法と民主主義2004年10月号【392号】(目次と記事)


法と民主主義10月号表紙
★特集★シリーズ・改憲阻止 平和を支える教育への攻撃―その実態と抵抗
特集にあたって……編集委員会
第一部■攻撃にさらされる教育と抵抗運動
◆憲法・教育基本法改悪阻止のために−日の丸・君が代の強制を阻止しよう……尾山宏
◆国立大学法人法の狙いと学問の自由……世取山洋介
◆教育基本法改悪の狙いと抵抗……村田智子
◆歴史認識と歴史教科書歪曲問題……俵義文
◆アジアの民衆と教科書問題……石山久男
◆学校から自由を奪う「日の丸・君が代」の強制と思想・良心の自由を護る教職員らの闘いの意義……加藤文也
◆教育現場の自由を押しつぶす「職務命令」「懲戒処分」……秋山直人
◆警察・学校相互連絡制度がもたらすもの−学校は子どもたちの「見張り番」?……田中隆

第二部■都立校「日の丸・君が代」の現場から
◆「君が代」ピアノ裁判・あきらめない一歩を最高裁へ……福岡陽子
◆教育の本質から「国立二小問題」を考える……樫村弘美
◆国立二小事件が私にくれたもの……松本千秋
◆「ピースリボン」処分から「君が代」強制までを問う……佐藤美和子
◆憲法・教育基本法改悪の先取りとしての「日の丸・君が代」強制−常軌を逸した都教委のやりたい放題−……宮村博
◆予防訴訟による闘いと教育の良心……木村葉子
◆大量処分の強行で戦前に回帰させる東京の教育……坂巻岳男
◆みんなで考えよう氏|日の丸・君が代−……A高校生徒会
◆嘱託・講師解雇裁判……平松辰雄
◆日の丸・君が代予防訴訟は教育を守る闘い−保護者の立場で応援します−……西村恵子

 
シリーズ・改憲阻止 平和を支える教育への攻撃―その実態と抵抗

特集にあたって
 今号は、「改憲阻止」特集シリーズの教育問題版をお届けする。

 改憲日程の具体化、教育基本法「改正」案の策定、有事法制の整備…と、国家全体が反憲法の方向に急旋回しつつある今日、教育も攻撃対象の例外ではありえない。むしろここには、明らかに改憲先取りの事態が見えている。

 教育基本法は、前文の冒頭で「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と述べている。また、「ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」とも。大日本帝国憲法と一体のものとして教育勅語があったように、教育基本法は日本国憲法と一体のものとしてある。

 その教育基本法が「改正」の標的となり、その理念が攻撃にさらされている。教育現場では、「日本国憲法の理想」「憲法の精神」が逼塞している。小学校から高校までの教育現場で「日の丸・君が代」が強制され、教科書が真実を伝えられない。学校に警察の目が光るようにもなっている。国立大学の行政法人化によって、学問の自由が危うい。容易ならざる、改憲先取りの事態である。

 国の文教政策の反憲法性は今に始まったことではないが、今、東京都の教育行政が突出して強権的である。今日の首都の姿は明日の全国の情勢となりうる。石原慎太郎その人が、「日の丸・君が代」強制に抵抗する教員の処分に触れて、「五年先、一〇年先になったら、首をすくめて見ている他県はみんな東京の真似をすることになるだろう。それが、東京から国を変えることになるのだと思う」と言っている。事態は深刻である。

 石原慎太郎という特異な人物の影響下に、東京都教育委員会がいま情熱を傾けているものは、何よりも「日の丸・君が代」強制である。そして、ジェンダーフリー攻撃と、歪んだ歴史認識の教科書採択。

 学校現場における「日の丸・君が代」は、国家主体の教育を象徴するものとして、子どもを中心とし、子どもの自主性を育てる教育観・教育実践と鋭く衝突する。卒業式において、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」ことの強制は、多くの良心的教員にとって受容しがたい。これを処分をもって強制できると考えることは、民主主義の根底にある多元的価値観の容認を否定するものである。とりわけ、平和を希求する立場から、侵略主義、超国家主義の象徴であった「日の丸・君が代」を容認しがたいとする多くの教員に過酷な処分が加えられている。

 露骨に目指されているのは、物言わぬ教師であり、上命を下服する物言わぬ教育体制である。いうまでもなく、究極には物言わぬ子ども、物言わぬ国民作りが目標とされている。

 もちろん、これに対して現場からの強い抵抗が起きている。本特集は、反憲法的な教育の状況だけでなく、現場での抵抗の運動を伝えるものである。

 本特集は、二部構成となっている。

 第一部では、教育の各分野における今日の問題点を抉る諸論稿を掲載する。いずれも、運動の渦中・先端に位置する論者による問題提起である。

 第二部は、渦中の「日の丸・君が代」強制の現場からの当事者の報告。都教委の常軌を逸した「日の丸・君が代」強制とたたかう、教員・生徒・保護者からの生々しい声をお伝えする。

 教員としての良心から、あるいは信仰上の信念から、君が代伴奏を拒否する音楽教師。子ども中心の教育実践を乱暴に踏みにじられた国立の市立小学校教員と生徒。そして、「10・23通達」の強圧とたたかう群像。

 教育の未来は、このような人々の抵抗運動のなかにこそある。その抵抗に司法は助力できているか、法律家は何をすべきかが問われている。

(「法と民主主義」編集部)



 
時評●「司法改革を総括する」とはどういうことか

専修大学 小田中聰樹

 (1) 司法改革は、敗訴者負担の点を除き、ほぼ結着しつつある。その評価ないし総括をめぐり本格的な論議が始まっており、私自身も最近短いものを書いた(季刊刑事弁護四〇号)。
 ごく最近、新屋達之氏(大宮法科大学院教授)もその種の作業を民科司法特別研究会で行い、裁判員制度を中心に、司法改革の理念につき「ねじれ現象」がみられることを指摘した。
 それによれば、現状肯定型、規制緩和・危機管理型司法a、同b、リベラル型司法a、同bの五つの型がこれ迄主張されてきたが、aとbとの間には裁判員制度の評価をめぐり積極、消極の対立があり、「ねじれ現象」が生じ、規制緩和・危機管理型とリベラル型との対抗図式の崩壊が生じている、という。その上で、裁判員制度に「支配の正統性の動揺」の契機が内在するという視点を提示している。
 
 (2) 右の視点は、司法改革を評価ないし総括するに当たって有益な視点だと思う。このことを認めた上で、私は次のことを指摘したい。
 第一に、その矛盾が潜在的なものに止まり、現実には「支配の正統性の再編強化」に向かうか、それともその「動揺・解体」へと向かうかにこそ、問題の核心があることである。
 第二に、後者の方向が現実化する条件は何か、そしてそれを作り出す上で今回の司法改革そのものが既に生み出しつつある現実的効果とその影響をどう測定するかが重要だ、ということである。
 私には、既に司法改革の現実的効果の片鱗が見え始めているように思われる。
 法曹養成機能の一部法科大学院への集中化、法曹志望者の経済的負担増大(→出身階層の偏倚化)、弁護士層の意識の多様化(→人権擁護意識の相対化)、裁判官査定システムの強化、国選弁護制度の「国営弁護」制度化、糺問的捜査の温存、公判前整理手続重視による公判手続の儀式性の強化、迅速化による当事者活動の抑え込みなどである。
 これらの片鱗が今後の推移の中でどのような全体像へと統合されいくと予測すべきか、その予測との絡みで、新屋氏のいう「支配の正統性の動揺」の現実化の可能性がリアルに論じられなければならないと思う。

 (3) とくに注目、留意しなければならないのは、もともと裁判員制度は、官僚司法の危機(正統性動揺)を弥縫し補強するものとして周到に設計され、その狙いは「裁判の適正化」ではなく、国民の「裁判への信頼の権力的調達」に置かれているということである。
 そうだとすれば、この狙いを打ち破り、裁判員制度を「支配の正統性の動揺」の契機たらしめるには、従来の裁判運動に優る巨大な国民運動的エネルギーが必要であることが認識されなければならないと思う。
 それが不可能だといま判断するのは、言うまでもなく不適切である。
 だが、この制度を通じて国民に「統治主体意識」なるものを上から強引に注入し包摂することにより司法の「権力的正統性」を補強しようとする支配層の動きが作り出す国民の意識状況は、巧みな世論操作とあいまって、憲法と人権を擁護する司法の構築を志向する私たちにとって、従前にも増して厳しいものがあるとみなければならないと思う。

 (4) そう考えてくるとき、「司法改革を総括する」ことが、司法改革により「よりましな司法」が出現することへの単純な期待や甘い幻想を語るものであってはならないし、その逆に単に悲観を語るものであってもならない。
 それは、司法改革によってどういう新しい困難性が生じたかを客観的に分析し、この状況を打破する理論と運動とを構築する方途を探り当てる主体的作業でなければならない、と私は考える。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

手仕事として書く−母からの伝承

ジャーナリスト:増田れい子さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 増田れい子さんは黒のスラックスに赤いチェックの丸襟のスモック風のブラウスで「わたしの所場」日本記者クラブのロビーの奧からめざとく私を見つけた。一〇分前に来た私よりずーと前にいらして私を見張っていたらしい。「佐藤さん」と弾むような足取りで近寄ってきた。肩を抱くようにして受付に誘って「ここに名前を書いてね」と言う。受付の男性マネージャーはれい子さんと大の仲良しらしくにこにこしながら、署名する私に「ここに増田さんのお名前も」と指示する。れい子さんの柔らかく聡明ではきはきした明るい雰囲気はそこら中に広がっていく。ウサギちゃんのような顔立ちにトレードマークのおかっぱの髪、大きな声でうれしそうに語っては笑う。駆けつけた事務局の林さん、れい子さんと私、半世紀を越えた各世代の姦し三人組はロビー奧の席に陣取って女の井戸端会議を始める。

1941年3月、小6のとき。学芸会で大胆な人絹の着物を着て踊るれい子さん。実は着物好きの母すゑさんの見立て、もちろん手縫い。黒地に赤と黄色とみどりの模様、帯は朱色。上弦の月を仰ぐポーズとか。 増田れい子さんはそれはもうすぐれたジャーナリストである。一九五三年に戦後はじめて正式に採用される女性記者のひとりとして毎日新聞に入社、一九九一年毎日新聞創刊一一一年目初の女性論説委員になって退社するまで三八年間いささかもその良心を曲げることなく新聞に週刊誌に健筆を振るい続けた。小説の目利きでもある。エッセイもインタビュウーも論説もこなし、最後には論説委員をしながら日刊紙月一の特集版別刷り「女のしんぶん」を一〇〇号まで編集発行してしまう。退社後一三年、休むことなく新しいテーマを追い続けルポにし、珠玉のエッセイも書き続けている。

 母住井すゑさんがケガをすると悪いから運動なんかしなくて良いと言ったからか運動は苦手なのだそうだ。が社会的な「運動」に参加することは多い。そして井戸端会議ができる生活感のまま、日々の暮らしを懸命に生きつづける市井の人々と同じ地平に立ち続ける。とりわけ名もなき女の積み重ねた人生と歴史に深い共感と敬愛の思いを抱きつつけている。東大卒のインテリエリートなのに何でこんなに暖かい暮らしの匂いがするのだろうか。縁側の日向の匂いが。

 みなさんご存じのとおりれい子さんは住井すゑさんの二女である。母すゑさんをつづった本の表紙にはすゑさんが晩年に編んで愛用した毛糸の膝掛けが配されている。すゑさんはほんとうに手先の器用な人で和裁洋裁何でもござれ、取りわけ編み物は得意中の得意で八〇歳を過ぎても編み棒を握っていいたという。母すゑさんと農民文学者父犬田卯さんと四人の子ども、一家六人のすべての衣類は母すゑさんの手で仕立てられた。遠足や運動会、学芸会のハレ着にすゑさんはたった一日でれい子さんのためにスウェーターを編んだと言う。毛糸は何度も編み直されほどいては洗い新しい極細の毛糸と合わされて再生される。きれいな編み目のパッチワークになっている膝掛けも何度もその形を変えて使われてきたものであろう。何年ものあいだ人の肌に寄り添い喜びも悲しみもともして、最後にすゑさんさんの膝を暖める。

 「橋のない川」はそんなすゑさんの手から生まれた作品である。かまどの前に畑の中にすゑさんはいっときも休むことはない。机の前に座るのも休まない。繰り返される暮らしのすべてを紡ぐ手でペンを持ち編み物を編むように書く。書くことは母から娘に手仕事として受け継がれた。れい子さんの書いたものにはいつもまっ正直な職人の心意気と女の気持ちがあふれるのである。

 れい子さんは七歳の時一家で東京杉並から茨城の牛久沼のほとり牛久村に移り住む。父卯が受け継いだ実家千坪の家屋敷、草ぶき屋根土間のある農家である。時代と言論弾圧に追われ、喘息の病弱な父をかかえての「都落ち」でありペンと鍬を持ち「土にひそむ」「再生」の日々の始まりでもあった。れい子さんには故郷の豊饒な時が待っていた。れい子さんは日本女子大に入学するまで牛久沼のほとりの大地とそこで暮らす農民に育てられた。当時の暮らしをいきいきと描く『母住井すゑ』(海竜社)は母を語りながられい子さん自身の生い立ちの記にもなっている。母を活写するれい子さんの文章は暮らしの一場面を実に細やかに描き言葉の後ろに広がる風景と人を一瞬にしてよみがえらせる。事実を見る冷静な視点とそれをよみがえらせる手仕事の見事さ。ルポを書き続けて来たれい子さんの目は正確に事実を切り取る。そして人間の息づかいが聞こえるような簡潔でわかりやすい誰にでも理解できるような平明で骨太なすてきな作品になる。その一節「夏帽子を買いに」夏近い日の午後、机に向かってペンを動かしていた母がついと立って黙って出かけてしまう話しである。「母が生活を投げ出したら、母が生きる情熱を失ったらなら、一家はいとも簡単に崩壊しただろう」母住井すゑは「でも、手に帽子をひらひらさせながら帰ってきた」休むことなく働き続けたたくましくあたたかな母すゑさんの心の揺れがひらひらする。ただ一度だけのことである。

 「大地のえくぼ」すゑさんが名付けた牛久沼。伸びやかな大地の匂いがそのリズムがれい子さんの体に染みついている。

 れい子さんは何といま、七五歳。とんでもないよと思う。現役の書き手で元気りんりんのれい子さんに驚く。お母さんは五五歳夫を見送ってから「橋のない川」を書き始めた。九五歳でなくなるまで作家の目を失わなかった。れい子さんは新聞記者だったつれ合い滋さんを六〇歳の時見送る。肝がんで入院中であった。その時滋さんは六六歳、父卯がなくなったときと同年だった。ひとりになって一五年母すゑさんが逝った時までまだ二〇年もある。

 女三人ため息をつく。六〇歳で三五年、五〇歳で四五年、豊かな時が残されているではないか。「やれることは多いわね」「軟弱もの」と彼岸からすゑさんが見ているような気がする。かまどでごはんを炊くことも、着るものをつくることも、畑で食べ物を作ることもなく暮らせる私たち。そしてれい子さん達が累々と重ねられた女の戦いのうえにこじ開けた女の時代にいる。得たものはそしてこれから闘い取って行かなければならないことは何なのか。「人間社会に一条の光があらたに増えればその分、ぬくもりが生まれるにちがいない」とれい子さんは言う。「ほら私たちみんな姉妹でしょう、世代を引き継ぎ時代をまわすのよ」とどこかの友がささやく。今でも写真のとおりれい子さんは指さしながら書き続けている。

増田れい子
1929年、東京に生まれる。東大文学部国文学科卒業。毎日新聞記者。
1984年女性初の日本記者クラブ賞受賞。主な著書・『インク壺』(暮らしの手帖社)『看護ベッドサイドの光景』(岩波書店)など多数。
1999年より、日民協に事務局を置く「司法改革市民会議」の委員として活躍。


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