法と民主主義2005年10月号【402号】(目次と記事)


法と民主主義10月号表紙
★特集★過去の戦争をみつめ、未来の平和をつくろう──ピースボート50回クルーズ・船上企画から
特集にあたって……田部知江子
◆戦後60年企画 「戦争被害・戦後補償を考える3事件グループ」 on ピース・ボートがうまれるまで……田部知江子
◆「残留孤児」、平和之船に乗る……渕上 隆
■ピースボートに乗船して……安達大成
■安達さんの話を聞いて……新井葉月
◆被爆者の証言……大森克剛
■大森克剛さんとの船内企画報告……竹峰誠一郎
◆チチハル遺棄毒ガス被害者と戦後補償裁判……馬奈木厳太郎
■丁樹文さんと出会って……渡辺里香
◆「靖国訴訟」ってなに?『靖国』について語ろう!……大山勇一
■「痛み」を「誉れ」に変えてはならない……滝沢智子
◆ピースボート、恨の島 韓国小鹿島訪問……田部知江子
■ソロクト訪問にて……深川理彩
■行列のできる法律相談所……浅井美絵
■三事件弁護団と出会って……水野浩子
■改憲の動きが加速する今、必要なこと……吉田タカコ
小特集●総選挙・私はこう考える
◆いまこそ憲法を護る意思と活動を―2005年総選挙と改憲戦略……丸山重威
◆「九条の会」に見る民衆の繋がりに注目……毛利正道
◆自民党「圧勝」についての覚書と 第20回最高裁裁判官国民審査の結果について……鷲野忠雄


 
★特集●過去の戦争をみつめ、未来の平和をつくろう

特集にあたって
 終戦六〇年の夏、史上初めての「日韓共催」の船旅が実現した。五〇回目を迎えるピースボートクルーズの、韓国の NGO環境財団との共同企画。八月一三日、客船「ふじ丸」は、韓国の釜山・仁川、中国の丹東・上海、そして沖縄・長崎へと向かい出航した。
 折しも、靖国問題、排日運動がとりあげられるこの六〇年目の夏、わかりあえることは可能なのか?新しい歴史を刻んでいくためにはなにが必要なのか?さまざまな思いを胸に一〇代から八〇代まで約六〇〇名の日韓両国を始めとする乗客が、船上で語り合った。
 この東アジアの平和を考えるコリア・ジャパン未来クルーズに、本誌のワーキンググループとして始まった「戦争被害・戦後補償を考える三事件グループ(+α)」のメンバーも乗り込み、船上でさまざまな企画を行った。本号では、乗船した三事件+αメンバーとこれらの企画に参加してくださった一般パッセンジャーのみなさんの声をレポートしたい。

(田部知江子・弁護士)



 
時評●踊らされたメディアと有権者

中京大学 飯室勝彦

 自民党ならぬ小泉党の圧勝となった総選挙を古代ローマの剣闘士たちの闘いになぞらえたのは、中西輝正京都大学教授だ(『文藝春秋』〇五年一〇月号)。
 「刺客」とその相手候補たちは、皇帝の命ずるままにどちらかが死ぬまで闘わなければならなかった。この残酷な血の匂いのする見せ物にコロセウムを埋めた観衆は陶酔し、「(負け犬を)殺せ!やっつけろ!」と興奮した。
 生き残ったのは思考を放棄した剣闘士たちだ。彼らは皇帝に忠誠を誓い、皇帝のせりふをただオウム返しに繰り返し、皇帝の指示通りに行動する。自分で考えて行動すれば、こんどはライオンと闘わされることを知っているからである。
 深刻なのは、二一世紀の剣闘士たちは絶大な権限を持つ国会議員であることだ。選挙後の彼らは皇帝の命ずるまま観衆の国民に剣を振るうかもしれない。いや振るうに違いない。
 憲法改正論者が九〇%近いという数字を見ると、まともな神経の人なら背筋が寒くなるはずだ。自分の不正を「人生いろいろ」と正当化し、「痛みを分かち合う」と称して弱者に負担増加を強いる独裁者。その人物の内容空疎な「改革」の雄叫びに唱和する自民・公明連合軍が政権を担うこの国では、この先、何でもありだろう。
 戦後、日本人が営々と築いてきた「平和と民主主義」の財産を、大政翼賛的な政治で精算さないよう、防御態勢の立て直しを急がなければならない。
 支持政党なしのいわゆる無党派層、これまで選挙に無関心だった若者の票が自民党に流れたという。
 広告会社が仕切った自民党のメディア戦略は確かに巧妙だった。無内容なのに分かったような気分になる小泉首相のワンフレーズポリティクスに加え、比較的若い女性中心の刺客選びなどテレビ写りを意識した作戦が功を奏した。若者たちは「面白そう」「なにか起こりそう」と祭りを楽しむように選挙に参加した。
 しかし、三二歳にもなって「投票は初めて」であることを公然と認め、「強い者をより強くする政策を」と公言するIT企業経営者に八万四千票を与えた人たちは、自分の票の意味を考えたのだろうか。あちこちの政党の候補者公募を渡り歩いた無節操な刺客や、国家予算作りを自らの野望達成の手段にした官僚を嬉々として当選させた有権者は、もたらされる結果を予測しようとしただろうか。
 責められるべきは「メディアも」である。いや、メディアこそより責任が重いと言える。小泉流パフォーマンスに踊らされ、課題設定機能を果たせないまま国民をただ熱狂させたからだ。
 ジャーナリズムには、報道のほか、分析や批判を通して国民に考えるべき指針を示し、判断の選択肢を提示する使命がある。選挙の時にはとりわけこの役割が期待される。
 刺客の素性、議員適性、小泉改革の実態など国民に伝えなければならない課題はヤマほどあったのに、使命を果たしたのは一部の週刊誌ジャーナリズムだけである。新聞、テレビの主流派ジャーナリズムが課題をズバリと真正面に提示してみせることはなかった。当選は二の次、話題になることで自社の運営するインターネット・サイトへのアクセス増加を狙う経営者の本音を鋭く突くこともなく、騒ぎを追うだけで終わった。
 それどころか、刺客の語は自民党の申し入れで紙面からいつの間にか消えた。かつて法務省に言われて盗聴法を通信傍受法と言い換えたことを想起させる。
 それというのもメディアが「客観報道」の呪縛から抜けきれないからである。
 「あったことをあったままに」「何事もつけ加えず、省かず」に報道する客観報道主義は、日本のジャーナリストの多くが陥っている「どちらつかず」とは違う。 客観報道は「公正」を担保するための原則だ。ならば、主観を鍛え抜き、見識と気概をもって「客観」を捨てることが公正につながることもある。
笑顔のファシズム≠フ足音が聞こえるいまこそ、それが求められる。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

飄々と過激に織り続ける日々

法政大学名誉教授:吉川経夫先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 吉川経夫先生は一九二四年生まれ今年八一歳になる。いつも飄々とした好々爺風、ひょいひょいと歩いてくる。親戚のお爺さんでいるでしょう。マイペースでユーモラス、昼からちょっと酒を引っかけて冗談を飛ばしている。むずかしい話はなし。ちょっとわがままだけど憎めない。一緒に飲んでおだをあげているうちに寝ちゃっているような人。に見える。

 ところが先生はご存じのとおり「吉川刑事法学」と呼ばれる刑事法の大家で法政大学の名誉教授。「吉川刑事法の神髄は、刑法学を通じて民主主義と人権を擁護しようとする深い情熱と緻密な理論性にあると思う。先生は五〇年余に及ぶ研究生活を通じ、揺るぎなくそれを貫かれ、堅牢な論陣を張ってこられた」小田中聰樹。吉川経夫著作選集全五巻には先生の研究生活とその波瀾万丈の実践、その長い道程が分厚くまとめられている。

 先生は調布市入間町に愛妻敏子夫人と二人で暮らしている。我が家とは隣り町。車で一〇分とかからないところである。世田谷から調布にかけて畑か雑木林だったところが切り開らかれて住宅になった。道はもとは農道か林の一本道でくねくねと狭い。小田急線と京王線の間にはさまれた静かな住宅地である。家人と車で尋ねると地番が見つからずに少し迷ってしまう。私が一人歩いて探していると娘から携帯に電話が入る。「お母さんもと来た道をもどって」こっちこっちと呼ぶ方に行くと作務衣姿の先生が我が家の車と一緒にいる。約束の時間の前から家の前で私を待っていてくれたのである。

京都大学法学部研究室にて。敏子さんの隣の女性は同級生の木村静子さん。吉川先生の右隣は森下忠氏(現広島大学名誉教授)、左隣が布井要太郎氏(現弁護士)。 うすい柿色、すてきな色合いの作務衣がよく似合っている。すたすたと玄関に入ってすぐ「君は今日は何時までいいの」と聞かれる。お昼にお寿司を準備してくださっているという。断りようもない。まずは応接間でといわれて早速インタビュウ開始。敏子夫人は桔梗の花を模した美味しい和菓子とお茶を持って来てくださる。楚々として知的ですてきな奥様である。吉川先生と私の話はあっちにこっちに飛んで収集がつかなくなる。私が何か聞くとすかさず「待て。その話に行く前に」と吉川先生。年号などは「あなたそれは違っていない」と奥様が時々チェック。先生のお話も面白いが奥様のお話ぶりも正確で明晰である。先生と二歳違いの七九歳。先生にもましてどんな方か聞きたくてたまらなくなった。

 吉川先生は京都西陣の生まれである。祖父が西陣の織り元、先生の父親は吉川三兄弟の長男秀造氏である。日本経済史を専攻して後に同志社大学教授となった。二男大二郎氏は戦前戦後を通じて裁判官、研究者、弁護士となり、大阪弁護士会の重鎮で日弁連の会長も勤めた。三男幸三郎氏は京都弁護士会に所属する弁護士で京都自由人権協会の支柱。ディープな京都西陣から生まれた異色の三兄弟である。

 その家系を継いだ吉川先生、生まれは京都だが父親の仕事の関係で東京で育ち東京府立一中に入学後京都府立一中に転校した。府立一中切っての秀才だった。戦時下の旧制中学は軍属将校が幅を利かせ、経夫君はこれが嫌で嫌でたまらなかった。「天皇制」なんか当時から大嫌い。卒業の前の日に寄付金をめぐって軍属将校と対立、往復ビンタをもらったくらいであった。

 ともあれ三高に無事入学。一年から文芸部に入って、当時は源氏物語を読んでいるような青年だった。旧制高校が二年半で繰り上げ卒業となり、一九四四年経夫君は東京帝国大学法学部に入学する。勤労動員で中島飛行機に。四五年三月に徴兵で滋賀県の部隊に入隊。ところが健康診断で結核が発見され除隊となる。「本当にうれしかった」という。

 自宅療養中の一九四五年三月に大学から呼出があった。急ぎ上京すると軍法会議のスタッフになってくれとのこと。小野清一郎から集中講義を受け、大阪警備府海軍軍法会議の仕事につくことになった。徴用工の「戦争逃亡」の事件が多く、それでも七年以下の刑だった。敵前逃亡だったら死刑である。そして敗戦はそこで迎えることとなる。

 秋には大学に戻るが東京は焼け野原。刑法学をやろうとしていた経夫君には大学に魅力的な先生も見つからず、京都に戻ることにする。当時京都大学には瀧川幸辰先生以下平場、宮内の各助教授などが戻り、意気盛んであった。先生は東大から京大に転校してしまう。二度目の転校である。一九四九年に卒業し助手になる。気鋭の研究者の誕生であった。

 二年下にいたのが夫人の敏子さん。戦後帝国大学が女性の入学を認めることとなって三人目の法学部の女子大生であった。敏子さんは法学部に入学後、実務家より研究者「法哲学」を学んでいこうと思っていた。吉川先生は優秀な先輩として彼女の前に現れたのである。研究室でのとっておきの一枚。後方左側に立つ丸顔の聡明そうな女子学生が敏子さんである。当時のはやりなのか少しあげてある髪型がよく似合っている。真ん中にいる吉川先生も若くて魅力的。二人は瀧川先生の媒酌で結婚する。敏子さんは大阪大学法学部の助手となっていた。

 優秀な研究者夫婦が生まれるはずだったが吉川先生は研究の場を東京に移し法政大学法学部の助教授になる。あまり丈夫とは言えない夫を一人にするわけにも行かず敏子さんは、吉川先生を家庭で支える道を選択することとなる。「子育ても大変だったし、経済的にも楽ではありませんでした」二人の息子は弁護士と研究員としてそれぞれの道を歩んでいる。二人で上京してから五三年も経つ。「今でも法哲学の勉強をしてみたいと思うんです」

 吉川先生の書庫は二階の書斎のわきと一階の玄関脇と二つある。本で一杯。古くて貴重な資料、その中には政府のフとされた資料も多い。法と民主主義も創刊号から全部取ってある。案内する先生の嬉しそうなこと。「床が抜けないんですか」私の心配に「絶対大丈夫なようにしてもらいましたから」。一階の書庫には隔離域がある。「ここには問題本があるの」「新しい国民の歴史」等先生の嫌いな本が並んでいる。敵を知るために必要なのである。書斎の机の脇には新刊の様々な本が積み上げられておりベストセラーもある。

 ひょいひょいと動き回りながら、読書にふける先生の姿が目に浮かぶ。「颯爽と風を切る吉川経夫流の鋭利な分析と揺るぎない人権感覚」中山研一。若き日は過ぎ去っていったが吉川先生は今も意気軒昂。舌癌の手術後「言葉が聞き取りにくくなったんです」と心配する敏子さん。吉川先生は全然気にしていない。「我が家では思想信条の自由が保障されているんです。一番ラジカルなのはこの人ですから」敏子夫人が嬉しそうに言う。

吉川経夫
1924年京都市に生まれる。1949年京都大学法学部卒業。
1952年法政大学法学部助教授を経て、62年同教授に。
現在、法政大学名誉教授
法制審議会刑事法特別部会幹事、日本刑法学会常務理事などを歴任。


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