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■特集にあたって
二〇〇六年一月。改憲の危機をはらみつつ年が明けた。
誰の目にも明らかなように、憲法「改正」が、具体的に政治日程化しようとしている。
昨年九月の総選挙に圧勝した自民党が「新憲法草案」を発表し、野党第一党がこれに対する原理的批判をしていない。事態の深刻さは明らかである。改憲への地ならしとしての「憲法改正国民投票法案」の上程も間近である。
どうしてこのような事態となったのか。何が問題の本質なのか。何が問題の焦点であり、どうすればこの事態打開の展望が見えてくるのか。
法律的な見地からの検討だけでは明確にならない。むしろ、改憲問題の基底と背景にある、政治的・社会的・経済的状況の検討が重要な課題と言えるだろう。
前号の特集「自民党『新憲法草案』総力批判」に続いて、今号では、その背景と基底にあるものについて検討する。
憲法改正は、近代立憲主義国家における最大の法律的事件であるだけでなく、国の将来にかかわる最重要の政治的事件でもある。したがって、改憲問題とは、この国や社会の総体としてのあり方の反映である。どうしても、次のような問いかけを避けては通れない。
今回の改憲の、経済的・資本制的要因は何か。今回の改憲の企てが、いかなる政治的背景のもとに導かれてきたか。今回の改憲の動向は、いかなる政治勢力や経済的支配層によって企てられ、推進されてきたか。改憲の企ては、『この国のかたち』をどのように構想しているのか。改憲勢力の抱く国家理念やイデオロギーはなにか。
これに答えるものが、本号の特集である。法律学者だけでなく、政治学者、歴史学者、経済学者らの諸論稿によって、憲法「改正」問題の基底と背景にあるものを見極め、今回の改憲策動の持つ反動性や反国民的本質をトータルに把握することが可能となろう。年頭を飾るにふさわしい特集をお送りする。
自民党の憲法改正案が出た。綱羅的で分かりにくいが、そのねらいは明白である。「憲法前文と九条二項を削除し、自衛軍を創設する」ことである。戦後六〇年間、日本国民が維持し、「最高法規」(政府の指針と歯止め)として来た「立憲民主平和主義体制」を崩壊させようとする。「非核三原則」も「武器輸出禁止原則」も、自衛隊の諸制約も国民の基本的人権に対する軍事目的の侵害・制限の禁止も、すべて「邪魔」になるから除けというのである。平和国民の、戦争と軍拡の「津波」(「地震」?)に対する防波堤は、「蟻の穴」ならぬ「基軸」に「大穴」を開けようとしている。
日本国民は、護憲連合等により、「明文改憲」を拒否し続けて来た。「平和憲法」のもと、「軍事大国の破滅」の荒廃の中から立ち上がり経済を復興し、「軽武装・経済大国」にまでなった。しかし今や、全面的「停滞・頽廃」の現実に直面している。その間、国民は、「平和ボケ」に安住して来た訳ではない。「平和のたたかい」を進めて来たのだ。北海道の二つの「憲法訴訟」の例を挙げよう。一つは、「恵庭事件」。自衛隊法を直接酪農民に適用して「重罰」を科そうとした刑事事件である。札幌地裁は、「無罪判決」(一九六七年)によつて被告人勝訴を宣し、検察側は控訴権を放棄して、この判決は「確定」、今日も生きている(「有事立法の強制」を裁判所は認めていない)。二つは、「長沼事件」である。札幌地裁は、「裁判の独立」に基づき自衛隊の実態審理と憲法審査を徹底し、「自衛隊違憲・行政処分取り消し」判決(一九七三年)を下した。最高裁は、「訴えの利益の消滅」により訴訟を決着させた(一九八二、一小)が、自衛隊の合憲性については一切の実体的憲法判断を避け(違憲とも、「統治行為」とも言わず)、「我が国の自衛の戦力」の合憲性について「未決着」に止めた。今日も、「政府の行為」の「行き過ぎ」には、「違憲(適用)」と判断する可能性を残している。
この二つの「憲法訴訟」に於いて、国民の下(した)からの「平和的批判・抵抗力」が結集されたことは特記さるべきだ。六四六名の大弁護団の「弁論」、約二百名の学者の憲法「理論」、無数の献身的市民の「裁判支援」による「世論」(それら「三論一体」の非暴力的抵抗力)が、「平和憲法」と国民の「平和的生存権」を(たたかつて)守つた。「平和」と「人権」は一つとなり「日本国民の血肉と化」したのである。その国民の多数の「平和意識」の「底力」は、(「永田町」が思うほど)侮りうるものではない。今も、現存し事あれば結束して、進歩と成長を顕在化するであろう。
批判・抵抗力と共に、国民の「創造・建設力」も地道ながら進んでいる。例えば、「長沼違憲判決」以未、憲法学者らの学際・共同研究は、着実に遂行されている。「軍事力のみによらぬ」「総合的平和保障手段」の「平和戦略の政策研究」の成果が、二〇世紀を集約する「平和憲法の百科全書」的大編著として出版された(『平和憲法の創造的展開』一九八七年、『恒久世界平和のために─日本国憲法からの提言』(英訳付き)一九九八年)。その後の継続的「理諭」研究と新しい提言は、二一世紀に向けて─米現政権の考える「武力の支配」に代えて「法の支配する世界平和」創造の為に、我が国政府が米政権に追随する「自衛軍強化」の逆風に抗して─「新しい提言」を準備しつつある。
新しい年と世紀に向かって日本国民は、「平和憲法」を「最高法規」として確立し、小国といえども侮らず、大国といえども恐れず、自主・独立の「平和国民」として「平和のたたかい」を進めるべきであろう。何故なら、日本国民は、近代・現代・核時代の戦争の惨禍の国民的経験を経て、「軍事大国の破滅」と「経済大国の退廃」を知った。そして、「第三の開国」の新しい「国家目標」として、「核・地球時代」に、「戦争の無い、核廃絶・軍縮、全世界の国民が平和的生存権を尊重される恒久平和」の、「世界共通の正義に基づく秩序を築く道のマイルストーン」を建てることになるからである。
金野和子先生は一九九八年一月、夫「繁先生」を見送った。病に気づいてからあっという間の別れであった。勉強家で読書家の繁先生の書斎は本で一杯、まだ整理することが出来ない。
一九六五年二月に結婚して、三月には二人で秋田の地に来た。東京で一年、弁護士をやってからの出発であった。仲人は上田誠吉夫婦。秋田の地で四〇年になる。
二人は一六期。六〇年安保直後の時代、多士済々、個性的な活動家を輩出した期である。青法協運動は活況を呈し、自由法曹団は「空白地帯を埋めよう」と若手弁護士の地方独立を強く進めていた。繁先生は岩手の山村住田町の出身。和子先生は東京馬込の出身。
山形には脇山弘・淑子夫婦、岩手には高橋清一先生。仙台には樋口幸子、斉藤忠昭両先生。福島には安田純治先生。その時、東北で残る空白県は秋田と青森だった。二人は、赤旗まつりで出会った地元の共産党の委員長に請われ秋田に来てしまったのである。
和子先生にとっては「秋田だって岩手だって東北の北の果て」同じようなもの。今では盛岡と秋田は田沢湖線特急で九〇分、東京も東北新幹線経由で四時間ちょっと。ところが、繁先生の故郷住田町には今でも秋田から東北線新花巻経由で釜石線、そして車、乗り換えもいれて四時間はかかる。隣の県といっても日本海側から太平洋側へ北から南に遠い距離なのである。東京より遠い故郷の山の暮らしに繁先生は強い思いを持ち続けていた。
繁先生は一九三一年生まれ。「苦労人で向学心の高い人」であった。山村の農家の長男、父を一二歳で亡くし、母親を助けて一家を支え働かねばならなかった。どうしても勉強したかった繁君は定時制高校に進学、まわりの目を気遣い昼は農作業に励み、山仕事の格好をして山道を毎日二時間近く歩いて通学した。
代用教員の試験を受け学科は受かるが「社会主義の勉強や青年運動」のせいで採用されない。やむなく司法書士の試験を受け、大船渡で司法書士を開業する。その時母 は山の木を売って息子にお金を持たせてくれた。財産をすべて弟に残し、母を頼み家を出る。向学心も努力も人一倍の繁青年は司法書士として成功する。若くして経済的に自立し、その当時から、判例に残るような事件も手掛けていた。
繁青年の向学心は止まない。司法書士の仕事の合間に勉強しながら中央大学の通信教育を受け卒業。独学で司法試験の勉強をして合格してしまう。司法書士時代のまとまった貯蓄、当時まだめずらしかった車まで持った「すごい大金持ちの修習生」だったんだって。
そして和子さんと出会う。修習前期、日弁連の廊下で青法協の会合の受付をしていた和子さんを見て繁さんは「この人と将来結婚するという第六感が働いたんです」秋田県弁護士会会報におめおめと書く繁先生。「歯切れのいい、頭のいい、可愛くて、きびきび働く」和子さんに心奪われた。
和子先生は一九二七年東京馬込で会社員と女教師の当時珍しい共稼ぎ家庭に生まれた。長女で弟が二人。自由な家庭だった。都立第八高女に入学。そのころから軍国教育が学校を覆うようになる。そして太平洋戦争。いくら言われても「私はどうも天皇陛下のためには死ねない」和子さんは「私は本質的に卑怯者なんだ」と大いに悩んだという。一九四四年、東京女子大の数学科に進学するが結核の初期感染で大学を休んでいた。
三月東京大空襲が始まり下町がやられる。和子さん一家は富山に疎開することになっていた。母と弟達は富山に発ち、和子さんが一人、大きな荷物を取りに来るトラックを待っていた。そこに五月の大空襲が。和子さんは三月の空襲を思い「荷物に執着していたらだめ」と防空壕へ。手にはアンドレ・ジードの文庫本。じっと本を読んでいたという。空襲の火は一面を焼け野原にした。「近くが燃えている」と近所の人の声で飛び出した。
和子さんは吉祥寺の親戚の家に身をよせ、八月一五日はそこで迎える。九月に母が病死。馬込の家もなく弟二人は三浦半島の祖父母の家に。和子さんは母が残した預金で寮から大学に通うこととなる。一八歳で価値観の転換「信じていたもの教えられていきたものが間違っていた」ここが和子先生の原点である。
東京女子大はもともとリベラルな校風の大学である。終戦直後の新しい息吹のなかで大学生活を送る。卒業後和子さんは数学科卒を見込まれて保険会社に。二年いたが「目標がなく」辞めて、私立女子校の数学の先生になる。それも一生の仕事とは思えなかった。そして働きながら中央大学の二部三年に編入する。三年かけて一九五四年に卒業。法曹を目指して研究室へ。本格的に司法試験の勉強を始める。六〇年の安保の年はデモに参加していた。その年は不合格。翌年に合格、和子さんは三四歳になっていた。
一九六五年三月、秋田はまだ寒かった。地元の支援者の人達が見つけてくれた家は駅の近くの路地の奧、家のうえを汽車が走る。その音が家を揺すようなところにあった。事務所兼自宅。そこで二人は仕事を始める。「秋田合同」と名付けた。
二人を待ちかまえていたようにあらゆる事件が雪崩のように来る。それぞれ一〇〇件以上を抱え、休む間もなく仕事をこなす。労を惜しまず超人的な二人であった。「子どもを産んで入院したときだけが休みでした」
一九六九年、何人かの弁護士で力を合わせなければとても民主的な活動を支えることができない。裁判所の近く、田圃だった土地を買い、大きな事務所を建てる。同じ敷地に自宅も持った。お金も信用もなく苦労したという。
その事務所は今でも当時のまま。町の小さな病院のようである。懐かしいあの病院。玄関前に雪を防ぐためか外玄関がついている。入った左に受付の窓口。小さなガラス窓。その奧に事務局が。前は広い廊下で二階に行く階段がある。二階には弁護士の執務室と書庫。廊下の奥に応接室。診療室みたい。「病院なんだここは」私はしばらくタイムスリップした。
繁先生は自分の墓を故郷に建てていた。そこに帰って眠っている。一〇一歳で大往生した母と一緒に。和子先生はいつかはそこに行くつもりである。
「雛あられ 戦火に失せし 少女の日」
和子先生は七九歳。これからもその日を繰り返さないために力を尽くす。
金野和子
1927年東京生まれ
1945年都立第八高等女学校卒業
1949年東京女子大学数学科卒業
保険会社勤務、女子高等学校教師を経験。
1951年中央大学第二法学部入学、54年卒業
1964年より弁護士。