|
|||
|
■特集にあたって
憲法を変えようという動きが強まっている。特に憲法九条に対する風あたりがつよい。
日米同盟という名目のもとで、イラクに自衛隊を派遣したが、政府はさらに多国籍軍への自衛隊の参加を認め、実際上集団的自衛権を認めるという立場を鮮明にしてきている。その場合、憲法九条が邪魔であることは明らかである。
こうした流れに抗して、憲法九条が厳然と立ちふさがって、この流れが加速しないように必死に防いでいる。この九条を守り抜くことが、今や日本の平和のために絶対に必要なのである。九条を守り、そして生かそうと地域で闘っている法律家も少なくない。それぞれの地域の特性を生かしつつ、地域の後進性や保守的風土に対峙しながら苦闘している人たちである。
今号は、「基地問題から考える憲法九条」というテーマで、基地問題に焦点をあてて、企画を組んだ。
ジャーナリストの松尾高志氏からは、歴史的転換期をむかえている軍事政策のあれこれについて、膨大な資料と取材の裏付けによる正確な現状をトレースしていただいた。
思想信条を越えて、軍隊・基地と対峙せざるをえない住民とともに長年裁判闘争に身を置く榎本弁護士は、「反基地」の闘いを平和的生存権に依拠した憲法擁護に貢献する運動にしたいと語る。
沖縄の新垣弁護士は、憲法の前文と九条の連結は憲法にエネルギーを注入することだ、そして「非武装平和主義」は「平和を実現する具体的原理」だと強調する。
高木弁護士は、嘉手納と普天間基地爆音訴訟の弁護団に所属する立場から沖縄における米軍基地の形成と集中の歴史のみならず、基地被害、自治行政への影響などの精緻な主張立証には「地に足のついた憲法論」が必要という。
川本弁護士は、「静かで平和な空」の回復をもとめた住民に真摯に応えない司法の姿勢をするどく批判。
土橋弁護士は、ベトナム戦争の最中に結成された横田基地の騒音に悩む住民により結成された「横田基地爆音をなくす会」の運動から一九九六年に国とアメリカ合衆国政府を被告とする訴訟の経緯にふれながら、米軍の変革・再編成と改憲への連動を指摘。
池田弁護士は、長期にわたり多面的な闘いを繰り広げながら、憲法九条を存分に活かした「百里基地」の農民の闘いを、今こそ、我々に学んでほしいとのメッセージを。
窪田弁護士からは、「未完の市民革命」への挑戦として、長年継続している地域での憲法学習の実践を。
そして今年の一〇月に弁護士登録をした若さあふれる齋藤弁護士からは、沖縄の基地の現状を目の当たりにした驚きとその問題の深刻さを語っていただいた。
基地問題は、平和のうちに生存する権利とこの世界から「戦争」をなくす壮大な闘いを凝縮させた場といえるのではないだろうか。
今度もブッシュ大統領の八百長辛勝だった。ブッシュ共和党政権は第一期に輪をかけて、「国民委任の信頼を得た」と強弁して、内にあっては米国民主主義の破壊、そして外に向かってはブッシュ帝国主義覇権の押しつけを早速に拡大している。この結果、米国はブッシュを担ぐ国粋右翼の反動勢力と民主党に寄る民主・リベラル勢力と五分と五分の分裂国家状態を深める。
前回の選挙ではブッシュがフロリダ州の投票集計を誤魔化しての辛勝だった。今度は、最後の大接戦のオハイオ州でのケリー票の不正妨害と国粋右翼の企業ぐるみと教会ぐるみによるケリー票潰しだった。また、ブッシュは前回同様に南北戦争(一八六一年〜六五年)で北軍に負けた南部諸州と「文化的南部」の中西部と西部諸州の白人大衆票の大量動員に成功した。彼等は南北戦争のリベンジに燃えている。南部の白人や南部からの白人移民の多い州の「文化的南部人」は偏狭なキリスト教原理主義と白人至上主義にこり固まってもいる。
ブッシュは南部の白人大衆のひがみの対象の「北部のリベラルインテリ代表のケリー」への反感を狡猾なウソ八百のクチコミとテレビ広告による中傷で煽った。保守的な農耕文化にすがるキリスト教原理主義者たちが北部と太平洋沿岸州に多い民主・リベラルの近代的市民を嫌うのは、彼等は神(GOD)を冒とくする妊娠中絶や同性愛(GAY)を支持する一方で、銃(GUN)規制を全米に押しつけるとブッシュに思いこまされているからである。
ブッシュは内政では富裕者や大企業優遇の大減税で南部や文化的南部の白人大衆の所得を減らし失業を増やしている。従って、ブッシュと癒着しているウォール街や石油・エネルギー企業や大規模農牧企業は、南部的白人大衆の関心を自分たちの暮らしから、北部人ケリーへの増悪に向けるために、三つのGの合言葉と「ケリーはアラブテロに弱い」との大ウソを大マスメディアと共謀してバラ捲いた。
奴隷社会の名残りの南部の暗い偏見DNAのもう一つは銃(GUN)狂いに象徴される軍国主義と武力による対外侵略の帝国主義的覇権信奉である。米国内の軍事基地の四分の三は南部諸州に集中しており、低所得者が多い南部では高校を出ても職はないから男女共に軍隊に入る。また、在郷軍人が市町村の教会やクラブでも幅を利かす。自然と国粋右派の帝国主義的な独善と偏狭なキリスト教原理主義が結びつき、ブッシュの帝国主義的なネオコン(国粋右翼)神政を支持している。
選挙勝利に酔うブッシュは国内では百年前の金ピカ成り金天国の不公平社会実現と三つのG政策で非民主的なアメリカ「分裂」国家の完成に注力する。米国民主々義原理の一つの政教分離は骨抜きとなり、キリスト救世主コンプレックスの権化のブッシュは、中世の十字軍が失敗したアラブ・イスラム征服の幻想で、「イラクの石油つき沖縄化」に直進する。
その為には国内の民主・リベラル派の反対を抑えるために、ブッシュ第一期に、「テロ対策」を口実にして広げた思想と言論統制や憲法無視の不当逮捕と拘禁を拡大する。前者には、今度の選挙で効果のあった、テレビ、新聞、ラジオの商業メディアの抱き込みが一段と使われる。後者のためには、連邦最高裁から全米各地の下級裁判所の判事にネオコンシンパを大量に任命する。これによって、米国民主々義の土台である「司法の独立」は骨抜きとなり、司法と行政の癒着が進む。
ブッシュ大統領の忠僕の小泉首相だが、日本の国益を無視して、ブッシュのイラク占領に全てを捧げ、米企業による日本企業の乗っ取りと解体を容易にするために、日米株式交換制度を強行する。ブッシュのイラク戦費調達の米国国債の買い付けにも精を出す。しかも、司法改革という名の改悪が進む日本では、裁判官の独立は無く、検事調書重視の冤罪天国と憲法の骨抜きが進む。日米揃ってのファッショ化である。
ハラハラと 空に舞い散る 微小片 天気雪とは しばし気づかず
「瞬間湯沸かし器」と言われている練達の労働弁護士田原先生は実は歌詠み人である。メモしたものを再考し、毛筆で日記がわりに歳時記にしたためる。弁護士としての日常の中でふと詠み人になっている先生の目はやさしく深い。いつも身だしなみを整え背筋を伸ばしたおだやかな紳士。湯沸かし器になるのは担当事件で裁判所や労働委員会と闘う時だけである。こういわれることは弁護士としての勲章だと思っているのである。読書家で博識、たゆたゆと流れる大河のような先生のこのたたずまいは源流から長い時をかけてここにあるのである。
田原先生は一九二六年生まれ。七八歳。
戦争をはさんで少し遅れて弁護士になったので一四期、今でも全国を飛び回ってこなしている仕事ぶりからとてもそんな年齢に見えない。生まれは東京の江古田。大正デモクラシーの終わりの時期、江古田は学校が多く文化の匂いがする町だった。建築業を営んでいた家の三男に生まれ、のびのびと育った。昭和不況の中一家は中国に新天地を求め一九三三年五月旧満州に渡ることになる。俊雄少年は小学校に入学したばかりの七歳。東京駅から下関、関釜連絡船で釜山に行き、朝鮮半島を縦断する長い旅だった。三一年に柳条溝事件、三二年満州国建国、満州は日本の植民地として動き始めていた。俊雄少年はここで学徒出陣となるまでの日々を過ごすことになる。
一家は新陽から新京(現長春)に転居する。父は新政府と強い絆を持って建設業を営む。典型的な植民地。日本人は一団となって駅を中心に日本人街、官僚官舎・会社社宅街を作り、中国人・韓国人その他の民族とは別々のところに住んでいた。
教育は日本と同じシステム。俊雄少年は小学校を卒業すると父の強い希望で旧満州で一番古い中等学校の新京商業学校(五年生)に入学する。当時の支那語科に入り中国語を勉強、剣道部に所属、軍国的ではあるが文武両道の教育を受けることになる。一九四三年一二月に戦時特例の繰り上げ卒業。一九四四年四月行政官になろうと俊雄青年は満州国立法政大学行政部に入学する。勤労動員などはなく授業は通常どおり行われ、自動車グライダー訓練など軍事訓練もなされていた。わずか一年で徴兵が一年繰り上がり俊雄青年一八歳は学徒兵として出陣することになる。一九四五年五月、当時の青年として当然ことと受け止めていた。一年半後敗戦の時を迎えることなど予想もしなかった。
関東軍黒河七三部隊第一機関銃隊に所属、重機関銃の分解運搬訓練に明け暮れた。翌四五年七月、部隊は急遽チチハルまで徒歩行軍を命ぜられる。全体の戦況がどうなっているかはまったく不明のまま、俊雄青年はつらい行軍のあいだに見た「山百合の群落」に心奪われたという。
チチハルで敗戦を迎える。
そこで俊雄青年一九歳はソ連軍の捕虜となってしまう。一九四五年九月末、俊雄青年らはシベリヤ中部クラスノヤルスク第二ラーゲルに収容される。機関車製造のための工場の圧延部門に配置される。不慣れと栄養失調のためしばらくして雑役にまわされるが、体調をくずして発熱のため入院。退院後は野外の軽作業にまわされるが零下三〇〜四〇度の寒さの中かえってつらいものになったという。食べ物がなく満腹感を満たすために雑草を食べその中の毒草で精神が変調をきたものもいる。中年になって招集された召集兵に死亡者が多く、若い俊雄青年はそれでも幸運だった。「いつ帰還できるか」だけを考え続け二年目の冬を迎えることになる。俊雄青年は「そんななかでも人間は環境に順応して生きる力を持っていること」をも痛感したという。二年目の冬を越す頃にはラーゲル内にソ連の勉強会もできたという。一九四七年八月俊雄青年は「発熱入院」が効をそうしたのか「帰還者の一員に思いの外早く選ばれる」実に幸運であった。
ナホトカから帰還船信濃丸で舞鶴港に入港「日本の箱庭の如き山水風景がすごく印象的であった」何とか東京の家族のもとに着くことができた。父親は引き揚げ途中狭心症でなくなっていた。一九四八年から俊雄青年は生活のためにあらゆる仕事をする。シベリアの日々を思えばどんなことでもやれた。工場に勤め保険会社につとめ悪戦苦闘の日々だった。一年もするともう一度勉強したい気持ちが猛烈にわき起こる。一九五〇年明治大学の夜間部二年に編入。クラスのかなりの学生が復員者で皆勉学の意欲に満ちていた。教授連も活発で俊雄青年は失われた日々を取り戻すかのように、働きながら学びつつけたのである。
一九五三年三月卒業、二六歳。司法試験をやってみようと生活のため裁判所事務官に試験を受け合格。しかし身体検査で結核が発見され不合格となってしまう。この時は俊雄青年も「やや絶望的に」なったという。日中仕事をしんながらの結核治療療養生活にはいる。
一九五六年から全面的に司法試験の勉強を開始する。三年後五九年司法試験合格。三二歳。六〇年研修所に入所、結核後遺症のため要注意入所だった。田原先生はそう見えないけど苦労人なのである。
一九六二年に弁護士登録、東京中央法律事務所の前進芦田・岩村法律事務所に入所、弁護士活動開始するのである。自らの河の流れを変えることなく源流の時から四二年間、弁護士の活動は労働事件を軸に息長く、幅広い。
一九九五年一〇月、田原先生は中国司法制度調査団として訪中、五一年ぶりに故郷長春を訪ねる。先生はコロ島に眠る父、甚平の供養をゆかりの地である長春でしたかった。
「池の奧にある松林の小高い丘を、その地と決め、準備に入る。日本から持っていた蝋燭と線香を風の強い中でようやく火を付け、これを地上に立てる。黄土に蒙われた大地は乾燥し切っていて中々掘れない。これも生前父が愛飲していたキリンビールの蓋を空けて地上にそそぐ、泡は忽ち土気色になってやがて内陸の土の中にしみて行く。わたしは持参した般若心経を皆さんの了解を得て読ましてもらう。戦後五〇年の感慨が、父への憶いが走馬燈の如く脳裏をすぎる」
田原先生の河は大陸から流れてきた。人の死と生を飲み込んで流れ続ける。
シベリアの 抑留綴る 歌のなお
盡きざる見ては 心揺げ里
田原俊雄
1926年、東京に生まれる
1944年、満州国立法制大学行政部入学
1950年、明治大学2年編入、53年、卒業
1959年、司法試験合格
1962年、弁護士登録
©日本民主法律家協会