大気汚染をめぐっては、二〇〇二年一〇月、東京大気汚染公害訴訟で、道路管理者としての国(国交省)が、公害加害責任を断罪された。大阪西淀川、川崎、尼崎、名古屋南部に続いて五たび敗訴した国は、裁判対象地域にとどまらず全国的に、幹線沿道の局地汚染対策に乗り出さざるをえなくなっている。
 また和解条項の履行をめぐって公害等調整委員会にあっせん申請が出されていた尼崎公害のたたかいでは、昨年六月、国、阪神高速道路公団との間で、大型車の交通量低減のための総合的調査、環境ロードプライシング、大型車規制についての警察庁要請、国等との「連絡会」の公開などを内容とする画期的なあっせんの成立をかちとった。
 一方、地方レベルの幹線道路計画をめぐっても、神戸西須磨で、公害調停を活用しつつ行政との直接交渉によって、計画の変更ないし大幅縮小に追いこむなど様々なたたかいが展開されている。
 さらに二〇〇三年一〇月、東京地裁は、あきる野市牛沼の圏央道に関する収用裁決について、執行停止の決定を下した。都知事による代執行強行の直前に、公共事業の暴走にストップをかけようとする画期的な決定であったが、これは、無駄で有害な公共事業に対する国民世論の変化が背景となっているとみることができよう。
 これまで国や行政が、一方的かつやみくもに進めてきた道路建設に歯止めをかけ、被害者、住民が主人公となって道路政策の転換をはかっていく取組みが、全国各地でたたかわれている。その到達点と課題を浮きぼりにする中で、道路建設をめぐる公共事業の見直しの方向について実践的に明らかにすべく、本特集を企画した。

(文責 弁護士 西村隆雄)


 
時評●自衛隊のイラク派兵を考える

弁護士 井上正信

 二月三日陸上自衛隊本隊第一陣八〇名がイラクへ向けて出発した。歴史の曲がり角となる出来事は、さりげなく過ぎ去っていく。九一年四月二四日政府は湾岸戦争終結後のペルシャ湾へ掃海艇部隊を派遣する閣議決定をした。掃海母艦一隻と数隻の掃海艇という小さな水上部隊であった。これが自衛隊海外派兵の第一歩である。その後カンボジア・モザンビーク・ルワンダ・ゴラン高原・東チモール・ホンジュラスへ自衛隊員が派遣されている。その実績の上でオマーン湾へ最新鋭の水上戦闘艦隊を派遣した。イージス駆逐艦の派遣ではさすがに世論は割れたが、艦艇派遣自体はさしたる議論もないまま行われた。そして地上戦闘部隊の派遣が行われつつある。この次には何が行われるのか。占領当局の要請、現地派遣部隊の安全のためと称して、基本計画を変更して増派部隊の派遣とエスカレートすることは、韓国を見れば決してあり得ない話ではない。
 日本は戦前、軍事大国にのし上がり侵略の足がかりを作るため、多国籍軍へ参加した。一九〇〇年義和団事件では、派兵された多国籍軍四万七千の内日本が最大の二万二千派兵し、英国軍将軍の指揮下に入った。事件終結の条約(辛丑条約)で日本は北京への軍隊駐留権を得、それが後の「支那派遣軍」となり、廬構橋に始まる本格的な中国侵略の実行部隊となった。ロシア革命への干渉戦争で、一九一八年日本は米・英と共同出兵し、連合軍の統一指揮下に入った。第一次世界大戦では英国軍と日本軍の多国籍部隊(日本軍が指揮)は、青島のドイツ軍陣地を攻撃した。それによって独から奪った山東半島の権益は、その後の中国侵略の足がかりとなった。更にドイツ海軍の無制限潜水艦作戦への対抗として、海軍第二特務艦隊(駆逐艦隊)を地中海に派遣し、多国籍海軍の一員として対独潜水艦作戦を行った。マルタ島には日本兵の墓が今もある。歴史は決して単純な繰り返しではない。しかし現在の出来事を考える場合歴史を振り返ることは有益であろう。
 戦争はいつも大嘘から始まる。五族協和、ABCD包囲網、大東亜共栄圏、暴戻支那膺懲、大量破壊兵器保有、テロとの戦争、人道復興支援等々。大嘘で派遣される自衛隊員は、イラクでは戦闘行為をしないので、武力紛争法、人道法は適用されず、捕虜としての扱いも受けない(政府答弁)そうだ。これも国民だましの嘘であることを自衛隊は承知している。自衛隊員に犠牲が出た場合、与党政治家や政府は「テロに屈服するな、貴い犠牲を無駄にするな」と叫んで国民を叱咤するであろう。英霊化である。戦死者を英霊にする一つの意味は、政治家や戦争指導者の責任に蓋をすることである。イラク派兵を巡り自衛隊内では不満が大きいはずである。派遣人数を与党の思惑で削られたからである。その上戦闘行為ではないということで表向き軍隊としての行動が制約を受けている。現地サマーワの治安状況も、予め先遣隊の報告書の作文ができており、一日半の現地調査で「安全宣言」をさせられたのである。茶番であることは自衛隊が一番よく知っている。与党の党利党略や有力政治家のメンツや思惑のため軍事力をもてあそぶことのつけは限りなく大きいであろう。自衛隊は部隊の派遣や隊員の犠牲を政府与党への大きな貸しにするであろう。国民へ嘘をついて派遣していることは当の自衛隊が一番よく知っている。政府与党は自衛隊に弱みを握られることになるであろう。自衛隊のトップは部隊の派遣や隊員の犠牲で自分たちの発言権が増大する機会をねらっているかもしれない。防衛庁を防衛(国防)省へ格上げしようとしている。日本の安全保障政策へ自衛隊が直接関与するためである(政策機関化)。我が国で本格的に軍部と呼ばれる独自の政治集団が形成されることになる。嘘と党利党略の中で衛隊員が犠牲になれば犬死にである。
 今回のイラク派兵の意味はとても大きい。さりげなく過ぎ去らせてはいけない。この事態は憲法九条、前文と決して共存できない。撤兵するまで倦まず弛まず反対し続けなければならない。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

死者からの伝言 累々たる無念の屍を越え 肥田舜太郎先生

医師:肥田舜太郎先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1956年埼玉民医連の行田(足袋の町)診療所前。前列右から二番目が肥田先生、その隣はこの建物(旧松岡医院)の家主松岡恭子さん(日民協事務局員・林敦子さんの亡母、医院は林さんの実家)。 一億玉砕、本土決戦が幕を開ける直前の一九四五年八月三日の夕刻、戸坂作業隊隊長陸軍軍医中尉肥田舜太郎に一通の分厚い封書が届いた。宛名も差出人の署名もないその手紙は広島陸軍病院から連絡に来た兵隊が持参した。戸坂村は広島市から六キロ、戸数三〇〇の小さな村である。肥田中尉らが六月半ばから村の小学校の裏山をくりぬいて洞窟病院「戸坂分院」の建設に取り組んでいた。手紙が着いた時と「五日正午で作業を中止し、部隊を率いて夕刻までに帰院すべし」の命令を受けたのが同時だった。
 「立派な地下病室が出来ていると聞きました。直ぐ書くとの約束が遅くなったのは、書こうとする内容の重大さと責任の重さでなかなか筆が動かなかったからです」。長い手紙は肥田中尉に対する信頼と好意にあふれ、書き手の秀でた知性と人間性から生み出される透徹した言葉で綴られていた。
 「腐敗と汚濁の噂に事欠かない病院の内部に、誰はばからない直言と行動力で清涼剤のような役割を果たし始めた貴方は、私に一番欠けていた決断力と実行力を持っていた」「非公式に私の動向を尋ねた憲兵に対して…『公式に筋を通してでなければ』と断わられた。しかも、理由は『憲兵が嫌いだから』と言われる」。「自由、希望、愛、生活、命さえ否定して人間を殺人の機械として組織する軍隊が生身の人間で構成される限り、その内部には無数の矛盾がうずまいています」「そのため憲兵という暴力の自己装置を必要とします。そうした客観的な認識を一気に飛び越えて、憲兵は嫌い、という主観を踏み台に大胆に行動してしまう」「常により危険な選択肢を選ぶ異常な能動性」「私が判らないのは、変化に応じて大胆に決断し、即時に行動を起こすあなたの果敢さに敬服しながら、一つ一つの行動を貫く一貫した思想が感じられないことです」「およそ『戦争』という最高の理不尽」に目をつぶって、そこから派生してくる無数の理不尽に、全力をあげて対処しようとするあなたの努力が真剣であればあるほど、あなたのなかに限りなく『虚しさ』が蓄積してゆくはずです」「あなたは病理試験室主任として、私と一緒に伝染病予防の仕事をしてこられた。チフス、赤痢の発生地として有名な広島で、万を越える軍隊を伝染病から守ることの大切さはおわかりになったと思います。この仕事が成り立つのは、腸管伝染病の原因である細菌の本態と属性が科学的に明らかになっていることと、感染患者の病態が臨床的に解明されているからに他なりません」「かつて伝染病は予防し得るとして迷信と闘った先駆者が今日の医学を築いてその発生を抑えることに成功したしたように、戦争の阻止を訴えて殺され、獄につながれた先覚者の思想が、みんなの者になる日が来ないと誰が言うことが出来ましょう」「今は潔く『降伏こそ最善の道』と勇気をもって言うべき時と確信しています。国破れても山河は残り、民族は死滅しません。二度と戦争を望まぬ祖国を築くためあなたにはなんとしても生きのびてほしい。…招集前に持ち去られて何も残っていません。せめて、私の目を開いた『資本論』があれば」「読み終わったら焼き捨てること」。冷静に読めたつもりだったが、肥田軍医中尉は足が小刻みに震えて止まらなかった。何度も読み返して大事な項目の幾つかを頭にいれると、手紙を風呂の釜戸で灰にした。衝撃の二八歳であった。一方、近藤六郎軍医少尉。将来を嘱望された少壮細菌学者の彼は翌々日八月六日、陸軍病院の病理試験室で原爆の直撃を受けた……。正に命をかけた「伝言」だった。
 肥田作業隊長は命令どおり五日の午後に隊員を広島に出発させ、自分も午後八時過ぎに病院に帰ったが、八月六日の早朝には戸坂村の農家にいた。深夜、急患の往診に呼ばれて寝ぼけながら太田川沿いを自転車で運ばれてきた。八時一五分、診察中に原爆炸裂、農家は倒壊したが、六キロの距離に救われて傷一つ負わず、生き残ってしまった。懸命の救急治療の日々が続き、身を焦がすような怒りが湧くのは、しばらくたってからである。「生きのびるべきだったのは、近藤さん、あなたでした」。肥田舜太郎の戦後はここから始まる。
 医師肥田舜太郎は銀行員の家の長男として広島で生まれた。父の転勤で転校を繰り返し、早稲田第一高等学院建築科に入学。登山と音楽に夢中だった彼は、友人から下町の工場街にある託児所の見学に誘われ、生まれて初めて児童の不潔な貧しさに度肝をぬかれる。「日本の医者にはヒューマニズムがない」所長の外国人牧師の言葉が胸に突き刺さった。医師になろう。彼は日本大学専門部医学科に入学する。医学生を募って「小児衛生研究会」を立ち上げ、託児所の健康管理の手伝いを始める。二年目、軍服の文部大臣から「自由主義的傾向あり」と解散を命じられる。肥田舜太郎君の軍人嫌いはこの時から確固としたものになった。
 大東亜戦争が始まり、学業の多くが軍事教練となり「医者の勉強を」という学生の懇願の先頭に立って、彼は「反軍傾向あり」と四二年、懲罰招集をうけ、一兵卒として岐阜第六八連隊に入隊。過酷な訓練を経て豊橋予備士官学校にサイパン島守備隊小隊長要員として入校した。ある霧の深い朝、洗面所で歯を磨きながら不意に「上高地の朝」を想い出して、近くを馬で通った校長閣下に敬礼しなかった。「『敬礼っ』の声は聞いたが、動作にならなかった」と正直に答え、「知っていて欠礼した」と大問題になった。経歴で医学部在学中がわかり、「軍医になる者を小隊長で殺して何になる」「軍医に戻せっ」の校長の一声で舜太郎君は職業軍人に。軍医学校を経て広島陸軍病院へ。すぐにも死ねるはずの戦場が次々と敵の手に落ち、最後の硫黄島派遣も本土決戦時の要員として残されてしまう。そしてヒロシマの原爆。
 敗戦の日から六〇年。医師肥田舜太郎は、労働運動で階級社会の現実を教えられ、臨床医として、既存の医療が届かない貧しい人々に接しつづけた。日米両国の政治から遺棄された原爆被爆者にいつでも寄り添い、慰め、励ましながら核兵器廃絶の道を歩き続けた。多くの国を訪れて原爆被害を知らぬ欧米諸国の人たちに低線量放射線の真実も伝えた。
 今年八七歳、医師肥田舜太郎は医療とともに人間社会の病に立ち向かい、死力を尽くしてたたかい続けた。戦後も無念の死は累々と続く。全身全霊で打ち込んだ民医連運動と核兵器廃絶運動を次世代への「伝言」とする。

肥田舜太郎
1917年、広島市生まれ。
1944年、軍医少尉として広島陸軍病院に赴任。
現在、全日本民医連顧問、日本被団協原爆被害者中央相談所理事長。
著書、「広島の消えた日」「ヒロシマを生きのびて」


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